2008年12月27日土曜日

時空蟹

 蟹が泡を吹いていた。
僕はその泡を指先で掬った。
蟹は不思議と逃げなかった。
砂にほんの少し沈み込んだ爪先に少し力を加えて、僕は立ち上がった。
指先に付いた泡はすぐにぷつぷつと弾けて、薄い液体を僕の指先に残した。
蟹はまだそこに居た。
まるで僕を見上げているみたいだった。
僕は意識は遠い過去の記憶の抽き出しから、小学校のプールの情景を取り出した。

プールサイドに蟹が居たのだ。
場にそぐわない小さな闖入者を見つけて、落ち着きのない何人かの生徒がやいやいと周りに集まっていた。
一人がその蟹を突っついて笑う。
女の子が「やめなよ」と言う。
蟹がつくつくと足を動かして移動を始める。
僕はその進行方向を塞ぐような場所に手を置いた。
蟹はそこで、はた、と止まり、そこでやはり僕を見上げる格好になった。
始業のベルが鳴り、先生がみんなに声をかける。
僕は蟹と目を合わせたまま動けなかった。
僕は蟹の進路を塞いでいた手をプールサイドのコンクリートのタイルから浮かせ、蟹を自由にした。
それでも蟹は動かなかった。
後ろから近づいてきた先生が僕の頭をゴツンと叩き、僕は耳を引っ張られてクラスのみんなの列に混じった。
遠目に、蟹がつくつくとした歩みでどこかへいくのが見えた。

砂浜で僕と対峙した蟹は、あの時の蟹ではないかと、僕はそんなことを思った。
もちろんそんな訳はなく、あの時の蟹はもう寿命を迎えて死んでいて、しかも故郷から遠く離れたこの場所に居る蟹が、あの蟹であるはずは、到底なかった。
それでも僕は、あの時の蟹が時空を超えて僕の中の過去と現在を結びつけたのだと思った。

何のために?

そう聞かれても、答えようがない。
何かの意味があるようにも思えない。
ただ、あの時の蟹が、理由はともかく時空を超えて、再び僕の顔を見に来てくれたのだ、と僕はむりやり理解した。

僕は近くに転がっていた口の広い空き瓶を拾って中を海水で濯ぎ、そこに蟹を捕まえて入れた。
蟹はしばらく所在なげに足をむずむずと動かしていたものの、しばらくするとおとなしく なって、ガラスに映る歪曲された世界を興味深く眺めているように見えた。
僕はその瓶を片手に持ったまま、近くに住むカスミの家に向かった。

「蟹を拾ったんだ」
僕はカスミにそう言って蟹の入った瓶を見せた。
蟹はまたぷくぷくと泡を吹いた。
彼女はそれを見てきゃはははと笑った。
「暇だねえ」
カスミは僕に目を向けてそう言ったが、それでも瓶を突っついて蟹がぴくりと反応するのを楽しんでいた。
小さな生き物には何でも反応する彼女が喜ぶことは分かっていたのだ。思っていた通り、彼女の子供のままの好奇心を宿した目を見て、僕は自分の心が和んでいくのを自覚する。
「なんだか懐かしい気がしてさ」
それは事実だったが、僕はまるでいい訳のようにそう言った。
「一人で砂浜歩いてないで、先にうちに来てから一緒にいけばいいのに」
カスミはそう言った。
「いや、なんとなくさ」
一人で歩きたかったんだ、とは言わなかった。
カスミと歩くのが嫌な訳ではない。
ただ、一人になって海を眺めながら歩きたかったのだ。
「その蟹、昔見た気がするんだ」
「へえ、どこで?」
「小学校の頃、学校のプールで」
「……ずいぶん昔だね」
「うん。そうなんだ。不思議だろ?」
「不思議なのは君の方だよ……」
「でも、本当に似てるんだよ。あの時の蟹と」
僕は先ほど思い出した記憶のシーンをカスミに説明して聞かせた。
「他の人は蟹なんてどれ見ても同じだって思うかもしれないけどさ」
「そんなことないよ。どんな小さな生き物でも、ほ乳類でも昆虫でも、みんな違う顔してるよ。それは、小動物フェチのあたしが保証する」
「うん。だから、カスミならそれが分かってくれると思って」
「ふうん」
カスミはそう唸ると、妙に得意そうな顔つきをした。
「窓際に置いたら、干涸びちゃうかな」
カスミはそう言いながら蟹の入った瓶を南向きの窓際に置いた。
太陽は熱い熱量を含んだ光を室内に投げ込んでいて、おそらくカスミの言う通りになってしまうだろうと思えた。
「少し、水を入れたらいいんじゃないかな」
僕はそう言った。
「そうだね。そうしよう」
カスミは小動物好きではあったけれど、特に甲殻類の生体に詳しいと言う訳でもなかったし、その点に置いては僕と大差なかったので、どこか半信半疑のまま台所にいって瓶の中に少しだけ水を入れた。
窓際に戻された蟹は、また泡を吹いた。さっきまでより泡の量が多いように見えた。
僕らはしばらくそうして蟹を眺め続け、時おり口づけをかわした。
しかし窓から差し込んでくる光の熱さに肌が焼けてくるのを感じると、僕はやはり蟹のことが心配になった。
「やっぱり海に戻そう」
僕がそう言うと、カスミは賛成した。

僕はカスミと一緒に砂浜に戻った。
なるべく波打ち際に近づいて蟹を瓶の中から出すと、蟹は一目散、と言う風にまっすぐに海に向かって横歩きを始めた。
「やっぱり熱かったんだね」
カスミは言った。
「またあいつに会えるかな」
波間に消えていく蟹を見送りながら、僕はそう言った。
「多分、こんどはおじいちゃんになった頃に現れるんじゃない?」
「もうぼけちゃって覚えてないかもな」
僕はカスミが何か軽口を叩いて答えてくると思っていたのだけれど、予想に反して、彼女は僕の方にこつんと頭を寄せてきた。
彼女は何も言わなかった。
「どうしたの」
と僕が聞くと、
「こんな時間がずっと続けばいいなあと思ったの」
とカスミは答えた。
「また暇を作るよ」
僕はそう答えて、完全に見えなくなった蟹が泳いでいるはずの水面を眺めていた。



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