2008年12月27日土曜日

時空蟹

 蟹が泡を吹いていた。
僕はその泡を指先で掬った。
蟹は不思議と逃げなかった。
砂にほんの少し沈み込んだ爪先に少し力を加えて、僕は立ち上がった。
指先に付いた泡はすぐにぷつぷつと弾けて、薄い液体を僕の指先に残した。
蟹はまだそこに居た。
まるで僕を見上げているみたいだった。
僕は意識は遠い過去の記憶の抽き出しから、小学校のプールの情景を取り出した。

プールサイドに蟹が居たのだ。
場にそぐわない小さな闖入者を見つけて、落ち着きのない何人かの生徒がやいやいと周りに集まっていた。
一人がその蟹を突っついて笑う。
女の子が「やめなよ」と言う。
蟹がつくつくと足を動かして移動を始める。
僕はその進行方向を塞ぐような場所に手を置いた。
蟹はそこで、はた、と止まり、そこでやはり僕を見上げる格好になった。
始業のベルが鳴り、先生がみんなに声をかける。
僕は蟹と目を合わせたまま動けなかった。
僕は蟹の進路を塞いでいた手をプールサイドのコンクリートのタイルから浮かせ、蟹を自由にした。
それでも蟹は動かなかった。
後ろから近づいてきた先生が僕の頭をゴツンと叩き、僕は耳を引っ張られてクラスのみんなの列に混じった。
遠目に、蟹がつくつくとした歩みでどこかへいくのが見えた。

砂浜で僕と対峙した蟹は、あの時の蟹ではないかと、僕はそんなことを思った。
もちろんそんな訳はなく、あの時の蟹はもう寿命を迎えて死んでいて、しかも故郷から遠く離れたこの場所に居る蟹が、あの蟹であるはずは、到底なかった。
それでも僕は、あの時の蟹が時空を超えて僕の中の過去と現在を結びつけたのだと思った。

何のために?

そう聞かれても、答えようがない。
何かの意味があるようにも思えない。
ただ、あの時の蟹が、理由はともかく時空を超えて、再び僕の顔を見に来てくれたのだ、と僕はむりやり理解した。

僕は近くに転がっていた口の広い空き瓶を拾って中を海水で濯ぎ、そこに蟹を捕まえて入れた。
蟹はしばらく所在なげに足をむずむずと動かしていたものの、しばらくするとおとなしく なって、ガラスに映る歪曲された世界を興味深く眺めているように見えた。
僕はその瓶を片手に持ったまま、近くに住むカスミの家に向かった。

「蟹を拾ったんだ」
僕はカスミにそう言って蟹の入った瓶を見せた。
蟹はまたぷくぷくと泡を吹いた。
彼女はそれを見てきゃはははと笑った。
「暇だねえ」
カスミは僕に目を向けてそう言ったが、それでも瓶を突っついて蟹がぴくりと反応するのを楽しんでいた。
小さな生き物には何でも反応する彼女が喜ぶことは分かっていたのだ。思っていた通り、彼女の子供のままの好奇心を宿した目を見て、僕は自分の心が和んでいくのを自覚する。
「なんだか懐かしい気がしてさ」
それは事実だったが、僕はまるでいい訳のようにそう言った。
「一人で砂浜歩いてないで、先にうちに来てから一緒にいけばいいのに」
カスミはそう言った。
「いや、なんとなくさ」
一人で歩きたかったんだ、とは言わなかった。
カスミと歩くのが嫌な訳ではない。
ただ、一人になって海を眺めながら歩きたかったのだ。
「その蟹、昔見た気がするんだ」
「へえ、どこで?」
「小学校の頃、学校のプールで」
「……ずいぶん昔だね」
「うん。そうなんだ。不思議だろ?」
「不思議なのは君の方だよ……」
「でも、本当に似てるんだよ。あの時の蟹と」
僕は先ほど思い出した記憶のシーンをカスミに説明して聞かせた。
「他の人は蟹なんてどれ見ても同じだって思うかもしれないけどさ」
「そんなことないよ。どんな小さな生き物でも、ほ乳類でも昆虫でも、みんな違う顔してるよ。それは、小動物フェチのあたしが保証する」
「うん。だから、カスミならそれが分かってくれると思って」
「ふうん」
カスミはそう唸ると、妙に得意そうな顔つきをした。
「窓際に置いたら、干涸びちゃうかな」
カスミはそう言いながら蟹の入った瓶を南向きの窓際に置いた。
太陽は熱い熱量を含んだ光を室内に投げ込んでいて、おそらくカスミの言う通りになってしまうだろうと思えた。
「少し、水を入れたらいいんじゃないかな」
僕はそう言った。
「そうだね。そうしよう」
カスミは小動物好きではあったけれど、特に甲殻類の生体に詳しいと言う訳でもなかったし、その点に置いては僕と大差なかったので、どこか半信半疑のまま台所にいって瓶の中に少しだけ水を入れた。
窓際に戻された蟹は、また泡を吹いた。さっきまでより泡の量が多いように見えた。
僕らはしばらくそうして蟹を眺め続け、時おり口づけをかわした。
しかし窓から差し込んでくる光の熱さに肌が焼けてくるのを感じると、僕はやはり蟹のことが心配になった。
「やっぱり海に戻そう」
僕がそう言うと、カスミは賛成した。

僕はカスミと一緒に砂浜に戻った。
なるべく波打ち際に近づいて蟹を瓶の中から出すと、蟹は一目散、と言う風にまっすぐに海に向かって横歩きを始めた。
「やっぱり熱かったんだね」
カスミは言った。
「またあいつに会えるかな」
波間に消えていく蟹を見送りながら、僕はそう言った。
「多分、こんどはおじいちゃんになった頃に現れるんじゃない?」
「もうぼけちゃって覚えてないかもな」
僕はカスミが何か軽口を叩いて答えてくると思っていたのだけれど、予想に反して、彼女は僕の方にこつんと頭を寄せてきた。
彼女は何も言わなかった。
「どうしたの」
と僕が聞くと、
「こんな時間がずっと続けばいいなあと思ったの」
とカスミは答えた。
「また暇を作るよ」
僕はそう答えて、完全に見えなくなった蟹が泳いでいるはずの水面を眺めていた。



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2008年11月30日日曜日

物語を『閉じる』ことについて

 短編を書くつもりで始めたものが、書いているうちに
(なんだかおわらねえなあ)
と思っていたら、ずるずるといつの間にか原稿用紙換算で100枚を軽々と突破しているのだが、こんなペースですかすかと筆が進むのもそれはそれでいいとして、いい加減、
(果たしてこれはなんの話なのだろう?)
と言う疑問を自分自身に投げかけている今日この頃だ。
短編は勢いで書ききるものだと思っているのだけれど、その勢いが爆発を迎えないままに中火のまま継続していて、そろそろ短編と呼ぶには厳しい長さになってきた場合、これはもう長編なのだという、あきらめにも似た頭の切り替えが必要になってくる。
野放図に、思いつくまま気の向くままの筆任せ(余談ですが、こうしていると「筆」と言う単語はすでに比喩になってしまっていますねぇ。。。)というのも旅としては楽しいのだが、自分以外の他者に向けて作られるものとしては、ちぐはぐさを免れない。
やはりどこかで物語を閉じなければならないのだ。
『閉じる』、というのはこの場合『終わらせる』と言う意味ではなく、『範囲を区切る』、ということだ。
この作業が、物語の世界観を規定していくことに繋がるのだと、自分では思う。『閉じる』作業を始めたと時点で、物語の設計が始まるし、その世界におけるルールが決められていく。
先の見えない旅に終わりを設定することは、実はつまらない。
自分としては、どこまでもどこまでも行き先未定、宿不定、計画なしの気ままな旅を続けたいという願望があって、それを自ら放棄するようなことは出来ればしたくない。それが偽らざる心情でもあるが、文章には読者という話し相手が存在するので、僕は相手に何かが伝わるような言葉を考えなければならない。
物語を作りたいという願望と、そこに同時に発生してしまうジレンマに、なんとなく思いを馳せた今日なのです。


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2008年11月29日土曜日

名も無き動物たち.12

 どうせ自分を変えるなら、『女豹』が良い、と太めのウサギが言い出したとき、番犬は「そりゃいいや」と笑っていたが、その発言がどうやら本気らしいと分かってくると、番犬はしだいに不平を言い出した。イメージと違いすぎる、と言うのである。
「アタシに言わせれば、カモシカの方がよっぽど遠いわよ。アンタ、カモシカって見たことある? 実物はかなりもっさりした雰囲気醸し出してる生き物なのよ」
と、自称女豹が言うと、
「いやー、でもなあ、女豹ってのはなあ……ちょっとイメージが違うんだよなあ……いわゆるひとつのセックスシンボルって言うか、その、ちょっと……イメージがなあ」
「なによ。やっぱりアタシのことただのデブだって思ってるんでしょう。ねえ、羊さん。羊さんでいいのよね? アタシが女豹と名乗ったって別におかしくは無いわよねえ?」
「……あまり肉食獣には見えんがな」
「あらそう? これでも毎日牙を磨いているんだけど……そんなにおとなしく見えるかしら?」
「いやー、何でもいいけど他の動物考えようよ」
番犬は特別なこだわりがあるのか、この件に関しては執拗なまでに抵抗した。今のところ自称の女豹と番犬の不毛な言い合いに決着が付くような兆しは何もなかった。

話を少しさかのぼる。
羊が捕えられていた館から脱出したあと、ウサギの腕を後ろ手にひねり上げている番犬に向かって、羊は
「手を放してやれ」
と言った。
番犬は、
「いいのかい?」
と言ったが、特に抗議するわけでもなく、女の手を自由にした。
女はそれでも体全身で戒めをふりほどくようにして、番犬と距離を取ると、自分の左右にいる二人の男を交互に見て、外に出るなりさっそく羊の皮を被った男に向かって言った。
「どういうつもり?」
「飯の礼だ。それに、頼みがある」
「嫌だと言ったら?」
「困るが仕方ない。でもとりあえず聞いてくれ。俺が世話になったもう一匹のウサギのことについて知りたいんだ。あいつは今どこにいる?」
「知らないわ。知ってても教えないし」
「ハイエナはあいつに罰を与えると言っていた。あいつはどんな目に遭っている?」
「だから、知らないって」
「俺たちに脅されたということにすればいい。場所だけでもいい」
「ちょっと、人の話、聞いてる?」
「聞いているが、聞けない。それに、教えてくれなければ、解放してやることも出来ない」
「へえ。場所を教えたら、アタシをすぐに放してくれるの?」
「正直に言うと時間は稼ぎたい。今すぐにとは言えないが、約束する」
ウサギは羊となった男の顔を、しばらくじっと見ていた。
「こだわるわね。そのウサギさんに惚れちゃったの?」
「……あいつは俺の目の前で泣いた。だから、あいつが苦しんでいるのなら、俺はあいつを助けてやりたい。それだけだ」
「ご立派ね」
ウサギはなおも男の顔を見ていた。しかし、その視線はずるずると男の目の中に吸い込まれていく。
羊の皮の奥で光る、野生の目。
「似合わないわねえ、その格好」
ウサギはそういって、男の提案を承諾したのだった。

「アタシもよくは知らないのよ。ただ、いろいろ聞いてた話を総合すると、場所は間違いなくあそこだと思うのよね」
ふくよかなウサギはつやのいい頬に人差し指をあてながら、頭の中の情報を整理しているようだ。
「場所が分かればいいさ。……しかし、女豹というのはなんだか呼びにくいな」
「もう、いいわよ、それ。アタシじゃなくて、あなたの愛しのウサギさんに呼び方を変えてもらったらどう? 丘の空気におぼれかけてる人魚姫ってあたりでいいんじゃない」
「それはちょっと設定に無理があるんじゃねえかい?」
「アンタは黙ってなさいよ」
呼び名の問題に関してはなかなか決着が付きそうになかった。


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2008年11月22日土曜日

ある旋回にまつわる僕の同調

 船は出航するところだった。
汽笛が咆哮をあげ、舫が解かれ、緩やかに離岸する。
時間ぎりぎりで、僕は乗船することが出来ていた。
行く先を決めない旅の途中でも、こういったひとつひとつの出発は、胸の奥に沸々と新鮮な期待を沸き上がらせてくれる。

手持ちの荷物は少ない。

僕はすぐに船室には向かわず、船側のデッキを散策することにする。港に接していた側を通って先端へゆっくりと移動する。外周をぐるりと一回りするわけだ。
海へ出るために、船はゆっくりと旋回していくので、その流れと少しずれながら流れる景色を不思議な感覚で楽しむことが出来る。

乗船するまで少し走っていたので、心臓の鼓動がまだ波長の短いビートを打っている。
高揚感は錯覚だろうか?
肉体的な代謝活動に精神がリンクしてしまっただけなのかも知れない。
それでもやはり、僕は期待する。
まだ見ぬ土地。見知らぬ人との出会い。
自分が初めて現実的にリンクする事の出来る全てのものが、我知らず僕を待ち受けている。

選手が港へ背を向けた。
僕もそれに同期する。
海はどこまでも広がっている。


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2008年11月21日金曜日

おしらせ

 特に訳もなく気分的な問題でしばらくmixiへのフィードを切っていたのですが、復活させました。
お知らせ、以上。


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名も無き動物たち.11

 街は、何時になくざわついていた。
そこで生きている誰もが、いつもの生活を同じように繰り返しながらも、その日を楽しんだり何とかしのいだりしていたが、どこか気持ちの片隅で落ち着かないものを感じていた。何となくそういう雰囲気である、と言うことでしかないのだが、みんなそれをどう表現して良いのか判らずに困惑しているようだった。
(何かが起こる)
そんな予兆のようなものが街に漂い、空気を異質なものに染めていた。
時間だけが何も変わらずに経過していく。

力をつけてきたとは言え、ハイエナは街の中ではまだまだ新参者だった。
狂犬を叩きのめして、さらに名声を上げることに成功はしたものの、何時までもその感傷に浸っていられる訳ではなかった。
既存の勢力との戦い。
自分の組織内部の統制の維持。
そのための資金調達。
公権力への根回し。
やることはいくらでもあったし、そのどれもが重要で、何一つおろそかには出来ない類のものだった。
ハイエナはほとんど毎日ろくに寝る暇もなかったし、疲れ切っていた。自分の作り上げた組織をさらなる高みに育て上げていくことに全力を傾けてきたが、狂犬との一件で、緊張感の糸が切れていたのかも知れなかった。
そんな彼の耳に届いた知らせは、彼を困惑させ、落胆させ、憤らせ、目を覚まさせるのに十分なものだった。
一報を胸中に抱いたハイエナの舎弟は、怖ず怖ずと彼の耳元に口を寄せ、
『狂犬が、ウサギをさらって逃亡した』
と告げたのだった。


かつて狂犬であり、それから羊になり、そして一度その羊の皮を剥ぎ取られた男を暗く狭い牢獄のような部屋から救い出したのは、牧場で羊の群れを追いかけ回していた番犬だった。
番犬は、その後けっきょく牧場から逃げ出して、羊の後を追ってこの街までやっとの事でたどり着いたのだと言った。番犬は耳が良かったので、街を表から裏まで聞き耳を立てながら歩き回り、大小様々な情報を集め、吟味し、それぞれの情報の関連部分を整理してあの小さな部屋まで到達したのだ。
捕えられていた男がみた鏡の中の目は番犬のものだったのだ。

今、彼らはハイエナのいた街を離れ、なるべく人目に付く道を避けて移動している。
番犬は、自分がいかに完璧な逃亡劇を立ち回ったかということを、しきりに自慢していた。念のため、小太りのウサギを人質にしてさらっていく事にしていたが、後になってそれがその後の展開に非常に有効に働く結果となったことが、さらに彼の機嫌を良くしていた。
「ねえちゃんさあ、ウサギなんかやってないで、カモシカになりなよう」
番犬はしきりにウサギに話しかけていた。
ウサギは特に戒めを掛けられることもなく、比較的自由な状態で歩いている。彼女が人質の身分だとは、端から見てすぐに判断は出来ないだろう。
「あんた、馬鹿にしてんの? アタシみたいなころころした体つきのシカなんかいないっての」
ウサギは馬鹿にしたような目を番犬に向けた。
「いや、変わると思うんだよなあ。きれいな足してるしよう。その体格の割には足首、ほっそいしよう。その気になればすぐやせるって」
「ちょっと、変な目で見ないでよね」
再び羊の皮をかぶった男は、番犬と小太りウサギの会話を聞きながら、黙々と歩いていた。
「だいたいさあ、これからもう一匹のウサギを助けに行くんだろう? ウサギさんが二匹いたら色々と話がややこしくなるじゃねえか。あんたがその可能性のある脚線美を自覚してそんなウサギの格好なんかやめてくれれば、分かりやすくなるんだけどなあ。それってあんたの趣味なの?」
「ハイエナがこういうの好きなのよ。あいつ、女は全部ウサギにしちゃうの。実を言うとこの体格も、ハイエナの好みに合わせた結果なのよ」
「うへえ。なんだそりゃ。そうなのかい?」
「アタシけっこう気に入られてるんだからね。あんた、こんなことして、後からどうなっても知らないわよ」
「へん。俺は逃げ足だけは速いんだ。それに」
番犬は少し前を歩く羊の皮をかぶった男の背中に目を向けた。
「このあんちゃんがいれば、大丈夫さ」
「どうだかね……」
「それよりさあ、カモシカの話、考えてくれよう? カモシカが嫌ならバンビでも良いからさあ」
「……言ってること無茶苦茶ね。意味分かってるのかしら。ああそうだ、知ってる? 『カモシカのような足』って言うときの『カモシカ』って、本当はカモシカじゃなくてレイヨウのことを言うのよ」
「へ? レーヨー?」
「レイヨウ。知らないの?」
「なんだそれ?」
「レイヨウはレイヨウよ」
二人の会話は、少し前を歩く男の耳に不思議と心地良く響いていた。
男は、羊の皮がだんだんと体に馴染んできて、再び羊的な気分の自分に戻ってきていた所だった。
(俺は羊だ。今はそれで良い)
羊は拘束具を当てられていた手首の部分をさすった。枷を嵌められてついた跡が、まだ残っていた。



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2008年11月17日月曜日

名も無き動物たち.10

鳥だろうか?
格子のはまった窓の枠をひらひらと動いたものが何なのか、はじめは男には分からなかった。

自分が犬だろうが、羊だろうが、そんなことは今や独房のような部屋の床の上ではどうでも良かった。豚でもシマウマでも、或いはキリンでもアライグマでもそれは同じ事なのだろう。
ただ、鳥にはなってみたいと思う。
空を飛べるものは、やはり特別だ。我々は重力の軛から逃れられず、いつまでも地に足をつけているしかない。だからこそ、整備された道や固定されたレールが必要になる。我々は自ら決められた道を歩むことを強いられた存在なのだ。
そんなことを、男は考えていた。
しかし格子窓の隙間から入ってきたものが、一瞬ちいさく鮮やかな白い光を放ったとき、男は自分の思考から抜け出し、視界に映るものを見定めた。
それは、鏡を持った手だった。
鏡は窓から少し侵入したところでくるりと下に向けられ、その際に光を放ったのだ。
男には、鏡の向こうにあるものの姿が見えた。
それは、誰かの目だ。誰のものかは判らない。しかし、その目は確かに男の視線を受け止め、何か語りかけてくるようにも見えた。
男は、横で自分の考えに浸り続けるウサギの姿を確かめた。
どうやら、室内に訪れた異変にはまだ気付いていない。うつろな目は、部屋の壁と床の間を彷徨ったままだ。
男がまた窓を見ると、鏡の中の目はいちど男と視線が合ったのを確認(そのように見えた)すると、するすると窓の外に戻っていった。

(誰だ?)
男には、思い当たる節がなかった。
小太りウサギが思考の宇宙に沈んだまま浮かんでこないような状態で部屋から出て行った後、鏡の向こうの目の主が誰なのか、男は考えていた。
あのような形で中の様子を確かめようとする者が、誰かいるだろうか?
ひょっとしたら、あれはハイエナの目だったかも知れない。そうも考えた。しかし、あれがハイエナだったら、奴は目があった瞬間に視線を反らしていただろう。
(ハイエナめ、ウサギにあれこれとさせていないで、自分で正面から直接聞きに来ればいいものを、面倒な奴だ)
ふとそのような思いが浮かんだが、思考の糸はすぐにまた元の流れに戻った。男は、街で会ったやせたウサギのことも考えたが、鏡の中現れた目は、彼女のか細い瞳のイメージとはほど遠かった。
あのやせウサギはどうなっただろう?
次に小太りウサギが現れたときには、その事を聞かなければならない、と男は思った。
あれこれと思いつくことが様々な方向に揺らぎ、男の思考はなかなか定まらなかった。



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2008年11月13日木曜日

名も無き動物たち.9

小太りなウサギが聞いてきたことは、そのままハイエナが知りたいことなのだろうと思えた。
しかし改めて何故だ、と言われると、自分でも首をひねってしまう。
理由など考えたことがなかったのだ。
「俺は羊になる」
と言い残して街から離れたのは、ああしたい、こうしたい、こうなりたい、どこどこへ行きたい、と言うような具体的な願望や目標があっての事ではなかった。
感情の赴くまま、気持ちの流れるままに行動した結果だった。
それは、狂犬として暴れ回っていたときと何も変わらないはずだった。
それでも敢えて言うならば。
その、自分を動かした感情の発露として思い浮かぶ事と言えば。
一匹の羊が、自分を見ていた。
自分がまだ荒々しい狂犬であった頃。
敵を前にして拳を固める瞬間。自分の後ろを大勢の手下どもがぞろぞろと付いてくる様を振り返った時。あるいは隣町の誰彼が自分に挑戦してくるらしいとの報告を受け取った時などに、狂犬の脳裏には現実の視界とは別にもう一つの映像が立ち上がっていた。
群れから離れた一匹の羊が、自分を見ているのだ。
何かを語りかけてくるでもなく、行動に示すでもなく、ただ、こちらを見ている。
初めのうちはさほど気にもとめていなかったのだが、時を重ねるごとに羊が頻繁に現れてくるようになると、無視するわけにはいかなくなった。
狂犬は、時として、その羊と向き合った。
羊は相変わらず黙して語らず、狂犬の方から語りかけようにも、その術がまるで分からなかった。
狂犬は羊とにらめっこする時間が日に日に長くなっていったのだが、日常の出来事は相も変わらず続いていた。
闘いに明け暮れる日々。
しかし、際限のない渇望の象徴のようであった狂犬の怒りは徐々に力を落としていく。
羊の無表情な顔が目に焼き付いて離れなくなってゆく。
狂犬の精神の中で、何かが空回りしていく。
次第に、自分と、羊の区別が付かなくなる。
そのような混乱の中に、彼は人知れず陥っていたのだった。
男はその話をウサギに伝えると、自分で話しながらも、不思議と落ち着いた気分になった。ウサギはどう思うだろうか。荒唐無稽な雰囲気にあふれた話ではあるが、嘘ではない。
「それって、本当の話?」
しばらく男の話に聞き入っていたウサギが示した反応は、その台詞に凝縮されていた。真実か否か、測りかねているのだ。
「少なくとも、嘘ではない」
男がそう言うと、ウサギは部屋の壁と床の間の一角をうつろな目で眺め始めた。それがこの女がものを考えるときの癖なのだということに、男はもう気付いていた。
「じゃあ、あなたは羊になろうと思ったというよりは、訳の分からない力に押し流されるようにしてそうせざるを得なかった、と言うことになるのかしら?」
「どうだろうな。そんなに難しくあれこれ考えていた訳ではなかったから。衝動的なことだったのは、間違いないかも知れない」
「狂犬と呼ばれることが嫌になった、と言う理由では無かった、と言うことは言えるかしら?」
「無い。……それは、ハイエナの考えか?」
ウサギは、質問を無視した。肉付きの良い二の腕をふくらますように腕組みして、壁と床の間を見つめていた。
男は、気にしなかった。ごろりと床に仰向けになり、高い天井を見上げた。
窓のところに、何かが見えた。
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2008年11月9日日曜日

名も無き動物たち.8

 囚われの身であるはずの男に運ばれてくる食事は、回を重ねるごとにどういう訳か次第に量が増え、内容もバラエティに富んだ豊かなものに変わっていった。
 男はそれを訝しんだが、聞いてみたところで小太りウサギは何も説明しなかった。
 彼女は男の質問に答えるような口ぶりでいつの間にか世間話を始めてしまうと言う特技に長けているようだった。
 こちらから何か質問を飛ばしてみても、ウサギは先ずそれに答えるように
「こんな話があってね……」
 と言う風に質問から連想される何かのたとえ話を始め、その話を解説するためにまた別のたとえ話を重ね、
「……というわけなのよ」
 と彼女が言う頃には、まるで別の物語が結末を迎えているのだった。ここはどこなのだ? ハイエナは何を考えている? と男が何度問いかけても、結果はいつも同じだった。

 ウサギの話には、彼女の周辺に生活していると思われる者が登場人物として現れ、生き生きとして語られた。世間話としては筋が良くまとまっていて、いつの間にか聞き入ってしまう展開のうまさがあった。
 その話の内容によって、男は自分が今閉じこめられている場所の周辺でどんな生活が行われているのかという事を感じることが出来たが、あまりに話がよく出来ているものだから、実は全て嘘なのではないかと疑う事もあった。どちらにせよ、彼が現状で知る事の出来る情報はウサギが語る話の中にしかなかったので、真偽の程は確かめようがなかった。

 食事が終わるとウサギは空になった盆を持って狭い監禁部屋を出て行き、また男は一人になる。
 手足の自由を制限している鎖は架せられたままだったが、傷は次第に癒えてきた。
 制限された状況下にありながらも、男は胸につかえていた重いものが少しずつ軽くなり、気分的な明るさも取りも取り戻せているようだった。
 男のそのような内面の変化には、ぽっちゃりなウサギとの会話が大きく影響していることは明らかだった。会話の内容がどうこうと言うことではなく、会話するという行為自体が男の神経に潤いを与えたのだ。
 不思議なことに、男にとってそれはこれまでの人生でほとんど経験することが出来なかった安らぎの時間でもあった。囚われの身でありながらどこか緊張感に欠けていて、何をしなくても出てくる食事を淡々と腹にいれ、女との会話の時間を持ち、それが終わればする事もなくただ寝ているだけ。
 男は床に寝転がり、遙か壁の高所にある窓のあたりに漏れ込んでいる外からの光を見つめた。
 ここに閉じこめられてからしばらくはどうやって抜け出すべきかということを考えていたのに、今やこの環境に順応しようとしている自分のことをぼんやりと考えていた。
 窓の外から、鳥のさえずりらしき音が聞こえた。それはとても美しい音色だった。目を閉じると、自分は広大な草原の真ん中で昼寝をしているのだと思うことも出来た。
 しかし。
(俺はこんなところで安心してしまっていいのか?)
 自問する己の心の声はそう易々と消滅するものでもなかった。

 何度目かの食事が運ばれてきたとき、男は断固とした気持ちを奮い立てて、これまでに何度も繰り返した質問をウサギにぶつけた。
 ウサギはすぐには答えようとはしなかった。彼女は男の口調がいつもと違うことを敏感に感じ取ったのだろうか。いつもの調子で関係のない話を始めることも無いようだった。
 そして、ウサギはしばらく間が空いた後、軽いため息をついた。
「ねえ、あなたは色々と知りたがるけれど、それを知ってどうする気なの? ここから逃げ出す算段でもたてようっていうつもりなのかしら? まさか、気付いてないとは思わないけど、始めから、ここの扉に鍵かかってないし」
「ええ?」
「嘘よ。馬鹿ね。ほんとにあなた単純で面白い。私の親戚にも似たような人がいたわ。その人もすぐだまされちゃうの。その辺あなたにそっくりよ。誰でも分かるような簡単な嘘なのに、いつも引っかかっちゃうの。おそらく、警戒心が欠けてるのよね」
 男は危うくまた彼女のペースにはまりそうだと思ったので、手のひらを彼女の顔に突き出してその話を制した。
「まともに答えてくれないか?」
 男がそう言うと、ウサギは不満の色を顔に浮かべた。
「これからがほんとに面白い話なのに。聞きたくないの?」
「それはまた今度にしよう。俺は知らなければならない。話を前に進めたいんだ。ハイエナは何を考えてる? 俺を捕えておきながら、どうしてまともな飯を食わせたりするんだ? あいつは今何をやってるんだ」
「知らないわ」
「嘘だ」
「本当よ」
「じゃあ、別の質問をしよう。お前は、何故ハイエナに従ってる?話しぶりから考えても、お前はものすごく頭が切れる。あいつの片棒を担ぐ以外に出来ることはいくらでもあるはずだ」
「それも却下ね」
 そこで男は深いため息をついた。手足を結ぶ鎖がじゃらりと音を鳴らした。
「そんなに知りたいことがたくさんあるんなら、少しだけ教えてあげてもいいわ。ただし、その前に私の質問に答えてもらうけれど?」
 男は、そのウサギの提案は事態に前進を示すものだと考えた。
「わかった。何を聞きたい?」
 ウサギは、そこで涼やかな笑顔を浮かべ、
「なぜ、羊になろうと思ったの」
 と聞いた。
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2008年11月7日金曜日

読んだ本


画像がないのでアレですが、最近読んだ本の中で一番衝撃を受けました。
10年以上前にこの世界観を描ききったところにとにかく脱帽です。。。


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2008年11月6日木曜日

名も無き動物たち.7

 ドアを開けて入ってきたのは、男の期待に反して初めて見る相手だった。

 背が低く、肉付きのいい女で、小太りといっても差し支えない体型だが、身のこなしには重苦しい所作は感じられなかった。
 彼女は、男に食事を運んできたのだ。女は食パン一枚とグラス一杯の水をのせた盆を男の目の前に置いて、自分は入り口のドアの近くの壁に背中をつけて座った。
 顔つきを見る限りでは性格のおとなしそうな、全体的に柔らかい雰囲気を感じさせる女だった。
 女は、自分をウサギだと言った。
「お前もウサギか」
 男は言った。
「そうよ。他のウサギさんに会った事があるの?」
 小太りのウサギは答えた。
「ああ。会った」
「どんなひとだった?」
 男は、自分に「逃げろ」といった、スタイルのいいウサギの事を思い出した。
「……泣いていた」
「ふうん。たぶん、優しいウサギさんだったんだね」
「なぜわかる?」
「あなたを見ていてそう思ったのよ。あなた、怖い犬だって聞いてたけど、聞いてた話とはずいぶん違うわね」
「そうか? お前は同じウサギでもずいぶん雰囲気が違うな」
「ウサギにも色々いるのよ。会った事はないんだけどね。どっちにしろ、ハイエナにとっては同じみたいだけど。でもあいつおかしいのよ。ウサギ同士が、絶対に顔を合わせる事がないようにものすごく気を遣ってるの。態度はでかいし、偉そうにしてるくせに、そういうとこものすごく神経質なのよ。変じゃない?」
「ふん、あいつらしいな」
「他には?」
「他?」
「他のウサギさん。会った?」
「そんなにたくさんウサギがいるのか?」
「そうみたい。ねえ、会った事ある?」
「いや、他は知らない」
「そうかあ、残念。……まあ、いいけどね。食べないの?」
「ああ…」
 男は一瞬躊躇したが、小太りのウサギの顔を見ていると、一服盛られるのではないかという懸念が不思議と薄れてしまった。

「わからないな」
 パンを飲み込み、水を飲み干した後で、男は言った。
「何が?」小太りのウサギは聞き返した。
「お前のようなウサギが、なぜハイエナのところにいるんだ? 俺には、不自然に思えるが」
「ウサギにも色々いるのよ」
 と、小太りのウサギはさっきと同じ調子で言った。
「ふうむ。ちっともわからん」
 男は考えてみようとしたが全く考えが進まなかったので、そう言った。
「あなた、ひとの心には疎そうね」
「そうか?」
「じゃあ、聞くけど、あなたは何者? 怒りに狂った犬? 争いを好まない羊さん? 私にはどちらにも見えないけれど」
「なんでもいいさ。俺としては鳥になってみたいんだが」
「なにそれ。ぜんぜん似合わない」
 小太りのウサギはそう言うと腰を上げて食べ物が空になった盆を手に取り、「もう行かなきゃ。また来るわ」と言って部屋を出て行った。
 ウサギがいなくなると、男は、自分の手足が鎖でつながれていた事を、思い出した。
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2008年11月5日水曜日

名も無き動物たち.6


 気がつくと、男が纏っていた羊の皮は剥がされていた。

 目が覚めたのは暗く、じめじめと空気の湿った場所だった。男はそこが井戸の底なのではないかと思った。壁はごつごつと不均等な表面をしていて、天井がやたらに高いところにある。
 手足が鎖につながれている。手首と足首にそれぞれ分厚い金属の輪が嵌められていて、動かすと重苦しい響きのじゃらりと言う音が鳴った。たぶん鉄なのだろう。
 鎖は左右それぞれの手足の輪同士で繋がっていて、右の鎖と左の鎖が手足の間で螺旋状に絡まって解けないようになっていた。
 手足の自由を取り戻すには、両手足に架せられた鉄の輪から鎖を外すか、鉄の輪そのものを解除するしかないようだ。

 意識がはっきりしてくると、体がしびれていて、思うように動かせないことに気付く。
 自分は何故こんな事になっているのかと、記憶をたどってみるが、ハイエナに食らいつこうとしたところから何もかもがぶつ切りになっていて、思い出せない。手足だけでなく、思考の流れもままならないようだ。
 澱みつつ流れていく意識の中で、男は罠にはまったことを悟った。
 ウサギの言葉が正しかったのだ。


 自分が今いる場所が井戸の底などではないということは、すぐに分かった。
 天井に向かって聳え立つ壁のずっと高い位置に格子が嵌められた窓があり、そこから光が漏れ込んでいたし、よく目をこらして観察してみると、ひとつの壁と反対側の壁の間にはいくらかの距離があり、最初の印象よりはずっと広く感じられる空間だった。手足を伸ばすと、体の上下で指先が軽く壁に触れた。鎖自体にも、そうやって体を伸ばせるぐらいの長さがあった。
 ぐるりと体を転がして反対側に体を向けると、目の前に扉があった。

 現状から察するに、強い麻酔か何かを打たれたのだろう。
 その上であちこちを痛めつけられたに違いない。体の痺れが薄れてくると、入れ替わりに体中から痛みが襲ってきた。四肢、腹部、顔に至るまで全身のあらゆる所が殴られるか蹴られるか、或いは何かの道具で打ち付けられたものと思われる。痛みは体の奥から不快な波動を送ってきて、痛みだすたびに頭に響いた。
(まいったな)
 というのが男の感想だった。
 あまりにも見事に相手の策略にはまったことに、自分がそこまで迂闊だったのかと思い知らされる思いだった。あきれてものが言えない、というところだが、自業自得を嘆くときは既に時すでに遅しというのが常套だ。
 だが、男にとって過ぎた事を悔やむというのはまるで辞書にない言葉だった。
 自分の手足に架せられたものが、どうやら独力で外すのは難しいと判断したときから、無駄に体力を使うべきではない、と決めた。
 壁を上るのも現実的ではない。
 ならば、待つべきだ。
 羊でも、狂犬でもない男は、ハイエナがいずれ現れるものと予想して、床に横になったまま、目の前のドアをじっと睨みつけた。
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2008年11月1日土曜日

名も無き動物たち.5


 ハイエナは、しゃべりながら、少しずつ冷静さを取り戻していった。
 ちらちらと抜け目ない視線を周囲に配り、自分の手下どもが徐々に周りに集まってきていることをそれとなく確認した。

 羊の頭からは、まだウサギの姿が離れなかった。
 ウサギの流した涙の意味は、自分が思っていたものよりもずっと深く、ひどくもつれてしまった釣り糸の固まりのように、どうにも手の施しようが分からないものだと言うことが、理解できたような気がした。
 そして、己の無力感がまざまざと思い知らされた時、さざ波のように何かが自分の内側から沸き上がってくるのを感じた。
 ほとんど忘れそうになっていた、捨てたはずの感情。
 深い深い井戸の奥の水面が激しい熱に熱せられて泡立っているような、懐かしくすらあるもの……

「おやあ? すんげえ牙してるなぁ、羊さんよぉ」
 ハイエナが、羊の顔をのぞき込むようにした。羊の顔の変化を、ハイエナは楽しんでいるようだった。しかしそれはあくまで表向きの表情で、内心的には感嘆に近い思いで見ていた。
 羊の口元から、狂犬の牙がはみ出している。
 獰猛な、怒りの権化であった頃の狂犬の口を、ハイエナはしっかりと覚えている。
 羊の口の端がつり上がり、その隙間から見える何者をも引き裂く鋭利な犬歯の放つ光は、かつてハイエナが狂犬に対して抱いていた畏敬の念を思い起こさせる。
(俺はあんたを目指してきた。ずっとずっと、あんたに追いつきたいと思っていた!)
 だからこそ、勝たなければならなかった。
 どんなことをしてでも。自分のやり方で。
 そろそろ、頃合いだ。

「なあ、羊さん。なんだかわからねえけど、おれはあんたの事が気にいっちまったよ。あんたさえよけりゃあウサギの一匹や二匹、すぐに都合してやるぜ。どうだい?」
「なぜだ?」
「気に入ったって言ったろう。それが理由さ」
「違う。ハイエナよ、お前は何故そうなった?」
「何の話だい?」
「ウサギを放してやれ」
「どのウサギだ?」
「お前が飼っているウサギだ」
「いっぱい居すぎてどれのことだかわかんねえよ。この街にも一匹いるが、そいつのことか? あいつはどうやら俺の言いつけを守らなかったみたいだから、後できつーいお仕置きをしなきゃなんねえ。放すわけにはいかねえな」
「貴様」
 男は牙を剥いてハイエナに襲いかかった。


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余談

 なにやら頭が痛い。
 悩み事や心配事の類の話ではなく、物理的、肉体的な痛みのことだ。
 二日前には眉間に色んなものが圧縮して来るような締め付けるような痛みがあり、ダウンした。
 微熱もあったものだから風邪でも引いたのかと思ってゆっくり休養をとり、これでもう回復、と思っていたのが、今日になったら側頭部が両サイドともズキズキと悲鳴を上げている。

 原因は何かと考えていると、ふと思い当たったのは「知恵熱」と言う単語だ。

 今現在、僕は早寝早起きの生活サイクルを実行している。
 朝は四時から五時の間に起床し、始発かその次の電車に乗り、職場の近くのファミレスで長編小説を書き進め、それから仕事をして午後の四時に仕事を終え、家に帰る。
 そして夕食をすませたらすぐにパソコンの前に座って短編小説を作り始める、と言う流れだ。
 ここに最近、仕事で考えなければならない事が増えてきて、朝から晩まで、もしくはねている間にもうんうんうんうんと考え続けている状態になり、実際、余裕がなかった。
 キャパシティを超えて脳みそがオーバーヒートを起こしたのだろう。

 何となく食欲も薄れ、急激にやる気が減退してきているのだが、さっき缶ビールを一本煽ったら頭痛が治まったようである。血の巡りが悪かったと言うことか。
 なんだかよく分からない。

 玄関から何者かの来訪を告げるチャイムが鳴ったが、それは無視した。
 どうせ新聞とか宗教の勧誘に違いない。
 歓迎できないものの対応をして頭痛がひどくなったら、自己嫌悪に陥ること必至である。
 帰れ帰れ。二度と来るな。

 まあとりあえずそれはいいとして、この頭痛、いつまで続くのであろうか。
 ああ、なんとなーくやる気もわかないのでオチもつけないままこのまま話を終えるとします。



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2008年10月29日水曜日

名も無き動物たち.4


 ハイエナの嗅覚は優れていた。
 だから、街を出ようとする一匹の羊を見つけた時、ハイエナは不思議とムズムズし始めた自分の鼻を信じた。
(あいつ、怪しいんじゃねえの?)
言葉にすれば、そんな感覚。
しかし、それはただの感覚であっても、絶対的に正しい。
 かつて狂犬が街を去ったとき、そこには完璧だった力の空白=秩序の崩壊が残った。
 ハイエナにとってそれはチャンスだった。そして彼はそれを確実にものにした。己の卑劣な知性と、物事を見極める抜群の嗅覚がハイエナの武器だった。
 ハイエナは、嘘と、罠を、自分が必要なときに正しいタイミングで自在に操り、ライバルを貶め、他人を犠牲にして今の地位を築いてきたのだ。
 危ない橋を渡ってクスリを売りさばき、金も手にした。ついでにその二つを使って、いくらでも自分の言うことを聞く手下を何人も侍らせるようにもなった。
 自分は狂犬とは違うやり方で同じ力を手にしたのだ。
 そう言う自負が、ハイエナを支えている。
 そして。

 ハイエナは興奮していたのだろう。
 いつもの彼ならまず手下を使って様子を見て、それから必要な手段を考え、慎重に実行に移す。そして動き出したら一切の躊躇はしない。
 しかし、彼はすでに歩き出していた。そして、やたら体格のいい羊の背後に素早く音も立てずに忍び寄り、声を掛けた。
「そこのあんたよう、あんた、ただの羊じゃねえよなあ」
 羊は、余裕のあるゆったりとした歩みを止めずに、ちらりとハイエナの方を見ただけで、
「俺はただの羊」
 と言った。
「そんなわけねえんじゃねえの? 羊はそんなガタイしてねえんじゃねえの?」
「ガタイのいい羊もいるさ」
「そうかなあ。俺にはそうは思えねえなあ」
 ハイエナは、自分より背の高い羊の横に並んで歩き出した。体の真ん中で心臓がバタバタと暴れ出したみたいに、激しい動悸が脈打っていた。
 トリップの入り口みたいだ。素面なのに、キまってきやがった。やべえな。最高だ。
 ハイエナの唇の端が邪悪な形につり上がり、目尻は鋭角なまでに尖り始めた。
「まあいいや、羊さん。聞いてくれよ。昔、俺の街に一匹の狂犬が居たんだ。俺はそいつに憧れてた。憧れすぎてヤラレちゃってもいいと思ったぐらいよ。へへ、ヒッ。強くてなあ、とことん強かったよ。残忍で、容赦がなかった。誰に対しても。俺は今そいつを追いかけてるんだ。羊さん、あんた、何かしらねえかい?」
「羊はあまりものを考えるのが得意ではない。記憶力も悪い」
「そうなのかい? 知らなかったなあ。ほんとうか?」
 羊は、自分の体を覆う羊の皮をぎゅっと内側に引き締めた。
「でもよう、羊ってのは、群れの中にいるもんじゃあねえの? あんた、見たところひとりぼっちだけど?」
「孤独な羊もいるさ」
「へへ、そうか。面白えな。うん。あんた、面白れえ羊だ。なあ?」
「俺は至って普通だ」
「そうか、まあ聞いてくれよ。俺は今、ウサギを飼ってるんだ。かわいいウサギでなあ? 昔、狂犬のやつに惚れてたウサギさんだったんだが、クスリ漬けにして、俺のものにしたんだ。何でも言うことをキクんだぜ? 俺の言うことは何でもキク。へへへ。どう思う? 羊さん? 羨ましくねえか?」
 羊は、ウサギさんの流した涙を思い出していた。
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名も無き動物たち.3

「逃げて」
 とウサギは言った。
「ハイエナを覚えてる?」
「ハイエナ?」
「いっつもアンタのご機嫌を窺ってたやつさ。アタシ、今あいつの女なんだ」
「ほう、それで?」
「さっき、アンタがこの街に来ていることを知らせちゃったんだ。そしたらあいつに、どんなことをしてでもアンタを引き留めておけって言われて」
「それでこうなった、と言うワケか」
「ごめん。でも、アタシあいつに逆らえないんだ。弱みを握られちゃってて」
「それで、どうして俺が逃げなきゃならない?」
「アンタがいなくなった後、ハイエナは、少しずつ自分の力をつけてきた。今ではあの街のナンバーワン。その力をこの街にまで伸ばしてきてる。でも、その一方で、今でもアンタにものすごく強いコンプレックスを抱いているんだ。ほんとにね、まるで病気みたい」
「あいつは、周りを気にしすぎるところがあったからな」
 羊は、うっかり狂犬時代の記憶を口にしていたが、ウサギはもう気にしなかった。
「今なら俺が勝つ、ってまわりに言いふらしてる。自分でもそう思っているみたい。でも、周りは、私もだけど、ハイエナが狂犬に勝てるなんて誰も思っていないんだ。あいつはそれが気に入らなくて、苛々してるんだ。いつもね。だから、直接アンタと戦って、アンタに勝つ事で力を示そうとしている」
「なぜわざわざそんな事をする必要がある?」
「自分が真のナンバーワンだって、周りに認めさせたいのさ」
「俺には関係ない」
「アンタがそう思っても、それこそあいつには関係ないよ」
 羊は、ハイエナの事を思い出していた。気が小さく、ずる賢いところはあったが、かわいい手下だったハイエナ。
「可哀想なやつだ。だが、逃げるまでもない。戦って負けてやればいいだろう?」
 羊は、本当にそう思っていた。俺はただの羊だ。もう狂犬ではないのだ。勝ち負けは、もう自分には関係のない世界だ。
「甘いよ。ハイエナは、勝つためならどんな汚い事でもやる。きっと、ひどい罠をしかけて、アンタをぼろぼろにしてしまうよ。お願い。逃げて」

「……ふう」
 羊は、長い間考えて、そう漏らした。
「いいだろう。ウサギさん、アンタの言う事を聞く。黙ってここから離れることにする」
 羊はそう言って、ウサギのベッドから離れた。
 ウサギは、心の底から安心して肩の力を抜くことが出来たが、彼がウサギの寝床に背を向けたときに翻った羊の皮の下に、それまでとは違う彼の顔が見えた気がした。
「アンタ…… それが本当の顔なの?」
「何がだ?」
「もう一度見せて。その羊の皮を剥いで見せてよ」
「何度も言うが俺はただの羊。狂犬なんて俺は知らない」
「違うんだ。アタシが見たのは、たぶん、狂犬になる前のアンタの顔…… そうだ。そうに違いないよ! ねえ、アンタ、狂犬になる前はどんなだったのさ」
 ウサギの言葉は、羊の心を捉えたようだった。羊は、狂犬になる前の自分などとっくに忘れてしまっていて、そんな顔があったことすら思い出せなかった。
 しかし、かすかな記憶が精神の中枢から何かを伝えてきた。
 確かに俺は、狂犬として生まれてきたのではなかった……
「あんた、本当は何者なんだい?」
「……………………わからない」
 ウサギは羊の顔にそっと手を添えようとしたが、その手から逃れるようにして、羊はウサギに背を向け、部屋から出て行った。
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2008年10月28日火曜日

名も無き動物たち.2


「羊ももう飽きたな。鳥にでもなりたいところだが……」
 残念ながら、空を飛べそうな羽は羊の背中には無かった。おまけに新しく翼が生えてくる可能性はほとんど皆無と言えた。羊は空を飛ばないものだ。

 羊はまたも一文無しになって、あてどもなく歩いていた。何かをせねば、と思いつつも、何をしたらいいのかまるで思いつけなかった。

 彼はひたすら歩いた。考えても考えても、うまいことが頭に浮かばず、まるで水中めがねをつけて狭いプールの中を延々と歩き続けているみたいな気分になった。
(このまま歩き続けて、またどこかで行き倒れるとするか。そしてまた夢を見て、どこかの群れに身を寄せてしまえばいい。要は、どんな群れに組み込まれるのかと言うことが問題なだけだ)

 羊はそんなことを考えていたが、とある街角で声を掛けられた。
 羊に話しかけてきたのはウサギのような女だった。
「そこの羊さん、あんた大丈夫? なんだかふらふらしてるよ」
「いやあ、もう、腹が減ってね」
「アタシのウチに寄っていきなよ。ご飯を食べさせてあげるからさ」
「俺は無一文だぜ」
「いいのよ、そんなこと」
 うますぎる話だと思ったが、羊は空腹には勝てなかった。もう腹ぺこで羊の皮が体にべっとりと張り付いてうまく剥がすことが二度と出来なくなりそうなほどだった。

 結局羊は誘われるままにウサギの後についていった。

 ウサギの出してくれたごちそうは大変においしく、そんなものを食べたのはあまりに久しぶりなことだったので羊の全身の毛が逆立ったほどだった。
 満腹感で夢見心地になっているうちに、羊はいつしかウサギと同じベッドの中にいた。
「アンタ、何でそんな羊の皮なんかかぶってるの」
 枕元で、ウサギは羊にそう聞いた。

「さあな。なんでなのか、もう忘れちまいそうなくらいくだらない理由だったように思う」
「思い出してよ」
「んん? うーん…… あれ、やっぱり忘れちまったかな」
「何よ、それ」
「まあいいじゃねえか」
 ウサギは羊の横顔をじいっと見つめていた。それは何かを見透かそうとしている目だった。羊はなんだか急に落ち着かなくなって、ウサギに背中を向けた。
 するとウサギは、
「アンタ、本当は狂犬でしょう? アタシ、知ってるんだから」
 と言った。
「なんだと?」
「アタシ、あの街に住んでた。それだけじゃない。アンタの取り巻きの一人だった」
「…」
「アンタ、アブナイやつだったけど、女には優しかったもんね。好きだったんだよ」

「悪いが、人違いだ。俺はただの羊」
「悲しいこと言わないで。アンタは狂犬。私は覚えてる」
「俺が何者にしろ、俺は覚えちゃいねえんだ。悪いがな」
「そう……」
 ウサギは黙ってしまった。羊は、寝返りを打ってウサギの方に向き直り、
「悪いな」
 と言ってウサギの耳を優しく撫でた。ウサギの目から、ホロリと涙がこぼれた。

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2008年10月26日日曜日

名も無き動物たち.1


 狂犬と恐れられた男がいた。
 男は、来る日も来る日も襲いかかってくる様々な敵と戦い、勝利し、勝ち続けた。
 初めのうちはただ襲われるままに倒していくだけだった。
 しかし、彼は何人もの男たちを倒していくうちに、勝利と征服の味を知り、次第に自分から戦いを挑むようになった。
 一度そうなると、彼は見境無く、休むことなく敵に挑み、完膚無きまでに叩きつぶした。
 一方で、彼に挑戦し、彼を倒すことで名を上げようとする者も後を絶たなかった。当然、彼はその全てを返り討ちにして、二度と自分に逆らうことが出来ないぐらいまで痛めつけた。

 ある日、狂犬は
「疲れたな」と言い、次の日に
「俺は羊になる」と言って姿を消した。


 羊は、何も持たずに旅に出た。
 服を着ている以外は完全に手ぶらだった。財布すら持たなかった。
 今、彼は社会的に自分自身を証明することが出来るものを一切身につけていない。
 なるべく遠くまで、と思い、足が動く限り歩き続け、とうとう精根尽き果てて行き倒れる頃には故郷の色合いなどまるで見られないほどの所まで来ていた。


 意識を失った羊は、夢を見ていた。
 羊の体は、ゴムボートの上で波に浮かぶようにゆらゆらと、空を漂っていた。
 遠く地上では、わんわんわんと吠えている何匹もの犬の鳴き声が、遠ざかるさざ波のようだった。
 羊は何もせず、体を風に任せて流れ続けた。
 どこまでもどこまでも、空は続いた。
 彼は解放されていた。

 目が覚めると、羊は群れの中にいた。
 番犬が彼を吠え立て、ワケも分からないうちにひたすら追い回された。

 陽が出ている間、延々と歩かされ、疲れ切った夕方頃に柵の中へ追いやられた。
「これが俺たちの仕事なのだ」
 リーダー格の羊はそう言った。
「歩いて、歩いて、歩き回って、最後には毛をむしり取られて食われちまう。それが運命ってやつなのだ。誰が決めたか知らねえが、それに従うのが羊の役目ってやつなのだ」
「なんだか理不尽だ」
「若いな。おめえさん」

 何日かそこで過ごしていると、一匹、また一匹と、知った顔が消えていっていることに気付いた。これが俺たちの仕事だと言っていたリーダーの姿が見えなくなった時、かつて犬だった羊は、脱走を決意した。
 柵を跳び越え、草原を駆け抜けていくと、番犬が彼の後を追ってきた。番犬はふっふっはっはっと、息荒く羊を追いかけてきた。
 番犬の足は速く、羊はあっという間に追いつかれた。


「見逃してくれ。俺は食われたくない。どうしてもというなら俺は戦う。でも、戦うのも嫌なんだ」
 羊は言った。
「おいおい? おやおや? 戦うだって? 正気か? この羊さんはよう」

 番犬はそう言うと、有無を言わさず襲いかかった。番犬は番犬で飼い主にこき使われて腹を空かしていたのだ。
 しかし、羊は羊の皮を脱ぎ、番犬を簡単に伸してしまった。
 番犬は、自分を見下ろす、羊の皮をかぶった狂犬を見上げて、悔しげに罵りの声を上げた。
「お前、羊かと思えば狂犬じゃねえかよう」

「勘違いするな。俺はただの羊」
「ふん。そんな羊の皮をかぶったって、狂犬は狂犬以外の何者でもねえんだよう」
「俺は羊だ」
 そう言って、羊はその場を去った。
「待ってくれよう。俺も連れて行ってくれよう。俺もこんな所は嫌なんだよう」
 後ろで番犬がそう叫んでいたが、羊はもう振り返らなかった。
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2008年10月15日水曜日

ここは天国

「ここは天国さ」

 男は、ぽつりと、そう言った。
 特に誰かに言って聞かせようとした言葉ではなかったようだ。その証拠に、男の周りには連れが見あたらない。一人でコニャックのグラスを傾けている。そして終始うつむき加減の姿勢を崩さない。
「なあ、そうだろ?」
 第三者から見れば、彼はグラスに向かって語りかけているように見える。
 バーテンは、いつもなら声を掛けていたところだったが、どうしようか迷っていた。 
 何となく、今は声を掛けない方が良いような気がしたのだ。これは、長年、経験を積んできたバーテンとしての勘によるものだ。
 幸いなことに、男の言葉はつぶやきのレベルで周りに聞こえている様子もなく、他の客に迷惑にならなければ自由にさせておいても構わないだろう。悩みを抱えて一人で酒を飲みたい客だっている。

 すると、隣の空席がいつまで経っても埋まらず、その空疎感に業を煮やしたらしい一人の女性客がやって来た。彼女は不安定な手つきでカクテルグラスをふらふらと宙に漂わせながら、カウンターの周辺をなめるように通過しながら男の隣にたどり着いた。目が完全に据わっていて、一目で泥酔しているのが分かる。
「ちょっとあんた、何一人でぶつくさやってんのよ」
 女はそう言うなりグラスを持たない方の手を腕ごと男の肩にまとわりつけてきた。物腰の一つ一つに有り余るほどの扇情的な動作が散りばめられていて、好戦的なまでだ。戦うという手段のためには目標や標的を選ばない、と言う空気が感じられる。
 男はちらりと女に目をやって、
「君はどう思う?」
 と聞いて、再び視線をグラスに向けた。男はあくまで冷静だった。
「何の話? あ、待って。小難しい話は無し。そんな気分じゃないの」
 女は男の肩に巻き付けていた腕をほどき、その指先を横からむりやり男の唇に当てた。巨大な胸を張り、艶めかしい微笑みを浮かべる。もう片方の手は、グラスを空中でふらふらとさせたままだ。
「色っぽい話にして」
 女はそう言うと男の顔をゆっくりと自分に向けさせ、その手を自分の口元に運び、さっき男の唇を塞いだ指先をちろりと舌先でなめ回した。
 男は自嘲的な色合いの強い小さなため息を、鼻でならした。
「ここは天国だろう?」
「残念ながら違うわ。でも道は知ってるから。あたしが天国まで案内してあげる」
「すまない。今日はあんまり気分が乗らないんだ。いつもなら… いや、別にいい」
「なあにぃ? 嫌なことでもあったのぉ?」
「いや、俺はいいんだ。俺のことはすこぶる順調だと言っていい。ただ、周りに色々と悩みを抱えてるやつが多くてね。そう言うことを色々と考えてたんだ」
「なにそれ。他人の悩みが悩みの種で、悩んでるうちにあんたが悩み始めて余計に悩み深くなったってこと? ん? 合ってる? 今の」
「だいたい合ってる」
 女はさっき舐めた指先を男の頬に軽く突き刺してぐりぐりとこね回していた。
「もう、そんなの忘れちゃいましょうよぉ」
「そうしたいんだがね。なかなかそうはいかなくて」
「わかった。あんた、カウンセラーか何かでしょう。人の悩みを聞き過ぎて食傷気味になっちゃったんだわ。きっと」
 男は『おや』と言う顔をした。
「よくわかったな。その通りだ」
「ほんとに!? わあ、当たっちゃった! ねえねえ、私の悩み、ただで聞いてくれない? あんたたち、聞き上手なんでしょ?」

 バーテンは、一度カウンターの奥の厨房に姿を消して、しばらくしてから戻ってきた。
「Mさん、お電話が来てるんですが、お繋ぎしますか?」
 男は何かが顔に当たったのだけれど、何が当たったのか全く分からない、と言う顔をして、
「俺に電話?」
「ええ。すみませんが、コードレスフォンではないので、奥でとっていただけますか」
 M氏は何となく合点がいかないような顔をしつつも、バーテンの言葉に従った。
 バーテンは店の奥にM氏を連れて行き、
「すみません。電話は嘘です。少々、ご気分が優れないように見受けられましたので。あの女性は退屈が我慢できない方ですから、もうしばらく待っていれば、河岸を変えてくれますよ。それとも、余計な気配りとなってしまったでしょうか?」
「いやいや。そんなことだったとは。ありがとう。正直、助かったよ」
 バーテンは、人の良い笑顔を浮かべて、
「では、こんな所では何ですので、こちらへ」
 と言って、厨房の奥の扉を開いた。
 そこには小さなベランダがあって、控えめな大きさの丸テーブルとデッキチェアが二つ、テーブルの両脇に置かれていた。そこはバーテンが気晴らしに寛ぐための場所だという。
「地味ですが、この世の天国と言えなくもないですよ」
 ベランダからは都市の夜景が一望できた。さすがにビルの裏側なので百万ドルの夜景、とはいかないものの、それは十分に美しい光景だった。
「すごいね。悩みを忘れそうだ」
 男は思わずそう言った。
「常連さん専用です。ただ、予約は出来ませんので、そこはご勘弁を。頃合いを見計らってまた声を掛けます。それまでごゆっくりどうぞ。まあ、今日はMさんの貸し切りでもいいですけれど」
「なんだか逆に、すまないね」
「いえいえ、とんでもない。ぜひまたお越しいただければ幸いです」
「来るよ、もちろん。むしろ回数が増えそうだ」

 バーテンがカウンターに戻ると、さっきの女がグラスを空にして待っていた。
「どう? うまくいった?」
「完璧。これであの人も店に足を運ぶ回数が増えるだろう」
「でも、来る度にまたベランダ使わせろって言うんじゃない?」
「その時は先に使っている人がいるって言うさ。あの夜景は、本来僕だけのものだからね」
「ふうん」
「また頼むよ。ありがとさん」
「いいのよ。あたしはタダ酒が飲めれば。お芝居してるのもおもしろいしね」
「そりゃよかった」
「でもたまには、あたしにもあのベランダ使わせてよ。色っぽいサービスしてあげてもいいわよ」
 バーテンは、ちらりと女の顔色を見た。
「そうだな。こんど店が暇なときにでも」

2008年10月13日月曜日

 毒って、何だろうねえ…

 ある人に言われたのさ
「君の作品には毒が足りないね」

 そして考えるわけさ



 毒………

 ただ単に不快な物事を描けばいいのかな?

 試しに『毒舌』を辞書で引いてみる。

『毒舌』
 →辛らつな皮肉や悪口を言うこと

『皮肉』
 →事実と逆の事を言って遠回しに相手の弱点を突く事

 だそうだ。



 うーーーーんんんん
 もうちょっと、批判的になれ、と言う事かな!?

 ひひん。すみませんねえ。
 頭痛の種をばらまいてみました。。。。。

2008年10月12日日曜日

とっておきの話

「とっておきの話を教えてやる」
 先輩は部室でただ暇を持て余しているだけの僕のそう切り出した。
 この人はまじめな顔をしてどこまでが冗談なのかわからないような話をするのが好きな人だ。
「何ですか? 聞かせて下さい」
「みんな今の世の中は電力でほとんどのものが動いていると思っているようだが、実はそうではない。あれは全て小人の仕業なんだ」
「はい?」
「小人だ。知らないのか」
「小人ってアレですよね、七人の小人とか、ディズニー的な」
「違う! 全く種類、いや人種と言うべきか… 人種が違う!」
「小人に人種なんてあったんですか?」
「当たり前だ。おまえ、小人がみんな日本語をしゃべるとでも思っていたのか?」

 はっきり言って小人が日本語をしゃべるのかどうかすら想像もつかないが、あえてそれは言わないでおいた。先輩の目は大まじめなものに見えたからだ。正直言って怖い。
 しかし聞かない訳にはいかない。後で部の他のメンバーと酒の肴にするのだ。何なら多少と言わず尾ひれをつけて話を拡大させてしまいたい。意味もなく気楽に楽しい時間を過ごせる期間はそう長くはない。笑える話をとことん笑い尽くすのが、学生たる立場を得た者の使命というものだ。

「まあいい」
 と先輩は言ってふてくされたようにパイプいすの背もたれにドカッと体重をかけた。
 こんな所で話を終わらせていただく訳にはいかない。僕はそれとなく先輩に話を先に進めるよう、失礼のない言葉遣いで促した。
「あのな、小人はみんな小さいんだ。『小人』と字で書いた時のイメージ以上に小さいと言える。いや、一文字で表現できる小ささではそもそも無いんだよ」
「どのくらい小さいんですか」
「顕微鏡で覗いてもぎりぎり輪郭が解る程度の小ささらしい」
 と言う話しぶりからすると、誰かから伝え聞いた話であるらしい。
 いったい誰に担がれたものやら。と言うかその前に信じないでもらいたいものだが。あなたは頭がメルヘンに包まれた設定のデビュー直後のアイドルか何かですか? とツッコミを入れたくなる。

 以前、「そんなんでよく受験受かりましたね」と失礼な事を酒の席で勢い余って聞いたやつがいたが、先輩は怒るどころか機嫌を損ねたそぶりすら見せず、
「俺は素直なんだ。人の言う事はすぐ信じる。もちろん教科書や参考書の内容もな。だから人よりも勉強ははかどるのだ」
 と言って不敵な笑みを浮かべて見せていた。

「じゃあ、電器はどうして光るんですか?」
 と僕は質問を続けた。
「小人は体が光るんだ。蛍が強烈になったような光を、だいたい十人ぐらい集まると出せるようになるという話だ」
「じゃあ、車とか電車が走っているのは?」
「あんなもん、人力に決まっているだろうが。大きなパワーが必要とされるところにはそれだけ無数の小人たちが集まって汗を流しているということだ。我々は小人たちに感謝しなければいかんのだ、本当は」
 なんだか妙に理屈が通っているような感じだ。
「この話って、電子を小人に例えた事だったりは……」
「解ってないな、お前。科学なんて空想で妄想の世界なんだよ。理屈をごねまわして解ったような事言ってるだけで、中身なんかなんもありゃしない。そもそも俺は文系だからな。理系の奴らが何言おうと知ったこっちゃ無いね」
 先輩は独自の偏見的価値観を表明し、ふん、荒い鼻息をたてた。
 ひょっとしたら理系の女の子に手ひどく振られたりでもしたのかな、などと僕が思っていると、始業のベルが構内に鳴り響いた。あいにく僕の時間割のこの時間帯における部分は空白なので、あわてる事もない。
 先輩は
「ま、いっか」
 と言ってカタカタと手持ちの荷物をまとめて部室を出て行った。

 再び暇になった僕は、科学的、文明的なエネルギーを小人が代替している社会について思いを巡らし、それはなかなか楽しそうな世界だと思えたので、酒の肴の尾ひれはひれを考え続けながら、夜が来るのを待った。

2008年10月11日土曜日

よく乾いたTシャツ

 好天に晒されてぱりっと小気味よく乾いたTシャツを頭から一気にかぶると、上半身が心地良い感触に包まれる。
 どことなく沈みがちになっていた週末の気分など、まるできれいさっぱり無かったことのように忘れることが出来る。
 よく乾いたTシャツには、そんな力がある。

 コウイチは日曜日の朝早くから溜まっていた洗濯物を片付け、昼の時間が始まる前にはそのほとんどがすっかり乾いてしまった。
 目が覚めたのは、まだ始発電車も動き出していないくらいの時間だった。

 土曜日は久々に仕事が早めに片付いて、コウイチはそそくさと家に帰り、早くも睡魔に襲われてふらふらになる頭と体を振り絞って風呂に入り垢を落とし、夜の始まる頃にはもうベッドの中で熟睡していたのだ。
 おかげで早い時間に目が覚めて、頭もすっきりとしていた。
 しばらく頭痛に悩まされる日々が続いていたのに、頭の奥に腫瘍のように住み着いてしまった重い感覚が、嘘みたいに無くなっていた。Tシャツ一枚でこんな気分になれるのなら、普段から早起きしてみるのも悪くない、とコウイチは思った。

 あまりの気分の良さに、コウイチは携帯電話を手にとって、短縮ダイヤルの一番最初に登録してある相手に電話をかけた。
 ………
 ……
 …

 八回目のコールでようやく反応があった。
「………何?」
 明らかに機嫌が悪い。
「起きてた?」
「寝てたわよ」
「おれ、今日ものすごく早く起きて、洗濯なんかももう終わっちゃって、それで、天気が良いからさ、Tシャツがカラッカラに乾いて気持ちいいんだ」
「……」
「何か知らないけど最近悩まされてた頭痛もなくなっちゃってさ。早起きって良いもんだね」
「……あ、そう。そりゃ良かった」
「君もやってみたら。この清々しさは、きっと病みつきになるよ」
「ねえ」
「うん?」
「いきなり電話してきて、言いたいことはそれなの?」
「そう」
 受話器の向こうからは深いため息が聞こえた。その一息で空を曇らせる大きな雲が生まれるのではないかと思えるほど雄弁なため息だった。
「あたしの日曜の楽しみはね、布団の中で昼過ぎまでだらーっとごろごろしながら二度寝三度寝を味わってもうダメって言うぐらいまで怠けきって怠け尽くすことなのよ。今何時だと思ってるの? まだ十時よ、十時! しかも午前! 私にとっては明け方よ。早朝で曙で暁で東雲なの! いくら太陽が昇っても、私の一日はまだ始まらないの。解った?」
「ああ、うう」
「じゃ、おやすみ」
「うおうん」
「あとね、こういう電話は自分の彼女に向けてしなさい。迷惑」
 電話は切れた。
 彼女の最後の台詞はコウイチの耳に残って離れなかった。
 あれは腹立ち紛れのジョークだろうか? 彼女はドSだし。それとも、僕は今まで何かとんでもない勘違いをしていたのだろうか?
 コウイチは、だんだん頭が痛くなってくる気がした。

2008年10月2日木曜日

近況

 なんだかんだ過ごしているうちに、季節は秋を迎えようとしている。
様々な種類のカレンダーに示された日付に目を向けてその目を丸くしているのは、おそらく僕だけではあるまい。
毎月同じことを感じてしまうのだから、自分の怠慢さにはわれながら辟易してしまう。


 わが自宅には三台のパソコンがあり、そのうちの二台はマッキントッシュ、一台はウィンドウズ機という構成だ。
 マッキントッシュの二台のうち一台はノートパソコンであり、初めに買ったデスクトップ機の次にセカンドマシンのつもりで買ったのが iBook だったのだが、自宅の外に出てぺちぺちとキーボードを撃つ快適さにちょっとずつはまっていくうちに、この二台の役割は次第に変化していった。
 そのうちにデスクトップのほうが悪いものでも食ったのか、次第に元気をなくしてろくにDVDの再生もおぼつかなくなるにつけ、三代目のウィンドウズマシンの購入に踏み切ったというのが、一人暮らしの部屋に三台ものマシンが居を構えた経緯なのだが・・・

 いつの間にかファーストマシンと化していた我が愛しの iBook が、八月の熱のこもった室内の空気に根を上げて、カキン、カチンという異音とともにお陀仏となってから早くも一ヶ月以上の時が過ぎた。
 数年使い続け、なにやら最近挙動がおかしいかもしれない、と思っていながらもさしたる対策も打たず、漫然と使い続けたことへの当然の帰結というべきか、あるいはいつの間にか自我を宿したわが愛機が使い主のあまりのいい加減さにうんざりして回復不能なレベルでへそを曲げてしまったものか。
 などとなんともしまりのない戯言をくどくどと頭の中で繰り返したのは、ここ半年ほどの間に書き溜めた原稿の一部が外部にバックアップを取っていなかったためであり、当然ながら多くの原稿データが自分の手元から失われてしまったショックから、なかなか抜け出せなかった所為であるのだろう。それ以外に陰鬱な空気に包まれた我が八月後半を説明する事象は思いつかない。

 とにかくも過去のデータをあきらめて、なおかつ手書きへの移行を開始し、遊び専門の仕様でしか考えていなかったウィンドウズマシンをこうして文章作りに使い始めるまでに結構な時間を費やしてしまったのは、 MacOS から離れていくことにマックユーザー独特の強い抵抗を感じていたからに他ならない。
 まあ、無駄な時間をすごしたことには変わらないのだが…


 悲しいことに新しいハードを購入する資金に乏しいためしばらくはこの体勢を続けるしかない。
 まあ、こうなってみればなったでお気に入りの原稿用紙を選んだり、手になじむペンを探したりするのも案外楽しめる。いや、楽しむほかはないのである。
 そうさ! 俺は十分楽しんでいるのだ、この状況を!


 時々こうして自分を鼓舞しているのが最近の自分によく見られる傾向であるのです…



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2008年8月15日金曜日

僕の夏




 岩に打ち付ける波飛沫、脱ぎ捨てられたビーチサンダル。
 僕の夏を象徴するもの。
 そう言ってはみたものの、今年は一度も海へ行っていない。
 それでも浮かぶ、決まったイメージ。これはもうお約束と言うものだ。

 部屋の中で、パソコンに向かって、有りもしない出来事の妄想を繰り返す。
 トントントン、とキーボードを叩き、気晴らしに音楽を再生させる。
 ダウンロードした、最新の曲は、やはり夏を歌っていた。
 空調のエンジンは全開で、さらに扇風機も強風で、酷暑の空気を排除して、リクライニングの背もたれにべったりと背中をつけ、僕は空を眺めている。
 僕は想像する。

 広いビーチに一人、デッキチェアのそばにはパラソル。
 自分だけの日陰で僕はお気に入りの文庫を手にし、緩やかな風に吹かれる。
 贅沢な休暇。
 ふと視線をあげると、波間に見える、ガールフレンド。
 軽く僕に手を振って、また全力で泳ぎ始める。
 泳げない僕はその遊びには加わらない。
 浜辺は決して狭くはない。
 海岸線は緩やかなカーブを描き、小さな湾を形成している。
 僕らから離れた所、湾の端に小規模のカモメの群が旋回している。
 カモメは積乱雲の輪郭から外には出ない。
 雲が大きすぎるのだ。
 しかし、その雲も、大空の一部でしかない。
 そしてその空も、漆黒の大宇宙の無限性の中ではあまりにも有限的であることを、僕は思わずにはいられない。
 視線は空に向けられる。
 僕は読みかけのページにしおりを挟み、彼女に軽く手を振って、デッキチェアを離れた。
 カモメの群と反対側の岩場に、僕は向かう。
 岩場は浜辺より少し小高くなっていて、何となく、少しだけ、空に近くなる。
 岩場の先端に辿り着き、僕はそこに腰掛ける。
 波は穏やかで、見える限り、海は凪いでいる。
 水面の脈動は、平穏そのものだ。
 僕は空を見る。瞳孔の力を抜き、青い光を見透かそうとする。
 隙をついたように、彼女が突然僕のすぐ傍に現れ、僕のシャツの端っこをしっかりと掴む。
 僕はバランスを崩して、海の中へ転倒する。
 岩場には激しい水しぶきと、僕の足から離れたビーチサンダルが残される……

 これは例えだ。
 ストーリーなんか何でも良いのだ。
 岩場があって、水飛沫が上がって、そこにビーチサンダルが転がっていたら、それは僕の夏だ。

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2008年7月13日日曜日

贋作師の憂鬱

 若い腕利きの贋作師は、毎日ひたすら名作をコピーしていた。
 彼は芸術史上に燦然と名を轟かせる幾人もの画家の絵をひたすらに研究し、多種多彩な画法を学び、彼らが生きていた時代の文化や風俗への造形を深め、「自分は他の誰よりも名作と呼ばれる絵画とその作家に慣れ親しんでいるのだ」と自負していた。実際、彼は美術の評論家として文章を書いた事もあったし、その内容に高い評価を与えた者も居たほどなのだ。
 だが、彼の本業はあくまでも贋作だった。
 評論を書くにしてもそのベースはあくまで作品をコピーする作業にあり、それなくして名作を語る事は、彼にとっては有り得ない話だった。

 彼の才能に最初に眼をつけたのは彼が通っていた芸術大学の教授だった。
 教授はたまたま自分のクラスに居た学生が特殊な力に恵まれている事をすぐに悟り、手を尽くして彼を自分の陣営に引き入れようと画策し、見事にそれが叶った。要するに、教授は不法な手段による副収入を得られるだけの人脈を持ち、その手段に長けていたのだった。
 教授は自分の優秀な生徒に名作のコピーを描かせ、それを裏のルートで売りさばいていた。その作品は思いのほか高い値段で取引が成立し、教授はすっかり味をしめたのであった。
 教授は贋作師を育てた。生徒は教授の期待に応え、自らは知らぬ間に腕利きの贋作師になっていたのだった。

 初めのうちは、贋作師にとって見れば、教授が自分に課してくる作業はとても幸福なものだった。彼は心の底から絵画を愛していたし、世界的、歴史的に有名なアーティスト達の個性的な絵画的手法を研究したり、時に独特な色彩感覚を学んで行くのは、楽しくて仕方が無かった。
 しかし問題があった。
 それは彼にとっては重要な事であるにも拘らず、彼自身がその問題を全く認識していない事でもあった。
 彼は自分が贋作師である事を知らなかったのだ。
 その事実を彼に教えたのは教授の取引先であるバイヤーの女だった。

 女は巧みに贋作師を誘惑し、彼が自分を愛するように仕組み、その為には女の武器をもふんだんに利用した。彼女は不相応な欲をかき始めた教授を始末して、もっと有益で平和的な取引を長く継続したかったのだ。
 その為にはまず自覚無き贋作師の個人的な信用を獲得し、贋作師自ら教授を憎むように仕向けたかった。贋作師の教授に対する無垢な尊敬の念が思っていた以上に深い事を彼女は理解していた。その為、教授がほぼ独占的に手にしているの贋作師に対する影響力を排除したかったのだ。
 バイヤーの女は頃合いを見計らって、贋作師に教授の裏切りの事をそれとなく伝えた。慎重に、かつ巧みに言葉を選び、贋作師の怒りが自分の方に向かう事の無いように……

 結果的に、若い贋作師はほぼバイヤーの女の意中通りに、自覚ある贋作者として名画のコピーを描き続けた。彼は自らの意志によって贋作を描き続け、好きなだけそうしていられる事に幸せすら感じていた。いつしか大学から姿を消した教授の事も気にかからないほどに。

 そうやって安定し始めた彼の学生生活は、彼の人生から見れば、ほんの短い間の出来事だった。
 彼の享受する平穏に新たな波紋をもたらしたのは、クラスメートと名乗る小柄な女生徒だった。
 クラスメートの小柄な女生徒は、若い贋作師の置かれた状況のほとんど全てを把握していた。簡単に言ってしまえば、彼の日常を隅から隅までストーキングしていた。
 彼女はやはり若い贋作師となった青年の才能に惚れ、毎日のように彼と彼の作品を眺め続けた結果、人知れず彼に恋するようになってしまったのだった。
 彼女は教授がどのようなひどい仕打ちを受けて姿を消したのか、そして女バイヤーがどのような理由で彼に近づき、利用する事しか考えていないか、という事を彼に伝えた。小柄なクラスメートは、若い贋作師のストーキングを続けるうちに探偵的な能力を身に付けたのだと言い、女バイヤーが愛人とベッドの上で絡み合って居る写真などをずらずらと並べて彼に示した。
「あなたは人に使われるだけで終わるようでいてはいけない。あなたには才能がある。そして、私には無い事が分かった」
 彼女はそう言って、絵を諦めてパパラッチになるのだと語った。

 一度彼との会話を交わした後は、女生徒はバイヤーの監視をすり抜けて何度も贋作師の所を訪れた。そして盲目的に彼を褒め称え、散々に彼を煽った。
「どうして自分の絵を描かないの?」
 その言葉は贋作師の心を捕えてしまった。やがて彼は小柄なパパラッチ候補生に心を開いて話すようになったが、自分の絵という物に対してはなかなか考えが進まなかった。
「自分の作品という物が何なのか、僕には分からないんだ」
 と、彼は正直に語った。
「じゃあ、もう一度基本から始めたら良いわ」
 女性とはそう言って彼の前で全裸になった。
 その日から、彼は毎日女生徒の裸体を描き続けたが、贋作も描き続けていた。
 彼はもう、何が正しいのか分からなくなっていた。きまぐれにクラスメートを抱いてみても、彼の胸の奥には満たされない空虚な空間があって、肉欲にのめり込む事すら出来なかった。
(俺は一体、何者なのだろう)
 その問いが自然発生的に彼の脳裏に浮かんだとき、彼は自分がようやく一個の人間としての原点に立ち返った事に気が付いたのだった。


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2008年7月2日水曜日

太陽のかけら

 太陽はバラバラと自分のかけらを地上に落としていた。
 カエルのラン吉は寸での所で自分の頭上に落ちて来た太陽のかけらを横っ飛びに躱し、焼き潰される難を逃れた。
 ラン吉はアスファルトの上にめり込んだかけらを見定めると、
「何だってえんだ、いってえよぅ」
 と呻いて太陽を見上げた。しかし、その光はあまりにも眩し過ぎて、太陽の表情は分からなかった。
 ラン吉はチッ、と舌打ちをして、昨日の激しい夕立で道路に出来ていた水たまりの中に身を投じたが、その瞬間に背後から来た車に踏みつぶされた。
 ラン吉はぺちゃんこになってしまった。

 その様子を、電線の上から二羽の鳥が並んで見ていた。ボールのように丸い体に羽が生えたような体型のすずめの絹代と、艶かしい光沢を放つ美しい黒い羽に身を包んだギャンゴと名乗る烏だった。
「ああ、ランさん、とうとうやられちゃった」
 絹代は言った。
「……」
 ギャンゴは黙然として地上を見下ろしたまま、微動だにしなかった。
「カエルのくせに、アスファルトが好きだったからねえ。『この季節のアスファルトの熱さと水たまりの落差がたまんねえのよ』なんて言っちゃってさ」
「……」
「周りのカエル達も『危ないからやめときな』って、散々言ってたのよ。それなのに、ねえ。ああもう、こうなっちゃうとあっけないよねえ」
「……かけらのせいさ」
 ギャンゴは口を開いた。
「何?」
 絹代は思わず聞き返した。ギャンゴは滅多に口を開かないので、油断していたのだ。
「俺のおふくろも、最初の子分もあれに当たって死んだ。ラン吉は、上手く躱したが、不運だったな」
「そうだったの。知らなかった」
「他人に話したのは初めてだ」
「あら、そうなの? もっと話してよ。あんたの事、もうちょっと知りたいと思ってたのよ」
 しかしギャンゴはぷいとそっぽを向いてまた黙り、しばらくすると羽を広げ始めた。
「何よ、もうどっか行っちゃうの」
「渋谷だ。ちょっと早いが飯だ」
 ギャンゴはそう言うと振り返りもせずに飛び去った。

 ギャンゴの姿が見えなくなると、どこに潜んでいたものやら、絹代の仲間のすずめ達が一斉に絹代の周りに集まって、電線の上はにわかに賑やかになった。
「絹代ちゃん、あの烏とどういう関係なの」
「何を話してるの」
「てゆうか、烏って喋るの?」
 仲間のすずめ達は口々に絹代と烏の事について聞きたがった。
「ちょっと何? あんな烏、なんでもないわよ」
「でも、最近いつも一緒じゃない」
「ここは前から私のお気に入りの場所なの。なんか知らないけどあの烏が最近来るのよ。私は別にこの場所を譲る気はないし、かと言って何も悪さもしてない烏にここに来るなって言うほど、私嫌な奴じゃないしさ……」
 すずめ達が絹代の話に聞き入り始めた時、路上の方から飛んで来た何かに反応して、すずめ達は一斉にその場から飛び散っていった。



 すずめの群に向かって小石を投げたのは小学生の康平だった。
「あ、ちっきしょー。当たらねーよ」
 康平は帰り道が同じ方向の和馬といっしょに、路上の石を拾って投げたり蹴ったりして家に向かう途中だった。
「鳥って、躱すよな」
 と和馬が言った。
「ああ、全然こっち見てないのにな」
「第六感ってやつかな」
「ただのカンだろ。ちぇっ」
「あっ」
 和馬はそんな声をあげて和馬の足元を指差した。
「コウちゃん、カエル踏んでるよ」
 康平の足元には、つぶれたラン吉の亡骸が地面に貼り付いていた。
「ええ? 俺じゃないよ」
 康平はそう言いながら靴の裏を確かめた。確かに康平の靴の裏は綺麗なままだった。
「和馬が先に踏んだんじゃない?」
 しかし和馬の靴の裏も綺麗なままだった。
「元からここにあったんだよ、これ」
「ちぇっ、すずめに気をとられて気付かなかったよ」
 康平は舌打ちして足元にあった石を蹴った。蹴った瞬間、靴の先から鈍い痛みが康平の体に走った。石はゴロゴロと転がって数メートル先でまた止まった。
「うおっ」
「どうした?」
 和馬が康平の様子を覗いた。
「あの石、変じゃね?」
「何が?」
「すっげえ重かった……」
 しかし太陽のかけらは地面の上を転がっていくうちに、急速にその熱と質量を失っていった。
「なんか、光ってるぞ」
 康平と和馬が近づいていくと、光は徐々に弱くなり、最後はやわらかそうな淡い色の空気を周囲に放って、消えた。
 和馬は太陽のかけらを拾った。しかし、それはすでにただの石になっていた。
「ぜんぜん重くないよ」
 と和馬は言った。
「まじで? でも、光ってたよな」
「うん、確かに」
 和馬はそう言うと、きょろきょろ辺りを見回して、さっきとは別の電線に止まっていたすずめの群に向かって、さっきまで太陽のかけらだった石を投げた。
 石は絹代の体をかすめて、その向こうにあった家の二階の窓を割った。
 すずめの群は飛び散り、少年達も顔を見合わせて逃げて行った。


 夏の暑い日に、足元に注意して歩いていると、ごくまれに太陽のかけらが落ちているのを見つける事が出来る。しかし、だからといってこれと言った事件が起きた試しはない。


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2008年6月17日火曜日

深夜・ベッドタウン

 足元に転がっていた空き缶がふと目に止まり、何とは無しに、僕はそれを蹴飛ばした。
 郊外の巨大なベッドタウンの一角を占める公団住宅の、棟の間をくねくねと延びる歩道。多くの人が寝静まる時間。空き缶はからんころんと音をたて、右に左に跳ねながら、僕の進むルートの先に空虚な音を立てながら転がって止まった。
 その音はあまりにも懐かしく、遠い遠い時間の向こう側の風景を僕に思い起こさせた。
 あの時となりに居た少年は誰だっただろう?

 名前は?
 住んでいた場所は?
 同じクラスに居たっけ?

 それが悲しい事なのか、そうでないかはともかくとして、僕は何も思い出せなかった。ただ、そこに少年が居た事だけが思い出された。
 僕はもう一度空き缶を蹴った。
 少年が甲高い声で空き缶を追いかける。
 僕もそれに続く。
 何も求めない、勝ち負けの無い追想劇。
 僕らは空き缶がどんな風に転がっていくか、どんな方向に飛んでいくか、ただそれだけを楽しんでいたのだ。
 走り回る僕らの背中では、ランドセルの中身ががさごそと揺れ動き、筆箱の中の鉛筆や消しゴム、教科書やノートがそれぞれに固有の音を鳴らした。
 太陽は遥か上空で人知れず輝き、僕らはその存在にすら気付かない。
 近所のとある家の塀の内側で吠える犬。電柱の上に止まったままの烏。ひとつ向こうの通りで時折過ぎ去ってゆく車のエンジン音。
 そんな全てが、ひとつの調和された世界を成立させていた。
 風景は完璧なまでに思い出された。
 しかし少年の姿はぼんやりと霞みに包まれ、そこだけが激しくピントのずれた写真のようになってしまう。

 やがて放課後の情景は薄れ、僕はまたベッドタウンの中に戻る。
 月のない夜。
 足元にあったはずの空き缶はどこへ蹴飛ばしてしまったものか、見回してもどこにも見つからなかった。
 耳の奥で、アスファルトを叩く薄っぺらい金属の音が響いて、僕はまた自分の部屋に向かって歩き出した。


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