2007年12月30日日曜日

私事ですが…

 12月27日、午前8時を30分ほど過ぎた頃、祖父が他界した。
 年末の誰もが忙しく動き回る最後の時期に、入院先の病院でほんの少しいつもと違う変化を見せて、静かに息を引き取った。
 一昨年の春頃に一度生死の境を彷徨ってから奇跡的に持ち直し、それから一年と数ヶ月の間、ほとんど言葉も話せなくなり、動く事すらままならず、ベッドの上から起き上がる事が出来ない状態だった。最後を看取った祖母と私の母によれば、亡くなる前の日からその予兆のようなものを感じていたという事だ。
 人工呼吸器を付ければ生命だけは維持できるが、どうするか、と言う医師の問い(或いは提案)を、祖母はやわらかく断った。そして祖父の呼吸はゆっくりと振幅を鎮めていき、その30分後に祖父は90年の生涯を終えた。

 私がまだ幼い頃、祖父が共働きの両親の代わりに身の回りの細々とした家事を片付けてくれたおかげで、私の幼少時代はとてものんびりとした雰囲気とゆったりとした時間の流れに包まれたものになった。私の人格形成にはそのようなことも強く影響しているのだろうと、今にして思う。
 祖父には怒られたり、小言を言われたような記憶が一つもない。寡黙で、口だけでなくその振る舞いも物静かな人だった。いつ家に来たのかも分からないほど足音もなくいつの間にか洗濯物を干していたし、私の大好きだった牛乳を一日も絶やす事なく冷蔵庫に常にキープしておいてくれていた。それで居ながら家事を手伝えと言われた事は一度もないし、勉強をしろと言われた事も記憶にない。ああしろ、こうしろ、というようなことを言わず、いつも静かに私の生活の風景の中に居た。私がそうと気付かないうちに。
 当時の私はそれを余りにも普通の事として特に意識する事もなかった。それは今にして思えば不思議な事だ。
 月日が私の人生のシナリオを先に進め、実家を離れ、一人暮らしを始め、現在に至り、祖父を亡くして過去を振り返った時、祖父はいつもそこに居たのだ、ということをやっと意識して思えるようになった。そして同時にあまりにも自然な祖父の思いやりと優しさの深さに驚き、その有り難さに胸が痛む。
 私は祖父に何か返してあげることが出来ただろうか?
 自問が絶えず頭の中を歩き回る。

 祖父が寝たきりになってから、何度かお見舞いに訪ねたものの、そこで私が出来ることはほとんどなかった。ただ時々手を握ったり話しかけたりするだけだった。祖父は言葉を返すことが出来なくなっていたが、その様子からは意外と思える握力でしっかりと私の手を握り返してくれた。
 一度だけ、私は涙を堪えられず、病室から逃げ出し、病院の廊下で泣いた。
 その時の無力感は今でも続いているし、いつになったら克服できるのか分からない。もしかしたら一生その想いを抱き続けるのかもしれない。私はいつまでもこんなことを続けていていいのだろうか? もっと他にやるべきことがあるんじゃないのか?
 おじいちゃんは、何をやったら喜んでくれるだろう?

 久しぶりに家族が全員が集まる場所に身を置いて、話を聞けば従兄弟が紅白に出ることになっていた(ある女性ヴォーカリストの後ろでヴァイオリンを弾いていたのだ)。みんなでやあやあと彼の出番を楽しみながら、思いがけずのんびりとした普通の年末を過ごすことが出来た。そんなこともすべて祖父のおかげだと思えた。
 祖父は亡くなってからも私に与え続けてくれている。

 祖父の葬儀には多忙な時期にも拘らず多くの方にご参列いただいた。祖父の人徳だと思えたが、来てくれて頂いた方にはやはり感謝の気持ちでいっぱいです。


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2007年12月26日水曜日

スーパーヴォイス 1

 親友のサカモトは危険な声の持ち主だ。
 彼のささやきは世の中のありとあらゆるどのようなタイプの女性も魅了した。初めに声をかけてから、相手の女性の目がとろんとして初対面の相手に対して築かれた障壁を溶かしていくまでに、まるで時間を必要としなかった。
 魅了する相手は女性だけではない。彼は歌うのだ。どちらかと言えばそれを先に言うべきだったかもしれない。何しろ彼は歌う事を仕事としているのだから。ただ、僕にとってのサカモトは昔からの長い付き合いの友人だし、歌を歌う事よりも彼の声そのものが世間に及ぼす影響の非常識さを何度も見せつけられている印象の方が強いのだ。
 だから大抵の人は彼の歌声を聴きたがるのだけれど、一度彼と親しくなってしまうとそれだけでは物足りなくなってしまう。僕に言わせれば、彼の歌よりも普通の声の方がよほど影響力がある。それは日常生活に紛れ込んだたちの悪い罠のようなものだ。彼に道を聞かれた人は老若男女の区別なく、知らず知らずのうちに自分も一緒に彼の目的地まで付き添って行ってしまうし、買い物をすると初めて行った店でも、必ず何かのおまけがついた。僕も彼と一緒に居る事でその恩恵をいくらか受けた事もある。
 そんなサカモトではあるが、僕と二人で飲む時などはあまり話さない。昔はそんな事はなかったのだけれど、彼が歌を歌いだし、少しずつ世間に名が知れて、求めなくても知らない人が向こうから話しかけてくる機会が増えるに連れて、彼は少しずつ無口になっていった。

「実際、疲れるんだ、本当に」
 彼はなみなみとグラスに注がれたブランデーをほとんど一息に飲み干して、言った。その言葉は一つ一つの単語を貴重な絵画を扱うような丁寧さで語られた。
 僕らは忙しいスケジュールの合間を縫って、久しぶりに学生時代によく集まっていたバーでカウンターに並んで一緒に酒を飲んでいたのだ。そして何となく会話の流れから、昔の事を懐かしんで、二人で馬鹿をやった時の事なんかをげらげらと笑い飛ばしていた。そして僕はついつい「お前は無口になったよな」とサカモトに向かって言ってしまったのだ。
 サカモトは「ああ」と言って急に声を落として下を向いた。
 僕は余計な事を言ってしまったのではないかと思って次の言葉を探しているうちに僕もまた無口になってしまった。
「俺の声の事は、分かるだろう?」
「ああ。長い付き合いだからな」
「幼稚園からだ」
「あの時はまだ普通だったよな」
「普通のガキだった」
「先生のおっぱいを掴むのに競争してたもんな。こっそり後ろから近づいたりしてさ」
 僕がそう言うと、サカモトはくくっと喉を鳴らして笑った。彼のそんな風に笑う姿を、僕は久しぶりに見た気がする。僕のその発言まで、サカモトは一つ一つの言葉を絞り出すようにして、固い食べ物を噛み砕くように話していた。
「あれだけはお前には敵わなかったな。先生の隙をつくのが本当に上手かった」
「今じゃ何の役にも立たない能力だけどな」
「いきなりおっぱい掴んじゃったらまずいよな。犯罪だよな」
「まずい。まじでまずい」
「狙いを変えればいいんじゃないのか? おっぱい掴むだけが能じゃないだろ」
 そう言われて僕は相手の隙をついて何かをする事について考えてみたが、あまり建設的な考えは浮かばなかった。それにしてもいつになく、彼がいろいろと話すのが僕は嬉しかった。そうやって懐かしい話に盛り上がっていると、とてもいい気分になれた。あるいはそれはサカモトの声がそう感じさせているのかもしれない。僕もやはり彼の声には魅了されてしまうのだろう。自分でも気付かないうちに。
 なんにせよ、僕が彼に「無口になった」と言った事がそういう彼の様々な言葉を呼び起こしたのだとしたら、それはそれで良かったのかもしれない。
「まあ別に、四六時中おっぱい触りたい訳じゃない」と僕は言った。言ってみて、本当にそうかと言う疑問がわいた。しかしそれはどうでもいい事だった。
 坂本と話をするのが本当に久しぶりだった事もあって、僕はもう少し、何も考えなくてもいい、馬鹿げた会話を続けたかった。しかしやはり僕らの時間は限られていて、必要な事は必要な事として聞いておかなければならなかった。僕は彼の言葉を無視する事は出来なかった。
「話すのは、苦しいのか?」
 僕はサカモトに聞いた。サカモトは僕の言葉を聞いて、また下を向いた。彼はブランデーのおかわりを頼んで、バーテンの仕事ぶりを眺めながら何かを思っているようだった。そして手元にグラスが戻ってくると指先でグラスを揺らし、氷のぶつかる音をコロンコロンと鳴らした。彼がそうすると、氷の音まで特殊なものに聞こえる気がした。
「苦しいと言うより、疲れるんだ」
「それはやっぱり、有名になっちゃった事が原因で?」
「それもあるな。なんせ知らない人間がいつでも話しかけてきて、休む暇がない。俺も初めの頃はいちいち丁寧に挨拶を返していたけど、そうやって話しているうちに相手は僕をまるで何かの宗教の教祖でも見るみたいな目で見るんだ。そんなのはもう、たくさんなんだよ。若い時はそれが良いと思えたりもしたけど、俺もそろそろガキじゃない。避けたい奴まで近づいて来るんだ。誰も俺を休ませてなんかくれない。俺は独りになりたいんだ。すれ違ったら振り返らないで無視して欲しい。俺ではなく他の何かを見て欲しい。俺と話をしても、俺の声を求めないで欲しい……透明人間にでもなりたい気分さ」
 サカモトはそこまでほとんど一息に喋りきると、またグラスの中身を飲み干し、深みのある溜め息をこぼした。彼にかかるとひとつの溜め息ですら雄弁な示唆を含んでいるみたいに聞こえてしまう。僕は思わずその不可思議な波動に溺れそうになったけれど、何かが僕にそうさせなかった。サカモトの言葉はともすればまるで脈絡のない支離滅裂な文章に変わってしまいそうな怪しいバランスの上に成り立っているように思えた。それほど彼は今不安定な状態なのだ。
 僕は彼にとっては古い友人であり、赤の他人ではない。だから彼の声に溺れてはいけない。。彼と対等でなければならない。その対等さこそが僕とサカモトの友情なのだ。


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2007年12月21日金曜日

赤い糸イベント

 辿ってきた糸は、突然、ぷつりと途絶えてしまった。
 その先には何もなく、可能性のかけらさえ感じられない程だった。
 僕はそこまで歩いてきた道を振り返り、伸び切った糸の航跡を眺めた。
 糸はヨレヨレと時に大きく時に小さく蛇行しながらずっと向こうまで伸びていた。
 僕はきまぐれに家の近所を散歩していた時にその糸を見つけたのだ。
 今手にしている糸の先端とは別のもう片方の別の端っこを初めに拾い上げた時、その糸は道の少し先で角を右に折れ曲がり、何やら僕を誘うような雰囲気が合ったのだ。おまけに色は赤い。

 運命の赤い糸ってヤツですか?
 暇を持て余していた僕はそんなしょうもない発想にひとりにんまりとしながらその糸を手に取った。とは言えもちろん、本気でそんな事は思わない。こんな道ばたにそんなものが落ちているわけがない。何かのネタに、と冗談半分で僕はその糸を手繰ったのだ。
 だけど軽い気持ちでしばらく引っ張ってみたその赤い糸が意外にどこまでも続くので、僕はその場で引っ張るのをやめて、糸を持ちながらその糸が伸びている方向へと歩き始めた。その先がどうなっているのか確かめたくなったのだ。

 住宅街の角を曲がると糸は少し先でまた左へ角を曲がっていて、その先端は見える兆しさえなかった。僕が糸を手に次の角まで歩いていくと、家の近所のおばちゃんが反対側から歩いてきて「こんにちは」と僕に挨拶をしていった。
「こんにちは」
 と僕も挨拶を返したが、おばちゃんは妙に楽しそうな目で僕の手元の辺りを見ていた。
 僕は曲がり角の手前の電柱に取り付けられていた反射鏡に映る自分の姿を見上げた。
 赤い糸を手に歩いている自分。
 僕はそのときこんな事して何になるんだと言う、至極まともな考えも浮かんだのだが、やはりここは赤い糸の先端を巡るというイベント気分に乗っかって歩き続ける事にした。
 角を曲がるとばったりと、クラスメートのルミと鉢合わせになった。
「よう」とルミは言った。僕らの間ではこれが普通の挨拶だ。
「よう」と僕も返した。
「何してんの? ミヤモト、こんなところで」
「いや、別に」
 僕はこっそり手にしていた糸を地面に放した。
「ルミこそ、どしたの? 家こっちだっけ?」
「あたしはアヤカんちに行ってCD借りる約束してんだ。アヤカとミヤモト、近所だよね」
「ああ。スッゲエ近いよ」
「ミヤモト、今ヒマ?」
「え、なんで?」
「時間あったらミヤモトも来なよ」
 一瞬、僕は躊躇した。
 アヤカは確かに家が近くて幼なじみでもあるが、最近のアヤカは何だか急に大人っぽくなって、少し化粧もし始めたせいか、学校中の男子の注目を集めるくらいに綺麗になっていたのだ。そうなると逆に、何だか今までと同じようには話せなくなり、アヤカの前に立ってしまうと緊張して上手く口が回らず、額に汗すら掻くようになったため、僕はそんな自分が嫌で、アヤカとなるべく顔を合わせないようになっていたのだ。
 だからと言ってアヤカが嫌いになった訳ではない。出来る事なら以前のように仲良く話したい。ルミの提案は願ってもないものだった。
 僕の躊躇をどうとったものか、ルミは
「ま、無理にとは言わないけど。じゃ、あたし行くね」
 と言って僕の答えも聞かずに行ってしまった。
 僕は反射鏡に映るルミの後ろ姿を眺め、その姿が見えなくなると、さっき地面に放した赤い糸を手に取った。
「俺も行くよ」
 なぜすぐにそう言えなかったのだろう?
 僕はしばらく赤い糸を追いながら、ルミの言葉の向こうに見えるアヤカの姿に心を奪われていた。アヤカと話をしたかった。昔のように屈託なくお互い笑顔ではしゃぎたかった。でも僕らはいつしか一緒には居られなくなった。アヤカの回りにはいつも大勢の人が集まるようになり、僕はその空間が苦手だった。
 どうして彼女をこんなに遠くに感じるようになってしまったのだろう?
 何だか疑問ばかりが頭に浮かぶ。

 糸は住宅街を抜け、駅前の繁華街の端っこを通り、線路沿いの道にでた。
 しばらく進むとまだまだ伸びる赤い糸のすぐ脇に、絡まってほどけなくなって放置された釣り糸の固まりのような別の赤い糸の残骸が捨てられていた。
 それはまさに「捨てられた」と言う表現がぴったりと当てはまる感じで無造作にその場に転がっていた。電車が走ると、固まりは風に揺られてぷるぷると震えた。糸の端っこがどこなのかも全く分からないような状態だった。
 固まりは別の風に揺らされて、駅前の方へと転がっていった。
 糸が線路沿いの道を離れるまで、僕は同じような赤いもじゃもじゃの固まりを他にも何個か見かけた。それらはその場でぷるぷると震えたり、どこかへ転がっていったりしていた。僕の辿っていた糸は、やがて線路を横切って長い直線が続く道へと出た。
 そして、二三百メートルも進んだ頃だっただろうか、糸は突然、途絶えたのだ。

 そのあまりの唐突さに僕はしばらく次に何をするべきか思いつく事が出来なかった。
 手元に赤い糸の固まりが残っただけだった。
 やはり誰かのいたずらだったのだろうか?
 手の中の糸の固まりを見てみると、それは線路沿いにたくさん転がっていた他の固まりとそっくりだった。
 まあ、ちょっとした暇つぶしにはなったよな。
 ケータイの着信音が鳴る。ルミだ。
「よう」
「よう」
「ミヤモト、ヒマなんでしょ?」
「何だよ、いきなり」
「今から来なよ」
「え?」
「いいから、すぐ。早く。ダッシュで」
「おい」
「アヤカが話があるんだってさ」
「話って、な、何」
「自分で聞きなよ。ほら、電話切って、ダッシュ!」
 僕がそうする前に電話は切れた。
 僕は手の中に丸まった赤い糸の固まりを両手でぎゅうぎゅうに揉み込んで、ぐっちゃぐっちゃにかき混ぜて、握ってボール状にした。そしてその赤い球を空中に蹴り上げて、アヤカの家までダッシュした。


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2007年12月18日火曜日

小さな日だまり

 ふうっと息を吹きかけると、空間にわだかまっていた塵や埃がはらはらと乱れて流れた。
 ついさっき部屋の掃除を片付けたばかりなのにもうこんなに新しい塵や埃が浮かんでいる。
 早苗はため息をついた。
 毎日がこうやって同じ事の繰り返し、しかも終わる事がない。後から後から、片付けたはずのものが片付けたそばから新しく他のモノと入れ替わり、まるで早苗の苦労などなかった事のように当たり前にそこに存在している。
 だから早苗は時々、掃除するのが嫌になる。何もかもとっ散らかして一切の家事を忘れてしまいたくなる。でも、そうしたところで結局後からまたそれを片付けるのは自分なのだ、と思うことでそんな怠慢な考えを押し止めている。
 早苗は、舞い上がる塵の一つを指でつまもうとしてみた。
 しかし塵は早苗の指が起こした風に乗って、するりと早苗の指の間をすり抜けていった。
 早苗はその塵の行く先を眺めた。
 塵は気流の流れにそってふわふわと辺りを漂い、影に入って見えなくなった。
 何度か同じ事を試してみたが、同じだった。
(いっその事、部屋の中をすべて影で覆ってしまえば、塵も埃もないのと同じ事になるのだ)
 早苗はそうも思ったが、窓際に出来る小さな日だまりのあたたかさが好きだった。
 この居間の窓にはお昼前の少しの間、日の光が差し込んで室内を照らし出す。
 もう少しでなくなってしまう小さな日だまりの中に体を丸め、早苗はその温もりを惜しんだ。


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2007年12月17日月曜日

三日寝坊

 目が覚めて時計を見ると、ゆうに三日は過ぎていた。
 僕はその日付と時刻をじっくりと見つめて、頭の整理をつけようとした。
 しかし当然ながらいくら眺めてみてもその数字が変わるような事はなかった。
 僕はその目覚まし時計を諦めて、お気に入りの腕時計を手に取ってみたが、それも僕を甘やかしてはくれなかった。
 僕はまるまる三日間、途中に一度の休みもなく、完全に寝ていたのだ。
 まるで冬眠だな、とそのとき僕はのんきな事を思った。
 三日も休みなく寝続ける事が出来る人間に僕はそれまで会った事がなかった。まさか自分がそんな事になろうとは想像した事すらなかった。
 いやまて、そもそも本当に僕は三日も寝ていたのか?
 僕はもう一度目覚まし時計を確かめ、腕時計を確かめ、部屋の中にある他のあらゆる時計を手に取ってそれがすべて同じ日時を示している事を確かめ、リビングのテレビに電源を入れ、画面が明るくなる間に玄関に行って郵便受けの中身を確かめた。新聞は三つ入っていて、今日と昨日と一昨日の日付が克明に記されていた。リビングに戻るとだめ押しのように
「○月○○日、朝のニュースのお時間です!」
 と爽やかな出で立ちの女性ニュースキャスターが僕に向かって断言していた。
 それが現実なのだ、と僕はようやく初めに目が覚めた時の驚きに抵抗する事を諦めた。

 ともかく、生活する事を始めなければならない。
 ええと、朝起きたらまずは何をしていたっけ?
 三日も寝続けたせいで記憶の回路がおかしくなったのか、僕は朝起きてから仕事に行くまでの手順をひとつひとつ思い出さなければならなかった。まずは朝食のために電気ポットでお湯を沸かして食パンをトースターにセットし、それから簡単にシャワーを浴びて……

 そこで僕ははっとした。仕事。
 連絡を取らなければいけない。しかし何と言って説明すればいいのだろう?
 正直にありのまま、
「すいません。三日間、寝坊しました」
 と言ったところで、通じるだろうか? 現実的に考えておかしな話だし、あまりに下手な言い訳ととられかねない。ともすれば相手を馬鹿にしているように聞こえる。
 こういった特殊な状況に置かれた場合、正直さは罪だ。相手と僕の人間関係に深い後遺症を残すような混乱の種を産み落とす結果になりかねない事は、容易に想像できる。質の悪いヤツは僕に「クマ」というあだ名を付けるかもしれない。あるいは冬眠が可能なあらゆる動物の名前で呼ばれるようになるかもしれない。そうなっては色々と対応するのが面倒くさいし、先が思いやられる。何かいい言い草はないものか。

 家族の誰かが死んだとか、親戚の誰かが死んだと言う事にしようか。
 しかしそれでは三日も連絡が取れないという事を弁明するには押しが弱いような気がする。

 隣りの家の火事に巻き込まれたとか。
 実際に家に来られたら一目瞭然だ。両隣の部屋にそんな痕跡は当然ながら跡形もない。

 誘拐されたけど必死に逃げてきたんだと言う事にしてみようか…
 これは下手をすれば大事になって警察沙汰になってしまう。そうなったら僕の軽い言い訳が狂言誘拐になって今度は警察から要らぬ疑いをかけられてしまう。以前一度だけ全くの勘違いから警察署に連れて行かれてあれこれなんだかんだと事情聴取のような事をされた経験があるのだが、彼らの非常に無骨な物言いの仕方は相手をめっきりと疲れさせるような効果を持っている。間違いですんだからよかったものの、本当に容疑者扱いされたとしたら、あの重い影響力はもっともっと僕を疲弊させてしまうだろう……

 そうこう考えているうちに電気ポットのお湯は沸き、パンはいい具合に焼き上がった。
 頭がうまく回らないのだが、体も思うように自分の意志に反応しない。三日も寝続けると言うのはそう言う事なのかもしれない。
 僕はのろのろと朝食のテーブルについてパンにたっぷりとマーガリンを塗りたくり、それを齧りながらインスタントのコーヒーを作った。そこで少し考えてからいつもの三倍くらいの砂糖を放り込んだ。少しでもうまく頭が回転してくれないかと思ったのだ。
 僕はいつもより念入りにパンを噛む一口一口を意識して行った。そうやって食事をする事で不思議と無心な心持ちになれた。
 電話が鳴った。携帯ではない。家の電話だ。
 一瞬、受話器を取るかどうか迷った。誰がかけてきたのだろう? 僕はまだ上手い言い訳を思いついていないのだ。それでも、放置している訳にもいかない。五回目の呼び出し音が鳴った時、僕はキッチンの脇に置いてある子機の受話器を取った。
「もしもし」
「もしもし? お兄ちゃん?」
 妹の青葉だった。こういう時に一番気が許せる相手だ。僕は胸を撫で下ろした。
「何だ青葉か。どうしたんだこんなに朝早く」
「どうしたじゃないわよ、もう。連絡が取れないってみんな心配してたのよ。警察に捜索願い出そうって話になりかけてるんだから」
「そんな大袈裟な」
 僕がそう言うと、受話器の向こうですうっと鼻で息を大きく吸い込んだような音が聞こえた。
「あのね、お兄ちゃんの会社から実家の方に連絡がいって、何度電話しても繋がらない、家に行っても何度チャイムならしても反応がない、新聞もそのままだって、どこ行ったか分からないかって聞かれたらしいの。それでお父さんもお母さんも何も聞いてないし、やっぱり連絡取れないからって私にさっき電話が来たの。みんな心配してるのよ。ねえ、何してたの? 大丈夫なの?」
 僕は一瞬、誘拐されてたんだと言いかけたが、何かが僕を押しとどめた。
「お前、俺の言う事が信じられるか?」
「何? そりゃ、信じるけど」
 今度は僕が深呼吸をする番だった。
「実はこの三日間、完全に寝てたんだ。それで電話があった事も、人が玄関先まで来ていた事も、気付かなかった」
「…………馬鹿にしてるの?」
「ほら、信じないじゃないか」
「もっとマシな言い訳はないの?」
「そう言われるだろうと思って考えてたところだよ」
「何かあった? 大丈夫?」
「わからん。まだ目が覚めた感じがしないんだ」
「ねえ、病院に行ったら?」
「なんで? ただ寝てただけだぜ。むしろしっかり休めたんじゃないかと思うんだけど」
「三日も寝る方がおかしいでしょ」
「うーん、やっぱ、そうだよねえ」
「何をのんきな空気出してるのよ。とにかく、他の人にすぐ連絡して。みんな心配してるんだから。頼むからもうちょっと危機感出してしゃべってね。いい?」
 そう言うと青葉は電話を切った。
 会社に電話をしなければならないと思うと、少し陰鬱な気分になった。この現状をどうやれば上手く説明できるだろう。寝坊なら寝坊で諦めがつくのだが、向こうからすれば三日間の無断欠勤にしかならない。何だか色々と考えるのが面倒になってくる。
 僕は左手で頭を掻きむしった。上手く考えが回らない時によくやる僕の癖だ。そう言えば言い訳を考えていたせいでシャワーを浴びるのを忘れていた。ちょっと頭がかゆい。
 風呂場の前まで来ると、僕はまた考えが変わった。どうせこんなに生活がずれてしまったのだから、もうちょっとゆっくりしてみようと思い、浴槽をきれいに洗ってお湯を溜め始めた。
 少しずつ上がって行く水かさの様子を、浴槽の縁に腰掛けて眺めているうちに、このまま退職してしまおうかと言う考えが起こった。それは突然の思いつきと言う訳ではなく、最近になってよく考えていた事だった。
 取り立てて会社に不満を持っていると言う訳ではない。むしろ会社の待遇には満足している。給料だって悪くないし、人間関係に悩まされるような事もほとんどない。ただひたすら忙しいというだけだ。サラリーマンの宿命、残業の嵐。
 僕は自分でも気付かないうちに、「ゆっくりしたい症候群」にでも罹ってしまったのだろうか。それで体が僕の意志に反して起きる事を拒否し、挙げ句に三日間も寝てしまったのだろうか。僕は自分に思い当たる節がないかと考えてみたが、そんな兆候は自分にはなかったように思える。
 お湯が浴槽の中に溜まって行く。もう少しで十分な深さになる。
 僕はそこで一度お湯を止めて、自分の部屋に戻り、パソコンの電源を入れた。
 メールソフトを立ち上げると、おびただしい数のメールが受信されていた。こんなに沢山のメールを毎日処理していたのかと、改めて思った。
 僕はそこで緩慢な思考回路に活を入れ、せめて風呂場であと少しゆっくり出来る時間が作れるような時間稼ぎの言い訳を考えた。


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2007年12月14日金曜日

ひねりドアと嘘つき

 ひねりドアの事は最近ささやかな社会的問題としてニュースでも扱われるようになった。
 建物の構造的な欠陥だとか、ドアそのものの欠陥だとか、いろいろ言われているが、ひねりドアはどこにでも現れる。様々な分野の専門家たちが日夜喧々諤々の議論を闘わせているが、今のところ決定的な解決策はまだ見出されていないようだ。人によってはミステリーサークルにも匹敵する怪奇現象だなどと主張したりもしている。事実はどうであれ、僕ら庶民の生活レベルからすればただただ迷惑なだけである。
 そんな折、ある夜僕が仕事から帰ってくると、わが家の玄関はかなりひねくれたひねりドアに変わっていた。
 ひねりドアをしっかりと閉めるのは難しい。
 ドアそのものもひねっているが、その周りの枠も同じようにひねっているので形を合わせる事は可能なはずだが、ちょっと上にずらしてから押す、とか、軽く外に引っ張ってからノブを回す、など、ドアを閉める作業に頭を使う事になる。全身で解き明かす為に作られた知恵の輪みたいなものだ。
 ひねりドアを閉めるのは案外結構な体力を使う事になるので、めんどくさくなって隙間の開いたまま強引にドアチェーンをひっかけ、放っておいてしまいたくなる。
 でもちゃんと閉めないと、夜には嘘つきがやって来て隙間から顔を出し、僕に悪い誘いをかけてくるのだ。今朝のニュースでも「ひねりドアと嘘つきはセットです」みたいな事を言っていた。
 ここしばらくは残業続きで疲れていて、僕はどうしてもひねりドアにきっちりと対処する事が出来ないでいた。そして僕が風呂から上がってベッドの中に潜り込む頃になると、玄関の辺りからぼそぼそと声が聞こえてくるようになる。
 確かに嘘つきがやって来たのだ。
「ねえねえ小堀さん、あなたの彼女の梨花さんはは今あなたの上司の鎌倉さんと寝ているよ。いいのかい?」
 僕は蒲団を頭からかぶって聞こえないようにする。彼の言っている事は嘘なのだ。まともに聞いてはいけない。
「それに鎌倉さんは君の事が邪魔だから、地方に左遷しようとしているんだよ。そんなヤツはすぐに懲らしめた方が良い。やっちゃいなよ。やっちゃいなよ」
 嘘つきはどうやって僕のプライベートを調べたのだろう? しかし嘘つきはいつの時代もどの国でも意図的に他人を貶めようとする悪人でもある。そんなヤツの言う事を信じるわけにはいかないのだ。
 嘘つきへの対応法としては、ただ一つ「耳を貸さない事」だと言われている。しかし彼らとてもしぶとく、粘り強い。生半可な意志では耐える事が出来ないのだと言う。
「君の彼女は君が思っているよりとてもイヤラシい事が好きなんだ。浮気の相手は鎌倉さんだけじゃないよ。他にもいっぱい居るんだよ」
 僕はなんとかしてくたびれた頭を振り絞って毎日ドアをしっかり閉めようとしているのだけれど、僕は昔から知恵の輪を解くのが苦手だったし、残業続きで終電帰りが続いているから体力も限界に近い。どうしてもドアを閉め切れない日が出てきてしまう。そして嘘つきはそんな隙を見逃さない。確かに専門家の言う通り、彼らは驚く程まめで粘り強い。

「それで困ってるんだ」
 僕は女友達のマユミに相談した。マユミは会社の同僚でもあり、学生時代からの友達付き合いだ。なんと言っても信用できるし、彼女が昔ひょいひょいと知恵の輪を解いていた姿を思い出して、何か知恵が借りられないかと思ったのだ。
「彼女には相談してみたの?」
「いや、忙しくて最近会ってないんだ。電話では話すけど」
「まさか、嘘つきの言葉に惑わされているんじゃないよね?」
「冗談じゃないよ。だいたい、梨花と鎌倉さんに接点なんかないもの」
「そう? それならいいけど」
 マユミはそう言ってワインの入ったグラスを傾けた。
「ひねりドアはどうやったらきちんと閉められるのかな?」と僕は聞いた。
「一度解いちゃえばあとは同じよ。最初にこうして、次にこうして、って覚えちゃえば良いのよ」
「でも僕はあれが苦手なんだ。たまにきちんと閉められる時があるけど、どうやってそうなったのか全然分からないんだよ」
「小堀君は昔からそう言う所があるからなあ。頭悪い訳じゃないのに、なんでだろうね」
「それが分かれば苦労しないよ」
 僕はそう言って自分のビールを一気に飲み干した。
「うちにも一度嘘つきがきたよ」
 とマユミが言った。
「へえ、マユミがドアを閉められなかったの?」
「わざとよ。嘘つきがどんな嘘をつくのか聞いてみたくて」
「何を言われた?」
 僕が聞くとマユミはその時の事を思い出すような目をしてふふふ、とひとりで笑った。
「ないしょ」
「なんだそれ、言えよ」
「ねえ、ドアの閉め方教えてあげようか」
 マユミは僕の言葉を無視して言った。それは願ってもない提案だったので、僕らはそこで店を切り上げて、僕の家に行く事にした。

 僕がどうやってもうまく閉められないひねりドアを、マユミはまるで扱いに慣れた自分のもののように簡単に閉める事が出来た。
「さすがだね」
「こんなの、なんでもないわよ」
 マユミはぱんぱんと手を打って「お茶煎れてほしいなあ」と僕に言った。
 マユミは僕の入れたお茶を飲みながら、
「ほんとうは嘘つきの言ってる事が気になってるんじゃないの」と言った。
「そんな事ないよ」
「そうかな? ドア閉めるくらいなら梨花さんにも出来るんじゃない? どうして私なの」
「マユミは信頼できるからさ」
「それだけ? だったら他の男友達でも良いじゃない」
「迷惑だったなら謝るよ。でも、君が自分で言い出したんじゃないか」
「そうだっけ? ぜんぜん覚えてない」
 マユミは何だかいつもと雰囲気が違って見えた。アルコールはもう十分に抜けているはずなのに、酔っぱらって絡んできているみたいだった。テーブルに両肘をついて手にあごを乗せ、どこかとろんとした目で僕の方を見ている。現実的な感覚から少し離れてしまったようなフワフワとした目つきだ。僕は何だか落ち着かなかった。
「マユミ、今日はなんかおかしいよ」
「そう?」
 どう見ても変だ。僕は何となく、気にかかっていた事をマユミに聞いてみた。
「君んところに来た嘘つきは、なんて言ってたんだ?」
「ないしょって言ったでしょ。それよりいい事教えてあげる。梨花さん、本当に浮気してるわよ」
 僕はすぐにはマユミの発言に反応する事が出来ず、お茶を飲もうとした手は空中で止まってしまった。
「本当よ。私見たんだもん」
「やめろよ」
 僕がそう言うと、マユミは椅子から立ち上がり、じりじりと僕の方に近づいてきた。
 僕が何か言おうとする前に、僕の口はマユミの唇によってふさがれてしまった。
 僕は混乱した頭の中で、マユミが嘘つきの言葉にたぶらかされてしまったか、そうでなければマユミが嘘つきそのものなのだと思った。


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すり抜けて行く…

 狂おしい程の空白が頭の中にある。
 誰も話す相手がいない夜。考えても考えても答えの出ない問題。待てど暮らせど辿り着かない約束の手紙。どんなにもがいても見つからない最初の一文。
 僕は空白を見つめ、そこで泳ぎ、溺れ、沈みつつ、水面を見上げる。
 浮かばない言葉。辿り着かない場所。
 そこに太陽はない。生命もない。宇宙が誕生する前の泥の中だ。
 僕は茫漠として広がる智の深淵の前に立ち、形がなされる前のあらゆる存在が、混じり合い、流れ、触れたかと思えばするりと抜けて行く、とりとめのない緩慢な変化の姿を眺める。
 それは発露の場だ。
 手を伸ばし、僕は何かを掴もうとする。
 掴んだかと思えば次の瞬間には手の中で溶解し、元の形のない何かに変わる。残るのは手に何かが触れた、という感触だけだ。それも一晩寝てしまえば綺麗さっぱり無くなってしまう。
 掴んでも掴んでもすり抜けて行く作業の連続。
 いっその事、空白の中に身を投げてしまいたくなる。そして自ら形のない何かとして生き、同じように空白の前でもがく様々な人間の手の中をすり抜けて行くのだ…


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2007年12月12日水曜日

沈黙のロープ

 するするするする、とロープが上から下りて来た。
 ロープが下りて来ただけで、他には何も変化がない。
 僕は枯れた井戸の底へ置き去りにされていたのだ。
 もうこの場所で二日は経過しているはずだった。

 夜になって上を見ると、暗闇の中にぽっかり開いた丸い井戸の口の中に、うまい具合に満月がすっぽり収まっていて、それが一昨日、昨日と続いていたのだ。
 もちろん僕がこんな所に居るのにはワケがある。誰も好き好んで脱出の当てもない井戸の底なんかに一人で降りて来たりはしない。
 僕は友人に突き落とされたのだ。いや、友人だと思っていた男に。彼の名は章太郎と言う。
 僕らは互いに同じ女性に恋をして、抜け駆けはしない、と言う紳士協定を結んでいた。だがある日、章太郎がその約束を無視して彼女と二人でホテルから出てくる姿を目撃してしまい、僕は彼を呼び出して説明をさせるつもりだった。
 彼女の名前は清水瞳子と言った。
 瞳子を奪い合う関係ではいながらも、僕は章太郎との友情を失いたくはなかったし、出来ればずっと仲の良い友人であり続けたかった。
 しかし章太郎は、僕が話を切り出さない内に僕を井戸の中へと押し込んだのだ。
 不意を討たれて、僕は成す術もなかった。思っていたよりも井戸の深さは大した事はなく、頭の方から落ちたにもかかわらずどうやったのか足から先に着地できたのは不幸中の幸いと言って良いのだろうか。
 とにかく、僕は井戸に落ちた。
 深さが思っていた程ではなかったと言ったのは、地上からは暗くて穴の底が見えなったからだ。僕らは小さい頃からその井戸の近くでよく遊んでいて、よく冗談まじりに井戸の縁から身を乗り出して底の方を覗き込んだものだった。辺りは森林の緑濃く枝葉がよく茂っていて、昼であっても普段から薄暗かったので井戸の底を映し出す程の明るい光は差し込んでこなかった。
 自分が底に落ちてみて、そこから上を見上げた時、僕は章太郎への怒りや失望や他の様々な感情よりも先に思った事は、「ああ、たったこれだけの深さしかなかったのか」という事だった。
「ごめん、カズ」
 穴に落ちた僕の姿が見えているのかどうかは分からないが、章太郎は井戸の縁から顔を出して下を覗き込みながら、言った。
「でも、もう俺はあの娘に狂っちまったんだ」
「待てよ、章太郎。いきなりこんな事するなんて、どうかしてるぞ。僕は話がしたいだけなんだ」
「話す事なんてない。俺はもうお前を裏切ってしまったんだ。ガキの頃からの親友のお前を。俺は、俺自身が許せない」
「じゃあなんでこんな事するんだ」
「瞳子を失いたくないんだ」
「彼女をお前から奪ったりしない。だからここから出せよ!」
 章太郎は少しは考え直したのだろうか。その次の回答までに、僕の額から流れ出た汗が鼻筋をなぞり、頬を渡り、顎を伝って、つっと井戸の底へ落ちた。
「だめだ」と章太郎は言った。
「やっぱり俺は自分を許せない。お前をそこから出してやる事は出来ない」
「そんな理屈おかしいだろ」
「理屈じゃないんだ。俺は狂っちまったんだ」
 僕は一瞬、頭が真っ白になった。何を言っても通じない気がしたのだ。
「章太郎、何があったんだ。僕に話してくれ」
「ごめん、カズ」
 そう言って、章太郎は僕の視界から消えた。小さな丸い空は夕焼けのオレンジのグレデーションに染まっていた。僕は呆然と上を見上げたまま動けなかった。

 何も理解できなかった。章太郎の理屈も、なぜ僕が井戸に落とされたのかも。
 何度か自力で壁を這い上がって井戸の外に出ようと試みたが、穴の直径が微妙に広すぎて両手両足を踏ん張って力を込めるのは難しかった。挑戦し、休み、挑戦し、休み、その内に穴を這い出ようという努力が虚しく感じられて来た。
 僕は井戸の底を指でほじくってみたり、壁を拳で軽くコンコンと叩いてみたり首をぐるぐる回したりしてみて、章太郎の行動について考えた。
 僕はまだ、瞳子の事について何も章太郎と話していない。話す前に井戸に落とされてしまった。そして話し合いを持ちかけても、章太郎は自分の事を「狂っている」と言って会話すら成り立たなかった。章太郎が自分を許せないからと言って僕を井戸の外に出せないというのもおかしな話だと思った。
 あれこれと考える事はきりがないのだけれど、やがて僕は腹を空かしてしまい、ただただ腹が減るだけで考えるどころではなくなって来たのだ。
 僕は膝を折り畳んで横になった。そして壁の中の闇を見つめた。そうしてジッとしていると、ぽつぽつと言葉を超えたイメージが闇の中から語りかけて来た。
 章太郎が井戸の中の暗闇を覗き込んでいた。身動き一つしなかった。彼の視線は穴の底に向けられ、微動だにしなかった。やがて彼は体を起こし、そして辺りを見回した。視線の先には瞳子が立っていた。瞳子は章太郎に微笑みかけ、彼はそれに答えるように顔を崩した。
 これはただの空想だ。
 あるいは空腹の為に見てしまった幻覚に違いない。
 僕は今まで瞳子の人格について親密に触れ合うような機会を持った事はまだなかったが、そのイメージの中に現れた瞳子から受ける印象は、僕の知っているそれとは余りにもかけ離れていた。
 そのように闇に捕われていた時、僕の頭にコツン、と何かが降って来た。それが先端をビニールテープで固められたロープだった。
「章太郎か? 戻って来たのか?」
 呼びかけても、誰も何もは答えてはくれなかった。ただロープが下りて来ただけだった。僕はそのロープを手に取る事をためらった。登り切った所には章太郎が息をひそめて隠れていて、僕が地上に出たとたんにまたこの井戸に突き落とすのではないだろうか。
 あるいはもっと何か別の……
 しかしいくら考えても登らない訳にはいかない。
 この穴の底で三日めの断食を強制させられるよりは、例え罠であってもこのロープをたぐらなければならない。声をかけてもやはり返事は返ってこない。
 僕はロープを握って空腹に耐えながら全身に力を込めた。少しでも気が緩むとロープが手の中で滑ってしまいそうだった。
 そして僕はなんとか地上に出る事が出来た。

 井戸の周りには誰もいなかった。試しに誰か居ないか声をかけてみたが、濃密な沈黙がその密度を増しただけだった。ロープを下ろしてくれたのはやはり章太郎なのだろうか。
 頭に浮かんでくるいろんな混乱を押し殺して、僕は歩き出した。とにかく腹が減って仕方なかった。森を出て、温かい食事にありつく事しか考える事が出来なかった。
 僕は一度だけ振り返った。そこには月明かりに照らし出された井戸が淡い光のスポットライトを当てられたように浮かび上がって見えた。


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2007年12月10日月曜日

愛はこの坂の上に

 何だかもう転がり過ぎて、どこまで転んだんだか分からなくなって来た。
 この坂はどこまで続くのだろう。
 さっきから見える景色は地面と空が交互に入れ替わる天地の走馬灯状態で、遮る物もなくぶつかる物もなく、勢いはどんどん増して僕は転がり続けている。
 あんまりずっと転がり続けたせいで、転がり始めの混乱は次第に収まって来て僕は不思議と頭の中が冷静になって来た。
 見える景色は地面、空、地面、空、地面、空、地面、空、変わらない。
 僕の体は進行方向にほぼ垂直に角度をつけて、凹凸のほとんどない真っ平らな山の斜面を転がっているのだ。
 この坂のずっとずっと上の方に、彼女を一人、残してしまった。
 僕の転がり続ける姿はまだ彼女の視界の中にあるだろうか? もうそれも叶わないほど長い時間転がっている気がする。
 せっかくの秘密のデートがこれじゃあ台無しだ。

 こっそりおじさんに借りた別荘を使って、僕らは家族の誰にも内緒でこの山に来ていたのだ。
 なぜ内緒かと言うと、僕らはお互いの家族に結婚を反対されて、ただ会う事すら妨害を受ける、と言う、このご時世考え難い苦境に立たされていたのだ。
 僕は彼女の両親とことごとく馬が合わず、彼女は僕の両親の理想とは余りにもかけ離れていた。
 ついでに言うと両親同士も顔を合わせると激しく反発を感じるらしく、僕の親が彼女の親にケチを付け、彼女の親がそれに応じてさらに辛辣な悪態を僕の親に向けると言う、堂々巡りの不毛な争いが際限なく僕らの周りでは起こっていた。
 それでも僕らは愛し合っているのだ。
 彼女は女性としてはどちらかと言うと激しい性格の持ち主で、僕は逆に男としては漢っぷりに駆ける軟弱さを持っていた。
 彼女はその軟弱さを、かけがえのない優しさだと言ってくれた。
 僕は彼女の激しさを、生命力に溢れた太陽のようだと言った。
 お互いがお互いの足りない部分を補強し合い、がっちりと深く噛み合い、食い込み合い、絡まり合って、その存在なくしては生きて行けないと思う程に離れ難い存在となっていた。
 だから周りがどんなに騒いでも、僕らの気持ちは変わらなかった。
 愛には一片の曇りもなく、むしろその透明さは陽を追う毎に美しく透き通って行くようだった。
 昔、今の奥さんと駆け落ちしたと言うおじさんだけが僕らの味方だった。
 僕らはおじさんの厚意に甘えて、邪魔の入らない二人だけの場所で、二人の愛をもっともっと高める事だけを考える事が出来ていたのだ。

 それが、あんなところで雪に隠れた木の幹に足を引っかけるなんて、間抜けもいい所だ。
 もう少し、季節が進めばこの坂は、世にもまばゆい白銀の世界。
 字余り。
 この山すべてがおじさんの所有する土地らしい。
 プライベートゲレンデとしてはあまりにも贅沢な空間。
 こんな真っ平らな坂はそうそう自然界にはないんじゃないか?
 それにしても長い。あまりにも長い。
 僕はいつまで転がって行かなければならないんだ。もう木に激突してでもいいから止めて欲しい。冬眠中のツキノワグマにぶつかってでもいいからこの転落を終わらせたい。
 これじゃあ出口のない迷宮と変わりないじゃないか。
 軽い混乱。
 地面、空、地面、空、地面、空、地面、空、ああ、視界の端っこに太陽が見える。
 あれは世界の為の太陽だ。
 この世の全てを照らす光だ。
 でも、今の僕には必要ない。
 僕に必要なのは、僕だけの太陽なのだ。
 心に彼女の姿を想い、僕はすこしでも状況を変えるべく、体に力を込めた。転がる向きを変えればいいんだ。
 僕はまた冷静さを取り戻した。
 少しずつでもなるべく斜めに転がって行って、やがてその方向が斜面に向かって平行になって行けば、落下速度は弱まるだろう。
 そして止まる事が出来たら、永遠のようなこの坂を僕は彼女を目指して走って行く。
 太陽の中へ向かって行く。
 少しずつ、すこしずつ。


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2007年12月8日土曜日

巨大なダッタ君

 ダッタ君は、とても大きい。
 ダッタ君より大きい人をぼくは見たことがない。
 ダッタ君と話をするときは、みんな顔をずっと上の方に向けて話さなければいけない。
 ぼくはダッタ君とよく話をするから、しょっちゅう首が痛くなってしまう。
 ダッタ君はやさしいので、ぼくが首を痛そうにしていると、その大きな体をググーッと折り曲げて、ぼくの顔の高さに合わせようとしてくれる。
 でも、ぼくはクラスでも一番前に並ぶくらい背が小さいから、ダッタ君がそんなふうに気をつかってくれても、やっぱりすこし上を見上げて話をすることになるんだ。
「ダッタ君は、大きくなったら何になりたい?」
「ぼくはこれ以上大きくなりたくないよ」
「そうなの? ぼくは小さいからちょっとうらやましいけどなあ」
「ぼくはケンジ君の方がうらやましいよ」
「でも、チビチビって言われるよ。大きい方がいいよ」
「ぼくは大きいだけで何もできないってパパに言われるんだ。そりゃちょっと動きはにぶいかも知れないけど、そこまでひどくはないつもりなんだ」
「ダッタ君はそんなにひどいなんてことないよ。誰もとどかない所に手がとどくしさ」
 ぼくがそう言うと、ダッタ君はしゃがみ込んだまますこし上を向いた。
「そうかな」
「そうだよ」
 そしてダッタ君は何回かうんうんとうなずいて、大きく口をまげて笑った。
「それで、さっきの話だけどさ」
「何だっけ?」
「ダッタ君は大きくなったら何になりたい?」
「ぼくはこれ以上大きくなりたくないよ」
「そうじゃなくって、しょうらいの夢とか、仕事とか」
 ダッタ君はしばらくぼくの顔を見て「考えたことないな」と言った。
「ケンジ君は考えたことあるのかな」
「ぼくはね、柔道の選手になりたいんだ」
「ジュウドウ?」
「うん。それでね、自分より大きな人を投げ飛ばすようになるんだ」
「そんなことできるの?」
「そうだよ。そういうのを柔よく剛を制すって言うんだよ」
「そうか。じゃあケンジ君は強くなるんだね」
「うん。強くなりたいなあ」
「ぼ、ぼくも投げられちゃうかな」
 ぼくはダッタ君の顔を見上げた。
「ダッタ君、ちょっと立ってみてよ」
 ダッタ君が立ち上がると、ダッタ君の顔は思っていたよりもずっとずっと高い所にあった。
 ぼくは思わずため息をついた。
「ダッタ君は、ほんとうに背が高いねえ」
「で、でも、投げ飛ばすんでしょ?」
「ダッタ君は投げないよ」
「どうして?」
「だって、ともだちだもん」
「そうか。ケンジ君がやるならぼくも柔道やろうかな」
「ダメだよ」
「どうして?」
「ぼくとダッタ君が試合するときは投げ飛ばさなきゃいけなくなるよ」
 ダッタ君は、はっとして首を振った。
 そしてまたしゃがみこんだ。
「でも、いいなあ」
「ダッタ君はバスケットの選手がいいよ。ぜったい活躍できるよ」
「そうかな」
「バスケットは背が高い人に向いてるんだ」
「活躍できるかな」
「ダッタ君ならだいじょうぶだよ」
「じゃあ、そうしようかな」
 ぼくはダッタ君を投げ飛ばすのはちょっとむずかしいと思っていたから、正直言ってほっとした。
 でももしぼくがダッタ君を投げ飛ばしたら、ダッタ君は傷ついてしまうと思うんだ。
 ダッタ君はけっこう繊細なので、ぼくは意外と気をつかっている。

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2007年12月6日木曜日

運転手の夢

 そのタクシーの運転手は、夕方の日だまりの中でシートを倒して熟睡していた。
 夕方と言っても陽の差し具合でそう見えるだけで、冬の入り口に当たるこの時期、彼の眠りは『昼寝』と言ってしまって差し支えないと思う。
 この時期、車の中で眠るには今が一番心地よい時間帯なのかも知れない。
 僕は運転手の安らかとも間の抜けたとも言える寝顔をしばし眺めてしまった。
 ここは人通りの少ない住宅地の片隅で、人目を避けて休憩を取るには格好の死角となる場所なのだろう。実際タクシーの後ろには同じようにひっそりとした雰囲気のトラックが停車していて、僕はそれを見ただけでトラックの運転手も今ここで休んでいるのだと思った。
 僕は同じように車のシートに寝そべって昼寝をしたいと思った。
 ほんのひとときだけ「勤務中にサボって寝ているタクシーの運転手」になって、シートを全開に倒して熟睡したいと思った。
 彼の寝顔はそれほどまでに僕を引きつけてしまったのだ。
 運転手の口元がむにゃむにゃと動いた。
 夢を見ているのかも知れない。
 彼はどんな夢を見るのだろう?
 宝くじが当たった夢だろうか。
 家族がみんな幸せな笑顔を浮かべている団らんの風景だろうか。

 むにゃむにゃ

 運転手は目を開けた。
 そして僕に気付いた。
 運転手はどこか要領を得ない様子でズズーっと窓を開け、
「いらっしゃいませ」
 と言った。
「こんにちは」
「…こんいちは」
 運転手はまだ半分寝ぼけているようだった。口元の言葉もおぼつかない。何より、「いらっしゃい」という言葉自体、タクシーとしてはおかしいのではないか?
「どちらか御用ですか」
「いえ、特には」
「…すんませんねえ、熟睡しちゃって」
「とても気持ち良さそうでした」
「そうですか?」
「はい。羨ましかったです」
 運転手は眉根を寄せて顔をしかめた。
「すんません」
 運転手は何故かもう一度誤って窓を閉め、エンジンをかけた。
 僕は歩道に上がって走り去るタクシーの後ろ姿を眺めた。

「いらっしゃいませ」

 と言った時の運転手の顔は何だか力みが抜けていて、それが本当の顔なのかも知れない、と僕は思った。

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2007年12月5日水曜日

炎の中で踊る小人と老人の語り

 燃えさかる炎の中に、その顔は浮かんでいた。
 目尻や額や口の周りにに深いしわが何本も刻まれ、髪の毛がすっかりと禿げ上がった老人の顔。
 目は閉じているのか、薄く開かれているのか分からない。が、その口元は何かを語ろうとしていた。唇の動きから、それが何かの言葉の連なりである事を思わせるのだけれど、声が全く聞こえてこない。
 やがてその顔がすうっとまっすぐ空中に浮き上がり、首から下の体が現れた。老人はかなりの長身で、幼かった僕が彼の顔を見るにはずっと上を見上げなければならなかった。
 老人の背後で炎に巻かれて元の組成を失ったカーテンが床に焼け落ち、火の粉が舞った。火の粉は老人の周りを囲むようにして広がり、その広がりとともに日に焼けたような肌の色の小人が一度に何十人も現れ、老人の周りをくるくると動きながら踊り始めた。
 僕はその光景に魅入られていた。自分の家がどういう訳か激しい火災に飲み込まれているという状況も忘れ、老人の顔から目が離せなくなっていた。
 炎の勢いが激しくなるにつれ、老人の語る言葉が少しずつ理解できて行くような気がしていたのだ。

 それが、幼い頃焼け落ちた家の中で僕が最後に見た光景だった。
 僕は助け出されたのだ。決死の覚悟で飛び込んで来た消防隊員が僕をその場から連れ去り、僕は命を取り留めた。
 その後、僕がその老人の話をしても、誰も信じてはくれなかった。それどころか僕は火事による影響で精神の一部に支障をきたしてしまったのではないかとさえ疑われた。
 やがて僕はそのことを他人には語らなくなった。

 そんな過去があった為、僕が「消防隊員になる」と言い出した時、両親はトランプをひっくり返したらジョーカーが出て来た、という風にぱたっとこちらを向いて顔色を変えた。
 僕は内心に潜む想いをひた隠しにしながら、過去の事はもう何も関係ないのだ、僕は純粋に自分が救われた経験から、他の誰かを救いたいと思ったのだと言う事で訝しがる両親を説得し、もちろん多大な努力を払って、消防隊員になる事ができた。
 自分で言うのもなんだが、僕は非常に優秀な消防隊員になった。ひとたび事件が発生すれば、誰よりも先に装備を整え、火事場に着けば誰よりも優先して火の中に飛び込んだ。
 今にして思えば、やはり僕の精神はあの老人と出会った事で既に深く病に犯されていたのかも知れない。なぜならあの日からずっと、僕は老人の言葉の続きを聞きたくて仕方が無かったのだ。
 そんな気持ちのせいか、僕は炎に包まれるような状況になると、だんだんと心が落ち着いて行くようになった。最近になってそのことがよく分かって来たのだ。僕が炎の中に居る事はとても自然な事だと。しかしその自覚は僕の社会的非常識性をあまりにも明確にしてしまう為、誰にも言う事ができずに、人知れず炎の中で悶々としてしまう事もあるのだ。
 いっその事、人目をはばからず狂ってしまえたら、どんなに楽かと思う事もある。
 あのとき現れた小人のように、炎の中で嬉々として踊り舞い、背の高い老人を礼賛するのだ。
 だが一度でもそんな事をしてしまえば、僕はその後異常者として扱われ、火事場に出る事はおろか、精神病院の病室から出られなくなるはめになるだろう。

 このように、僕は子供の頃たった一度だけ見た風景に延々と悩み、心を奪われてしまっている。
 老人の口から語られる言葉を聞きたくて、ずっとずっと待ち続けている。
 やはり既に僕はおかしくなってしまったのだろうか?
 自分では、もう分からなくなってしまっているのだ。

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2007年12月3日月曜日

傘泥棒は連鎖する

 傘が無い。
 僕の目の前には傘がいっぱい詰まったコンビニの傘立てがあり、僕の背後では雨がざあざあと降っている。そして僕がここまでやって来た時に差していた傘は、傘立てからは消えていた。
 おそらく、ほぼ間違いなく、誰かが持って行ったのだろう。
 僕は、誰でも心に秘めているはずの、些細でありがちなな邪心と良心の狭間で揺れていた。
「傘は天下の回りものです」
 と後輩が言った言葉を思い出していた。
「特にビニール傘という物はみんなで共有するべき物です」
 ヤツはのほほんとした口調で、それが当然、と言う顔をして言い切った。
 確かに、ビニール傘に強いこだわりを持っている人間はあまり存在しないだろう。ワンタッチ式だとか、ちょっと色がくすんでいるとか、そんな違いはあるものの、あらゆるビニール傘は『ビニール傘』として一括りにされてしまいがちだし、実際僕も何の気なしに他人のビニール傘を間違えてもって返ってしまった事はある。
 誰でも傘泥棒になれるのだ。そして、そうなる可能性をみんな平等に持っている。
 もし仮にその可能性を不可避のものとして公式に認め、「傘泥棒はしょうがないのだ」という事になったとして、それが社会的な問題に発展する事はほとんどゼロに近いのではないだろうか。
 そんな事をいちいち考えている人間は居ないだろうが、世界中の無邪気な傘泥棒たちは頭のどこか片隅で無意識にそのような言い訳を自分にしているに違いないのだ。
 ビニール傘をなくしたら、他のビニール傘を使えば良い。という常識。
 しかしやはり考えてほしい。
 そうやって連鎖的に発生する傘泥棒たちの陰に隠れるように、間の悪い誰か一人は確実に持つべき傘をなくしてしまうのだ。
「ちょっとすみません」
 僕が傘立ての前であれこれ考えていると、一人の女性が横から手を伸ばして傘立ての中から一本引き抜いた。僕は傘立てを利用する人たちの邪魔をするような位置に立っていたのだ。
「ああ、すみません」
 ふと女性の顔を見ると、それは大学で同じ講義を受けている浜宮優里だった。
 優里も僕の顔に気付いたようだ。
「伊藤君、だっけ?」
 驚いた。彼女が僕の名前を知っているとは思わなかった。同じ講義を受けているとは言え、クラスは違うし、サークルなど、他に僕と彼女の接点になるようなものは無いはずだ。
「浜宮さん、だよね」
 確認などするまでもなく彼女の名前は僕の頭にしっかりと刻まれていたのだが、僕はそんな言い方をしてしまった。僕は焦っている。動揺している。でも嬉しい。彼女が僕を知っていた。
「何してるの? 傘立ての前で突っ立っちゃって」
「持ってかれたみたいなんだ」
 優里は、あら、と言う顔をした。
「どこ行くの?」
「駅まで」
「私も。一緒に入っていきなよ」
 そう言って優里はほんの少し傘を僕の方に傾けた。
 こんな偶然があるなんて。僕はやはり安易に他人の傘を持って行かなくて良かったのだ。
「ねえ、もし暇だったら、ちょっと買い物に付き合ってくれない?」
 と優里が言ったので、僕はもちろん即座にオーケーした。
「良い傘だね」
 と僕が褒めると、優里はちょこっと舌を出して、
「実は私も盗まれたの。頭に来ちゃって誰のか知らないけど持って来ちゃった」
 と言って僕にいたずらっぽい笑顔を向けた。
 僕はほんの少し良心が傷んだが、優里の笑顔には敵わなかった。

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2007年12月2日日曜日

抜け落ちた記憶

 何かを忘れるかも知れないという恐怖心が、僕の中から消えた事は無い。
 とにかく僕は物覚えが悪いのだ。
 毎朝のように定期や財布を忘れる、なんて言うのはまだ良い方で、時々友人と交わした約束を、約束した事実そのものから忘れてしまったりする。つまり、
「あのときここで待ち合わせって、話しただろう。お前、頷いてたじゃないか」
 などということを言われたとしても、その「あのとき」が記憶からスポリと抜けていて、どんなに考えても思い出せないのだ。その時の出来事が起こった時間帯と、その前後の記憶から思い出せる事を総動員してなんとかかんとか起こった事を類推して対処しなければならなくなる。
 いろいろと注意して周りのみんなにはそんな事はないのかと窺ってみたものの、どうやらそんなひどい忘れ方をする者は僕以外にはあまり居ないらしい。
 他人と共有したはずの時間が僕だけ失われてしまうというのは、あまり気持ちのいい事じゃない。悪い事だけを忘れていくのならまだしも、どうやら僕の記憶は何の区別も選別もなく、無作為に消えていくようである。
 忘れてしまってかえって都合が良かったりする時もたまにはあるが、たいていの場合はその後に厄介な問題を残すことになる。当たり前だ。約束というものの価値について事あるたびにいちいち根本的な問いかけをしなければならないという状況は、不毛と言うしかない。
 携帯電話の呼び出しが鳴った。
 近頃はこの電話一本に緊張する時もある。ひょっとしてまた重大な忘れ物でもして誰かから怒りやお叱りの電話がかかって来たのではないかと思ってしまう。
「もしもし」
「あ、セイジ?」
「何だ、美樹か」
「何だって何よ」
「いや、何でもないけど。言葉のあやだよ。あやあやあや」
「相変わらず訳分かんないわね」
 僕は美樹にはまだ僕の記憶がかなり怪しい事になっている、という事を伝えられずにいる。とにかく馬鹿なことを言う半天然キャラで押し通しているのだ。ちょっと無理はあるけれど。
「話があるんだけど」
 何だか声の機嫌が悪そうだ。
「なに、どうしたの」
「今あんたの部屋に居るのよ」
「あれ、そんな約束してたっけ」
 しまった。急いで戻らなければ。
「してないわよ」
「えー、じゃあ俺の部屋で何してるの」
「何してるのじゃないわよ。あんたの部屋に居る女、一体誰なのよ」
 何の話だ?
「え、誰か他に居るの?」
「すっとぼけんじゃないわよ! とにかくすぐ戻って来い!」
 美樹は電話を切った。
 僕は一生懸命昨日の出来事を思い出そうとした。しかし会社から帰った後の事は切り落とされた体の一部のようにそこだけ透明で、イメージを形作る事ができなかった。
 合コンの約束は無かったはずだし、田舎の母や妹が上京してくるような約束も無かったはずだ。
 まさかナンパでもしたのだろうか? この僕が?
 自慢じゃないが知らない女の子に街で声をかけた事なんて一度も無い。
 一体何があったというのだろう。部屋に戻って美樹に何を説明すれば良いのやら。そもそもその女は何者だ?
 僕は、僕の部屋に誰かしら無いけれど女が居る。という事態について、それが起こりうるあらゆる可能性を頭の中で想定しながら、美樹と、その女と、僕自身に対してうまいこと話がまとまる説明を考えながら帰り道の電車に飛び乗った。

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2007年12月1日土曜日

盗人家業

 自由を阻害されるのが、この世で最も煩わしいことだ。
 この世は組織とシステムによって管理されていて、その管理の範疇に収まらない者は徹底的にはじき出される。
 俺が盗人になったのも、理由はそんな所からだ。もともと集団生活というものに馴染めなかったし、ガキの頃から一人で動いた方が気が楽だった。それで周りと違う行動をとると、いろんな方向から俺を矯正しようというする奴らが現れて、叩きのめされる訳だ。
 まあ、どこにでもある話だ。そんなに珍しくも面白くもない。
 要は結果として一人の盗人が生まれましたよ、とそれだけ伝わればいい。
 それで何で盗人なのだ、他にも道はあるだろう、と言われると、それはそうかも知れないと今では思える。それまでの人生でもっと尊敬できる人間や立派な大人に出会えていたなら、俺も今頃違う道を歩んでいたかも知れない。でも俺はそうではなかった。こうなってしまった。そして、これはこれで一つの生き方だと思っている。他の生き方は今の所分からない。
 盗人家業も本気でやると楽ではない。何しろ手を抜いたりほんの少しでも油断があると簡単に逮捕されて即、刑務所行きだ。一度捕まったら余罪を追及されて軽い刑では収まらないだろう。それなりに大きなリスクを抱えてやっている訳だ。だから準備は怠らない。他の奴は知らないが、俺は何しろ安全第一でやる主義だ。強引な侵入なんかしない。入れる家に無理無く入るようにしている。
 しかし最近は面倒になって来た。同業者が増えて来たんだ。しかもそこに外国人のグループなんかが居たりする。一度うっかり現場で鉢合わせにしそうになったことがある。不用心な家はどんな盗人から見ても同じように不用心に見えるという事なのだろう。俺もこの家業が長いから、妙な雰囲気を感じて様子を窺っていたら、先客が居たっていう次第だ。
 奴らが派手にやるせいで、警察はパトロールを強化させるし、一般家庭でのセキュリティに対する意識は高まる一方。おかげ出稼ぎはいい時の半分ぐらいにまで減ってしまった。まあ、コツコツ貯金していたからしばらくは生活に困る事は無いんだけどな。
 先々いろいろ考えて、転職しようかと思っているんだ。って言ったって組織につくのはまっぴらごめんだから、今まで鍛え上げた腕を買ってくれそうな探偵社なんかどうかと思ってね。履歴書が必要、なんて言う所はまずお門違いだ。堂々と人に見せられる経歴なんか俺には無い。
 いろいろ探してみるつもりで入るが、どこかいい所知ってる奴が居たら、ぜひ教えてくれ。謝礼はたっぷり出すからさ。でも、金の出所なんて聞かないでくれよ…

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