2007年11月29日木曜日

鷹の目の王子

 王子は退屈していた。
 お城の窓からぼんやりと遠くを眺めることが多くなった。
 剣術の練習にも家来を引き連れての狩りにも詩を考えることにも、もう集中できなかった、
 なぜ毎日はこんなにつまらないのだろう。
 家来たちはおべっかばかり使って来て本音で話せるような人間はほとんど居ないし、宮廷の厳格なしきたりや儀礼作法の数々もうんざりだった。
 それもこれもあいつに会ってからだ。

 ひと月程前のことだっただろうか。
 一匹の鷹が王子の部屋の窓に降り立ち、王子を驚かせた。
 王子は当然そんな野性の存在には慣れていなかったので、恐れ、剣を抜いて追い払おうとした。
 しかし鷹は自分に向けられた刃に動じる気配など微塵も見せなかった。
 王子は鷹と目が合った。
 それは宮廷に出入りするどんな人間の目よりも鋭く、威厳に満ちていた。
 王子は剣を降ろした。
 鷹は啼き、踵を返して空へと舞い戻った。
 王子は窓のそばへ急ぎ、鷹の背中を目で追った。
 鷹は翼を広げて風を受け、悠然と旋回しながら上昇していく。
 なんと素晴らしいのだろう。
 王子はまるで初めて空を見たような気持ちになった。
 それはどうみても新しい世界だった。
 鷹はどんな束縛も受けず、自由に見えた。
 王子にとって、自由という言葉が身に沁みて感じられたのは、この時が初めてだった。
 王子は、鷹になりたいと思った。

 それ以来、城の中でどんな催しが行われようと、王子は楽しめなくなった。
 舞踏会の賑わいは煩わしい喧噪に変わり、家来たちに何を言われても浅ましい追従にしか聞こえなくなった。
 狩りに出かけても、獲物よりも空の広さが気になってくる。
 あの鷹は飛んでいないか。

「私は鷹になりたい」
 ある日王子はそば付きの小姓に言った。
 その小姓は王子の子供の頃から王子の世話をしていた、城の中で心を許せる数少ない者の一人だった。小姓は答えた。
「王子様は鷹のような猛々しい武将になれますとも」
「違う。私は鷹になりたいのだ。大空を駆け巡り、自由に世界を飛んでみたいのだ」
 小姓は少し考えた。
「私も空を飛んでみたいと夢見たことがあります」
 王子は窓の外に向けていた視線を小姓の方へ移した。
「私は空を飛びたいのではない。鷹になりたいのだ」
「王子様。あなたは他の誰でもなくあなたなのです。それは鷹も同じことではありませんか」
「お前のいうことは分かる。しかし、それを聞いても満足もできないし納得もできない。それは私の求める言葉ではないのだ」
「王子様は言葉をお求めなのですか」
「……いや。それも違うな」
 王子は語るのをやめた。いくら言葉を費やしても、これ以上何も伝わるまい。それに、話せば話す程、自分の想いから外れたことを言ってしまいそうな気がしたのだ。
「なぜ、私の前に現れたのだ?」
 王子は鷹の目を思い出していた。
「何かおっしゃいましたか?」
「いや、いいんだ。下がってくれ。一人になりたい」
 小姓は恭しく頭を下げ、王子の部屋から出て行った。

 鷹の目が、どこかで王子を見ている気がした。
 日を追う毎にそのイメージは強くなり、どんなことをしていても、王子は鷹の目を頭に描くようになった。
 その内に、自分が鷹を見ているのか、鷹に見られているのかも分からなくなって来た。
(父が死に、私が王になったら……)
 王子は考えた。
 私は鷹になろう。すべてを私の自由にしてやるのだ。
 その日を境に、王子は王宮の中で理不尽な権勢を振りかざし始めた。

 鷹は優雅に空を飛んでいた。
 城の上を何度か旋回し、景色を眺め、その日の獲物を求めて山の方へと飛び去った。

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2007年11月28日水曜日

魔法使いへの道

 少年は、魔法使いになりたかった。
 でも、どうすればなれるのか分からない。
 お母さんに聞いてみても、お父さんに聞いてみても、なぜか適当に話をはぐらかされてしまって、なっとくのいく答えを聞くことができなかった。
 自分とおなじぐらいの年の子が魔法使いとして大活躍する映画やマンガを見て、いろいろと呪文を研究したりほうきにまたがってみたりしてみたけれどいっこうに魔法が使えるようにはならなかった。
 でも少年はたくさんたくさんマンガを読んだことで、少し難しい漢字を読めるようになった。わからない字はテッテイ的に辞書で調べるようにしたおかげだ。
 そこでこんどはもっと難しい字がもっとたくさん使われている本を読むようになった。
 その本には魔法についてもっと詳しいことが書かれていた。
 でも、いろんな種類の魔法についての説明や効果については書かれていたけれど、どうやってそれを学び、身につけていくことができるのかは書かれていなかった。
 それでも、少年は想像の中でさまざまな魔法を使う自分の姿を浮かべ、ますます魔法使いへの夢をつのらせていった。

 そんなある日、少年は友達に笑われた。
 少年は「魔法使いになりたいんだ」と言ったのだ。
 友達は初めは冗談だと思ったので、面白がって笑っていたが、少年が真剣に、具体的に魔法についての詳しい話をずらずらとならべたてて話すので、やっとのことで少年が本気だと言うことを理解したのだ。
「ばっかじゃねえの」
 と友達は言った。
「おまえ、だいじょうぶか?」
 と別の友達は言った。
 少年はそんなことを言われたのは初めてのことだったので、予想外の展開になんと言い返せば良いか分からなくなった。少年にとって魔法使いになることは現実的な夢だったのだ。
 それからいろいろと議論を交わしていくと、少年は友達たちが自分のように魔法についていろいろと調べたり呪文の言葉をおぼえたりしている訳ではないと分かって、彼らは知らないからそう言うことを言うのだと思った。
「じゃあ、ケンたちは何になりたいんだ?」と少年は聞いた。
「サッカー選手」
「パイロット」
「証券マン」
 そこで少年はケンたちにサッカーやパイロットや証券マンのことについて聞いてみたが、彼らはしきりに「かっこいい」とか「すげえ」とかを繰り返し、その話はいっこうに具体的にどうするかと言うことには発展しなかったので、少年は少しがっかりした。

 少年は誰よりも勉強していたし、魔法使いになる為の計画も立てていた。
 必要なことも分かっていた。化学と物理を学び、古代の物語の原文を読み尽くし、それから世界を旅して秘境の地に残る密教の魔術を修め、それらを融合して新しい自分の魔法を作り上げるのだ。

 理由はともかく、少年の両親はとにかく少年の成績が急激な右肩上がりで伸びていくので、まあ良いかと思うことにした。
 少年は両親の期待通りに一流の大学に入り、その中でもダントツの成績を収めた。
 少年は少年でなくなっても、自分の指先から言葉一つで稲妻がほとばしる日を変わらずに夢見ている。


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2007年11月27日火曜日

ありきたりなロック

 どんな方向にアンテナを動かしても、ラジオの音声は一向に改善しなかった。

 ガガー、ザザー、ピー

 雑音に時折パーソナリティーの言葉が混じる。

 こんばんガガー
 みんな元ピー
 今日ガーいつものザザーごきげんピー

 何かの歌が始まった。
 雑音に紛れてよく内容が判らないが、いつの時代、どこの国にもありそうなありきたりのロックなメロディーだということが分かる。もっとも、ロックと言う音楽の歴史の浅さを思えば、そう思えることは僕が生きている間のことだけなのかも知れないが、不思議なことに、そう言う歌は雑音だらけでもそこそこ聞ける気がした。

 お前のことがピーピピー
 愛ガーるザザー
 ピーピピー

 僕はアンテナを調整することを諦めて、そのままの音楽を流した。
 僕は島をわたるフェリーの三等客室で、なんとか暇をつぶそうとしていたのだ。
 僕は他の乗客たちの邪魔にならないようにと、ラジオの音量は極力さげていたのだが、全く聞こえないようにすると言うのは不可能な話だった。
 何人かの乗客は幾分批判的な視線を僕とラジオの方に向けていたが、中には音に合わせて指先でリズムを取っている人も見受けられた。
 その違いは初めからロックが好きか、そうでないかと言う事でしか無いのではないだろうかと、僕は想像してみる。
 それはほんとうにとってもありきたりなロックだった。
 簡単にノレるし、簡単に聞き流せる。
 一途な愛に関する個人的な叫び。

 ヴォーカルのシャウトの始まりが雑音でかき消され、一瞬、奇妙な音が客室の中に漂った。
 不思議なことに、それを聞いた客室の人々の動きが同時に止まった。
 静寂は雑音にかき消された。

 お前ザザーピー
 ガーガーガガーガーガー
 ピピピピザー

 船が大波を受けたのか、下腹に響くような重い動きで大きく傾いだ。
 僕は目を閉じて、ロックの続きを楽しんだ。

2007年11月25日日曜日

飛んでしまった彼女

 彼女はさっきからしきりに鏡を気にしている。
「何を気にしてるの?」
 と僕が聞くと
「うん、ちょっと」
 と言って詳しくは教えてくれなかった。
 僕は時々彼女が分からなくなる。
 付き合い初めの頃から、その傾向はあった。
 どういうきっかけでそれが訪れるのか分からないけれど、彼女はふとした瞬間に何か別のことを考えていて、会話中であろうが、散歩中だろうが、テレビを見ている間だろうが、おかまいなしに意識をどこかへ持って行かれてしまっているのだ。
 僕が「どうしたの?」とか「何考えてるの?」とか聞いてみても、そう言う時はどうにも煮え切らないような返事しか返ってこない。
 彼女のその反応に僕は不安になることがある。
 僕と一緒にいるのがつまらないのだろうか? あるいは僕と一緒にいながら他の誰かのことを考えたりしているのではないだろうか?
 僕はどうしても気になるのでその症状について確認してみようと思い、彼女に聞いてみたことがあるのだけれど、彼女は案外あっけらかんとして答えた。
「ああ、私飛んじゃう時があるの。でも気にしないで。それで何がどう悪くなるという訳でもないから」
 それでも、彼女が『飛んじゃう』と言った時の表情はその瞬間だけ真剣で、前後の流れから切り離されてまるで別の顔写真を埋め込まれたみたいに違う顔になった。
「飛んじゃうの?」
「うん。ちょっとだけね」
 彼女は親指と人差し指の間に狭い空間を作り、片目をつぶって指の隙間から僕の顔を覗き込んだ。その表情はとてもかわいらしくて、僕はまあいいか、とその時は思ってしまうのだ。
 しかし、『ちょっと、飛んじゃう』とは一体なんなのだろう。
 彼女は僕の質問には答えてくれたのだけど、その回答はとても僕の理解を超えたものだ。
「飛んじゃうって、何か別のことを考えているということなのかな?」
 僕はまた別の機会に聞いてみた。
 彼女は一瞬、何の話かと首を傾げたけれど、すぐに思い当たったようだった。
「やっぱり気になる?」
「ちょっとね」
 と僕は答えた。
「どうやら翔君は私のスマイルじゃごまかしきれないみたいね」
 と言って彼女はいつものスマイルを披露した。その威力は十分で、僕はうっかり「まあいいけど」と言いそうになった。
「私にもうまく説明できないのよね。何を考えているのって言われると何も考えていないんだけど、ああいう時って、記憶もずいぶん怪しくなるのよね」
「記憶が? 覚えてないってこと?」
「そうみたい。人から指摘されてやっと気付いたんだけどね」
「それってやっぱり色々と困るんじゃない? こないだは何も悪くなることは無いって言ってたけど」
「そんなことないよ。案外世の中どうとでもなるものよ」
「そうなの?」
「試してみたらいいよ。一度聞いた話を全部忘れたことにして、その話をした相手とどういう風に会話のつじつまを合わせたらいいか、そしてもう一度同じことを相手に言わせるにはどういう風に会話を運べばいいか、実験してみるの」
「……僕にはとても出来そうにない」
「他に選択肢が無ければやれるようになるものよ」
「そうか。でもどうしてそうなっちゃたんだろうね」
 僕がそう言うと彼女はふうっと一つ息を吐いた。
「みんな同じこと聞くんだよなあ。それがうっとうしくてごまかしてたんだけど。ひとこと言えるとしたら、それが私なの。理由なんか判らないわよ」
 そういって僕を見る彼女の表情にははっきりとした確信めいたものが浮かんでいた。
「わかった。もう聞かないよ」
 僕がそう言うと彼女はほっとしたようで、いつもと少し違うスマイルを見せてくれた。そして僕らはデートの続きをする為に並んで歩き始めた。そこで僕はうっかり余計なことを聞いてしまった。
「みんなってやっぱり元カレとか?」
 そのとき彼女は既にどこかへ『飛んで』いて、僕の言葉は聞こえないようだった。

2007年11月24日土曜日

母のホーミー

 僕が初めて彼女を家に呼んだ時、母はホーミーの練習にはまっていた。
 ホーミーとはモンゴルの民族に伝わる伝統的な発声法のようなもので、のどを使って高音と低音を同時に鳴らす「驚異の唱法」と言われているものだ。これが簡単のようで難しい。
 母の鳴らすホーミーはと言うと、当然ながら凄まじく聞くに堪えない。
 僕が部屋で彼女と仲良くしていても、変なタイミングで母のへたくそなホーミーが聞こえて来て、なかなかいい雰囲気を作ることが出来なかった。
 いっそのことしばらく練習をやめてくれと頼みに行こうと思ったが、そうすると逆に母の関心が僕らの方に向かい、きっと何度も必要の無いお茶やお菓子を何回にも分けて部屋を覗きにくるに違いないのだ。
 それはそれで面倒なので、僕は彼女と二人きりの時間を保つのを優先することにした。
「ごめんね、うるさくて」
 僕は隣りに並んで床に座っている鈴に謝った。
「いいよ、別に。気にしないで」
 鈴はむしろその状況を面白がっているみたいに見えた。
 でも僕は気になって仕方が無かった。何しろその頃の僕は若かった訳で、彼女を部屋に入れる、というだけで内心興奮していたし、あわよくばいろいろ、いろいろしてみたいという下心に、かなりこころを惑わされていたのだ。
 そこに母のホーミーが流れてくる。
 雰囲気どころではない。完全な雑音だ。むしろ騒音と言った方がいい。これは立派な環境汚染だ。提訴したい。
「ねえ、聞いてる?」
 僕が頭の中で母を罵っていると、鈴が僕に聞いて来た。
「え? ごめん、聞いてなかった」
「何考えてたの」
「いや、別に。何の話だっけ」
「今度のデート、どこ行こうかって話でしょ」
「それだ。どこか行きたいとこはある?」
「それを今言ってたのに」
「ごめん、もう一回お願い」
 僕がそう言うと、彼女は体を僕に近づけて、
「今度はちゃんと聞いててよ」
 と言った。鈴の顔は僕の目の前にあった。
 僕が彼女の手を握った時、部屋のドアが勢いよく開いて母が入って来た。
 僕と鈴は反射的に体を離し、母を見た。
「ねえ、聞いた? 今の聞いた?」
 母は何やら興奮していた。
「な、なに?」
「今、すっごく綺麗なホーミーが鳴ったのよ!」
 くらっと来た。
「ああ、そうなの? 聞いてなかった」
「もう、なんで聞いてないのよ!」
 母はそう言って部屋を出て行った。
 僕はどうしていいか分からず、助けを求めるような目を鈴に向けてしまった。

2007年11月23日金曜日

猫がいた

 完全に一人になってみたくて、無人島へやって来た。
 そこは今は誰も住んではいないけれど、過去には地下炭坑の労働者の世帯などで賑わいを見せたこともある、人の歴史の跡が残っている場所だった。
 僕はそこにキャンプを張って、ふた晩過ごす予定でいた。
 港の近くにテントをつくり、生活のためのこぢんまりとしたベースを整えると、僕はカメラと手帳と水筒をもって島の中央部へと足を伸ばした。
 地図によればここは東京の千代田区程の大きさしかない。
 その島のほとんど真ん中に今は枯れ果てた炭坑の入り口があるはずだった。
 僕はまずそこへ行き、その閉鎖された入り口を写真に撮った。
 出来れば入り口を塞いでいる鍵を外して中の様子を見たいものだと思ったけれど、それは本来の目的ではないし時間も労力もかかりそうだったので、僕は早々にその考えを諦めた。
 扉にはいかにも頑丈そうな南京錠がかけられていて、僕はその鍵穴の中から誰かに見られているような錯覚を受けたので、鍵穴に思い切りレンズを寄せて、穴の中を覗き込むような気持ちでシャッターを切った。
 また歩いて、むかし人の集落があった区域へと入った。
 そこには四階建ての公団住宅のような意外にもしっかりとした造りの住居棟がいくつか並んでいて、まだ炭坑が生きていた頃のこの場所の賑わいを感じることが出来た。
 僕はその中の一つに足を踏み入れた。
 廃墟の中に入って行くという行為は、僕に特別な感慨を与えるものだ。どこか来る者を拒むような、それでいて誘っているような、底の見えない空虚への侵入。わずかに早くなる呼吸。
 一階と二階の部屋の玄関は鍵がかかっていて入れなかった。そこに住んでいた人たちは、この島を出て行きつつも、また戻ってくることを考えていたのかも知れない。
 ようやく三階まで登って鍵のかかっていない部屋の中に入ることが出来た。
 南向きの窓からよく陽が差し込んで、空気そのものは温かい温度を感じさせてくれるものの、物音一つとて無いその場所はやはり寂しかった。
 スニーカーの裏で畳を踏みしめる音がやけに耳に残る。
 僕はそうしている間も盛んにカメラのシャッターを切り続けていた。
 少しでも僕の目に留まった者はことごとく僕の手元でデジタルの画像データとして記録されて行く。
 それらはすべて、既に失われてしまったものたちの群像だった。目に映るすべての物事はずっと以前に魂を亡くしていて、それらが自ら何かを語りかけてくることは無い。ただ、それが寄り集まって一つの風景となった時、その姿は僕に向かって、圧倒的な物量で何かを語りかけてくるようだった。
 ただ人が住んでいない、というだけでこんなにも世界は様相を変えてしまうのだ。
 僕は部屋の窓から街を見下ろしてみた。
 何があった後なのか、道の真ん中にガラスの破片や木材の瓦礫が散らばっていて、通れなくなっている道が見えた。その道は港と反対側の方向に向かって伸びていた。
 僕は部屋を出て、その道の先に何があるかと思って住宅棟の裏側から回り込んで島の反対側に出た。そこには小さな砂浜があってまわりを岩場に囲まれていた。
 僕は砂の上に寝転んで空を写した。
 空はどこも同じだと言うけれど、僕にはそうは思えなかった。
 物音がして振り返ると、僕が来た道の入り口の辺りで一匹の猫が僕を見ていた。
 その存在に虚をつかれた。
 猫がいた。目が合った。
 僕がニャアと言うと、猫は一瞬ぴくっと体を震わせ、しっぽを立てた。
 その姿は何故か僕の胸を熱くした。

2007年11月21日水曜日

矛盾の華

 ミサイルに意志はない。
 ただプログラムに従って、ターゲットを目指すだけだ。
 誰もがそう思っている。

 彼は格納庫の奥でじっとその時を待っている。
 ひとたび尻に炎がつけば、それはもう彼にとって死へのカウントダウンの始まりだ。
 空を飛び、目標に辿り着いた瞬間、爆発する。
 その姿を見る者には、陣営の違いというだけで全く別の印象を浮かばせる。
 ある側にとっては英雄であり、別の側にとっては死神にもなる。

 ミサイルの歴史は古い。
 その名前はローマ時代のラテン語に由来している。
 元々は主に飛び道具を意味する言葉だった。
 少し調べればすぐに分かることだが、今の時代にミサイルと言えば、その一言では片付けられない程沢山の種類があることが分かる。
 目標への距離、戦場の地理的条件、戦術的な用途、それらすべての要素を満たし、なお技術の違いなどもある。
 ミサイルそのもののシンプルさに比べ、その中身、その周辺は非常に複雑な状況に置かれることが常である。

 彼らは人間世界に起きる複雑怪奇な利害と主義の絡み合いの中で生み出された。
 そこには皮肉な人間の願いがあると思う。
 もっとこの世界がシンプルなものであってほしいと言う、切実な願い。
 それはあまりにミサイルに対して同情的な意見だと言われるかも知れない。
 彼らを作り上げたのは破壊主義的なマッドサイエンティストに違いないのだと言われれば、僕もそうかも知れないと思う。
 例えそうだとしても、この世に生まれ出た彼らの姿、その役割はあまりにも簡潔にまとめられていて、そのシンプルさが僕に何かを訴えかけてくるのだ。

 こうは思えないだろうか。
 ミサイルが一発撃たれるたびに、それを撃った人間の中には皮肉な矛盾が蓄積されて行く。
 シンプルに破壊する為に撃ち、自分の内側に多くの複雑さを取り込んでしまう。
 簡潔な結果を求め、その行動によって我々は手に追えない問題を増やしてしまう。

 ミサイルは、矛盾の華だ。
 彼らはきっと泣いている。
 撃つのはやめよう。

 僕はやっぱり平和な世界が好きだ。
 どんなに甘いと言われようとも。

2007年11月20日火曜日

西の太陽

 僕の部屋の西方の壁には、昔知人の画家から買った黄色い絵が飾られている。
 その絵はいわゆる抽象画であり、少し距離を置いて全体的に見ると黄色い平面に何本か複雑に交差する線が描かれていて、それが何を示すのかと言う具体的な示唆はない。
 風水的には西の方に黄色い物が置いてあると金運が上がるだとか言う話だったので、僕はその絵を飾る場所を決めたのだ。
 結果的に言うと、僕は風水に従って正解だったのだと思う。
 金運が著しく上昇した、という事は今の所ないのだが、その絵は奇妙なくらいに西側の壁にしっくりと馴染んでしまったのだ。そのたたずまいはまるで僕よりもこの部屋に何年も住んでいるかのような余裕と威厳を感じさせるもので、自然で、かつ存在感があった。
 僕は自分の中でいつの間にか、その絵を『西の太陽』と呼んでいた。
 何か悩んだり落ち込んだりしている時にふとその絵を見ると、その中に描かれた線が僕に何かを伝えようとしているみたいに思える事がある。その雰囲気に僕はついつい引き込まれ、しばらく絵と向き合う事になる。
 その時に絵から何かを感じ取れるかどうかはおそらく僕の内面の問題になるのだろう。
 いくつもの線が無規則に絡み合い、その全体像は複雑な迷路のようであり、上空から見た都市の地図のようにも見える。
 色は一面的ではなく、場所によっては深い陰影があり、またある場所には奥底に秘められた光の淀みが蠢いている。
 それは相容れぬ性質の細胞が闘い合う戦争の姿なのかも知れない。
 線は時に曲線を描き、別の線にぶつかる。よく注視してみれば、途中で行き場をなくして中途半端に浮いている線の端はどこにもない。すべての線は何らかの形で別の線に繋がっている。

 僕はその絵の世界に住んでみる事を考える。
 線を建物の輪郭や道路のラインに見立て、色の強弱をその世界を覆う雰囲気や天候など何かしらの空気に例えてみる。
 半円形のドームから延びる街道を、複雑な小路の絡み合うダウンタウンへと下る。
 そこで僕はこじんまりとしたホテルに入り、お世辞にもきれいとは言えない部屋のベッドに体を投げ出し、ドームで見た演劇の事を考える。
 それは太陽への巡礼を叶えようとする旅人達の悲喜劇を物語っていた。
 その世界に置ける太陽は、銀河系の中心としての存在ではなく、いつか歩いて訪れるための場所なのだ。
 別の意識がその世界の僕に語りかける。
(太陽は宇宙にあるから歩いては辿り着けないんだよ)
 しかしその声はその世界の僕にはまるで聞こえない。もちろん、その他の誰にも聞こえない。
 その世界にはその世界の価値観があって、もし僕のその声が聞こえたとしても彼らは太陽への巡礼をやめないだろう。
 そして別の場所ではじっと息をひそめてこの世界に波乱を巻き起こそうと考えている連中がいる。彼らは闇の中で機会を待っている。自分たちの正義が試される機会を。
 それは戦争の足音なのだ。
 部屋に据え付けられた古ぼけた針時計が時を刻む音を立てる。
 僕はその音に耳を澄まし、やがて訪れるカオスの予感から逃れる為に夢に入る。

 僕の部屋にある『西の太陽』には鮮やかな世界が潜んでいる。
 向き合えば向き合う程、その世界は深みを増し、新たな地平の広がりを僕に提示してくれるのだ。

2007年11月18日日曜日

雲龍

 空は静穏だった。
 僕はいつか寝た女の裸を思い出しながら海岸への道を歩いていた。
 その道は用水路のすぐ傍を平行して進んでいたので、海までの道は完全な一直線になっている。
 僕は一人だった。
 海へ他の誰かと一緒に行った事は今まで一度としてなかった。
 海にはほとんど用がない。
 僕がそこへ行くのは、何かを楽しむためではなく、自分自身を見つめるためだ。
 だから、なるべく朝の時間帯、人の少ないうちに行く。
 交差点の赤信号で止まっていると、目の前を自転車に乗った通学中の女学生が横切って行った。
 それはどこかで見た光景だった。
 僕が彼女らと同じ世代であった頃、その時僕が住んでいた小さな町で。
 僕は思わず彼女を目で追った。
 自転車のスピードになびくスカートの裾が揺らめくのが妙に懐かしかった。
 信号が青に変わる。
 僕は足を踏みしめる。
 足元にあった小石をつま先で蹴飛ばすと、予想に反して小石は遠くまでまっすぐに転がって行き、かなり先の方で右側に向かって急なカーブを描いて転がって、道の縁石にぶつかって止まった。
 道ばたの風景に溶け込んでしまった小石を横目に見ながら、僕は先に進んだ。
 風は全く感じない。
 空が止まっているように見える。
 僕は雲の形が気になった。
 それは一度ちらりと僕の視界に入ってから、僕の意識にずっと引っかかってしまう。
 生き物のような雲。
 僕の歩く道を導くように、海に向かって伸びている。
 いつからそこにいたのだろう。
 僕は初めから空を見ていたはずなのに、その雲につい今まで気付かなかった。
 雲はまっすぐではない。
 ぐねぐねとうねっている。
 その時僕は直感した。
 この雲は生きているのだと。
 我々の体が細胞の繋がりで出来ているように、この雲は水蒸気によって構成された生物なのだと。
 龍だ、と僕は思った。
 雲の龍。
 そう思うと、今度は僕はこの龍に見られている気がした。
 何もかも見透かされている気がしてならなかった。
 僕は雲龍の導きに従って、風のない海への道を進んだ。
 ランニングシャツに短パン姿の日焼けした老人が僕の横を走り抜けて追い越して行った。
 その背中は生命力に溢れていた。
 彼こそが龍の導きにふさわしい。
 老人の背中が遠くなると、僕は自分の両の太ももを拳で何度か軽く叩いて、老人の背中を追って走り始めた。

2007年11月16日金曜日

イマドキの忍者

 その青年は、自分を忍者の末裔だと主張した。
 彼はきつい戒めを破ってべろべろに泥酔していた。
 どうしてそんなに飲んでしまったのかと聞いたら、どうやら失恋が原因らしい。
 相手は大学のサークルのメンバーなのだと言う。
 僕は行きつけの居酒屋のカウンターでたまたま隣りに座った彼と意気投合してしまい、なんだかんだと酒の量が増えていった。
「いやね、これ以上は言えないけど、本当なんだよ」
 彼はこのセリフを何度も繰り返した。
 僕もかなり飲んでいたのだが、どんなに飲んでもその時の記憶を失ったことがないので、この話は信じてもらっていいと思う。
 彼は今年成人を迎えたばかりで忍者としてはこれからが油ののってくる時期なのだと言う。
「そういうのはさ、普通のスポーツ選手の世界とかとおんなじなんだよね」
 とも言った。
「そうは言ってもただでさえ、生活と修行の両立は難しいんっすよ」
「へえ、そうなのかい?」
 僕は初めは冗談だと思っていたから、結構適当に彼の話を受け流して応えていた。彼は酔いが進む程、奇妙な敬語を使い始めた。
「俺なんか、昼間は大学、夜は修行でさ。休みの日は昼にしか出来ない修行があるしさ」
「何だかデビュー前の小説家みたいな生活だね、それじゃあ」
「いや、ほんと、そうっすよ」
 そう言ってかれは十何杯か目の日本酒をぐいっと空けた。その姿は妙に様になっていた。
「でも、彼女はサークルで知り合ったんだろう?そんなに忙しくて会う暇はあったのかな」
「ないからダメになったんすよ」
「なるほどね。でもそもそもなんでサークルなんか入っちゃったの。修行、忙しかったんでしょ?」
 僕がそう言うと彼はふうっと息を吐いて
「まあ、普通の大学生活みたいのに対する憧れですかね」と言った。
 僕は昔のアイドルが引退する時に言っていたセリフを思い出していた。
「なんとは初めの方は時間作って行ってたんっすけどね。でもあれっすね、テニスサークルに入って本気でラケット振り回す奴いないんだね」
「テニスサークル?」
「っぽいでしょ、あれ。憧れの大学生活的なイメージ」
 僕は自分が学生の頃の事を思い出した。一理あるような気がした。
「俺そこにいるだけで楽しくてさあ。浮かれてラケットブンブン振り回してたら、女の子達思いっきり引いちゃったりしてね」
「浮いちゃったんだ」
「そうそう。空気的にね。その場の雰囲気がね。でもそんな俺を彼女は気に入ってくれた…」
 彼は遠い目をしてカウンターの向こうのボトルの並んだ棚の上の方の辺りを眺めていた。
「どんな子だったんだい?」と僕は聞いた。
「笑顔が可愛くて、優しい子っしたよ。普通の女の子っす」
「普通が良いんだね」
「普通が一番ですよ」
「でも君と話してると僕は普通に楽しいよ」
「ああ、俺もっす。なんでですかね」
「僕がデビュー前の小説家みたいなものだからかな」
「ええ?まじっすか。そんなんやってんっすか。かっこいいっすね」
「かっこよくなんかないよ。忍者の方がかっこいいよ」
「いやいやいや、よして下さいよお、まったくう。もう。ドロンしちゃいますよ。恥ずかしいから」
 そう言って彼は僕を見ながら、顔の前で両手を合わせて人差し指を上に突き出す、あのおなじみのポーズをして見せた。
 僕には彼がただの酔っぱらいにしか見えなかった。歳の割には古い事言うし。
 それから僕らは互いの生活の事についてあれこれ言い合った。
 出自を隠すために社会的な届けの名前は本当の名前とは違うのだとか、うちの親父は時代劇とか時代物の小説が好きだとか、そう言う小説は書かないの? とか、そんな事を彼は話し、僕は忍者について思いついた事を遠慮なく彼に対して質問した。
 彼の話には本当に矛盾する所がなかったから、案外冗談としては出来過ぎてるな、と僕は思った。そして彼はやはり忍者の末裔なのだとだんだん信じ始めていた。
 僕はいつまでも話したくなっていたのだけれど、彼は「そろそろ行かなきゃ」と言って立ち上がったので、僕も帰る事にした。
「また飲もうよ」
 僕は店の前で彼に言った。
「そっすね。機会があったら」
「僕はいつもここで飲んでるから。じゃあ、また」
「んじゃ。ドロン」
 そう言って、彼はその場に小さな煙を残してぱっと姿を消した。

レディードッグ

 公園のベンチでハンバーガーを食べていたら、どこからか身なりの奇麗な白い犬がやって来て、僕の足元で僕に寄り添うようにしてその場に居座った。
 身なりが奇麗、と表現したのは、その犬があまり単純ではない服を着せられていたからだった。
 おそらくこの犬の飼い主は無頼の犬好きに違いない、
 しかしそのような飼い主が、こんなに着飾った犬を勝手気侭に歩かせたりするものだろうか?
 僕は辺りを見回して、飼い主らしき人物を捜してみたが、公園の中には二、三人の子供達が鉄棒で遊んでいるのと、別のベンチで新聞を読んでいるサラリーマン風の紳士が一人見えるだけで、他には誰もいなかった。
 犬がもぞもぞと動いて僕の足に体をすりつけてくる。
 しかし派手な服だ。
 この犬が着せられている服は、ただ服というだけの表現ではとても十分ではない。ドレスと言った方が良い。胴体の部分にも袖の部分にも派手なフリルが何重にも付いていて、それを見ただけで僕はこの犬の飼い主は成金嗜好の悪趣味なセンスをもったどぎつい化粧のマダムに違いないと思ったものだ。
 しかし。
 寄り添って来た犬に目をやると、犬も僕の方を見ていた。
 それは当然と考えていいものか、犬の瞳はとても澄んでいてまっすぐだった。僕の頭には自然に『イノセント』という単語が浮かんだ。
 そして、やはりどう考えても考え過ぎだと思うのだが、犬は僕に何かを伝えようとしていたように思えてならないのだ。
 どうしてそう思うかと言うと、僕が目を逸らさない限り、犬は僕の食べているジャンクフードを欲しがるでもなくただじっと僕を見つめていたし、僕が他の事に注意を払うとすかさず体を僕に押し付けて来たからだ。
 僕は犬の首輪を探した。
 首輪はなかった。
 そこで犬の体を持ち上げて、犬が雌である事を確かめた。
 ここで僕は暇に任せて一つの仮定を試みた。
 この犬は元々人間で、魔法使いに呪いをかけられてこんな姿になったどこかの国のお姫様なのだ、と。
 まあ、僕も暇だったから。
 でもその仮定はあまりにも時代錯誤に思えたので、設定を変えた。
 この犬は元々人間で、金の亡者となった事業家の父が悪魔と取引をして、自分の利益と娘の呪いとを天秤にかけた末に金の方を選択し、そして娘はこんな姿になってしまったのだ、と。
 とんでもない親父だ。今目の前にいたら有無を言わさずぶん殴ってやりたい。
 僕は一瞬、自分の空想に本気で腹を立てた。
 そしてため息をついた。
 我ながら馬鹿な事を考えちゃったな、と思って何気なく視線を泳がせた時、離れたベンチで新聞を読んでいた紳士と目が合った。
 紳士は目を逸らした。
 ここは住宅街のど真ん中で、時間は平日の真っ昼間である。
 よく考えたらあの紳士の存在は非常に不自然ではないか。
 僕はしばらくその紳士から目を離せなかった。
 犬が足元に寄り添ってくる。
 犬を見ると、犬も紳士の方を見ていた。
 そしてまた犬は僕を見た。
 事業家の父の命を受けて犬となった娘を監視している部下かも知れない。
 まさか、ね。
 僕は面白半分に考えた仮定の物語を改めて否定し、犬の頭を撫でてやった。そうしていると、この犬に対してとても親密な感情が生まれ、その感情は少しずつ大きくなっていくような気がした。
「お前、名前はなんて言うんだ?」
 僕は犬の両前足を手に取って、犬の目の中を覗いた。

2007年11月15日木曜日

ある夢の夕暮れ

 久しぶりに飲んだ酒は体の隅々にまで沁みた。
 体内に取り込まれたアルコールは一晩眠っただけでは消化されず、その影響なのか、俺は夜明け前に全身を倦怠感に包んでしまうような気の重くなる夢を見た。


 黄昏がいつまでも続く町並みの中、俺は疲れ切った体を引き摺るようにして逃げ回っていた。
 そいつはずるずると地面を這うようにして俺を追ってくる。
 俺はいくら走ろうとしても歩く事しか出来なかった。
 体が俺の意志から切り離されてしまったように、言う事を聞いてくれない。
 しかしいくら後ろを振り返ってみても、そいつの姿は見えないのだ。
 ずるずると言う足音だけが俺の耳を捕えて離さず、その耳の中の感触が、そいつが迫って来ている事を厳しく警告している。
 俺は訳も分からず、とにかく逃げた。
 夢の初めから逃げていた訳だから、何故逃げていたのかは分からない。
 もしかしたらそいつは邪悪な何かではなく、害のない存在なのかも知れなかったが、とにかく逃げる事に必死だった俺はそいつの正体が何であるかという事を問題にしている場合ではなかったのだ。
 今はこうするしかない。
 とにかく走るしかない。
 しかしやはり気持ちが先走るばかりで、体は緩慢な徒歩を続ける事しか出来ない。

 夕日はいつまでも沈まなかった。
 俺の進行方向のほとんど正面に位置していた太陽は、燃えさかる炎のような赤とオレンジの中間の色で世界を染め上げていた。
 俺は逃げながらもその姿を見て、世界は間違いなくあの赤い球体を中心に回っているのだと感じた。
 生命の源。
 種の起原。
 いつか見た風景。
 不意に訪れるデジャヴ。
 俺がまだこの世の中の片隅の断片でしか物事を判断できなかった幼い頃、俺は確かにこうして夕陽に向かって走っていた。
 それはただその時走っていた方向の先に偶然夕陽があったというだけの話で、何故走っていたのかはまるで思い出せない。

 俺の記憶の回路はどうにかしてしまったらしい。
 何かを思い出したときには別の何かを忘れてしまい、思い出そうとしているうちに別の何かをまた忘れていく。
 俺は今まで何をしていたのだ?

 ずるずる。
 音が聞こえる。
 俺はまた振り返り、地面の中から俺の影がゆっくりと立ち上がるのを見た。
 俺自身のメタファー。
 立ち上がった影と対峙した時、俺の魂は自分の体からすうっと離れて、そのまま背中から夕陽の方へと吸い込まれていった。


 目が覚めた時、酒は飲み過ぎるのも離れ過ぎるのも良くないのだな、と俺は思った。

左利きの恋

 子供の頃、僕は左利きになりたかった。
 世の中は右利きにあふれていて、左利きと言うとそれは僕の耳にいつも特別な響きを感じさせた。
 もちろんそんな憧れは小学生や中学の初めの頃の事であって、自分が右利きであるという現実を受け入れてからはそのような思いは徐々に薄れていったのだ。

 それでも時々思う事がある。
 もし僕が左利きであったなら。
 彼女とつなぐ手は逆になっていたかも知れない。
 デートの時の位置取りは左右が入れ違っていたかも知れない。
 それがどんな変化や違いを生み出すのか、あるいはそんな事が人間の交友関係に及ぼす影響など皆無に近いものなのか、今の僕に知る術はない。

 僕は学生の頃の事を思い出す。
 キャンパスの中で人目を気にせずに彼女と手をつないで歩いていたキンモクセイの並木道のすっきりとした直線を思い浮かべる。
 僕は右手で彼女の左手と繋がっていて、必要以上に彼女の腕が僕の体に密着するように腕をねじって二人の間の物理的な距離を埋めようとしていた。
 試験の問題やサークル内での人間関係やバイト先の上司に対する愚痴やその他もろもろのとりとめのない話を僕らはいつまでも言い合っていた。
 あのとき彼女は話し難くはなかっただろうか。
 僕の左側に移りたがった彼女の言葉に一度は応えてみたものの、やっぱり勝手が悪いと言って僕はすぐに元のように彼女の左側に移動した。
 今になって思うのだ。
 もし僕が左利きであったなら。
 僕も彼女の右側にいる事が心地よく居られたのだったら。
 僕らの会話はすれ違う事なく今でもずっと一緒にいられたのかも知れない。
 そんな感傷をもし今の君に伝えたら、あっけらかんと笑い飛ばして
「そんな事ある訳ないじゃない」
 と言われてしまいそうな気がするけれど、そんな些細な事が僕らの人生を大きく変えてしまう事は十分に考えられると言う気も同時にするのだ。

 僕らが別れた原因はもっと他にあるには違いないのだけれど、やはり考えてしまう。
 もし、僕が左利きであったなら、と。

2007年11月13日火曜日

Q-FRONT:STARBUCKS

 店の中は満員で、空席を求めて人々が彷徨っていた。
 ここには様々な種類の人間がいる。

 旅行の計画を立てる恋人達。
 仕事の資料を広げるサラリーマン。
 時間をつぶしているだけの若者の固まり。
 スクール帰りの少年達。
 買い物の後の紙袋をいくつも抱えた女性。

 次々と休みなく、人は訪れる。
 女が携帯電話で何やら話しながらまわりのテーブルから空いている椅子をかき集め、後から来る仲間の席を確保した。
 空席を探していたカップルは、容器返却の棚の傍らで壁に寄りかかった。

 この限定的な雑踏の中で、どこかの雑誌のモデルのような長身の女が店の真ん中を突っ切って歩いた。
 彼女が数歩、歩いただけでその後の空間は鮮やかに切り裂かれ、彼女の前にはモーゼの十戒のように道が開いた。
 しかしそんな光景すらも小さな奇跡でしか有り得ず、店の喧噪はほんの少しも衰えなかった。

 流行のメイクなのか、あるいはごくごく普通の事なのか、瞳が大きい、あるいは大きく見える女性が多い。
 いくつかの瞳が強く印象的に僕の目を捉え、しばらくするとその情動の欠片は記憶の辺縁から過去の洞穴へと落下していった。

 人は休みなく次々と訪れ、彷徨い、時には諦め、時に妥協し、そうでなければ待ち続けた。
 いつまでも、いつまでもその営みは繰り返され、窓際の席から見下ろせるスクランブル交差点では地面のアスファルトを覆い隠す程の人ごみがもぞもぞと蠢き、この街がこうして生きているのだと、僕に教えてくれた。

ハートビート

 ハートの音が聞こえる。
 ぼくはそれを無視できない。
 あの見慣れたマークが、確かに僕の胸にある。
 それが脈打っている。
 歌っている。
 叫んでいる。

 そして僕に主張する。
「俺を閉じ込めるな!俺を解放しろ!」
 僕は思う。
(まあ、冷静になれ)
 ハートは反発する。
「俺の辞書にそんな言葉はないんだ。止まってる場合じゃないんだ!」
 ハートが高鳴る。
 激しいリズムでむちゃくちゃなドラムを叩く。
「止めるんじゃねえ!止めるんじゃねえ!」
 僕はその勢いに動揺する。
 ちょっと待て、考えさせてくれ。
「ふざけるな。お前は俺に洗脳されてればいいんだ!」
 ハートの叫びはどんどん強烈になっていく。
 彼がひとたび音を鳴らすと、僕の体は全身が強く揺さぶられる。
「お前は俺の奴隷なんだ。下僕なんだ。何も考えるな。俺に従え!」
 僕は次第に圧倒される。
 ハートに従うのが当たり前なのかも知れない、と思い始める。
 苛烈な叫び。
 繰り返される動悸。
 波動の振幅が激しく上下に運動を始める。
 胸が痛む。
 息苦しくなる。
 考える事が出来なくなる。

 もういいんだ。
 楽になれ。
 僕はハートとひとつになる。

2007年11月10日土曜日

ピクニックトラック

 元治は愛車の10tトラックのコンテナの屋根の上で、コンビニで買った弁当を食べながら海を眺めていた。
 この場所で長距離運送のつかの間の一息を楽しむのが、彼の密かな楽しみになっている。
 コンテナにビニールシートを敷いて、そこにお茶を入れたポットと弁当を並べ、あぐらをかいて緊張を解く。
 彼の頭のてっぺんは既につるつるにはげ上がっているが、側面と後頭部に残った毛髪は十分に風に揺られている程度には残っている。
 元治は無精故にざらついた顎や頬を右手でじょりじょりと撫で付け、その感触を楽しんだ。
 彼の目は少年のような煌めきがあり、このひとときを楽しんでいる表情はいたずらな少年のように不敵な雰囲気が漂っている。
 
 カップのみそ汁をすすっていると、別の10tが元治のトラックのうしろに停車した。
 元治はちらりとそっちを向いて、ビニールシートの中央から少し横に移動する。
 うしろのトラックから降りた女性は弁当袋をぶら下げて元治のトラックの方へ小走りにやって来ると、ハシゴを上って元治の隣りに腰掛けた。
「ああ、良かった、間に合ったわぁ」
 見た所、彼女は元治よりふたまわりは若く見える。
「なんじゃ、ゆっちゃん、途中で何かあったんか」
「東名で事故渋滞に巻き込まれちゃって。もう、時間かかったわぁ」
「そうか。あんまり無茶に飛ばしたら行かんぞ」
「はぁい」
 元治は優希の屈託の無い笑顔のほだされて頬の力が抜けてしまう。優希はいつの間にか元治の憩いのひとときに入り込んで、今では底にいるのが普通の事のようになった。いつもここで休憩している元治の姿がとても気持ち良さそうで、ついつい話しかけてしまった、というのが始まりだ。
 初めは何となく鬱陶しがっていた元治も、優希の無邪気ともいえる遠慮のなさと素直さに、こわばっていた心が緩んでしまった。

(ひょっとしたら俺自身、一人でいるのに飽きていたのかも知れん)
 元治はそう思う。
 仕事仲間というのはそんなに多くない。運送会社の事務所に行けば同僚達は大勢いるが、個人的な付き合いを積み上げていく事は敢えてしてこなかった。
 二十年連れ添った妻を病気で亡くしてからは、人付き合いそのものが煩わしくなってしまい、仕事も辞めて今の職に落ち着いた。
 服装にも、身なりにも、あまり気を遣わず、ただ淡々と仕事をこなす毎日を続けた。
 ある時から気分転換のつもりで海を眺めるようにしていたら、それが習慣になってしまったのだ。

 優希が横にいても、特に元治が気を遣うような事は無く、相変わらず海を眺めている。
 どんなに平穏な天候が続いたとしても、海の表情は一日ごとにまるで違う。それは至極当たり前の事だとしても、不思議でならない。
 どんなに見続けても見飽きる事は無かった。
 むしゃむしゃとコンビニのおにぎりを頬張り、遠くの波の動きや空を駆ける渡り鳥と風の戯れ、群れなして漁をする漁船同士の船の間隔がどのくらいなのかなど、海に現れる状況をぼんやりと観察していると案外きりがないのだ。
 優希も元治と同じように海を見る。人懐っこい性格ではあるが、余計な事は言わず、元治の隣りにいる。
「ゆっちゃんは、彼氏はおらんのか」
「ええ?いきなり何ですかあ」
「いや、何となくな」
「珍しいですね、元さんが質問なんて」
「うん、いや、いいんだ」
 優希は海を見たまま会話を続ける元治の横顔を見て、ふむ、と頷いた。
「ちょっとね、今彼氏どころじゃないから。これでも家族を支えてるんですよ、私」
「今いくつだい」
「今年で二十歳」
「そら大変だなあ」
 何がおかしかったのか、優希は元治の横顔を見たままけたけたと笑った。
 その笑い方が、妻に似ている、と元治は思った。
(そうか、そういうことか)
「うちの親父、借金放り出して逃げちゃってね、ほんと、もう大変よぉ」
「その割には楽しそうじゃないか」
「いちいち落ち込んじゃいられないしね。うちの残された家族は、みんなしこたま働きまくってますよ。大変だけど、楽しいよ」
「強いなあ」
「そう?」
「とてもかなわん」
「やめてくださいよお。元さんは人生の大先輩だと思ってるんだから」
 元治は優希の顔を見た。笑っているが、目に真剣さがあった。
「俺はそんなタマじゃねえよ」
「そんなことありません」
「何でそう思う」
「顔に出てるから」
 そう言われて、元治は無精髭の伸びて来た顎を右手でじょりじょりとさすった。
「そんな顔しとるか?」
「うん。元さんがお父さんだったら良かったのにって思う」
 元治は思わず顔がほころんだ。何かが胸の奥でうずいて、元治のこころを揺さぶった。
「そうかい」と元治は言った。
「うん。機会があったらここにうちの家族みんな呼んでピクニックしたいと思ってるの」
「ここって、ここでかい?」
 元治はトラックの屋根を指差していった。
「もちろん」優希は答えた。
 元治は優希とまっすぐに視線を合わせて、それも悪くないと思った。

2007年11月9日金曜日

エンドレスホース

 ぼくはホースの先端を持ったまま、歩き出した。
 ホースは意外な程よく伸びた。
 ぼくは家の門を通って敷地の外に出た。ホースはまだまだ伸びる。
 所々、気になる所に向かって水を放った。
 ホースヘッドのグリップを軽く握るだけで、それまでホースの中に充満していた水圧が一気に放出される。
 初めは各々の家庭の庭などで育てられている鉢植えの向けてだったり、アスファルトの隙間から力強く芽を出し、太陽に向かって伸びる雑草なんかに向けて水を向けていたけれど、そのうち何でも良くなった。
 ぼくは目の前をふらっと横切った小さな虫に向かって水を向けた。
 水は当たらなかった。
 虫は危険な空気でも感じたのか、すぐさま空中で踵を返し、猛スピードで離れていった。
 僕はホースヘッドの先端を操作して、水が広範囲に広がるシャワーになって出るようにした。
 空中に向けて水を放つと少し離れた所に奇麗な虹ができた。
 その虹を見て、ぼくは
「ああ、懐かしいな」
 と思った。
 そのまま歩いていると、公園で子供達が遊んでいる姿が見えた。
 僕は公園に入っていって、グリップの握りを強め、空に放つシャワーの勢いを可能な限り強くした。
 虹は少し大きくなった。
 子供達は喜んで、さかんに虹を掴もうとした。
 でも、何がどうなっているのか、どんな方向から虹に向かっていっても、誰もが同じようにすり抜けていくだけだった。
 ぼくはホースを持たない方の手を伸ばして、子供達と同じように虹を掴もうとしてみたけれど、反対にグリップを握る力が弱まってしまい、子供達から不満の声を浴びせられるだけだった。
 やがて子供達はずぶぬれになってしまった服を乾かすために水の届く範囲から遠ざかっていった。
 子供達の歓声が過ぎていくと、ぼくはまた歩き出した。
 まわりの豊かな緑に向かって思う存分水を放ちながら、公園の真ん中を突き抜けていった。
 しばらく歩くと、どこへ向かう道なのか、ながいながいまっすぐな遊歩道に出た。
 遊歩道の両脇には背の高い何だか分からない木が左右入れ違いに同じ間隔で植えられていて、過剰に人の手入れが入り過ぎていない状態の古代の遺跡に向かう回廊のように見えた。
 木々の枝葉のの影や、その隙間から漏れ込む光が、回廊のような遊歩道の床面に風に揺れながら動く仕掛けの模様を描いていた。
 それはモノトーンに彩られた幾何学模様のタイルを思わせた。
 すべてが美しかった。
 ぼくはその遊歩道の両側の並木に盛んに水をかけながら、タイルの上を踏みしめていった。
 この道はどこへ続くのだろう?
 辿り着いた先には何があるのだろう?
 それともこうして歩き続けて、ぼくはどこかへ辿り着く事が出来るのだろうか?
 ホースはまだまだ伸びている。
 この道が途切れるまで、ホースの長さはもってくれるだろうか。
 不安とも、悲しみともつかない思いを抱きながら、ぼくは水を撒き続ける。

2007年11月7日水曜日

一発の銃弾

 人は人生に対峙するとき、常に一人である。
 僕が自分の胸を貫こうとする弾丸を見た時、全ての時は止まり、背中にいる人の事やその銃を撃った人の事、そして僕らが存在していたその場所にあったあらゆる物事は、映画のスクリーンを飛び越えて観客席の向こうへと飛んでいったように感じられた。
 僕の人生は、僕と、その弾丸の関係に集約されてしまったのだ。
 僕はそれまで、僕の人生を呪い、他人を呪い、僕自身を呪っていた。
 僕は弾丸に向かって話しかける。
「お前が僕の待っていたものなのか?」
 弾丸は答える。
「その答えは君にしか分からないだろう?」
 いつもこうだ。問いかけると、更なる問いが返ってくる。明確な答えなど何処にもなく、疑問に呼応する疑問が次々と派生的に増殖していくだけだ。際限のないループ。同じ事の繰り返し。それは、人生そのものと変わりがないのじゃないか? だとすれば、永遠に問いかけ、問いかけられる事が人生なのだろうか。
 どんなに考えても答えは見つからない。僕は明確な答えを求めていた。僕の頭を嵐の後の空気のようにすっきりと清々しい気持ちにさせてくれる最後の答えを。
 だが、その苦悩ももう終わる。
 一発の銃弾が、僕を救う。

2007年11月6日火曜日

夕日メンテナンス

美しい夕日がどうやってつくられるか、知っているかい?
毎日空を眺めていれば分かる。
時々、不思議な雲が夕焼け前の太陽を包んで、その中で磨いているんだ。
雲で出来た巣の中で、孵るのを待つタマゴのような姿。
新木場あたりの駅のホームからなら、その様子がよく見えるかも知れない。

それはとても壮大で、神話的とも言える光景だ。
人の手が決して届かない場所で、新たに生み出される光。
自然の力が寄ってたかってその場所に向かって集結していくように感じる事が出来る。

もちろん現実には太陽は太陽系の中心と言う遥か手の届かない所にあって、雲の中にいる訳ではない。
そんな事は分かっていても、はっきり言ってどうだっていい。
太陽は磨かれている。
それが僕が見た空における唯一の真実だ。
太陽は、自然の力を集めて、常に鮮やかに光る。

2007年11月5日月曜日

黒電話の語り

「そんなに俺を嫌うなよ」
 電話は、黒光りする体に僕の片隅を映し出しながら、言った。
 苦々しげなその口調に、僕は幾分申し訳ない気持ちになった。さっきから、もう何本もかかってきた電話を無視しているのだ。
「いや、そう言う訳じゃないんだけどさぁ……」
 僕の声は何故か何かに対する言い訳のような響きを持った。
「まあいいさ」
 黒電話は頭の上に乗っかった受話器をかたかたと揺らした。笑っているのか。
(お前の事は解っているぞ)
 と言う声が聞こえた気がしたが、何しろ電話には口がついている訳ではないから、その声が僕の頭の中のものなのか、電話の発した声なのか、僕には正確には分からない。
「まあいいさ」
 黒電話はもう一度繰り返した。
「どうあろうと、人それぞれだからな」
「悪気は無いんだ。本当だよ」
「気にしてない。それに、俺は別にどうだっていいんだ」
「ああ、分かってるよ」
「いいのかい?電話に答えなくて」
 僕はゆっくりと首を振った。
「分からないんだ。どうしたらいいのか」
「不器用も過ぎると迷惑だぜ」
「それも分かってる」
「何だかな、俺から見ると、君は自分で自分に鎖をかけているみたいだ」
「そうかな?」
「ああ。ひどく不自由な顔のオランウータンみたいだね」
「へえ。でも、その言い方はオランウータンに失礼じゃないか?」
「ただの例えだよ。別にオランウータンじゃなくってもいい。シロクマだって、ペンギンだって同じだよ」
 僕は壁に立て掛けられたスタンドミラーの中の僕を見て、「なるほど」と言った。僕はしばらく自分の姿を見続けた。
「まあいいさ」
 また、黒電話は言った。
「約束するけど、次にかかってくる電話は、とてもいい知らせになるよ。君にとって」
「そんなの、分かるのか?」
「当たり前だ。どこの電話だって同じだよ。みんな、いつどんな電話がかかってくるか初めから知ってるのさ」
「それなら、前もって教えてくれよ。そしたら、出なくていい電話には出なくて済むし」
「おいおい、電話に甘えてるんじゃないよ」
「冗談だよ」
「とてもそうは聞こえなかったがな」
「まあいいじゃん」
「ふん」
 そう言って黒電話はまた受話器をかたかたと揺らした。その動きがどんな情動を表現したものなのか、僕には分からなかった。
 その動きが止むと、電話の呼び出し音が鳴り始めた。「まあいいさ」と電話が言っている気がした。