2007年10月31日水曜日

何度扉を開いても、その部屋からは出られなかった。
一つ扉を開けばその向こうにまた扉があり、どこまで扉を開いていっても同じ部屋が続くばかりだった。

その部屋にはちょっと一休みするのには最適、といったものが揃っていた。
コーヒーメーカー、ゆったりと腰の落ち着きそうなソファー、結構本格的な雰囲気のオーディオセット、その他諸々。
一言で言えば、趣味の洗練された個人用のリビングだ。
なんでこんな事になったのだろう。

確か僕は仕事の合間にちょっとこっそり休憩しようと、あまり普段は寄り付かない資料室に潜り込んで隠れてタバコを吸おうとしたのだ。
別にタバコを吸うぐらい、喫煙室へ行けば良いだけの話なのだが、なんだかあの空間がどうしても好きになれない。それに、昔から隠れてタバコを吸うのが習性のようになっていて、やめられない、と言うのもある。
ところがその資料室は、僕の思っていたような場所ではなかった。中に入った瞬間に部屋に漂うきつめの甘い香りが鼻腔に潜り込んで来て、僕は少し面食らったが、次の習慣目にしたこの部屋の風景に半ば呆然としてしまった。
(これは資料室どころか休憩のための部屋だ)
僕は足を踏み入れ、いかにも気持ちの良さそうなソファーで一服いただいてしまった。
テーブルの上のリモコンでコンポを操作してCDを起動させると、どこかで聴いたようなジャズが流れて来た。僕はジャズはあまり詳しくないが、聴いているのは好きな方だ。特に、このようなリラックスできる空間で聴くジャズは身に染みるものだと思っている。
ちょっとサボるつもりが意外な快適空間を満喫してしまった所で、僕はさらに調子に乗ってコーヒーを煎れ始めた。
あんまりゆっくりしちゃうと良くないなあ、と思いつつも僕はすでにこの空間が醸し出す誘惑に負けていた。

ソファーに戻ってコーヒーを一口飲んだ所で、部屋の反対側のドアに気付いた。
(あんなドア、さっきあったっけな……?)
僕は不思議に思いつつ、コーヒーカップを持ったまま、その扉を開いた。そして抜け出せなくなったのだ。
同じ部屋が続いている。

僕は何がなんだか判らずに扉を開き続けた。何の変哲も無い日常からいきなりこのような異常な状況に置かれた人間は、判断力と言うものを失うらしい。僕は何かに取り憑かれたように次々と同じドアを開けていった。コーヒーカップを持ったまま。
僕はコーヒーを飲み干すと言う事すら考えの中から消えていた。もう十数回も扉を開いたのではないかと思った辺りで僕の足は一瞬ふらつき、その表紙にコーヒーがカップからはねて、僕のシャツにかかってしまった。残り少なくなったカップの中のコーヒーに口を付けると、冷たい味がした。そこで僕は初めて自分を見直す事が出来た。
そうだ。入って来たドアから出れば良いんだ。

僕は部屋に入って来たドアを一度しっかりと閉め、表に「資料室」と書かれているはずの廊下に面したドアを想像した。
そして目を閉じて扉を開き、また目を開けるとそこは元の会社の廊下だった。
僕の背後でバタンと扉のしまる音がした。振り返るとそこには「資料室」の扉があった。中をのぞくと、それはどこにでもある極めて一般的な資料室の風景だった。そして僕の手からはいつの間にかコーヒーカップも無くなっていた。
(一体あれは何だったのだろう?)
カップから飛び出したコーヒーの染みはシャツについたままだった。

2007年10月30日火曜日

やさしさ

「そこまでして、やらなくちゃいけない事なの?」

 夜も更け、人の少なくなった物静かな喫茶店の片隅で、小さな声で告げられた彼女の言葉はとても優しくて、僕はそのぬくもりに溺れそうになるのだけれど、どうしてもそうする訳にはいかない。
 彼女の純粋な思いやりや気遣いに甘えたいのは山々だけれど、僕はどうしてもやらなければならない事がある。
 それは誰に強制されている訳でもない、あくまで個人的な目的でしかないのだけれど、今の僕にとって何よりも大事なことだ。彼女だってそれは解っていて、それでもやはり言わずにはいられないのだろう。僕はその気持に感謝する。
 やめることは簡単で、その瞬間に僕は楽になれる。そして同時に大きなものを失ってしまう。心の一部。存在の理由。大げさかもしれないけれど、特別な事じゃない。何かを目指してしまった者なら、誰にでもあるものだ。

 ねえ、もし今この時に、君の言葉に全てを委ねてしまったら、僕は心の空洞に巨大な虚無を抱えたまま、いつまでも君の優しさを求めてしまうだろう。それはきっと近い将来、終わりのない絶望と変わらなくなってしまう。
 だから今だけは、君の優しさを受け入れる事が出来ないんだ。

 ごめんね、でもありがとう。

2007年10月29日月曜日

傷痕

その男の胸に深く深く刻まれた傷痕を見て、女は目を離せなくなり、話を聞かない訳にはいかなくなった。
「この傷か?昔ちょっともめてな…」
男はそれ以上、あまり語りたがろうとはしなかった。
その態度を見て、女の興味はさらにかき立てられ、ハスキーな声で甘く囁いた。
「聞きたいわ」
「あまり面白い話じゃない」
「秘密なの?」
「まあ、そんな訳じゃないが…」
女は食い下がり、「教えてくれたら、すごい事してあげる」と言った。
「そんな技を持ってるのか」と男が言うと、
「一生忘れられないような事よ」と女は答えた。

男は空中にむかってひとつ息を吐き、「まあいいか」と言った。
「この傷は俺のガキに付けられたんだ」
「ガキって、あなたの息子ってこと?」
「ああ」
「なんでまた……」
「まあ、事情は色々さ」
「その子の母親を泣かしたんでしょう」
「そうかもしれんね」
「でも、それだけ深い傷を負って、よく生きてられたわね」
「おれはしぶといからな」
男はそう言って、にやりと笑った。

男は一度話し出すと饒舌になったようだ。
「しかしまあ俺の息子もさすがに俺の血を引いていてしつこいんだ」
「追いかけられてるの?」
「多分な。今も近くにいる気がしてならん」
「危ないじゃない」
「だいじょうぶさ。奴が俺を見た所で誰だか判るまい」
「どういうこと?」
「この顔も、名前も偽物だってことだ。全て変えた。俺と、俺の過去を結びつけるものは全て捨てた」
女は目を輝かせて男に迫った。
「本当の名前を教えてよ」
「ダメだ」
「いいことしてあげるから」
そう言って女は何事かを男の耳元に囁いた。
男はニヤニヤと頬の弛みを隠せなくなって、「しかたねえな」とつぶやいて女の耳元に何事かを囁き返した。
女は満足そうに頷いて、軽く男に寄り添った。
「じゃあ、約束だぞ」
「二度と忘れられない夜になるわよ」

女は時間をかけて磨き上げた様々な技を駆使して男を快楽の渦へと沈めていった。
男が我を忘れて女の導きに身を委ねているのを見て、女はにやりと笑った。
その怪しい笑顔は不思議と男のそれとよく似ていた。
そして女は心の内で密かに思った。
(お母さん、とうとう見つけたよ。今度こそ敵を取るからね……)

2007年10月27日土曜日

閑話休題

「ひとやすみすれば?」
と言われて、何もせずに一日中ベッドの中にいた。
外はあいにくの雨で、外に出るのも面倒な日だ。

僕は借り物の女性週刊誌や読みかけの小説を読み、
極力何も考えないように今日一日を過ごした。
日常の中で体の中に少しずつ溜まっていたと思われる様々な種類の疲れの塊が、
頭から順番に体の下の方に移動し、気怠さに覆われた足の指先から徐々に空気中に揮発していった。

いつの間にか溜まっていた疲れは思いのほか僕の体の隅々にまで浸透していた。
肉体を構成する要素が軽めの食事と休息によって古いものと入れ替わる。
そうして体とともに心まで回復していくのだが、そうやって自分がリフレッシュしていくのを感じるのは奇妙な事のような気もした。
急ぐ事も焦る事も忘れ、僕は流れに身を任せる。
マイナスの方に大きく傾いていたベクトルが少しずつフラットになっていく。
これで、僕に休息を勧めた彼女が横にいてくれたら、これ以上幸せな事は無いのだが。

僕は布団の中で丸くなりながら、子供の頃熱を出して一日中同じように過ごしていた時の事を思い出した。
大人になると病気の現れ方はわかりにくくなって、気付かないまま病んでいる事がままあると思う。
どこかで失ったバランスを取り戻す時間が、皆にあればいいのだ。

とにかく、今は寝よう……

2007年10月25日木曜日

失踪

とうとう車を買ってしまった。
前々から考えてはいたのだけれど、なかなか手を出せないでいたのだ。
何故今になって購入へ踏み切ったかと言うと、自分でもよくわからない。
ある休日にふと衝動的な気分が自分を襲ってその足でカーディラーヘ行き、
その2時間後にはもう納車の日取りを話し合っていた。

今までそれを避けていたのにはそれなりの理由がある。
自分が信用できないのだ。
ガソリンを入れアクセルを吹かせば、陸が繋がる限りどこへでも行けてしまう。
そうなれば私はどこかへ行ってしまう。
きっとそうしてしまう。
そう言う懸念がずっと頭の中にあったのだ。
それは心配の種でもあったが同時に強烈な誘惑でもあった。
一カ所にじっとしているのがどうしても耐えられない質だと言う訳ではない。
私は失踪と言う行為に憧れを抱いているのだ。

自分の関わる社会や人々、住んでいる土地や行きつけの店、
そういったあらゆる日常的なもの全てを背中の方へ押しやりかかとで蹴り出して、
独立した一つの存在として旅立つ事を、私は胸の張り裂ける思いで望み続けていた。
だからこそ、自家用車と言う力強い移動手段は私にとっては危険なものだったのだ。

これでいつでも失踪できる。

その事実は不思議な安心感を私の心に植え付けた。
そのおかげで私のうちなる欲望は日の目を見ずに済んでいる。
でも私は感じているのだ。
内に秘められるからこそ、欲望のマグマは地底で深く力を溜め、
今や今かと噴火の瞬間を待ち望んでいる事を。

自分は何故そのような飢えを抱くに至ったのだろう?
私には妻も居るし子供も二人居る。
家庭内の人間関係ははすこぶる円満で、その生活には何の不満も無い。
出来ればこの幸せを永遠に保ち続けたいと思う。
世間一般に照らしてみても、私の家庭のように何もかもが幸福に満ちているような家はそうはあるまい。
なのに何故。

私は疲れているのだろうか。
幸せを感じる心の裏でふとした隙に、自分が突如この世間から姿を隠す事を考える。
そしてその夢想は次々に拡大し、私は別の街で新しい生活を始め、名前も変える。
寝食を共に出来るような女性を捜し、彼女の家を新しい住まいとする。
車はどこか適当なところに止めておいて、秘密を抱えたままそれなりに幸せな生活を送る。
そして新しい幸福に包まれた生活を投げ出し、また当ての無い失踪の旅に出る。
まるで失われた記憶を突然取り戻したように、その衝動はやってくる。
私には逆らう術がわからない。今はただ、耐えているだけだ。
一度でもこの秘めたる思いに従ってしまえば、二度と逆らえまい。

休日のガレージで、家族サービスを終えた後の愛車の汚れをホースから水を飛ばして洗った後、
幸福に包まれた食卓で家族との団らんを楽しみながら、私の頭には失踪への思いが渦巻いていた。

2007年10月24日水曜日

マイの銀河鉄道

 電車の窓から見える風景は次々と右から左へ塗り替えられ、定まらない。それはいつも流れているのに、変わり映えのしない日常の一部でもある。やがて列車は長くゆるやかなカーブにさしかかり、先へ延びる線路の曲線の彼方に、高層ビルの建ち並ぶ都心の一角が新しい風景としてマイの視界に入った。

 いくつもの列車がその街を目指して走り、辿り着いては人々を降ろして行く様を思い浮かべて、マイはふとため息をついた。このまま銀河鉄道みたいにこの列車が空へ向かって旅立って行ったら、ちょっとは面白いかもしれない。そして同じ列車に乗り合わせた他の乗客達と一緒に果て無き宇宙の旅に出て、星々をわたり時を超え、苦難の果てに真実の愛を発見するのだ。マイは窓の中の風景に、宇宙へ伸びゆく一直線の線路を思い描いた。

 そんな事を考えているうちに、列車は街の中心に深く進入し、やがて駅のホームに横付けされた。この街の駅は路線の終着地で、乗り過ごしてしまった乗客以外はみんなここで降りて、代わりに反対方向へ進む人たちが車内になだれ込む。マイは体の余分な力を抜いて、人波の流れに身を任せてしまう。
 改札を抜け、駅ビルの一階から三階までをくり抜いたような吹き抜けをくぐり、マイは地上に降り立った。

 ああ太陽よ、お前はいつも眩しいね。
 掌を君に透かして見れば、自分の手に赤い血が流れているのが分かる。朝だと言うのに陽はすでに高い。
 もう夏が近いのだ。これからもっと眩しくて、暑っ苦しい風が吹く。首にタオルでも巻いて歩くか。
 お昼にはもう老若男女が入り乱れ、走る隙間も無い程に人、人、人、で埋まるこの繁華街も、朝のこの時間は上を向いて歩いてたって誰かとぶつからないで済む。
「マイさん!」
 後から、どうやら走って追いついてきた、このガキっぽい顔の少年は、今年マイと同じ会社に入社したばかりの新人社員、健太郎。かなり背の低いマイと比べて、健太郎は背が高い。そして線が細い。きっとこいつは小学生の頃、あだ名がもやしだったはずだ、とマイは心中毒を吐く。小学生みたいな顔のくせにその身長は許せない、とも思う。
「マイさん、歩くの速いっすね」
 なんだろう、どうも出会った初めから、マイは健太郎の吐く言葉に理不尽な苛立ちを感じてしまう。
「わたし足が短いから、速く歩かないと人並みのスピードで進めないのよ」
「何言ってるんですか。身長考えたら全然短くないですよ」
 気を遣っているようで無神経なセリフだ。別にコンプレックスを持っている訳ではないが、自分の身長の低さが特に好きと言う訳でもない。他人を気遣う振りをして結局傷つけてしまう、質の悪いのがたまにいるけど、実際身近にいると蹴りたくなってくる。
 そんな訳で、マイは健太郎の太ももにローキックを入れた。でも身長差のせいでマイのフォームはミドルキックのそれになった。それでもキックは正確に健太郎の腿を打った。
「痛え!何するんですか」
「うるさい!朝の気分が台無しになった報いだ」
「乱暴すぎますよー。僕が何したって言うんですか」
「知るか!」
 マイはもう健太郎には目もくれず歩き出した。なんでこんなにイラつくのだろう。原因はもう判っている。あいつは弟に似過ぎているのだ。あの身長の高さ以外は。

 仕事をやってる時間なんか、あっという間に過ぎていく。朝が来て、訳の分からないまま時に乗り、世間の荒波の中で右に左に流されて、気が付けば夕日は遠い過去の出来事。再び街を歩く頃にはとっぷりと日は暮れて、空は銀河への入り口を開いている。

 まっすぐ駅には向かわない。可能な限りくねくねと入り組んだ街の路地をあっちとこっちつないで彷徨う。表通りの店にはまるで興味を持てないから、ひっそりと、闇に隠れたような店を探す。見つからなければそれでいい。いい店があれば気分次第で乗り込んでいく。女一人で居酒屋巡りだ。いつしかそれは帰り道の習慣となっていた。細い路地でひかえめな明かりの中をふらふらと歩いていると、弟の魂に会える気がしてしまう。
 健太郎の顔が思い浮かんだ。
 なんでお前が出てくる。やめてくれ。記憶の中で、薄れ始めた面影をどうしてお前が思い出させる。お前はあの子じゃないのに。
 うすぼんやりと灯籠のような灯りの続く路地の中、マイは空の闇を見上げた。そこにある銀河鉄道を夢見て。

?来穴

物足りない。
書いても書いても物足りない。
もっといける。
まだまだやれる。
終わりの無い戦い。
永遠に続く道。

どこまでも果て無き欲望。
飢えは満たされる事が無く、
更なる深みに僕を誘う。

僕は地面に穴を掘り、どこまれもどっこえまでおm深くゔぉった。
やがてそこには水が噴き出し、水は周囲の土を飲み込み穴の面積を広げた。
そして穴の側面からゴロgフォロと相ツア石や岩が現れ、
熱い湯が噴き出し、その穴は温泉となった。
僕は掘り続けながら服をふぎ、道具を捨て、
湯の中に潜りながら更に穴を掘り続けた。
dっこまれも、どこまでも、息が続く限り掘って、
苦しくなったら水面に顔を出し、空気の恩恵を知った。
穴が深くなるほど潜る時間は長くなり、苦しみは増す。
それでもボオウはやめレアr内。
僕はもう掘り始めてしまったのだ。
そこに築かれたものや新しく生み出されたものは、
あたたかいえwr温泉の一部として見えていはイオrhjけれど、
何も完ペポイではない。

完璧なkもlんlねあdl何も無いとはよく言われる事だし、
否定する気もない。
自分が完璧さを求めているジョアンhかオヅかさえも実はわからない。
ただ掘り続けるだけだ。
それはただ羞じ笑めrてしまった尾のをやめられないという精神の迷路に
自らはまってしまっただけの事なのかも知れない。

つまり、僕は今tっと病んでいる。

2007年10月23日火曜日

私の渦

やはり消えてはいない。
あの奇妙な雲はいつになったら消えてくれるのだろうか?

絵美がそれに気付いたのはもう二週間も前の事だ。
初めのうちは大して気にも止めていなかった。日々の生活をこなしていると意外と毎日空を見る機会は無いものだ。
だが数日経って、それでもその雲がぴたりと空の一角から身動きもしない様を見て、絵美はそのときやっと異変に気付いた。
それからは毎日と言わず何かと空を観察するようになった。
どう考えても非常識だ。
形状は誰にでも馴染みのある形。小さな渦。
満潮と干潮が入れ替わる時の鳴門海峡みたいに、ほかの雲の隙間にその渦はある。
そう言えばこのところ、雲一つない空、と言うのを見ていない。皆はそれに気付いているだろうか?
大きさはたいした事ないのに、そのグレーの姿は何やら圧迫感があって、絵美は単純に嫌な感じだと思った。

お隣の奥さんと世間話をしている時に、ふと話題に出してみたら、そんなものは見えないと言う。
「あそこにある」
と指差してみたら、かなり怪訝な顔をされて
「だいじょうぶ?旦那さんとうまくいってないの?」
と、予想外の心配をされた。ほかの人にも確かめてみたが、誰も同じような反応で、絵美の疑問は深まるばかりだ。
どうやらあの雲が見えているのは自分だけらしい。
もしかしたら隣りの奥さんが心配しているように精神的な問題なのかも知れない。
でもわからない。
なぜ?
自分は今とても幸せな生活をしていると思う。
夫の愛情も十分すぎる程感じているし、ご近所の奥様達ともとてもいい関係を保てていて、後は子供が出来るのを待つばかり。
人生の中でこれほど完璧な時があっただろうかと何度も思うほどだ。
放っておけばその内消えてくれるのじゃないかと、こっそり空を見るけれど、その渦の形をした雲はやはりそこにある。
北極星のようにいつも同じ場所だ。方角が違うだけだ。
はやり夫に相談しようかと思うのだが、それも悩む。
夫はきっと心配してくれるだろう。そして私に起こった問題を解決しようと努力してくれるだろう。
しかしそれは違うのだ。問題は雲なのであって私ではない。
やはりできない。こんな完璧な生活を、私の些細な悩みで壊したくない。

それから私は誰にもこのことを言わず、もはや頭に焼き付いてしまった渦とともに日常の生活を平和に続けているのだ。

静寂の中のステップ

誰も見ていないと思って、僕は道の真ん中でステップを踏んだ。
靴音が廊下の壁に反響して小気味よい音を立てる。
車も、人も見当たらない、静寂の街角。
僕を邪魔するものは無く、次第に夢中になって行く。
本当に誰もいない。
嘘のように誰もいない。
奇跡のような時間帯。
毎日ここを歩いていると、ふとこんな時間が訪れる。
それは滅多に無い事だ。
まるで時間の流れからこの空間だけ切り取られてしまったように
今、ここには僕一人だ。

ステップは、速度を増す。
僕は静寂と一つになる。
意識はもう自分だけのものではなく、
その空間に広がるあらゆる精神的なものと結びつく。
靴音のリズム。
街角の波長。
喧噪はまだ遠く深い眠りに落ちたまま。
軽く始めたステップは、
更に更に速度を上げる。

僕はいつしかステップと一体になり
街と一体になり
静寂と空虚の中に溶け込んでいく。
思考は途切れ無意識が拡大する。
自分の中で何かが弾け飛んで行く。
僕は僕自身を失いそうな程、
その行為に没頭していく。
もう少し、もう少しで…

別の通りから車のクラクションが鳴り、
その破壊的な轟音は文字通り静寂を破り、
僕はステップをやめて歩き始めた。

2007年10月21日日曜日

888匹目の羊

眠れなくて888匹目の羊を数えようとしたとき、その羊は柵を越えられずに足を引っかけ、僕の方に向かってもんどりうって倒れてきた。僕は驚きのあまり眠る事すら忘れて羊の様子を窺った。
「おい、だいじょうぶか?」
「ああん、もう。やっちゃったよぉ」
羊は幼い子供に特有のちょっと鼻にかかったような甲高い声をあげて自らの不幸をののしった。
「血が出てるじゃないか」
僕は羊の膝の辺りににじんでいた血を見て、けがの様子を見ようと近寄ろうとしてみたが何故か前に進めなかった。
何も見えない目の前の空間に、分厚い密度の空気が柔らかい壁をつくっているみたいだ。
「だめだめ、入ってきちゃダメだよ。ここは羊しか入れないの」
「でも、痛そうだよ。他の羊はいないのかい」
僕は辺りを見回してみたが、不思議な事に羊の牧場だと思っていた場所は目の前のほんの小さな空間に限られていて、887匹めまでの羊がきちんと飛び越えていた柵の周辺以外は暗い靄がかかったようになっていた。考えてみれば羊を数えるときは柵と羊以外の牧場の様子などはまったく考えた事がなかったので、それは気付かなかっただけで今までずっとこうだったのだろう。
「ここは言ってみれば舞台の上だから、他の皆は手出しできないんだよ。余程の事じゃない限り」
「そのけがは、余程のうちには入らないのかな?」
「けががどうこう言うよりは、そもそも他の皆には見えてないんだ。ここは特別な場所だから」
「そうなのかい?」
「人間の眠りの入り口が、ぼくら羊の世界と一瞬だけコンタクトを取れるんだ。ここはそう言う場所」
「でも、もう何匹も数えたんだぜ」
「言ったろ?一瞬だけだって。ちゃんと順番があって、一匹ずつしか出て来れない決まりになってるんだ。それに、君は知らないだろうけど、羊は全部で300匹しか居ないんだ。もう三巡目でみんなくたくたになってる。いいかげん早く寝てくれよ。おお、痛い」
「それは、初耳だよ…」
「当たり前だよ。機密情報だからねぇ。あ、言っちゃった、どうしよう。秘密なのに」
この羊はどうやらずいぶん不器用なキャラクターらしいな、と僕は思った。
「だいじょうぶ、誰にも言わないよ」
「頼むよ。他の羊に会っても言っちゃやだよ」
「でも君、けっこう僕と話し込んじゃってるけど、時間の方はだいじょうぶなのかい?」
「あああ、全然だいじょうぶじゃないよう。行かなきゃいけないけど、頼むよ、他の皆には黙っててくれよ」
「わかったわかった。もう行きなよ。僕もできれば早く寝たいんだ。迷惑かけたい訳じゃないんだよ」
「わかったよ。でも黙っててよ。早く寝なよ」
羊はそう言ってけがした足を引きずりながら柵の反対側へ消えて行った。
すると間髪入れずに889匹目の羊が柵をきれいに飛び越えて、その次も、またその次も羊は柵を飛び続けた。
気のせいか、889匹目の羊が、柵を飛び越える時にちらりと僕の方を見ていた気がする。そしてその次の羊も、またその次の羊も、何が気になるのか、柵を跳び越えるときに僕の方をちらちらと見るようになっていたのだ。早く寝ろとでも言いたいのか。
それから30匹くらい数えて、僕は半ば無理矢理に目を開けて、羊を数えるのをやめた。
もう少しで眠れる気がするのだが、羊の目が気になってしまう。
ほとんど半分夢の中にいるような頭で、僕はふらふらと台所へ行って、胃袋がいっぱいになるほど水を飲んだ。

2007年10月20日土曜日

キリンの焦燥

床に落ちていた鏡の破片の中に映った自分の顔はどこから見てもキリンである。変わり果てた自分の顔を見つめて僕はしばし途方に暮れた。
つかの間の、現実逃避。

僕はキリンになってしまった自分の足をそっと持ち上げて、自分が踏みつぶしてしまったものを確かめた。
粉々になってしまった携帯電話が、床の上で力なく息絶えてしまっている。その姿は僕の体に起こった異変がこれから先に呼び起こすであろう数々の困難を象徴しているように思われた。僕は泣きたくなったけれど、キリンがどのようにして泣くのか分からなかった。キリンが泣いている姿など、生まれてこのかた見た事無い。そんな事を考えたせいで泣きたい気持ちも薄れてしまった。混乱が余計に深まりそうな気配を見せた次の瞬間、僕の思考回路は驚くべき速さで切り替わった。
(サキに会いに行こう)
とにかく、このままここでうろうろしていたら、自分も気付かないうちに頭がおかしくなってしまう。そして自我は崩壊し、僕の中の本能がキリンの野性と結びついて、本当に心の底までキリンになってしまうかも知れない。そうしたら僕はもう、サキの事さえ思い出せないかも知れない。
僕はデスクの上に置いておいた箱を見た。その中身は僕が今日彼女に渡すはずの婚約指輪だ。間違っても、粉々に踏みつぶした携帯の二の舞は踏めないと思って、僕はそれを箱ごと口でくわえた。そして狭い部屋いっぱいに拡大してしまったキリンの体をどうにかこうにか動かして、玄関の扉を正面に据えた。
手は使えない、足もろくに伸ばせない。顔から突っ込んでドアを突破するしか無い。
後ろを向いて足でドアを蹴破ると言う考えが、何故かその時は起こらなかった。僕がまだ、この体の使い方をまるで理解していなかったからだろう。とにかく僕は腹を決めて、勢いまかせにダッシュした。

一度のアタックで、ドアはあっさり弾け飛んだ。それでもやはり顔面からいった訳だから、鼻と歯を痛打した。僕はモゴモゴと口を動かして指輪の箱が無事かどうか確かめたが、奇跡的におかしなところは無いようだ。
歯と鼻が痛くて泣きそうだ。ああ、僕は今泣いているかも知れない。
この部屋がアパートの二階で良かった。これが高層マンションの最上階だったりしたら、地上に降りるのにどれほど時間がかかるだろう?ともかく僕が部屋の外に出ると、すぐ横に下の階の部屋に住むおばちゃんが突っ立っていた。まるまると広がった目で僕を見上げている。
あんまりドタバタとこの巨体で転んだりもがいたりしてしまったから、文句を言いに来ていたのかも知れない。
おばちゃんは口をぱくぱくさせていて、何か言いたいはずなのに言葉がどこかへ消えてしまったみたいだ。
とにかく、そこにいられたら邪魔だ。僕は行かねばならないのだ。
僕は指輪の箱をくわえた歯を剥き出しておばちゃんの目前に突き付けた。おばちゃんは軽い悲鳴を上げて逃げ出した。その後ろ姿を見て
(ああ、これで本当に騒ぎになってしまう)
と僕は思った。もう後には戻れない。
僕はたった今、平和な住宅街に突如として現れた身元不明のキリンとして扱われるであろう存在となったのだ。

一歩手前

うずうずしていた。
ずっとずっと、そのイメージは僕の頭の中に住みついていた。
でも、長い間、僕はそれを無視していた。
ありっこない。考えては行けない、と。

しかしいざビルの屋上でフェンスを越えて
足元に広がる莫大な空間を目にした時
それは僕にとって果てしない可能性を思い起こさせた。

飛べるかも知れない。

子供の頃から、考えていたのだ。
本当は、ひとは飛べるのではないだろうか。
無理に羽ばたこうとしたり、
鳥の羽を模したものを造って身につけたりしなくても、
心のままに飛ぶイメージにに身を任せてしまえば、
実は飛べたりするんじゃないのか?

僕はまだ、一度も試してさえいない。
木のてっぺんから飛び降りたり、
高い壁の上から飛び降りたり、
そういう挑戦は無駄で馬鹿のする事だと教えられたし、
僕も自然にそう思っていた。
でも、僕はそう言う常識の影で、
何か得体の知れない生き物が、
腹の中で成長しているのを感じていた。
今になってそれが何者だったのか、よく分かる。
あれは僕自身の
「飛びたい!飛びたい!」
と言う叫びだったのだ。

特にきっかけがあったと言う訳ではないと思う。
ただ、その叫びは表に出なかった分だけ、
僕の腹の中であらゆる常識的障害から守られて、
ゆっくりと、着実に、純粋なままで、
育っていたに違いない。

正面から、有無を言わさず体を揺さぶるような
激しい風が吹きつけ、僕はふらふらと屋上の縁をふらつきながら移動した。
僕は表の世界に顔を出してきてしまった叫びと、
これまでの人生で培ってきた常識の壁がぶつかる境界線を、
いつまでもいつまでも歩き続けた。

2007年10月16日火曜日

空中庭園

 ビルの屋上には立派な庭が出来ていたのは少し意外な気がした。何しろもうこの建築物もそこそこ歴史と言えるものを刻んできているので、こんなところで屋上緑化を実現させようと考えた人間がいることに驚いたのだ。
 屋上はほぼ隙間なく緑を維持するための土地として活用されているようだ。昔はただ無機的な灰色のコンクリートが剥き出しになっていて、しかもきれいな平面ではなくでこぼこしていて、どうせ見えない所だからと職人が手を抜いたのだろうと思っていた。常に清掃が行き届いているわけでもなく、その打ち捨てられた感じが好きで、よくここに忍び込んでは都会の喧騒を見下ろしたものだ。
 それにしても。これではまさに空中庭園だ。ここまで大量の土や植物を載せて、床が抜けてしまわないのだろうか。屋上を担当した職人は手を抜いていたと思っていたから、その強度とかには少なからず不安を感じてしまう。
 庭の中央には円形の広場が出来るように植栽が整えられていて、その中央には大きな傘が突き刺さってしまったような雰囲気の休憩所のようなものが設えられていた。私は吸い寄せられるようにその屋根の下へと歩いて行った。
 庭園の中を歩きながら、私は周りのビルの群れを眺めまわした。近代的なビルばかりが目につくのを考えると、このビルが今まで生き残っていたというのが不思議にも思えてくる。二十年、歳月の潮流に耐え抜いたのだ。私がこのビルから追い出され、会社が消滅しても、建物だけは生き残った。
 私が休憩所の屋根の下で、そこに備え付けられていた椅子に腰掛けていると、足音がして一人の男がこちらに近づいている事に気付いた。男は一見して日本人のものではない体格と顔立ちで、背丈は非常に高くて肌が浅黒く、目や鼻の辺りの彫りの深さが印象的な男だ。男はその風体にそぐわない流暢な日本語を話した。それは実際の日本人が語るような日本語より、もっと美しく洗練された言語であるかのような雰囲気を漂わせる語り口だった。
「こんなところにお客さんがいらっしゃるとは思いませんでした」
「いえ、私は。黙って入ってきてすみませんでした」
「いいんですよ。たまには見知らぬ方が来て頂ける方が、ここの緑達も自然を楽しめるのではないかとも思いますし」
私は男の持つ雰囲気に好意を持つ事が出来た。
「私は以前このビルで働いていた者です。西村と言います」
「私はアランです。よろしく」
私は、そう言って差し出されたアランの手を握り返した。大きな手だ。
「ここ、奇麗でしょう」
「ええ、素晴らしい緑ですね。あなたが造ったのですか?」
「いやあ、私は初めにこんな庭があったらいいなあと、イメージとして少し絵を描いてみただけで、あとは職人まかせです。でも、文句なし。私はここがとても気に入っています」
「昔はこの辺りはこのビルより高い建物はありませんでした。あっちの方には海が見えたものです」
「あのビルの向こうですか?ふうむ。それは見てみたい気がしますね」
「絵を描いたとおっしゃいましたが、デザイナーの方ですか?」
「いや、趣味なんですよ。いちおう、ここの所有者と言うか。成り上がり者です」
私はまたもや歳月の事を思った。彼はどう見ても若く、私と比べればもう孫の年齢に近いと言えるだろう。
「お仕事の方は、順調ですか?」
「いやもう、いっぱいいっぱいで。なんとか、かんとか、ですよ」
彼は私から見てもかなり落ち着いた雰囲気で話す。見た目の若さより数倍の落ち着きがある。苦労しているのだろう。それに悪い人間ではなさそうだ。私は彼に改めて好感を持った。
「そろそろお暇します。またここに来てもいいですか?」
「いつでもどうぞ。大歓迎です」
今度は私からアランの方へ手を差し出した。
 アランはその手をぐっと握りしめた。力強く、優しさにあふれていると思った。この男は昔の私が持ち合わせていなかったものをすでに手にしている。あるいはそれは生まれつきの才能や才覚と言うべきものなのかも知れない。
 私たちはどちらとも無く頷きあって、手を離した。そして私は踵を返し、その場を離れた。名残惜しい気持ちを抑え、私は空中庭園を後にした。

素質

「私は女王様じゃありません!」
ボンテージファッションのメガネっ子が駅の前でひざまづいた男を一喝している。
少なくともその辺りを歩いていた人々の半数は、その光景を一種のプレイだと想像したに違いない。
 彼女の服装は上から下まで黒づくめで、膝まで伸びたブーツが黒い光沢を放っている。彼女の手にはワインレッドと黒のツートンカラーの携帯電話が握られていて、ミニスカートの丈もずいぶん短い。

 さくらはいつの頃からかそんな服装が気に入って、おしゃれを始めたころからその趣味は一貫している。しかし彼女のファッションの趣味がある種の男性のこころを深く揺さぶるたぐいのものであるとは、初めは全く知らなかった。ただ単に、カッコイイかもと思っていたのだ。
 しかし、高校生になってから自分のセンスにもだいぶ磨きがかかってきたんじゃないかと思っていたら、やたらと腰の引くい男が時々街で声をかけてくるようになった。

 どちらかというと厳しく躾けられてきた方だ。父は厳格で、門限には厳しい。例え街に遊びに出ても、夜の七時には家に帰っていなくてはならない。自分は仕事で毎日遅く帰ってくるくせに、まるで定時連絡みたいに門限の時刻には母親に確認の電話を入れてくる。実は一度だけ時間を忘れて門限を守れなかったことがあったが、その時は母がうまくごまかしてくれた。母はさくらの大事な味方だ。桜が門限を守っているのは母を困らせたくないから、というところが大きい。
 とにかく、そんな感じで夜遊びなんかしたことないし、まだ男も知らないが、人並みの興味ぐらいは十分にある。結婚するまでバージンを保つなんて考えたこともない。ナンパされるにしても何でこんなおどおどした態度の男ばっかり寄ってくるのだというのは秘かな不満だった。そしてその原因がどうやら自分の服の好みにあるらしいと、少しずつ理解し始めていた。

 そんなある日、冬が訪れ太陽が早々に星の影に隠れたころ、その男はさくらの目の前に現れた。さくらが新橋の駅前で友達のユミを待っていると、ふとさくらの前に立ち止まった男がいた。男は背が高く、バリッとスーツを着こなした紳士に見えた。さくらはさっと男を観察し、自分の父親よりいくらか下の歳ではないかと考えた。見た感じは大いに彼女の好みに合っている。むしろ理想に近い。もうちょっと若かったら、いや、年齢なんかどうでもいいかも…と彼女は密かに勝手に恋の芽生えに期待した。
 その紳士は次の瞬間彼女の前に膝まづき、
「私を踏んでください!」
とうるんだ瞳を彼女に向けた。
 そしてまたその次の瞬間、さくらはブーツのかかとで男を踏んだ。
 なぜそうしてしまったのか、さくらには解らない。しかし、男のスーツにくっきりとヒールの跡が残るほど、しっかりと踏んでしまった。男は奇妙な声を上げた。さくらは気味が悪くなって今度はわき腹をけり上げて逃げ出した。背後で男が何か言っているようだったが、さくらは構わず逃げた。

2007年10月15日月曜日

ある朝のクラゲ

 隣りの部屋の目覚まし時計で目が覚めた。時刻はぴったり七時。
「起きろー」
と、可愛い女性の声がする。
「起きなさい」じゃなく、「起きて」でもなく、「起きろー」と言う、高い声。ウルサくは感じない。むしろその声は柔らかくて、もっと聞いていたくなる。
 まどろみの中、想像する。隣りの部屋は新婚夫婦で、朝起きて、おはようと言うだけで幸せになり、新しい一日が始まる。その後で交わす「いただきます」や「行ってきます」、そして「お帰りなさい」の一言を、笑顔で交わす毎日を過ごしているに違いない。
 目覚まし時計の音が止む。
 僕はほんの少しまどろみから抜け出し、隣人の幸福を借りて気持ちのいい朝を迎える。閉じたカーテンの隙間から、眩しさが部屋に染み込み、ワンルームの室内が色づいているのを、まだ眠りから覚め切っていない目で見渡すと、ようやく自分も(起きなければ)と思い始める。
 ベッドから降りて、キッチンへ行き、お湯を沸かす。顔を洗い、手を荒い、トイレを済ませ、一度コンロの火を止めて、シャワーを浴びる。そうしながら体をほぐし、今日と言う日の準備を始めている。
 一人暮らしで享受する自由、その代償としての寂しさ。
 感傷は波に揺れるクラゲように訪れ、そのままどこかへ過ぎ去って行った。

2007年10月14日日曜日

光と影6

「ともかく、君はここから元の世界に戻るんだ」
(あの鏡に吸い込まれて行くのかな)
僕はそう言ってその部屋の鏡ばりの天井に目を向けた。
「あれはただの鏡だよ」
影はそう言いながら部屋の中央に移動した。天井の鏡に映された姿には、影は僕と同じ平面の中で繋がっているように見えた。
「ふう」と、影がため息をついた。
(どうしたんだ?)
「鏡は苦手なんだ」
(そう言えば君、なんだか色が薄くなってないか)
「そうかい?」
(影が薄いとはこの事だな)
「君の軽口だけはどうやらこんなときも直らないらしいね。あっちの世界でも普段からそうしてなよ」
(いつもの僕はどうしてるんだろう)
「考え過ぎのところはあるみたいだな。まあいい。いろいろ話したい事はあるけど、やっぱり時間がない。僕はこの部屋ではどんどん力が弱っていくし、君の記憶もずいぶん危うくなって来てる」
(この部屋に来てからけっこう楽になって来たんだけど)
「この部屋に来たから楽になったんだ。その代わり僕は力を失う。でもこれでいいんだ。影というのは本来、沈黙しているものだからね」
(でも…)
僕がまだ何かいおうとすると、影はキッと僕を睨んだ。一瞬、影の中でそれまで閉じていた目が開かれた気がして、僕はその雰囲気に押されて口をつぐんだ。
「君は物事を自分で複雑にし過ぎるところがある。もっと、感じたままに理解すればいいと思うよ」
感じたままに理解する、と、僕は口の中で影の言葉を繰り返した。
「じゃあ、そのまま天井に映った自分の姿を見て。自分と目を合わせるんだ」
さっきのセリフをもう一回口の中で繰り返して、僕は影の言葉に従った。
僕は鏡の中の自分の姿をまっすぐに見た。僕はそこに懐かしさを感じた。その行為はきっと今までずっと繰り返してきたものに違いなく、自分を見つめる目の奥に吸い込まれて背中が浮いて行くような感覚があった。
(ねえ、僕はこのまま行っちゃうのか?)
「そうだよ」
(君はどうなるんだ)
「ただの影に戻るだけさ」
(そうなったら、もう話せないのか)
「ああ」
(なんだかすごく寂しい気持ちがする)
「そう悲観したものでもないさ。例えお互いが別れを望んだとしても、僕らの縁は誰にも切る事が出来ない。太陽と、ブラックホールがある限り」
(そういうものか)
「そういうものさ」
(でも不安だ。なんだか怖くて眠れないよ)
「それでいい。その調子だ。君の背中の後ろの、ずうっと後方にあるはずの太陽の事を考えるんだ。この星の中心で、光り輝く球体が君を後押ししているという事をイメージするといい」

じんわりと、ゆるやかな波が砂浜に打ち付けてくるように、僕の意識はその世界から遠のいていった。そのとき僕が感じた世界の姿は、光でも闇でもなく、ましてやグレーでもない。音も色も無く、それでいて全てが余すところ無くあたたかい水に満たされているような、あらゆる束縛から解放された場所だった。

2007年10月13日土曜日

光と影5

その建築物は、きちんとした計画の上で整然と組み上げられたものだという感じがあまりしなかった。むしろ、新館と旧館の構造が複雑な迷路のようになってしまった温泉宿のように、後から後からそれぞれ別の人間がその都度新しい部分を付け足していったような印象を受けた。
影はしばらく一言も話さず、身動きもしなかった。僕の疲れを取るためにはそれが一番良いという事だ。
僕は影のいう事に大人しくしたがっていた。反論する体力すら惜しいほど疲れてしまったのだ。確かに影が動きを止めると、幾分か僕の体力は回復して行くように感じられた。
影は僕が元の世界に戻らなければならないと言うが、僕にとってそんな事はどうでも良い事だった。もうどうなったっていい。このまま疲れ果てて、この闇が支配する世界で重力に満ちた空へ吸い込まれて行ったところで、いったい何が問題だというんだ?誰も困りゃしないし、例え死んでしまったところで、しばらくすれば人ひとりの死など、簡単に忘れ去られてしまう。
「なあ、あんまり悪い事考えるなよ」
影はまるで僕の考えなぞ全てお見通しだぞ、という風に僕の貧弱になってしまった思考を遮った。
「今は元の世界に戻る事だけを考えるんだ」
(どうしても戻らなくちゃいけないのかな)
「またそんなことを言う」
(僕はもう、このままでもいいという気がしてるんだけど)
「…そろそろ動いた方がいいみたいだな。休憩は終わり」
そう言って影は立ち上がった。僕は逆らいようも無い。

影は僕を形の歪な建物の中へと連れて行く。中もやはりグレーな感じだ。影は今度は慎重にスピードを押さえて進んでいるようだ。僕の体力に気を遣ってくれているのだろう。考えてみれば、僕の影は僕の一部分でもあるはずで、だとすればこんなに人を心配したり気遣ったりする神経が僕の中にも存在するという事になるのだろうか。僕自身、それはとても意外な事のように思えた。そんな自分を感じた事が今までにあっただろうか?
僕は記憶を辿ろうとしてみたが、うまくいかなかった。過去をさかのぼろうとすると急に頭の中のイメージは薄れ、ぼんやりとした靄の中に不明瞭な輪郭の色彩が入り交じり、記憶の根源に辿り着かない。そう言えば、さっき影が「記憶が失われている」と言っていた気がする。確かにその通りなのかも知れない。僕は昔の事を思い出すどころか、考える事すらおっくうになっている。この世界の中で、考える事以外ほとんど何も出来ないというのに。

「ここだ」
影はそう言って立ち止まると、広い部屋の中へ移動した。
(なんだい?)
「ここは君のような迷子のために造られた場所さ」
部屋の天井には懐かしいものがあった。鏡だ。この部屋の天井は全て鏡で出来ているみたいだ。僕は久しぶりに自分の姿を見た。堅い床に描かれた輪郭の中に、僕が映っている。
(ちょっと色褪せてないか?)
「その通りだ。もう幾分君は光を吸い取られてしまった」
僕は鏡の中の自分を見て、少し複雑な気分になった。こんなイメージで自分存在が消えて行く事は想像してなかった。灰色の床の中に沈んで行くみたいに見える。僕は初めて、この世界に抵抗を覚えた。

(ちょっと聞きたいんだけど、君はここに来たのは初めてだって言ってなかったっけ?)
「ああ」
(なのになぜこんなにこの世界の事について詳しいんだい?)
「僕は君の影として光の世界の中に居たけれど、常にこことは繋がっていた。特に意識をしていた訳じゃないけど、僕という存在の中心にいつもこの世界の事を感じていたんだ」
(それは、記憶のようなもの?)
「似ているけど、違うと思う。もっと、抽象的で、原初的なものだよ」

2007年10月11日木曜日

光と影4

影は歩調を緩める事無く歩き続けた。
僕はその動きに合わせて自然と動く事になるから、体力も労力も使わない。不思議な事に、そう言う状態でも僕は次第に疲れを覚えて来た。
(何か変だな)
「どうした?」
(ちょっと疲れた。僕が動いてる訳じゃないのに、変だな)
「そうか。でも少し頑張ってくれ。さっきみたいな陰険な影が周りに増えてるんだ」
(危険なのか)
「みんな少しずつ僕らに対しての反応が強くなっている。急ごう」
僕は影の動きに身を任せながら、視界の中でスクロールして行く灰色の空を眺めた。確かに、さっきよりも他の影が視界に入ってくる確率が高い。見られている、という感じもする。僕はまた目と口を閉ざした。

しばらくすると、僕の影は歩みを止めた。
「目を開けていいよ」
僕は素直に影の言葉に従った。
(だいじょうぶなの?)
「大きな建物の陰へ入った。ここなら他の影は近づいてこない」
(疲れがひどくなっているみたいだ。なぜなんだろう)
「それは僕が動いたせいさ。結構無理したから」
(君も疲れたんじゃないのか)
「いいや。僕は疲れない。僕の疲れは君が背負うんだ」
(そういうものなの?)
「ここではね」
(厳しいね)
「帰りたくなってきただろう?」
(この世界も、なかなか楽じゃないってことかな)
「どこへ行ったって同じさ」
(すっきりしないね)
「戻る気になったかい?」
(ううーん…)
「何が嫌なんだ。君を待っている人もいるんだぞ」
(誰も待ってなんかいないよ。僕は一人だ)
「そんな風に考えるからこんなところに来ちゃうんだ。君がいくらそう思っていてもどこかに人の縁ってものはある。いいか?僕がこんな事を話せるのは、本当は君にも分かっているってことなんだ。悲しみに負けちゃダメだ。早く帰れ」
(僕は悲しくてここに来たのかな)
「思い出せないのか」
(よくわからないよ)
「記憶が失われ始めたのかも知れない」
(困ったね)
「困るなんてものじゃない。あんまりひどくなると戻れなくなるぞ」
(そうなったらここに住むしかないな)
「馬鹿な事を。さっきすれ違った影みたいになりたいのか。記憶は光だ。光を失えば君は消えて、僕の存在も消えてなくなるんだ」
(なんでそうなるんだ)
「頼むから黙って言う事を聞いてくれ。君はまだ死んじゃいけない」
(そう言われると、ちょっと胸に響くものがあるね。理由が分からないけど)
「それで良いんだ。理由なんか考えるな」
僕は記憶どころが何かを考える事すら難しくなって来ていたが、それを影に伝える事が出来なかった。

2007年10月10日水曜日

光と影3

地面にへばりついた平面の僕は、その位置からでも見える限りの周囲の風景を見ようとさかんに視線を動かしてみた。
(それにしても、殺風景な場所だね。色もグレースケールだし)
「ここは光が失われてゆく場所だからね。仕方ない事だよ」
(ブラックホールがあるから?)
僕がそう言うと影は背後を指差して、
「あれのせいでこうなったというよりは、ここがこうだからあれがあると言った方がいいかもね」
(ひどく抽象的な物言いだな)
「僕だってそんなに世界を理解している訳じゃないんだ。うまく説明できない事の方が多いんだよ」
そう言って影は少しずつ移動を始めた。彼は歩き出したのだ。
僕の平面の体は完全に影の動きに呼応して、おそらく彼の背後の彼方にあるブラックホールを中心に旋回しながら移動する。そうやって見える世界はなんだか新鮮で、僕は胸の奥がタワシでこすられたみたいにざわざわと沸き立つのを感じた。
(どこへ行くんだい?)
「どこって…元に戻るんだよ」
(なんだい、えらく気が早いな。もうちょっとゆっくり出来ないのか)
「ここは本当は君が来ちゃいけない世界だ。僕もちょっと好奇心に負けて面白がってしまったけど、長居する場所じゃないんだよ」
(でも、僕は君の影でいるのも悪くないよ)
「いいか、忘れるなよ。君は僕の影なんかじゃない。君は光のままなんだ。この世界ではそれはとても危険な事なんだ」
(そうなのかい?)
「君の世界で、つまり光が主役の世界で、影が口をきいたりするかい?」
(普通はしゃべらない)
「だろう?今君がここでそうして口を開いてしゃべっているという事は、それと同じくらい異常なんだ」
(さっきから思ってたんだけど、君は説明がうまいな)
「のんきな事言ってる場合じゃない」
(他の影、いや、光か、ややこしいな。この世界で僕のような他の光はどうしてるんだ)
「色々さ。人の形をしているものもあれば、なんだか良く分からない抽象画みたいなのもいる。人の場合はみんな目を閉じて黙っているよ…しっ、静かに」
やにわに影はそう言って、人差し指を口に添えた、ように見えた。そして影のすぐ傍を別の影が通り過ぎて行った。そのもう一つの影はすれ違い様に僕を見た。それは影でしかなくても明らかに、見られた、と僕は感じたのだ。それはほんの一瞬の事だったけれど、背筋に冷たい氷を急に押し付けられたような、物騒な緊張感を持ち合わせた視線だった。僕は反射的に目を閉じたものの、それでごまかせたとは思えなかった。
(今のは、誰?)
「知らないよ。ただの通行人だ」
(なんだかひどくいやな雰囲気じゃなかったか?)
「異質なものを排除しようと言う精神はここでも同じなんだ。そして、君のいた世界よりずっと、その傾向は強い」
(僕は今、そんなに目立つのかな)
「気付かないのか?さっきから、ここで音を立てているのは僕らだけだ。光も音も、本来、君がいた世界のものなんだよ」
(ひょっとして、僕は君に迷惑をかけているのかな)
「そう言う訳じゃないけど、面倒は避けた方がいい」
(目を閉じて、黙っていた方が良いかい?)
「うん。悪いけど、僕が良いというまでしばらくそうしてくれないか」
(わかった)
僕が目を閉じると、影はさっきよりもスピードを上げて動き出したようだ。
そうしている間、僕は背中をなぞる地面の感触を味わっていた。

2007年10月9日火曜日

光と影2

影は腕組みをしたようだが、シルエットだけしか見えないから、本当のところは片方の手をあごにかけてでもいるのかも知れない。
「しかし、困った事になっちゃったね」
(ここはどういう場所なんだ?僕は君の影になってしまったのか)
「それはちょっと違うな。僕と君、影と光の関係が逆転してるだけなんだ」
(逆転?)
「そう。例えば、この世界の空には太陽の代わりにブラックホールが浮かんでいる」
(なんだって?!)
「それだけじゃない。地球の中心には太陽があるんだ」
(ちょっと待ってくれよ…そもそもここは地球なのか?)
「そうだよ。当たり前じゃないか」
(ブラックホールが空に浮かんでいるのに?僕には全然見えないけど)
「そりゃそうさ。考えてもみなよ。僕は光の世界じゃ太陽を見た事は一度も無いんだぜ」
(なんでさ)
「いつも君が間にいるから」
(…なるほど。言われてみればそうかも知れない。でも、ここが地球だと言うのがいまいち分からないけど)
「そうだな…例えば、ゴムの柔らかいボールがあったとしよう。ボールのどこかに鋭いナイフで切れ込みを入れる。そして内側と外側をひっくり返す。そうすると外と中の関係が逆になるだろう?その時出来たひっくり返ったボールを地球に置き換えて考えてみるといい」
(なんだか難しい話だな)
「まあ、慣れないとね。とにかくそう言うものだ。だから、重力の中心たるべきブラックホールが空から光を吸収しているという訳さ」
僕は地面から空を見上げた。灰色の空に、一筋の光が流れて僕の影の向こう側に消えて行くのが見えた。よく目を凝らしてみると、幾筋かの光が時折影の向こう側の一点を目指して集まっているように見える。影の言う通りなら、おそらくその向こうで光がブラックホールに吸収されているのだろう。
(まるで流れ星だね)
「ぞっとしないね」
(そうかい?なかなか奇麗じゃないか)
「分かってないな」
影はため息をついたようだ。
「光あっての影なんだ」
僕は、僕の影が感じている危機感をまだ理解できない。
(なあ、聞いてもいいかい?)
「なんなりと」
(今の君から僕はどんな風に見えてるの?)
影はにやりと笑った。もちろん黒い人型でしかない影だから、そんな雰囲気に見えたというだけなのだが。
「君は色鮮やかなままさ。ちょっと平面的だけどね」
その言葉を聞いて、僕は不思議とほっとした気分になった。

光と影

その影は、常に僕の少し前に居て、僕を誘うようにしていた。
僕はふらふらと影の後をついてゆく。
酩酊したような気分のままで、一歩、また一歩と進むうちに、体が前のめりになって行く。
体はだんだん傾きを増して、地面が近づいてくる。
ひょっとしたら、このまま影と同化して、僕は地表に貼り付いてしまうのかも知れない。
今にも顔が地面にひっつきそうになった時、影は子供のような甲高い声で囁くように話しかけて来た。
「そんなに近づかなくてもいいんだよ」
僕はその声をぼんやりと聞いているだけだった。なんだか実感が無い。ここにこうしている、という自分自身の存在感が希薄なのだ。
「あんまりこっち側に来ちゃ行けないよ」
(こっち側?)
「心が離れてるんだよ、きっと」
(君が誘ってたんじゃないのか)
「僕はただの反映だからね。君を誘ったのは君自身だ」
(これは…夢?)
「まあ、似たようなものかもしれない。早く目をさました方がいいんじゃないか?」
(どうして?)
「戻れなくなるよ」
(どこに?)
「日の当たる世界にさ」
(ここは、違う?)
「僕と話しているくらいだから。ここは影の世界なんだよ」
いつの間にか、僕の周りの風景は変わっていた。全体的に薄暗く、息苦しさを感じる。なぜこんなところに居るのかと思ったが、じゃあ今まで居たのはどんなところだったのかと考えてみても、何故か思い出す事が出来なかった。それは失われた遠い過去の記憶のように靄がかかって姿が見えない。
(僕はどうしてここに来たんだ?僕を戻してくれ)
「さっきも言ったけど、君が、僕との対話を求めて来たんだ。戻るなら、君が戻る気にならないと」
(だから、戻してくれと言ってるじゃないか)
「それじゃダメだ」
(どうして?)
「自分で考えるんだ。どうしてダメなのか、分からないと出られないよ」
僕はどうやらかなり質の悪い夢を見ているらしい。ここから抜け出すには目を覚ますのが一番だ。そう思って僕は目を閉じて、
(起きろ、起きろ!)
と強く念じた。すると僕の意識はじわじわと何かに引きずられるように流動を始め、渦に飲み込まれるようにある時点から一気に一つの方向に流れ出るような感覚を受けた。

僕は目を覚ました。
しかし、辺りを見回すとそこはまるで見覚えの無い風景が広がっていた。薄暗い、灰色の空。
「やあ、こっちに来ちゃったのか」
声に振り向くと、そこには影が立っていた。
「今まで、僕の方から君がどう見えるか、考えてみた事があるかい?」
影が僕を見下ろしている。
「実は僕もここに来たのは初めてなんだ。なかなか面白いもんだね」
どうやら僕はこの見知らぬ世界で、僕の影の影として地面に貼り付いてしまったらしい。

2007年10月7日日曜日

空想都市2

客席の一番窓際に座っているわたしの位置からは
これから降りる空港の姿が正面に見渡せる。
もう少し旋回をすれば
やがて機体の進行方向に
滑走路が見えてくるのだろう。

もうすぐ日が落ちる。
太陽が地平線の彼方に身を隠し、
客室内を真横から打ち抜いていた光が
ふっ、と瞬間的な減衰を見せる。
それはとても美しい人生の一瞬として
つかの間に
わたしの記憶に残る。
でもそう長くは続かない。
次から次に時は訪れ
わたしは美しさから引き剥がされる。

だから
時間に負けたくなくて
他の事を投げ打って
頑張ってきた。
あの人の事も。

なぜ急に彼の事を思い出したのか
その理由はよくわからない。
新しく生まれようとしている都市で
彼が働いている事は
旅立つ直前に彼に電話するまで知らなかった。
思わぬ巡り合わせに驚いてしまった事と
登場時間に追われて
慌ててしまって
迎えに来てなんて言ってしまったけど
彼は来てくれるだろうか。
迷惑ではなかっただろうか。
彼も仕事で来ていると言っていたし
邪魔になってしまったのではないだろうか。

何年も忘れていたのに
なぜこんなに突然気になっているのだろう。
ひょっとしてわたしは
まだ彼の事を愛しているのだろうか。

気持ちに何の整理もつかないまま
わたしの乗った便は
着陸態勢に入った。

空想都市

真っ白な空間。
卵形のドームのように偏って緩やかに丸みを帯びた天井。
その下に広がる回廊は
百人ぐらいが横一列にならんでも余裕が持てる程幅広く、奥深い。
床には
回廊の奥に向かって二つの平行した道を描くように正方形のタイルが並べられ
その他の面をそれよりも小さい大きさのタイルが
一見不規則とも思える幾何学模様を描き出している。
空間の中は一本の柱も存在しない。

全体を見渡してみると
不思議とグレーな色合いに染められているような気がするが
ほとんどが白を基調にして設計されているはずだ。
回廊の両端は、片側は光沢のある壁になっていて
その反対側は無職透明なガラスの窓になっている。
そこから見える風景の中にはこの国で最大の規模を誇る
空港の発着場が見えている。

人通りはあまり無い。
僕は回廊の真ん中辺りでガラス窓の手すりに肘をつき
反対側の壁に埋め込まれた自販機で買った
甘いミルクコーヒーをすすりながら
飛行機が到着するのを待っていた。
窓の向こうに空港が見える。

この都市はまだ建設中で住民も少ないが
壮大な移民計画が進められていて
やがては賑やかになるはずである。
必要な施設と巨大な建造物から
優先的に造られて行くので
ただ広いだけという空間が
あちこちに生まれている。

僕はまだ迷っていた。
後数分で降りてくる乗客の一人を
迎えに行くべきか
ここで引き返すか
それは彼女から僕に与えられた選択肢でもある。

答えは簡単なはずだった。
ただ、彼女に付帯する過去と言う属性に
なぜか足を引っ張られる思いがして
僕は足を止めた。
何もかもを新しく始めたこの場所で
果たして過去が必要だろうか?

僕は答えのつかないまま
また一機
この星へ降り立つのを眺めていた。

2007年10月5日金曜日

空想人格

僕は、映画や、漫画や、小説なんかを読んで、あまりに感動したりすると、もうほとんどそのストーリーの中の世界に入り込んでしまって抜け出す事が出来なくなってしまう事がある。それは、夢を見ているような感覚なんてものではなく、きわめて実体的な体験として僕の身に降り掛かってくるのだ。

カンフー映画を見た後で人ごみの中を歩くと、知らず知らずのうちに足元のステップが効率的になっていたりする事はまあよくありがちな話だけれど、天変地異が地球を襲うような話の後では、ガラス張りのビルがいつ砕けて落ちてくるのかと警戒し、いざガラスの破片が落ちてきた時はどう動いてそれをかわすのが良いかをずっと計算しているし、幾多の障害を越えて成就される恋愛ものの小説を読んだ後で、付き合っている彼女との間に起こりうる最悪の事態を幾通りも思い浮かべて「そんな事はさせるものか」と人知れず奥歯をかみ殺したりしているのだ。

はっきり行ってそんな空想は取り越し苦労以外の何物でもなく、自分でも辟易してしまっているのだが、どうする事も出来ない。
自分でも困っているのだ。自分は普通の生活をしているつもりが、いつの間にか別の世界の住人になっていて、有りもしない、起こりよう筈もない事に思考能力のかなりの部分を奪われている。
だけど、やはり、そうは言っても、人の考えつく事など、実際に我々の身に降り掛かってくる数多くの苦難や試練に比べたら可愛いものだと思える事が、世の中には数えきれない程転がっている。とも思えるのだ。
だから、あらゆる事態を想定して生きる事は決して悪い事ではないし、自らのみを守る手段ともなり得るはずだ。

それに、そんな僕の性質が無益な行動を生むばかりではない時もあるのだ。とても質のいい恋愛映画を見た後では、普段の自分からは想像もできないようなセリフ回しで彼女を感動させて、キスの嵐を受けた事もあったりする。

僕がそういう問題を持ち合わせた人間なのだという事を彼女に打ち明けた時、彼女は
「それは、言ってみれば数に制限のない多重人格者みたいなものかしらね」
と言った。言われてみれば確かにそう言えるかも知れない。そんな表現は自分には思いつかなかった。
「でも、私平気よ。数が無限なら偏りがなくていいじゃない。横で見てたら楽しそうだし」
僕はそんな彼女の言葉に支えられて、毎日なるだけ多くの作品を読んだり見たり聞いたりするようにしているのだ。

2007年10月4日木曜日

あの坂の向こうに

あの流れ星はどこへ飛んで行くのだろう。
山の向こうへ消えて行ったみたいだけど、どこかで地面へ落ちたのだろうか。
自分の息子が生まれて初めて流れ星を見て、それがまだ何かも分からず夜空に向けて星をつかもうとしている姿に、私は子供の頃に感じた疑問を思い出していた。
今息子と見ているのと同じあの坂の向こうに、地上に落下した流れ星が転がっているかも知れないと思って、見に行こうよ、と父に何度もねだったのだ。父はその度に「流れ星の周りは危険だから近づいちゃ行けないんだ。気が立ってるからそっとしてあげないと」と言ってごまかしていたのを思い出す。「流れ星は怒っているの?」と私が聞くと、「いや、どちらかと言うと寂しいんだと思う」と父は答えた。「慰めてあげなくていいの?」
「落ち着くまでしばらく待った方がいいんだよ。結構時間がかかるはずだから、お前はもう寝なさい。お父さんが後で行ってくるよ」
そう言って父は私を肩に担ぎ、何度も丘の向こうへ振り返る私の気を逸らしながら家に連れ帰るのだった。
父はとてもうまく嘘をついてくれたと思う。あれがただの宇宙の塵で、大気の摩擦で燃えているから光って見えるのだと説明されたら、果たして当時の私は理解できただろうか?もしかしたら夜空に対してまるで興味を失ったかも知れないし、あるいは星や宇宙に対してもっと違った関心を抱いて、今頃物理学者にでもなっていたかも知れない。
ともあれ、私は父の嘘が、そうとは知らず好きだった。幼い私にとって、それはリアリティのある物語だった。

坂の向こうには流れ星は落ちていない。その事はいつの間にか当たり前のように分かるようになっていたが、考えてみれば実際に確かめに行った事は無い。
私は息子を肩に担ぎ、坂の方に向かって歩き始めた。幼い息子はその変化を喜んでいるようだ。私の頭上で甲高い声を上げ、さかんに手足を動かしている。
私は息子が肩から落っこちないように支えながら、少しずつ坂を登る。そうして歩き始めてみると、意外にも胸が高鳴り始めた。
私は本当はずっとこの坂の向こうを見たかったのかもしれない。そう思うと、確かにそうだと、はっきりと意識が目覚める感じがした。
本当はその向こうに何があるのか、私は十分知っている。
でも、もしかしたら、何か違うものが見えるかも知れない。
ありえないとは思いながら、私は少年のような心で一歩一歩坂を登って行った。

2007年10月3日水曜日

帰り道の風景

奈々子は一番手前にあった錆び付いたママチャリを靴のかかとを使って思い切り蹴り飛ばした。
「なんだよこれ」
駅前の線路脇の小道には、「駐輪禁止」の看板の前に、山のように自転車が重ねられ、自転車の上にまた別の自転車が積み上げられている状態だった。
毎日の光景だから、別に珍しいという事ではない。いつもは徒歩で駅に通う奈々子だったが、この日は朝遅刻しそうになってやむなく自転車を使ったのだ。そして、やはり急いでいたため看板の目の前に自転車を止めたのだが、それが失敗だった。まるで看板の語句に対する集団的な挑発行為のように、その場所に自転車が集中している。
奈々子は腕組みをしてどうしたものかと考えた。この山のかなり奥の方に奈々子の自転車が埋もれているはずだ。

「ママ、気持ち悪い」
電車に乗ってしばらくすると、沙耶はしゃがみ込んでしまった。電車の中は満員で、座席は全て埋まっているし、立っている乗客も多い。律子は沙耶の肩に手を添えて沙耶の顔を覗き込んだ。
「だいじょうぶ?」
「気持ち悪い」
「吐きそう?」
沙耶は首を振った。
律子は周りの人間達の足元の邪魔になる事を注意しながらも、沙耶の隣りに自分もしゃがみこんだ。沙耶の顔色を確かめる。少し顔色が悪いかも知れない。ちょっと歩きすぎたのかもしれない。沙耶の通う幼稚園が創立記念日で休みだったので、友達の園児の母子と一緒に遊園地で一日遊び回ったのだが、昼前に遊園地に着いた時から沙耶も友達の子もちょっとはしゃぎ過ぎだと思っていた。
体力の限界を超えて走り過ぎたのだろう。沙耶の顔がみるみる曇って行く。
(誰か席を譲ってくれないかな)
律子はそう思って、ちらりと座席の方を見た。サラリーマン風の中年の男と一瞬目が合ったが、彼はすぐに目をそらして俯いてしまった。律子は思わず舌打ちしそうになったが、堪えた。
(まあ、みんな疲れているんでしょうけど)
「沙耶、ちょっと反対側向いて」
律子はしゃがみ込んだまま沙耶の背中を自分に向けて、膝の上に座らせて後から沙耶の体を支えるようにした。
「ちょっとは楽になった?」
うん、という声もほとんど聞こえないくらいだが、沙耶は首を縦に動かした。
律子は沙耶の負担にならないように気を遣いながらも、自分の娘をしっかりと抱きしめた。

駅前では奈々子が自転車の山を掘り起こしているところだった。傍目にはセーラー服を着て華奢に見える奈々子が、陸上部で鍛えた腕力で次々と放置自転車を右へ左へと放り投げて行く様に、通行人の何人かが時々足を止めて魅入っていた。奈々子はそれに気付くと意図的にそっちの方に自転車を放り投げて睨みを利かせた。
そうやって、なんとかかんとか障害を排除し、見慣れた愛車を救い出す事が出来た。
「ごめんよ、あんなとこに閉じ込めて」
奈々子は自分の愛車に語りかけながら傷が無いかチェックしてみたが、どうやら無事なようだ。後で奇麗にしてあげよう。
「奈々子」
後から声をかけられて、振り向くと沙耶を抱きかかえた律子が居た。
「あらお母さん。おかえり」
「これ、どうしたの」
律子は奈々子の周囲に散乱している自転車を眺め回して言った。
「え?これ?なんだろうね、知らないけど。沙耶、寝ちゃったの?」
「電車で気分悪くなっちゃったのよ。遊び過ぎたんだと思うけど」
「そうかあ。やっぱり若いねえ」
「何言ってんのよ」
「じゃあさ、車こない道通るから、後に乗って行きなよ。三人乗りしよ」
「危ないわよそんなの」
「だいじょうぶだって、鍛えてるんだから」
律子は何となく、また周りの自転車を眺めてしまった。
「やっぱりだめよ。危ないから」
「信用無いなあ」
「そう言う問題じゃないでしょ」
「じゃあ、沙耶と自転車、取り替えっこね」
奈々子は沙耶を抱っこして、律子は自転車を押して歩き出した。
「お父さん。今日は早いの?」
「さあねえ。ま、電話来るでしょ」
親子はのんびりとした足取りで線路沿いの道を我が家へと向かって行った。

2007年10月2日火曜日

明日になったら

俊平はもう一度小銭入れの中身を確かめてみたが、やはり結果は同じだった。
もうどうにも金がない。
小銭入れにふたをして振ってみれば、昔聞いたビスケットの歌みたいに一枚ずつ小銭が増えて行ってくれるのじゃないかと、何故だか思えてしまったのだが、そんな奇跡は起きるはずも無かった。何度振ってみてもそこには百円玉と十円玉と一円玉が一枚ずつ入っているだけで、その枚数はまったく変わらない。増えもしなければ減りもしない。
(減らないだけまだましか)
俊平は試しに財布の方を振ってみた。財布には小銭入れが付いていないから、余計に音がしない。何にも音がしないと小銭以上に何かが増えるという雰囲気が足りない気がした。そして中身を確かめて、やはり一枚のお札も入ってはいない事を再認識した。そんな結果が待っている事は当然分かっていても、俊平は軽い落胆を覚えて、財布を机の上に投げ出した。
俊平は自分の部屋の机の前で椅子をくるくる回転させながら、時が過ぎるのに身を任せていた。机の向こうにはカーテンを開け放したままの窓があって、夜の住宅街をひっそりと映し出していた。
俊平は小銭入れを気怠そうに振り続け、部屋の中には俊平の手の中で鳴る、金属の擦れ合ったりぶつかりあったりする音が響いていた。
机の上には投げ出されて開きっぱなしの財布と携帯電話が置いてあるだけだった。
俊平が椅子をくるくるくるくる回転させながら天井を見ていると、やにわに携帯の着信が鳴り始めた。俊平を呼んでいるのは友達のヒロトだった。
「明日暇?」
「なんで?」
「どっかいこうぜ」
「悪い。先約があるんだ」
「なんだよ、デートか?」
「まあ、そんなとこ」
「しょうがねえな、じゃ、またな」
通話は切れた。あっさりしたもんだ。
つまらない嘘をついてしまった、と俊平は思ったが、何となく金を借りて遊ぶ気がしなかった。
俊平はまた天井を眺めてくるくると回り始めた。
そろそろ首が痛くなってきたな、と思い始めた頃、また携帯が鳴った。今度はサオリだった。
「ちょっと、どういう事?」
「…なんで怒ってるの」
「浮気してるんでしょ」
「してないよ」
「嘘。さっきヒロトから聞いたんだから。明日デートだって?」
「ああ、あれ嘘だよ」
「嘘。なんでそんな嘘つく必要があるの」
「あいつと飲むと金かかるから」
「…お金無いの?」
「無い。一銭も無い」
「一銭も!?」
「ああ、今の嘘。百十一円だけある」
「それじゃ何も出来ないじゃん」
「缶コーヒーも買えないよ」
「…明日暇なの?」
「する事も無ければ出来る事も無い」
「しょうがないな。ご飯作りに行ってあげるよ」
「おお、助かる」
「まったく、世話の焼ける」
「サオリが居てくれて助かるよ」
「調子に乗るなよ。ご利用は計画的に」
電話は切れた。
明日は久しぶりにまともなものが食えると思うと、俊平は数日ぶりに落ち着いた気分になった。
それから先どうなるかという事が一瞬頭をよぎったが、まあそれは、明日になったら考えればいいことだ。

2007年10月1日月曜日

赤と青の海

青年の心は欲望にまみれていた。しかしその中身は、邪悪さというよりは自然発生的に彼に宿った若さの象徴であった。そのように生まれたはずだった。
欲望の流動は青年の精神の表層に、無数のマグマの渦を生んだ。そしてそれぞれの渦の中心は、深く精神の無意識領域に、その空洞を触手のように伸ばしていく。
彼の心は、今や欲望という巨大な概念によって犯されようとしているのだ。
しかし、その海はまだ浅い。
マグマの渦は幾つかが固まって一つになり、より大きな空洞を生もうとしている。その勢いに抗えるのは、沸騰するマグマ自身が生み出した上昇気流の風だけだ。風は次第に速度を増し、マグマの上に透明なカオスを築き上げた。
青年の心はマグマの渦と風のカオスの二つの極に割れそうになっている。そのような対立構造があまりにもシンプルに浮かび上がってしまうほどに、彼は欲望に取り憑かれてしまったのだ。
超常現象の戦場のようであった彼の心の葛藤も、大勢が決しつつあった。いよいよ渦が青年の心の深層に触れたのだ。風の揚力はマグマの重力に遠く及ばなかった。
欲望の力は、青年の心を支配した。そして更に多くを求めた。深く、より深く、奥へ、奥へと。

青年の心は既に動物と化していた。あらぶるマグマの跳梁を押さえるものはもう何も無いとさえ思えた。
しかし、密かに心の奥深く、意識と無意識の間に挟まれた精神の中央に、欲望のマグマの未だ及ばない、不明瞭な領域が存在していた。マグマの生んだ空洞はその存在に気付き、それまで感知されずにいた不可思議な空間を当然のように犯したいと望んだ。
そして欲望は空間の壁に穴をあけた。と同時に、その守られた領域の姿を見た。
それは記憶だった。
理性や、思考、現在と時間の壁を剥ぎ取られた剥き出しの記憶に、青年の欲望が触れた。
そしてまるで奇跡のように、風と記憶は結びつき、欲望の海を青く染めた。


そのような過程の後で、青年はようやく目の前にいる相手の顔をしっかりと見る事が出来た。
そして己の無力さと、茫漠とした幸福感に深く心を切り裂かれたのだ。