2008年10月29日水曜日

名も無き動物たち.3

「逃げて」
 とウサギは言った。
「ハイエナを覚えてる?」
「ハイエナ?」
「いっつもアンタのご機嫌を窺ってたやつさ。アタシ、今あいつの女なんだ」
「ほう、それで?」
「さっき、アンタがこの街に来ていることを知らせちゃったんだ。そしたらあいつに、どんなことをしてでもアンタを引き留めておけって言われて」
「それでこうなった、と言うワケか」
「ごめん。でも、アタシあいつに逆らえないんだ。弱みを握られちゃってて」
「それで、どうして俺が逃げなきゃならない?」
「アンタがいなくなった後、ハイエナは、少しずつ自分の力をつけてきた。今ではあの街のナンバーワン。その力をこの街にまで伸ばしてきてる。でも、その一方で、今でもアンタにものすごく強いコンプレックスを抱いているんだ。ほんとにね、まるで病気みたい」
「あいつは、周りを気にしすぎるところがあったからな」
 羊は、うっかり狂犬時代の記憶を口にしていたが、ウサギはもう気にしなかった。
「今なら俺が勝つ、ってまわりに言いふらしてる。自分でもそう思っているみたい。でも、周りは、私もだけど、ハイエナが狂犬に勝てるなんて誰も思っていないんだ。あいつはそれが気に入らなくて、苛々してるんだ。いつもね。だから、直接アンタと戦って、アンタに勝つ事で力を示そうとしている」
「なぜわざわざそんな事をする必要がある?」
「自分が真のナンバーワンだって、周りに認めさせたいのさ」
「俺には関係ない」
「アンタがそう思っても、それこそあいつには関係ないよ」
 羊は、ハイエナの事を思い出していた。気が小さく、ずる賢いところはあったが、かわいい手下だったハイエナ。
「可哀想なやつだ。だが、逃げるまでもない。戦って負けてやればいいだろう?」
 羊は、本当にそう思っていた。俺はただの羊だ。もう狂犬ではないのだ。勝ち負けは、もう自分には関係のない世界だ。
「甘いよ。ハイエナは、勝つためならどんな汚い事でもやる。きっと、ひどい罠をしかけて、アンタをぼろぼろにしてしまうよ。お願い。逃げて」

「……ふう」
 羊は、長い間考えて、そう漏らした。
「いいだろう。ウサギさん、アンタの言う事を聞く。黙ってここから離れることにする」
 羊はそう言って、ウサギのベッドから離れた。
 ウサギは、心の底から安心して肩の力を抜くことが出来たが、彼がウサギの寝床に背を向けたときに翻った羊の皮の下に、それまでとは違う彼の顔が見えた気がした。
「アンタ…… それが本当の顔なの?」
「何がだ?」
「もう一度見せて。その羊の皮を剥いで見せてよ」
「何度も言うが俺はただの羊。狂犬なんて俺は知らない」
「違うんだ。アタシが見たのは、たぶん、狂犬になる前のアンタの顔…… そうだ。そうに違いないよ! ねえ、アンタ、狂犬になる前はどんなだったのさ」
 ウサギの言葉は、羊の心を捉えたようだった。羊は、狂犬になる前の自分などとっくに忘れてしまっていて、そんな顔があったことすら思い出せなかった。
 しかし、かすかな記憶が精神の中枢から何かを伝えてきた。
 確かに俺は、狂犬として生まれてきたのではなかった……
「あんた、本当は何者なんだい?」
「……………………わからない」
 ウサギは羊の顔にそっと手を添えようとしたが、その手から逃れるようにして、羊はウサギに背を向け、部屋から出て行った。
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