2008年1月18日金曜日

海辺の風力計

 佳織は退屈そうにしていた息子を見かねて、家事を適当に手早く済ませて一緒に外に出た。
 数日続いたどんよりとした曇り空が久々にすっかりと晴れあがり、その事を早朝の時間帯から天気予報が何度も強調していた。家族の朝食の用意をしながら、ブラウン管の向こうで晴れ空に負けじと笑顔を満開にしているお天気キャスターの姿がどこのチャンネルでも同じだったのが妙に目についていた。
 確かに、目が覚めてリビングの東側のカーテンを開いた時に部屋に差し込んだ太陽の光は、それだけで気分の高揚を誘うものだった。佳織は開き切ったカーテンからしばらく手を離せず、目の中に光を溜めるような気持ちで空からの恩恵に身を浸した。そうしているだけで、一日のエネルギーが自分の中に蓄積されていくような気がした。
「気温は低くて寒いんですが、思わず外に出たくなる、今日はそんな一日になるでしょう」
 お天気キャスターの声がリビングで朗らかに響いた。
(仕事でやってるにしたって、まあ気持ち良さそうにしゃべるものだわ)
 佳織はそう思った。
 夫が目を覚まして寝ぼけた顔でテーブルにつき、新聞を片手にテレビのリモコンを操ってチャンネルをあれこれと変えていく。そして天気予報が始まるとチャンネルの移動は一旦そこで止まる。何度かそんな事を繰り返していたが、どこの局でもお天気キャスターたちは同じ種類の笑顔を惜しげも無くお茶の間に向けて広げていた。
 朝からそんな調子だったから、気分が初めから外に向いていたのかもしれない。
 洗濯物をあらかた干し終えてしまうと、お昼の準備まではやる事がほとんど無くなってしまうので、それならば早めに片付けて今日は少し遠めの距離を散歩してみようと思ったのだ。

 佳織は三歳になる息子の翔の手を引いて、海岸までの一本道を歩く事にした。この道は海までの最短距離でもあり、道幅が広いので視界の広さも楽しめる。片道二車線の四車線道路。両側の歩道には街路樹が植えられていて、今日のように天気の良い日は空から注がれる光が木々の緑を生き生きと浮き立たせる。吹き抜ける風に枝葉が揺れ、ざわざわと音を立てる。
 普段は海まで行く事はそんなに無い事なので、翔は物珍しげにあっちこっちに目を向けてきゃあきゃあと高い声を上げる。
「あれ何? あれ何?」
 としきりに聞いてくる。
 視界に入る何もかもが新鮮で、興奮しているのだろう。油断するとどこへ行くか分からないから、うかつに風景に没頭する事はなかなか出来ない。手を離すと息子はどこまでも走っていってしまう。

 佳織はもってきたDVDカメラを片手で構えて翔の動きを追っていた。夫の年末のボーナスのほとんどはこのカメラと新しいパソコンのために消えてしまったが、それ以来ことあるごとにカメラを回す習慣がついて、当然のごとく主に翔の成長の記録としての意味はあるものの、佳織に取っては新しく手に入れた趣味のようにもなっていた。
 好きなようにカメラを回して、翔が寝ている時などに、録画した動画をパソコンで編集する事までやっている。機械はもともと得意ではないと思っていたが、やってみれば意外と簡単に出来てしまった。最近ではカメラのアングルやカット割りの事まで考えてカメラを回す意識が自然と身に付いてきたようにも思える。
 そんな訳でただ散歩と言っても佳織の場合、案外神経を使う。家事をしている時間も考えれば、のんびりしている時間なんかほとんどない。

 海岸にたどり着いたことで、ようやく少し気が抜ける。
 ここでは車もバイクも自転車も走らない。平日の昼間だから無軌道に暴れている若者たちの群れもない。
 佳織は翔の手を離して好きなようにさせた。
 翔は水打ち際までちょこちょことおぼつかない足取りで走っていった。
「翔、こけないでねー」
 後ろから、声をかける。翔は少し振り向いて、また走り出して、波の前で止まった。
 そこで波の動きに合わせて濡れないように一歩踏み出したりまた下がったりしながら、きゃあきゃあという声を上げる息子の姿に、佳織は言いようのない感動を覚えた。
 この、自分の胸に迫ってくるものは、いったい何なのだろう?
 カメラ越しに見ていた翔の姿を自分で見たくなって、佳織はモニターに向けていた視線を外した。
 翔はやはりきゃあきゃあと言いながら、波から少し逃げている所だった。
 眩しさを感じて、佳織は空を見た。太陽はすでに高く昇り、雲一つない海の世界を煌々と照らしていた。
 視線を戻すと翔の姿が消えている。
 辺りを見回すと、息子は勢いよく羽を回転させている海辺の風力計を見上げていた。ちょうど翔の背中の方から風が吹いていて、風力計の風車が翔の正面を向いていた。翔はその時ばかりはきゃあきゃあとは言わずにぽかっと口をあげて風力計を見上げていた。
 ああ、息子は今感動しているのだな。
 佳織はそう思ってカメラを翔に向けた。
 良い画が取れたと思った。


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2008年1月16日水曜日

テレビがやって来た

 タカシが友人のユキノブから譲り受けたテレビのリモコンは、どれだけ使い込まれたものか、ラベルに書かれていたはずの「電源」とか「音量」などといった表記がことごとくすり減って読めなくなっていた。おかげで一つ一つのボタンがどのような役割を演じるためのものなのか、初めのうちはいちいち確かめながら使う事になった。大体は電源とチャンネルと音量が分かればテレビとしての用は足せるので、しばらくすると大して困らなくはなったが、滅多に使う機会のないボタンなどは時間が経つとそれがなんのためのボタンだったかすぐに分からなくなってしまう。
 製造過程の途中で誤って出荷されてしまったような、つるりとしたのっぺらぼうのボタンのついた手のひらサイズの箱。
「一応隅から隅まできれいに洗っといたから」
 ユキノブがそう言ったとき、タカシは公園の水場でユキノブがじゃぶじゃぶとテレビとリモコンを水洗いしている姿を想像してしまった。彼が以前同じように自転車を洗っていたのを見ていたので、その記憶とユキノブのセリフが一緒くたになってそんな事を考えてしまったのだろう。
 ユキノブは金がないくせに金遣いが荒い。しょっちゅう競馬で大損しているくせに、たまに馬券を当てると我が世の天下とばかりに一瞬にして配当金を使い果たしてしまう。
 そんな調子のユキノブが過去にいくつも例がないほどの高額の万馬券を当ててしまったものだから、彼の有頂天ぶりは親しい人間からすればハラハラせずにはいられないほど目も当てられないものになった。
 困ったヤツだが、そんな彼のおかげでタカシの部屋にもようやくテレビが設置されたのだ。ユキノブは配当金の一部で勢い余って47インチの特大液晶テレビを購入し、それまで使っていたものを代わりにタカシに譲った。
 たまに部屋に遊びにくる妹のリンは兄の部屋に突如現れたテレビを見て、
「ようやく現代と言う時代に追いついたね」
 と言い、タカシの恋人のサユキは思わず目に涙をためた。
「そんなに大袈裟な事じゃないだろ」とタカシが言うと、
「何言ってるの? 文化と文明の象徴を、あなたはやっと今手にしたのよ」
 と言って、感極まったという風にタカシにキスをした。その唇を受けながらも、じゃあ今までどんな風に俺を見ていたんだとタカシは思わずにはいられなかったが、まあ喜んでくれているには違いないのだ。まあよしとする所だ。
 そんなふうにタカシに関わる人間たちが言う言葉ほどには彼は貧しかった訳ではない。当人は別にテレビがあろうがなかろうがあまり気にならない質で、暇な時にはラジオでも流しながら本を読んでいれば別にそれで気にならない。だから別にテレビが貰えた所で逆に何がそんなに変わるのか分からないと思っていた。
 しかしタカシ本人はともかく、周りはその変化を放っておかなかった。
 サユキは毎日のようにタカシの部屋に来るようになった。タカシが外から帰ってきたりすると先にサユキが家に居てテレビの前で座り込んでいる。以前から合鍵は渡していたので出入りは自由だったはずなのに、そんな事はそれまで無かったのだ。まるでテレビを見るためだけに部屋に来ているのではないかとタカシは思ってサユキにそう聞いてみると、
「だって、タカシ君も居ない、テレビも無い部屋でどうやって時間をつぶせばいいの? つまらないじゃない」
 と一蹴された。まあ、サユキがしょっちゅう来る分にはタカシにはそれで良かった。何せ恋人と一緒にいる時間がそれだけ長くなれるのだから、いいじゃないかと思っていたら、今度はユキノブが部屋に来るようになった。
「なんでお前までくるんだ」とタカシが聞くと、
「いやあ、うっかり金使い過ぎて引っ越す予定が予算が足りなくなってさ。あの47型、俺の部屋じゃでかすぎるんだよ。もともと俺のテレビだし、見に来るぐらい良いだろ? 彼女との邪魔はしないからさ」
 とユキノブは答えた。
 どこまで計画性の無いヤツなんだとタカシは呆れたけれど、せっかくだからリモコンの分からない所を聞いてしまおうと思って、ついついユキノブが来るのを許していた。
 ある日タカシがバイトから帰ってくると、ユキノブとサユキが二人で並んでテレビを見ていて何だか楽しそうにしていた。あまりに楽しそうで、じゃれ合っているようにも見えた。
「……ただいま」
「おかえりー」
「おう、おかえり」
「何してるの?」
「いや、この番組、面白いんだよ。タカシも見ろよ」
「俺はいいよ、別に」
「タカシ君は本しか読まないのよ」
「えー、なんだよ、つまらないな」
「でしょー、なんとか言ってやってよ」
「……」
 おまえら、いい加減にしろよ。別にテレビなんか欲しくねえんだぞ俺は。そう言いかけたとき、玄関が開いてリンが入ってきた。
「あーみんな居るじゃん、私も混ぜてよ」
 リンはタカシには目もくれず、サユキとユキノブの間に入って、それで今度は三人でテレビの前で騒ぎ始めた。
 もういいや、ほっとこう。タカシはそう思って読みかけの小説を開いたが、テレビの音と三人の騒ぐ声でどうにも話に集中できない。
 こんな事がもう何日も続いて、明日にでもこのテレビを捨ててしまおうと思いながら、先延ばしになっている今日この頃のタカシなのである。


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2008年1月12日土曜日

抜け道裏道人の庭 その1

(はじめに:ながいので、二つに分けました。ブログで読む事を意識して、日付的には順番が逆になっていますが、「その1」「その2」の順番でそのまま上から読んで下さい。よろしくおねがいします m(__)m )


 草むらから人が出てきた。知らない人だ。女性だった。
 女性は明るいクリーム色のスーツを上下に着込んでいて、それが前の日に合った恋人の友美のものととてもよく似ていたので、僕は一瞬彼女が出てきたのかと勘違いした。
 そのとき僕は前日に彼女に言われた言葉を頭の中で反芻していて気の抜けたタイヤのような状態で歩いていたので驚いてしまった。僕は思わず立ち止まり、草むらから出てきた彼女と目が合った。
 草むらはいろんな種類の雑草が入り交じっているようで背丈が高く、濃く深く茂っていて、奥がどうなっているのか分からなかった。そこは以前から僕にとっては謎の場所だった。この道は僕の散歩コースになっていてよく通ることがあるのだけれど、この草の壁には区切りというものがなく、明らかに住宅街の一つのブロックの半分以上を占有しているはずなのに、どこにも入り口を見つけられずに居たのだ。
 その草の壁の一カ所に少し窪んだところがあって、そこから彼女は出てきた。
 実は以前にも似たような光景を何度か目にした事があった。そのとき見たのは毎回別の人で、いずれも草むらの中からボッという感じで道に現れたのだ。
 それが一度や二度ではなかったから、僕はこの草むらの中にひょっとしたら知っている人だけに分かる秘密の抜け道のようなものがあるのかもしれないと常々思っていた。それでも今まで中に入る事が無かったのは、単純に草まみれになって服が汚れたり枝に引っかかってシャツが破れたりする事を考えてしまっていたからだった。

 先ほどの彼女は僕に気付くと何故か気まずそうな表情を見せて軽く頭を下げ、足早に僕の横をすり抜けて去って行ってしまった。
 僕は気になってしまった。その時の女性の表情はこれまで僕が見てきた草むらから出てきた人たちと同じような不可思議な空気を宿していたのだ。
 彼女が出てきたその窪みの中を覗き込んで見てみたけれど、外からはその深い闇の中がどうなっているのかまでは分からなかった。
 特に他の用事もなく、いつものようにただ暇を持て余してその辺をぶらぶらと散歩していただけだったこともあって、僕はその時に起こった些細な好奇心に従って、その草の壁の中に足を踏み入れた。
 しかしそのどこまでも続くように思われた暗い草むらの茂みは、あっけなく終わった。僕が一歩、二歩と踏み入れただけで闇は晴れ、僕は壁を抜けた。そこは広々とした洋風の庭園だった。
 思わぬ展開に僕は思わず振り返り、たった今通過した草むらを見た。外側から見ただけではただの草むらに見えたそれは、内側から見るときれいな平面になるように刈り取られた植栽だった。僕は植物にはまるでとんと詳しくはなかったから、その植栽がどんな種類の植物なのか分からなかったけど、おそらく外側の方はこの植栽の木々と他の雑草とが入り交じってあのような鬱蒼とした雰囲気を作っていたのだろう。とにかく、今いる場所から見た草の壁は非常に手入れの行き届いた庭園の一部として完璧に機能していた。
 表と裏の余りの違いに戸惑いはしたものの、ずうっと疑問に思っていた謎の場所が外側の見た目とはまるで違う姿をしていた事は、僕を妙に納得させてくれた。言葉にするなら、「こうでなければ」というような感想を持ったのだ。

 庭園は、細長く縦に伸びていた。細長いとは言っても全体的に敷地の面積が広いので狭い方の辺でもテニスコートを二つ縦にしておつりが来るぐらいの幅がある。足元にはよく刈り取られた芝生がしっかりと根付いているようで、目の届く限りその緑は続いていた。
 右手の前方、僕の立っている位置から二百メートルは離れているだろうか、そこに平屋の建物が見える。古いアメリカ映画にでてくる田舎の屋敷のような建物で、角がしっかりとしていて余分な装飾は無く、全体的に質素な空気が漂っている。とは言えそれは敷地の広さから考えれば目の錯覚なのかもしれない。ただ造りが単純なだけで近付いて見てみればそれなりに迫力のある大きさの建物で、そこまで行ったら僕はその家を豪邸と表現する事になるのかもしれない。
 とにかくその家と僕の間には広い広い芝生の平野があり、それはもうすぐにでもそこに寝っ転がってゴロゴロとひなたぼっこでも楽しみたくなるような見事な芝生だった。植栽はその平野をぐるりと長方形に囲んでいて、時にはその囲いの前に少し空間を空けて背の低い木を刈り込んだぬいぐるみのような人や動物の形をしたモニュメントが飾ってあったりしている。
 空中には遮る物がほとんど無いため、芝生の上には陽の光が燦々と降り掛かっていた。僕の視線の進む先には何のために置かれているのか、芝生の一角に白く塗装された木製のテーブルと椅子が四人分、テーブルとセットで並んでいた。その一つ一つの配置があまりにもバラバラなので、僕はそれが何かのためにそこに置かれたという気がまるでしなかったのだ。
「あらまあ、いらっしゃいませ」
 僕はいきなり背後から話しかけられて肝の縮む思いをした。ここに入ってからすぐにこの場所が明らかに誰かの所有する土地で、僕はただの好奇心でこの場所に忍び込んできたのだという事を頭のかたすみで少しづつ考え始めていたところだったのだ。どうのこうの言ったところで今の僕の状況を一言で表すなら、ただの不法侵入者だ。ただこの場に居るという事だけで法的に咎められても仕方が無い状況だ。
 振り返ると僕の背後の空間には人は居なかった。しかしよく見回してみると僕の左手側の植栽を刈り取っている婦人の姿を認める事が出来た。婦人は右手に剪定ばさみを持って半身になってこちらを見ていた。たった今振り返って僕に気付いた、という感じだ。その時まで婦人の姿にはまるで気付かなかった。
「ごゆっくりどうぞ。あちらのテーブルにはお茶もありますから」
 婦人はそういうとくるりと背を向けて、植栽にはさみを入れ始めた。
「あ、あの、すみません。勝手に入り込んでしまって」
 僕がそういうと、婦人はまたこちらを向いた。
 婦人はあたまにつばの広い日よけの帽子をかぶっていて、上は薄手の白いシャツ、下も白い綿のパンツだった。一見して動きやすそうな格好をして、庭作業には手慣れたものを感じさせた。彼女の白に統一された出で立ちは芝生の緑とよく噛み合っていると思った。
「ここを通る方は皆さんそうやって恐縮なさるけれど、気になさらなくて結構ですわ。そもそも入り口が無いんですもの。入って来られた方は歓迎致します。きっと好奇心のお強い面白い方でいらっしゃるでしょうから。わたくし、楽しい人が好きなんですのよ」
 婦人はそう言うと近くにあった植栽の枝の先に剪定ばさみを引っ掛けて、僕の方に近寄ってきた。かと思うと僕の手前でゆっくりとカーブを描きながら進路を変え、「さあこちらへ」と手招きするように軽く伸ばした右の手のひらを僕の方へ見せ、屋敷の方へと向かって歩き出した。そう言った婦人の一連の動きは自然ではあったもののとても洗練されたものに見えて、この人はきっと裕福な家庭に生まれ育ち、長い年月をかけてこんな優雅な仕草を身につけたのに違いないと僕は思った。
 それにしても、入り口が無いと言う事をはっきり言った。という事は意図的に入り口を作っていないという事だ。
 いったいなぜ?
 僕は婦人に釣られるように後を追って歩いていた。婦人はさっき僕が見つけたテーブルのところで立ち止まり、僕に椅子に座るよう、無言の仕草で促した。ひょっとしたらこの人は、言葉なんか話さなくても語るべき事を仕草だけで伝える事が出来るのかもしれない。一つ一つの動作にフェルメールの絵画のような、見ていて一瞬はっとするような雄弁な響きが含まれているように僕には思える。そう、婦人の事だけではなく、ここはとても絵画的だ。絵画的な庭園だ。止まっているのに、動いている、そんな感じ。
 初めバラバラに置かれていたテーブルのセットは、婦人がほんの少し椅子を動かしただけでどこかのサロンの一角のような落ち着きのある雰囲気に変わった。
「少し時間を下さいな」
 婦人はそう言うと僕に、座っていていいから、と仕草で示し、屋敷の方へと一人で歩いていった。
 どうやらこのテーブルはこの敷地のちょうど中心の辺りにあるようだった。僕はひとりでこのだだっ広い敷地の中に取り残されている自分の姿を考えてみた。僕は普通に散歩をしていたはずなのだ。たった一歩、いつもと違うところに足を踏み入れただけで何だか遠い別世界のような場所に来てしまった。これでもし地面に穴があいていて、それが不思議の国なんかに繋がっていたら、まるっきりおとぎ話の世界だ。
 僕の腰掛けた椅子は背もたれが両肩を十分に包み込めるほど広く作られていて、僕はそこに背中を預け、あたまを後ろに倒して首の力を抜いた。
 空はちぎりとった綿飴のような雲が一つ浮かんでいるだけで、よく晴れていた。「雲一つない」と表現してもおかしくない空だった。
 僕は仕事と、彼女の事を考えた。今頃みんな、何をしているだろう? どうしても仕事をする気が起きなくて会社を休んでしまったけれど、まあそれはいいとして僕は彼女に言われた事が気になって仕方が無かった。
 両手をいっぱいに空へ向け、背中を反らせて伸びをした。一瞬首周りの血が動いて、目の前が真っ白になった。
「ああ」
 そんな声が思わず漏れて、僕は日だまりの中で何かが解放されていると感じた。僕は椅子から立ち上がり、ふらふらとテーブルの周囲を歩いた。そうして周りを見ていると、現実から遠く離れていく感じが徐々に増幅していく。

 抜け道裏道人の庭。
 親切おばさん「さあどうぞ」
 戸惑いながら僕はゆく。
 ゆけどもゆけども庭の中。

 何とはなしに僕はそのような事をつぶやいた。そこに拍子のようなものを混ぜ合わせながら口ずさんで歩いた。少し歩いたところでしゃがみ込んで地面に手を置き、手のひらに芝生の感触を味わわせた。そうしていると煩わしい事やあれこれと終わり無く考えている事が吸い取られていくような錯覚に陥る。
 心地よい堕落。深い緑。いい季節だ。

                       〈つづく〉


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抜け道裏道人の庭 その2

(その1からのつづきです)

「お茶が入りましたよ」
 いつの間にか婦人がテーブルの上に紅茶を用意し終えていて、僕に呼びかけた。婦人がそこに来るまで、僕はその気配すら感じ取る事が出来なかった。
 しかし僕はもうそんな婦人の静かな動きに驚く事は無く、この場にすっかり落ち着いて馴染み始めている。
 僕が席に着くと婦人は僕の前にカップを差し出し、ポットから紅茶を注いだ。テーブルの上に置かれたティーセットはけっこう細やかな模様が描かれ、さりげない金彩が施されている。それはただの貼り付けられた金箔だったかもしれないけれど、僕には判断がつかないし、それがどっちだったところで、婦人と同じ空間にあるというだけで上質なアンティークとしての価値を持ち合わせてしまうような気がした。
「よかったわ」
 と婦人が言った。僕はティーセットに気をとられていて半分聞いていなかったので「え?」と聞き返した。
「ここで落ち着いて頂いている様子なので」
「ええ、いい場所ですね」
 僕がそう言うと婦人は顔全体をゆっくりと動かして笑顔になった。
 僕はこのとき初めて婦人の顔をよく見る事が出来た。ある程度年齢を経た人であるのは間違いないのだけれど、その前提からすれば彼女はとても若く見える。婦人は体中の皮膚から溢れ出るような活力があって、オーラが出ていると言えばいいのか、実際何歳かと正確に考えようとすると分からなくなるタイプの人だと思えた。
「何だか、自分でも不思議なんですけど、僕はここにいると何かがしっくりと来る感じがします。来たばっかりでこんな事言うのも変な話なのかもしれませんけど」
「ありがとう」
 婦人は僕に礼を言った。婦人はまた顔を動かしてさっきとは違う笑顔になった。そうすると婦人の瞳がすぅっと深みを増した。僕は恥ずかしいような照れるような、なんだか変な気分になった。
「お名前を伺ってもいいかしら?」
「ヒロミです。薩川博己」
「あら偶然ね。私の名前もヒロミなの。古瀬川裕美」
「本当ですか? じゃあ、これからヒロミさんと呼んでもいいですか?」
「あら、先を超されちゃったわ。私がそう言おうと思ってたのに」
「お互いにヒロミと呼ぶって事でいいんじゃないですか」
「でも、そうすると会話がややこしくならないかしら」
「そうでもないと思いますよ。僕がヒロミさんと言えばあなたの事だし、あなたがヒロミと言えば僕の事だ。簡単でしょ」
 婦人は僕を見る目をさっきより少しだけ大きくした。そしてまた違う笑顔を見せてくれた。その笑顔は僕に「じゃあ、そうしましょう」と言っていた。

 その日から僕はこの広い古瀬川邸の敷地の中に足を運ぶ事が多くなった。ヒロミさんがぜひそうして欲しいと言ってくれて、僕がそうすると本当に喜んでくれたからだ。おまけに、いくらでも自由に通っていってくれていいとまで言ってくれた。もともと散歩コースだったのに加えて、ヒロミさんの家の中を通っていくといくつかの曲がり角を省略する事にもなったので、散歩以外の時でも僕にとっては都合が良かった。僕はこの家を囲む外から見たら鬱蒼とした雰囲気の草むらの中に草をかき分けて入り込み、反対側の草の壁から出て行くのが、回を重ねるごとに普通の事として自分の中に消化され馴染んでいくのが分かった。
 時間があって僕がヒロミさんとお茶を一緒に楽しむ時には、彼女に言われた事について相談したり、仕事で悩んだりしている事などを相談する事もあった。
 ヒロミさんと話していると僕が抱えている悩みや不満の多くが、その会話が終わる頃には何もかも大した事ではなかったように思える、というのが常だった。それは僕にとってはとても不思議な事で、ついさっきまであれやこれやと頭の中をうろつき回っていた問題は、ヒロミさんを通して浄化され、澱みない清涼な流れとして僕の中に残る事になった。
 何回かそうやってじっくりと話す機会はあったのだけれども、僕はまだヒロミさんの年齢を聞いた事が無かった。この人に年齢なんか関係ないのだと思えたし、それを知ったところで一体何になるのだろう? とも思った。でも、この美しく清楚で上品な女性が今までどのような人生を送ってきたのか、という事に関しては僕の興味は尽きなかった。
 それでも、ヒロミさんが自分から語ろうとするまでは過去については聞かないでおこうと思った。なぜそう思ったのかと言うと、意識的にか無意識にか、ヒロミさんは自分の事を話すのを避けているのではないかと感じていたからだ。
 彼女は話の流れをそれが自然な導きであるかのようにあるべきところに誘うように言葉を選んでいるからとても分かりにくいのだけれど、ヒロミさんが僕の身近な話について意見を述べる時などに、彼女自身の体験談として何かを語るという事はほとんどなかった。あったとしてもごく最近の事か、当たり障りの無い日常の表層的な事に限られた。
 なぜそうしているのかは分からないのだけれど、僕はそれはひょっとしたら触れてはいけない事なのかもしれないと思って余計な詮索はしない、という態度を一貫させる事にしたのだ。

 ともすれば、僕のそう言う態度が間違った結果を生んだのかもしれない。
 なぜ彼女がお手伝いも雇わずに独りでこんな広い屋敷に住んでいるのか、結婚はしていなかったのか、僕は聞いてしまった方が良かったのかもしれない。後になって思ってみれば、僕のそう言う一歩引いたところからの接し方というのが、その頃の僕の周りに蠢いていた様々な問題の根本的な原因だったのではないかと、ぼくはずっと、ずっとずっと途方も無い時間が過ぎてから、ようやく思い当たったのだ。

 それでも僕は一つだけ、ヒロミさんに関係する事について聞いてみたのだ。
 それはどうしても気になる事だったし、聞かないわけにはいかない事でもあったと言える。

「どうしてここには入り口が無いのですか?」
「いらないからよ」
「でも、困りませんか?」
「どうして?」
「だって、出入りするでしょう? 買い物に行く時とか、お客さんが来る時とか」
「そう頻繁に買い物になんていかないもの。時々草をかき分けて外に出て行くぐらい、大して面倒な話ではないのよ」
「でも、お客さんが来る時は?」
「ここに人は訪ねて来ないわ」
 そう言ったときのヒロミさんの顔はいつまでたっても忘れられない。僕はそのとき付き合っていた彼女の顔はもうどうしても上手く思い出せなくなっているのだけれど、この時、この言葉を発した瞬間に一度だけ見せたヒロミさんの表情は僕の記憶の深いところに深々と突き刺さり、二度と抜けない棘のようになってしまったのだ。そう、思えば僕はこの時から、ヒロミさんの過去については聞いてはいけないのだと思い込むようになったのだ。
「僕は来てますよ」
 僕は内心の動揺を隠して、可能な限りの演技力で平静を装って言った。
「あなたは特別。とても変わった人だもの」
「僕は変わってますか」
「ふふふ。変わってるわ。ここに迷い込んできて、私とこんなに仲良くなってくれたのは、あなただけなのよ」
「僕は至って普通にしているつもりなんですけど」
「ふふふふ。ありがとう」

 何度かあった事なのだけれど、僕はヒロミさんに「ありがとう」と言われた理由が分からなかった。それが最近になって朧げながらでも分かるような気がしてきたのは、僕もそれなりに歳を取ったという事なのかもしれない。そう思える。

 急な転勤で僕がヒロミさんに別れも言えずその町を離れてから、もう何年も経っていた。また戻ってきた時には古瀬川邸の敷地はシンプルで巨大なマンションに変わっていた。僕はそのマンションの回りをぐるっと一周回ってから、その隣りの建物との間にはほんのわずかな隙間も無い事を確かめた。おそらく建築法ぎりぎりの設計なのだろう。そこには人が通れるほど余裕のある隙間は無かった。
 僕は壁の外からその狭い狭い隙間を覗き込み、それから目を閉じてどこまでも広がる緑の芝生を思い出した。

                  〈おわり〉


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