「羊ももう飽きたな。鳥にでもなりたいところだが……」
残念ながら、空を飛べそうな羽は羊の背中には無かった。おまけに新しく翼が生えてくる可能性はほとんど皆無と言えた。羊は空を飛ばないものだ。
彼はひたすら歩いた。考えても考えても、うまいことが頭に浮かばず、まるで水中めがねをつけて狭いプールの中を延々と歩き続けているみたいな気分になった。
(このまま歩き続けて、またどこかで行き倒れるとするか。そしてまた夢を見て、どこかの群れに身を寄せてしまえばいい。要は、どんな群れに組み込まれるのかと言うことが問題なだけだ) 羊はそんなことを考えていたが、とある街角で声を掛けられた。
羊に話しかけてきたのはウサギのような女だった。
「そこの羊さん、あんた大丈夫? なんだかふらふらしてるよ」
「いやあ、もう、腹が減ってね」
「アタシのウチに寄っていきなよ。ご飯を食べさせてあげるからさ」
「俺は無一文だぜ」
「いいのよ、そんなこと」
うますぎる話だと思ったが、羊は空腹には勝てなかった。もう腹ぺこで羊の皮が体にべっとりと張り付いてうまく剥がすことが二度と出来なくなりそうなほどだった。 結局羊は誘われるままにウサギの後についていった。
ウサギの出してくれたごちそうは大変においしく、そんなものを食べたのはあまりに久しぶりなことだったので羊の全身の毛が逆立ったほどだった。
満腹感で夢見心地になっているうちに、羊はいつしかウサギと同じベッドの中にいた。
「アンタ、何でそんな羊の皮なんかかぶってるの」
枕元で、ウサギは羊にそう聞いた。「さあな。なんでなのか、もう忘れちまいそうなくらいくだらない理由だったように思う」
「思い出してよ」
「んん? うーん…… あれ、やっぱり忘れちまったかな」
「何よ、それ」
「まあいいじゃねえか」
ウサギは羊の横顔をじいっと見つめていた。それは何かを見透かそうとしている目だった。羊はなんだか急に落ち着かなくなって、ウサギに背中を向けた。
するとウサギは、
「アンタ、本当は狂犬でしょう? アタシ、知ってるんだから」
と言った。
「なんだと?」
「アタシ、あの街に住んでた。それだけじゃない。アンタの取り巻きの一人だった」
「アンタ、アブナイやつだったけど、女には優しかったもんね。好きだったんだよ」
「悪いが、人違いだ。俺はただの羊」
「悲しいこと言わないで。アンタは狂犬。私は覚えてる」
「俺が何者にしろ、俺は覚えちゃいねえんだ。悪いがな」「そう……」
ウサギは黙ってしまった。羊は、寝返りを打ってウサギの方に向き直り、
「悪いな」
と言ってウサギの耳を優しく撫でた。ウサギの目から、ホロリと涙がこぼれた。
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