2009年6月25日木曜日

血まみれの男は幻影に語りかける

 町に訪れたのは、半年ぶりの事だった。
 そんなに長い時間、町とのつながりを断った事は今までに一度もなかったので、僕の中には動揺にも似た気持ちがあった。
 大事なものを裏切ってしまったような。
 それでいて、「仕方がなかったんだ」と言い訳してしまうような。
 確かに仕事は忙しかった。
 以前と違って責任も生まれ、後輩たちの指導なんかもする。
 しかしそれでも、時間を作ろうと思えばそうできたはずだ。
 僕は何度も自問する。
 別に、町にくる事は誰かに課せられた義務ではないし、果たすべき約束という訳でもない。
 ただ、それは何かと結びついている。
 その何かとは何なのか、どのような結びつきなのか、それは僕にも分かっていない。分かってはいないけれども、見失ってはいけない、無くしてしまってはいけない繋がりなのだという感覚だけが、僕の中にあった。
 しかし、そんな風に葛藤をしながら再びこの町にたどり着いた瞬間の後ろめたさのようなものは、懐かしい町の風景が視界の中に踊った時にきれいさっぱりいずこかの忘却の彼方に過ぎ去っていってしまった。
 駅の改札を出たところで数歩すすむと、もう強い日差しが僕を包んだ。
 雲は少し出ていたが、空が翳るほどではなかった。
 いつもなら、日光浴がてらに陽のあたる道を歩いてゆくのだが、その日はまぶしさに目が耐えられず、建物の陰を選んで歩いた。
 疲れていたのかもしれない。
 人通りのひときわ少ない道を歩いていく途中で、僕は視界の端に異質なものを目にして立ち止まってしまった。
 血まみれの男が倒れていたのだ。
 男はアロハシャツにジーンズと言う出で立ちだったが、アロハの前ははだけていて、その内側の白いタンクトップは胸の辺りを中心に真っ赤に染まっていた。
 およそこの町には似つかわしくない光景と言えた。
 男はこの町で唯一背の高いビルが何本か立っている駅前の裏通りで、ビルとビルの隙間の小さな空間に挟まれるようにして窮屈そうに仰向けになっていた。
「よお」
 男は声を発した。その声は力の抜けた感じではあったけれど、弱々しくはなかった。
 僕は自分が話しかけられているのだとは思わず、しばしそのまま男を眺めていた。どうしたものか。しばらくそうしていると、
「よお」
 と男がまた言った。
 どうやら僕はその男に呼ばれたらしかったが、僕は躊躇った。当然だ。僕でなくとも、道ばたで血まみれの男に声をかけられて、気安く対応できる人はそうはいないだろう。
 それに、ひょっとしたら、彼は特に僕を呼んだというのではなく、たまたま僕が男の姿を目にして立ち止まった時に、男が不特定な誰かに、あるいは彼自身の空想や妄想の中の人物に語りかけた言葉だったのかもしれないとも思えたのだ。つまり独り言だ。なにしろ男はまるでこちらを見ていなかったのだから。
 警察を呼んだり、救急車を呼んだり、ビルの管理人に知らせたり、と、僕の頭の中では何かしら一般的にやるべきことの数々が巡っていたのだけれど、僕はそのどれも実行には移さなかった。
 なぜ?
 なぜだろう。
 僕にも分からない。
 男の目は、まっすぐに空を見上げていた。ビルとビルの間に挟まれた狭い空を。
 僕は男に近づいて、少し距離を置いたところで立ち止まった。僕と男の間には一メートルほどの距離ができた。
「大丈夫ですか?」
 と僕は聞いた。それ以外にかける言葉が思いつかなかった。
 男は少し首を動かして、ようやく僕を見た。
「変なこと聞きやがる。これが大丈夫に見えるか? 相変わらず間が抜けてるな、お前は」
 僕は少し考えた。しかし、やはりこの男とは初対面であるはずだった。
「どこかでお会いしましたか?」
「ああ? あっち行ってもう俺のこと忘れたのか。薄情なやつだ……」
「いや、その」
「お迎えもいいが、もうちょっと待ってくれ。久しぶりにゆっくり空を見てるんだ。狭いが、青くて、深くて、いい空だ。昔を、思い出すな。お前と、よく神社でこうして並んでたっけか……」
 男は、小さく呻いた。
「見てみろよ、お前も」
 僕は言われるままに空を見上げた。男の言う通りだった。
「先に行っちまいやがって」
 男が誰かと僕を間違えていることも確かなようだ。
「なんとか言えよ」
「救急車、呼びましょうか」
「ああ?」
 男はまた僕を見た。訝しがるような、強い視線を向けられる。
「……誰だ?」
「すいません、ただの通りすがりです」
「タカシは、どこに行った? 今、そこに居ただろう」
「さっきからここに居るのは僕とあなただけですよ」
「……じゃあ、あれは幻か……俺はまだ、生きてるのか」
「僕は生きてるはずなので、多分あなたもそうでしょう」
 僕がそう言うと、男は小さくため息をついた。
「案外、俺もしぶといな」
「大丈夫ですか。血が……」
「どうせ死ぬ身だ。放っといてくれ」
「ちょっと待っててください。救急車を呼びますから」
 僕がそう言って立ち上がろうとすると、男は僕の腕を掴んで止めた。死にかけの男とは思えない力だった。
「やめろ」
 男はそう言って、反対の手で懐の中から拳銃を取り出して僕に向けた。
「余計なことは、するんじゃ、ねえ……」
 僕はとりあえずその場に腰を下ろした。こんな暗い路地裏で、訳も分からず撃たれたくはない。
「病院なんか、ごめんだ」
 男はそう言ってほんの少し力を抜いたようだった。小刻みな振幅で揺れている銃口は、不安を誘う催眠術のようだった。
 銃を構えた時の男は、野性味のあふれる危険な目つきをしてはいたが、もう次の瞬間にはその凄みも極端な落差で治まっていた。
 そうして大人しくなった男の顔を見てみると、頬はややこけているものの、若さが見え、人好きのする、好感の持てる整った顔立ちであった。急に、彼と拳銃は似合わないように思えて来た。
「この町に住んでたんですか?」
 と僕は聞いた。
「何故そう思う?」
「さっき、神社によく行った、と言ってたので」
「ああ……。そうだ。生まれて育った町だ。ここは俺の町なんだ」
「今は、違うんですか?」
「……」
「その怪我、どうしたんです?」
「いちいち五月蝿い奴だな」
「銃で脅されて動けないんですよ。質問ぐらい、いいじゃないですか。じゃなきゃ救急車呼びますよ」
「なんだそれは。脅し文句か」
「ただの軽口です」
 男は鼻をふん、とならして手にしていた拳銃を握りなおした。傷が痛むのか頬が引きつっていて、突っ張ったようなシワが彼の顔からきえる事は無かった。銃口が揺れている。
「お前、素人だよな?」
「特別な能力は何も持ってませんよ」
「…………妙に腹の据わった奴だ」
 確かに銃を突きつけられてはいものの、あまり恐怖心は感じなかった。僕は自分でも不思議だったけれど、なぜか男はこの銃を撃たないだろうと思っていた。それは多分、銃を構えた男の姿に、必死さや殺意より、もう既に何かをあきらめてしまったような雰囲気が漂っていたせいなのだと思う。
 拳銃と言えど、ただの道具だ。そう思えた。
「悪かったな。ただ、ほっといてくれればいいんだ」
 男はまた空を見上げた。というより、一度込められた力を抜いて楽な姿勢になったように見えた。銃口は僕に向けられたままだった。
 僕は大人しくその男の姿を横で見ていた。
 立ち去ってしまう事もできたはずだが、それができなかったのは、僕が男の姿に見とれてしまっていたからだろう。一見すると惨めで、悲惨さすら伺える状況に違いないのだが、その姿は僕の視線を捉えて離さなかった。
 うらやましい、と思っていたかもしれない。
 平凡な平日を淡々と消化している僕とはまるで別世界の住人。
 幼い頃に夢見たような、戦いや冒険の日々。
 僕は勝手にそんなものを想像した。
「名前を聞いてもいい?」
 僕は男に言った。
 しかし、男は数瞬まえには確かに存在していた眼光の鋭さをずいぶん失っていた。
「ああ? 何だ、タカシ」
 どうやら僕が物思いに耽りながらその姿を眺めている間に、彼はまた幻覚を見始めているようだった。
「あなたの名前は?」
「馬鹿だな、お前は」
「大丈夫ですか?」
「心配するなって」
「救急車、呼びますよ」
「俺に任せとけって」
「銃を、下ろしてください」
「うまくいくはずなんだ」
 僕は男の視界の死角からそっと手を動かして、拳銃を奪おうとしていた。
 しかし、その試みがもう少しで達成されようとするところで、男は急に僕の腕をつかみ上げた。ばれたのかと思ったが、違った。
「しっかりしろよ、タカシ」
 ものすごい力だった。腕がそのままねじ切られるのではないかと思った。力の加減を間違って発砲されるのではないかと思った。
「絶望する前に、動け」
 強い眼光が戻っていた。
「お前が俺に言ったんだ。そうだろう? タカシ。諦めるな、俺がお前を」
 男はそこまで言うと、拳銃はするりと男の手からこぼれ、地面の上に転がった。と同時に彼は気を失って僕の腕からも手を離した。
 男はがっくりと首から上を前に垂れ、手足は力なく地面に落ちていた。
 僕はしばらくその場を動かなかった。動けなかったと言った方が良いのかもしれない。男の手はすでに僕から離れていたのに、今度は何か他の別の力によって体の自由を奪われていた。
 男の胸に広がる紅い染みが僕の視線を吸い付けていた。さっきより、広がっているように思える。
 しかし。
 僕は手を伸ばして男の口と鼻の辺りに近づけた。
 息をしている。
 彼はまだ生きている。
 僕はそこでようやく立ち上がった。足下に転がっていた拳銃を拾い上げてビルの空気清浄機の排気ユニットの陰に隠し、駅前の公衆電話まで走っていって、119番を回した。一通り事情を説明すると、通報者である僕の素性を求められたが、通りすがりのものだと前置きして、偽の個人情報を伝えた。とにかくもう死にそうな感じだから、急いでくれ、と念を押して僕は電話を切った。
 数分後、救急車がやって来て、男は運び出されていった。
 僕はぱらぱらと寄り集まって来た見物人に混じって、その様子の一部始終を見ていた。まだ死んではいないらしく、僕は人知れず胸を撫で下ろしてその場を去った。
 しばらく付近を歩き回って、浜にでも寄って、それからカスミの部屋に行こう、と考え、僕は表通りを歩き出した。いつの間にか、目は眩しさになれていて、太陽の下を歩くことに苦痛を感じなくなっていた。
 あの男は助かっただろうか。
 あの男は、僕をタカシというほかの男と間違えていた。
 彼の語った言葉から考えるに、タカシは既に死んでいるのだろう。
 タカシと僕は似ているのだろうか?
「絶望する前に、動け」
 僕は通りを歩きながら、一人、呟いた。

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2009年6月20日土曜日

ひたすらモノを捨てる日々

千葉から東京に移って、もう一週間が過ぎた。
ようやくインターネットも開通し、少しずつ生活の新しいサイクルが生まれようとしている。

表題の通り、今、ひたすらモノを捨てている。
以前から考えていたことであり、先日友人からも焚き付けられた事でもあるのだが、とにかく要らないもの、邪魔なモノを排除して身軽になろう、と。
大きな家具は半分は無くなっただろうか。
テレビもいざ処分してみると大して困りはしない。
むしろ音楽に耳を傾けたり、今まで読んでいなかった本をつい手に取ったりして、部屋での過ごし方に無駄がなくていい。
服も、もう何年も着てないとか、ここ数年で二回ぐらいしか着ていない、というのが案外あとからあとから目について、その度に思い切ってゴミ箱に放り込んでいる。
本ですら、段ボール8箱分ぐらいあったのを一部売り払って、約半分にした。さすがにこれは手放せない、というのがいくつかあって、そのうちのいくつかは『処分用の段ボール』と『残す用の段ボール』のあいだを何度か行ったり来たりした。

これだけ捨てる行為を繰り返していると、今まで「何を手に入れるか」という事を考えてばかりいたのが、今は「何を捨てられるか」という風に変わって来ている。同時に、当然と言えば当然なのだけど、モノに対する執着心がどんどん無くなっていく。

そんな中で、去年使っていた手帳を何の気なしにぱらぱらと捲っていたら、初秋の頃の頁に「モノを捨てて身軽になる!」と書いてあった。そして具体的に何をするべきか、というメモも付記してある。
今やっている事が、まったくそのメモの内容と符合しているのだが、これは結局自分で考えていた事を、人に言われてようやく思い切った、という事になる訳で、自分の行動の遅さに反省せざるを得なかった。しかもいつの間にか忘れていたのが更に痛い。

今年も、年が明けたと思ったら、もう半年が過ぎる。
光陰矢の如し、とは小学生の頃に学校で知った言葉だが、日を追うごとに、日を追わなければその意味は解らないものなのだと痛感する。過ぎ去った日々の分だけ過去が質量を増して、精神の重しになっているのかもしれない。その所為で自分よりも時間の方が速くなっていると感じているのかもしれない。

引っ越し直後、部屋の三分の一の容積を閉めていた段ボールがほぼ無くなって、ようやくじっくりと机の前に座る事ができるようになって、僕はそんな事を考えたのでした。

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