2008年10月26日日曜日

名も無き動物たち.1


 狂犬と恐れられた男がいた。
 男は、来る日も来る日も襲いかかってくる様々な敵と戦い、勝利し、勝ち続けた。
 初めのうちはただ襲われるままに倒していくだけだった。
 しかし、彼は何人もの男たちを倒していくうちに、勝利と征服の味を知り、次第に自分から戦いを挑むようになった。
 一度そうなると、彼は見境無く、休むことなく敵に挑み、完膚無きまでに叩きつぶした。
 一方で、彼に挑戦し、彼を倒すことで名を上げようとする者も後を絶たなかった。当然、彼はその全てを返り討ちにして、二度と自分に逆らうことが出来ないぐらいまで痛めつけた。

 ある日、狂犬は
「疲れたな」と言い、次の日に
「俺は羊になる」と言って姿を消した。


 羊は、何も持たずに旅に出た。
 服を着ている以外は完全に手ぶらだった。財布すら持たなかった。
 今、彼は社会的に自分自身を証明することが出来るものを一切身につけていない。
 なるべく遠くまで、と思い、足が動く限り歩き続け、とうとう精根尽き果てて行き倒れる頃には故郷の色合いなどまるで見られないほどの所まで来ていた。


 意識を失った羊は、夢を見ていた。
 羊の体は、ゴムボートの上で波に浮かぶようにゆらゆらと、空を漂っていた。
 遠く地上では、わんわんわんと吠えている何匹もの犬の鳴き声が、遠ざかるさざ波のようだった。
 羊は何もせず、体を風に任せて流れ続けた。
 どこまでもどこまでも、空は続いた。
 彼は解放されていた。

 目が覚めると、羊は群れの中にいた。
 番犬が彼を吠え立て、ワケも分からないうちにひたすら追い回された。

 陽が出ている間、延々と歩かされ、疲れ切った夕方頃に柵の中へ追いやられた。
「これが俺たちの仕事なのだ」
 リーダー格の羊はそう言った。
「歩いて、歩いて、歩き回って、最後には毛をむしり取られて食われちまう。それが運命ってやつなのだ。誰が決めたか知らねえが、それに従うのが羊の役目ってやつなのだ」
「なんだか理不尽だ」
「若いな。おめえさん」

 何日かそこで過ごしていると、一匹、また一匹と、知った顔が消えていっていることに気付いた。これが俺たちの仕事だと言っていたリーダーの姿が見えなくなった時、かつて犬だった羊は、脱走を決意した。
 柵を跳び越え、草原を駆け抜けていくと、番犬が彼の後を追ってきた。番犬はふっふっはっはっと、息荒く羊を追いかけてきた。
 番犬の足は速く、羊はあっという間に追いつかれた。


「見逃してくれ。俺は食われたくない。どうしてもというなら俺は戦う。でも、戦うのも嫌なんだ」
 羊は言った。
「おいおい? おやおや? 戦うだって? 正気か? この羊さんはよう」

 番犬はそう言うと、有無を言わさず襲いかかった。番犬は番犬で飼い主にこき使われて腹を空かしていたのだ。
 しかし、羊は羊の皮を脱ぎ、番犬を簡単に伸してしまった。
 番犬は、自分を見下ろす、羊の皮をかぶった狂犬を見上げて、悔しげに罵りの声を上げた。
「お前、羊かと思えば狂犬じゃねえかよう」

「勘違いするな。俺はただの羊」
「ふん。そんな羊の皮をかぶったって、狂犬は狂犬以外の何者でもねえんだよう」
「俺は羊だ」
 そう言って、羊はその場を去った。
「待ってくれよう。俺も連れて行ってくれよう。俺もこんな所は嫌なんだよう」
 後ろで番犬がそう叫んでいたが、羊はもう振り返らなかった。
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