2007年12月30日日曜日

私事ですが…

 12月27日、午前8時を30分ほど過ぎた頃、祖父が他界した。
 年末の誰もが忙しく動き回る最後の時期に、入院先の病院でほんの少しいつもと違う変化を見せて、静かに息を引き取った。
 一昨年の春頃に一度生死の境を彷徨ってから奇跡的に持ち直し、それから一年と数ヶ月の間、ほとんど言葉も話せなくなり、動く事すらままならず、ベッドの上から起き上がる事が出来ない状態だった。最後を看取った祖母と私の母によれば、亡くなる前の日からその予兆のようなものを感じていたという事だ。
 人工呼吸器を付ければ生命だけは維持できるが、どうするか、と言う医師の問い(或いは提案)を、祖母はやわらかく断った。そして祖父の呼吸はゆっくりと振幅を鎮めていき、その30分後に祖父は90年の生涯を終えた。

 私がまだ幼い頃、祖父が共働きの両親の代わりに身の回りの細々とした家事を片付けてくれたおかげで、私の幼少時代はとてものんびりとした雰囲気とゆったりとした時間の流れに包まれたものになった。私の人格形成にはそのようなことも強く影響しているのだろうと、今にして思う。
 祖父には怒られたり、小言を言われたような記憶が一つもない。寡黙で、口だけでなくその振る舞いも物静かな人だった。いつ家に来たのかも分からないほど足音もなくいつの間にか洗濯物を干していたし、私の大好きだった牛乳を一日も絶やす事なく冷蔵庫に常にキープしておいてくれていた。それで居ながら家事を手伝えと言われた事は一度もないし、勉強をしろと言われた事も記憶にない。ああしろ、こうしろ、というようなことを言わず、いつも静かに私の生活の風景の中に居た。私がそうと気付かないうちに。
 当時の私はそれを余りにも普通の事として特に意識する事もなかった。それは今にして思えば不思議な事だ。
 月日が私の人生のシナリオを先に進め、実家を離れ、一人暮らしを始め、現在に至り、祖父を亡くして過去を振り返った時、祖父はいつもそこに居たのだ、ということをやっと意識して思えるようになった。そして同時にあまりにも自然な祖父の思いやりと優しさの深さに驚き、その有り難さに胸が痛む。
 私は祖父に何か返してあげることが出来ただろうか?
 自問が絶えず頭の中を歩き回る。

 祖父が寝たきりになってから、何度かお見舞いに訪ねたものの、そこで私が出来ることはほとんどなかった。ただ時々手を握ったり話しかけたりするだけだった。祖父は言葉を返すことが出来なくなっていたが、その様子からは意外と思える握力でしっかりと私の手を握り返してくれた。
 一度だけ、私は涙を堪えられず、病室から逃げ出し、病院の廊下で泣いた。
 その時の無力感は今でも続いているし、いつになったら克服できるのか分からない。もしかしたら一生その想いを抱き続けるのかもしれない。私はいつまでもこんなことを続けていていいのだろうか? もっと他にやるべきことがあるんじゃないのか?
 おじいちゃんは、何をやったら喜んでくれるだろう?

 久しぶりに家族が全員が集まる場所に身を置いて、話を聞けば従兄弟が紅白に出ることになっていた(ある女性ヴォーカリストの後ろでヴァイオリンを弾いていたのだ)。みんなでやあやあと彼の出番を楽しみながら、思いがけずのんびりとした普通の年末を過ごすことが出来た。そんなこともすべて祖父のおかげだと思えた。
 祖父は亡くなってからも私に与え続けてくれている。

 祖父の葬儀には多忙な時期にも拘らず多くの方にご参列いただいた。祖父の人徳だと思えたが、来てくれて頂いた方にはやはり感謝の気持ちでいっぱいです。


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2007年12月26日水曜日

スーパーヴォイス 1

 親友のサカモトは危険な声の持ち主だ。
 彼のささやきは世の中のありとあらゆるどのようなタイプの女性も魅了した。初めに声をかけてから、相手の女性の目がとろんとして初対面の相手に対して築かれた障壁を溶かしていくまでに、まるで時間を必要としなかった。
 魅了する相手は女性だけではない。彼は歌うのだ。どちらかと言えばそれを先に言うべきだったかもしれない。何しろ彼は歌う事を仕事としているのだから。ただ、僕にとってのサカモトは昔からの長い付き合いの友人だし、歌を歌う事よりも彼の声そのものが世間に及ぼす影響の非常識さを何度も見せつけられている印象の方が強いのだ。
 だから大抵の人は彼の歌声を聴きたがるのだけれど、一度彼と親しくなってしまうとそれだけでは物足りなくなってしまう。僕に言わせれば、彼の歌よりも普通の声の方がよほど影響力がある。それは日常生活に紛れ込んだたちの悪い罠のようなものだ。彼に道を聞かれた人は老若男女の区別なく、知らず知らずのうちに自分も一緒に彼の目的地まで付き添って行ってしまうし、買い物をすると初めて行った店でも、必ず何かのおまけがついた。僕も彼と一緒に居る事でその恩恵をいくらか受けた事もある。
 そんなサカモトではあるが、僕と二人で飲む時などはあまり話さない。昔はそんな事はなかったのだけれど、彼が歌を歌いだし、少しずつ世間に名が知れて、求めなくても知らない人が向こうから話しかけてくる機会が増えるに連れて、彼は少しずつ無口になっていった。

「実際、疲れるんだ、本当に」
 彼はなみなみとグラスに注がれたブランデーをほとんど一息に飲み干して、言った。その言葉は一つ一つの単語を貴重な絵画を扱うような丁寧さで語られた。
 僕らは忙しいスケジュールの合間を縫って、久しぶりに学生時代によく集まっていたバーでカウンターに並んで一緒に酒を飲んでいたのだ。そして何となく会話の流れから、昔の事を懐かしんで、二人で馬鹿をやった時の事なんかをげらげらと笑い飛ばしていた。そして僕はついつい「お前は無口になったよな」とサカモトに向かって言ってしまったのだ。
 サカモトは「ああ」と言って急に声を落として下を向いた。
 僕は余計な事を言ってしまったのではないかと思って次の言葉を探しているうちに僕もまた無口になってしまった。
「俺の声の事は、分かるだろう?」
「ああ。長い付き合いだからな」
「幼稚園からだ」
「あの時はまだ普通だったよな」
「普通のガキだった」
「先生のおっぱいを掴むのに競争してたもんな。こっそり後ろから近づいたりしてさ」
 僕がそう言うと、サカモトはくくっと喉を鳴らして笑った。彼のそんな風に笑う姿を、僕は久しぶりに見た気がする。僕のその発言まで、サカモトは一つ一つの言葉を絞り出すようにして、固い食べ物を噛み砕くように話していた。
「あれだけはお前には敵わなかったな。先生の隙をつくのが本当に上手かった」
「今じゃ何の役にも立たない能力だけどな」
「いきなりおっぱい掴んじゃったらまずいよな。犯罪だよな」
「まずい。まじでまずい」
「狙いを変えればいいんじゃないのか? おっぱい掴むだけが能じゃないだろ」
 そう言われて僕は相手の隙をついて何かをする事について考えてみたが、あまり建設的な考えは浮かばなかった。それにしてもいつになく、彼がいろいろと話すのが僕は嬉しかった。そうやって懐かしい話に盛り上がっていると、とてもいい気分になれた。あるいはそれはサカモトの声がそう感じさせているのかもしれない。僕もやはり彼の声には魅了されてしまうのだろう。自分でも気付かないうちに。
 なんにせよ、僕が彼に「無口になった」と言った事がそういう彼の様々な言葉を呼び起こしたのだとしたら、それはそれで良かったのかもしれない。
「まあ別に、四六時中おっぱい触りたい訳じゃない」と僕は言った。言ってみて、本当にそうかと言う疑問がわいた。しかしそれはどうでもいい事だった。
 坂本と話をするのが本当に久しぶりだった事もあって、僕はもう少し、何も考えなくてもいい、馬鹿げた会話を続けたかった。しかしやはり僕らの時間は限られていて、必要な事は必要な事として聞いておかなければならなかった。僕は彼の言葉を無視する事は出来なかった。
「話すのは、苦しいのか?」
 僕はサカモトに聞いた。サカモトは僕の言葉を聞いて、また下を向いた。彼はブランデーのおかわりを頼んで、バーテンの仕事ぶりを眺めながら何かを思っているようだった。そして手元にグラスが戻ってくると指先でグラスを揺らし、氷のぶつかる音をコロンコロンと鳴らした。彼がそうすると、氷の音まで特殊なものに聞こえる気がした。
「苦しいと言うより、疲れるんだ」
「それはやっぱり、有名になっちゃった事が原因で?」
「それもあるな。なんせ知らない人間がいつでも話しかけてきて、休む暇がない。俺も初めの頃はいちいち丁寧に挨拶を返していたけど、そうやって話しているうちに相手は僕をまるで何かの宗教の教祖でも見るみたいな目で見るんだ。そんなのはもう、たくさんなんだよ。若い時はそれが良いと思えたりもしたけど、俺もそろそろガキじゃない。避けたい奴まで近づいて来るんだ。誰も俺を休ませてなんかくれない。俺は独りになりたいんだ。すれ違ったら振り返らないで無視して欲しい。俺ではなく他の何かを見て欲しい。俺と話をしても、俺の声を求めないで欲しい……透明人間にでもなりたい気分さ」
 サカモトはそこまでほとんど一息に喋りきると、またグラスの中身を飲み干し、深みのある溜め息をこぼした。彼にかかるとひとつの溜め息ですら雄弁な示唆を含んでいるみたいに聞こえてしまう。僕は思わずその不可思議な波動に溺れそうになったけれど、何かが僕にそうさせなかった。サカモトの言葉はともすればまるで脈絡のない支離滅裂な文章に変わってしまいそうな怪しいバランスの上に成り立っているように思えた。それほど彼は今不安定な状態なのだ。
 僕は彼にとっては古い友人であり、赤の他人ではない。だから彼の声に溺れてはいけない。。彼と対等でなければならない。その対等さこそが僕とサカモトの友情なのだ。


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2007年12月21日金曜日

赤い糸イベント

 辿ってきた糸は、突然、ぷつりと途絶えてしまった。
 その先には何もなく、可能性のかけらさえ感じられない程だった。
 僕はそこまで歩いてきた道を振り返り、伸び切った糸の航跡を眺めた。
 糸はヨレヨレと時に大きく時に小さく蛇行しながらずっと向こうまで伸びていた。
 僕はきまぐれに家の近所を散歩していた時にその糸を見つけたのだ。
 今手にしている糸の先端とは別のもう片方の別の端っこを初めに拾い上げた時、その糸は道の少し先で角を右に折れ曲がり、何やら僕を誘うような雰囲気が合ったのだ。おまけに色は赤い。

 運命の赤い糸ってヤツですか?
 暇を持て余していた僕はそんなしょうもない発想にひとりにんまりとしながらその糸を手に取った。とは言えもちろん、本気でそんな事は思わない。こんな道ばたにそんなものが落ちているわけがない。何かのネタに、と冗談半分で僕はその糸を手繰ったのだ。
 だけど軽い気持ちでしばらく引っ張ってみたその赤い糸が意外にどこまでも続くので、僕はその場で引っ張るのをやめて、糸を持ちながらその糸が伸びている方向へと歩き始めた。その先がどうなっているのか確かめたくなったのだ。

 住宅街の角を曲がると糸は少し先でまた左へ角を曲がっていて、その先端は見える兆しさえなかった。僕が糸を手に次の角まで歩いていくと、家の近所のおばちゃんが反対側から歩いてきて「こんにちは」と僕に挨拶をしていった。
「こんにちは」
 と僕も挨拶を返したが、おばちゃんは妙に楽しそうな目で僕の手元の辺りを見ていた。
 僕は曲がり角の手前の電柱に取り付けられていた反射鏡に映る自分の姿を見上げた。
 赤い糸を手に歩いている自分。
 僕はそのときこんな事して何になるんだと言う、至極まともな考えも浮かんだのだが、やはりここは赤い糸の先端を巡るというイベント気分に乗っかって歩き続ける事にした。
 角を曲がるとばったりと、クラスメートのルミと鉢合わせになった。
「よう」とルミは言った。僕らの間ではこれが普通の挨拶だ。
「よう」と僕も返した。
「何してんの? ミヤモト、こんなところで」
「いや、別に」
 僕はこっそり手にしていた糸を地面に放した。
「ルミこそ、どしたの? 家こっちだっけ?」
「あたしはアヤカんちに行ってCD借りる約束してんだ。アヤカとミヤモト、近所だよね」
「ああ。スッゲエ近いよ」
「ミヤモト、今ヒマ?」
「え、なんで?」
「時間あったらミヤモトも来なよ」
 一瞬、僕は躊躇した。
 アヤカは確かに家が近くて幼なじみでもあるが、最近のアヤカは何だか急に大人っぽくなって、少し化粧もし始めたせいか、学校中の男子の注目を集めるくらいに綺麗になっていたのだ。そうなると逆に、何だか今までと同じようには話せなくなり、アヤカの前に立ってしまうと緊張して上手く口が回らず、額に汗すら掻くようになったため、僕はそんな自分が嫌で、アヤカとなるべく顔を合わせないようになっていたのだ。
 だからと言ってアヤカが嫌いになった訳ではない。出来る事なら以前のように仲良く話したい。ルミの提案は願ってもないものだった。
 僕の躊躇をどうとったものか、ルミは
「ま、無理にとは言わないけど。じゃ、あたし行くね」
 と言って僕の答えも聞かずに行ってしまった。
 僕は反射鏡に映るルミの後ろ姿を眺め、その姿が見えなくなると、さっき地面に放した赤い糸を手に取った。
「俺も行くよ」
 なぜすぐにそう言えなかったのだろう?
 僕はしばらく赤い糸を追いながら、ルミの言葉の向こうに見えるアヤカの姿に心を奪われていた。アヤカと話をしたかった。昔のように屈託なくお互い笑顔ではしゃぎたかった。でも僕らはいつしか一緒には居られなくなった。アヤカの回りにはいつも大勢の人が集まるようになり、僕はその空間が苦手だった。
 どうして彼女をこんなに遠くに感じるようになってしまったのだろう?
 何だか疑問ばかりが頭に浮かぶ。

 糸は住宅街を抜け、駅前の繁華街の端っこを通り、線路沿いの道にでた。
 しばらく進むとまだまだ伸びる赤い糸のすぐ脇に、絡まってほどけなくなって放置された釣り糸の固まりのような別の赤い糸の残骸が捨てられていた。
 それはまさに「捨てられた」と言う表現がぴったりと当てはまる感じで無造作にその場に転がっていた。電車が走ると、固まりは風に揺られてぷるぷると震えた。糸の端っこがどこなのかも全く分からないような状態だった。
 固まりは別の風に揺らされて、駅前の方へと転がっていった。
 糸が線路沿いの道を離れるまで、僕は同じような赤いもじゃもじゃの固まりを他にも何個か見かけた。それらはその場でぷるぷると震えたり、どこかへ転がっていったりしていた。僕の辿っていた糸は、やがて線路を横切って長い直線が続く道へと出た。
 そして、二三百メートルも進んだ頃だっただろうか、糸は突然、途絶えたのだ。

 そのあまりの唐突さに僕はしばらく次に何をするべきか思いつく事が出来なかった。
 手元に赤い糸の固まりが残っただけだった。
 やはり誰かのいたずらだったのだろうか?
 手の中の糸の固まりを見てみると、それは線路沿いにたくさん転がっていた他の固まりとそっくりだった。
 まあ、ちょっとした暇つぶしにはなったよな。
 ケータイの着信音が鳴る。ルミだ。
「よう」
「よう」
「ミヤモト、ヒマなんでしょ?」
「何だよ、いきなり」
「今から来なよ」
「え?」
「いいから、すぐ。早く。ダッシュで」
「おい」
「アヤカが話があるんだってさ」
「話って、な、何」
「自分で聞きなよ。ほら、電話切って、ダッシュ!」
 僕がそうする前に電話は切れた。
 僕は手の中に丸まった赤い糸の固まりを両手でぎゅうぎゅうに揉み込んで、ぐっちゃぐっちゃにかき混ぜて、握ってボール状にした。そしてその赤い球を空中に蹴り上げて、アヤカの家までダッシュした。


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2007年12月18日火曜日

小さな日だまり

 ふうっと息を吹きかけると、空間にわだかまっていた塵や埃がはらはらと乱れて流れた。
 ついさっき部屋の掃除を片付けたばかりなのにもうこんなに新しい塵や埃が浮かんでいる。
 早苗はため息をついた。
 毎日がこうやって同じ事の繰り返し、しかも終わる事がない。後から後から、片付けたはずのものが片付けたそばから新しく他のモノと入れ替わり、まるで早苗の苦労などなかった事のように当たり前にそこに存在している。
 だから早苗は時々、掃除するのが嫌になる。何もかもとっ散らかして一切の家事を忘れてしまいたくなる。でも、そうしたところで結局後からまたそれを片付けるのは自分なのだ、と思うことでそんな怠慢な考えを押し止めている。
 早苗は、舞い上がる塵の一つを指でつまもうとしてみた。
 しかし塵は早苗の指が起こした風に乗って、するりと早苗の指の間をすり抜けていった。
 早苗はその塵の行く先を眺めた。
 塵は気流の流れにそってふわふわと辺りを漂い、影に入って見えなくなった。
 何度か同じ事を試してみたが、同じだった。
(いっその事、部屋の中をすべて影で覆ってしまえば、塵も埃もないのと同じ事になるのだ)
 早苗はそうも思ったが、窓際に出来る小さな日だまりのあたたかさが好きだった。
 この居間の窓にはお昼前の少しの間、日の光が差し込んで室内を照らし出す。
 もう少しでなくなってしまう小さな日だまりの中に体を丸め、早苗はその温もりを惜しんだ。


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2007年12月17日月曜日

三日寝坊

 目が覚めて時計を見ると、ゆうに三日は過ぎていた。
 僕はその日付と時刻をじっくりと見つめて、頭の整理をつけようとした。
 しかし当然ながらいくら眺めてみてもその数字が変わるような事はなかった。
 僕はその目覚まし時計を諦めて、お気に入りの腕時計を手に取ってみたが、それも僕を甘やかしてはくれなかった。
 僕はまるまる三日間、途中に一度の休みもなく、完全に寝ていたのだ。
 まるで冬眠だな、とそのとき僕はのんきな事を思った。
 三日も休みなく寝続ける事が出来る人間に僕はそれまで会った事がなかった。まさか自分がそんな事になろうとは想像した事すらなかった。
 いやまて、そもそも本当に僕は三日も寝ていたのか?
 僕はもう一度目覚まし時計を確かめ、腕時計を確かめ、部屋の中にある他のあらゆる時計を手に取ってそれがすべて同じ日時を示している事を確かめ、リビングのテレビに電源を入れ、画面が明るくなる間に玄関に行って郵便受けの中身を確かめた。新聞は三つ入っていて、今日と昨日と一昨日の日付が克明に記されていた。リビングに戻るとだめ押しのように
「○月○○日、朝のニュースのお時間です!」
 と爽やかな出で立ちの女性ニュースキャスターが僕に向かって断言していた。
 それが現実なのだ、と僕はようやく初めに目が覚めた時の驚きに抵抗する事を諦めた。

 ともかく、生活する事を始めなければならない。
 ええと、朝起きたらまずは何をしていたっけ?
 三日も寝続けたせいで記憶の回路がおかしくなったのか、僕は朝起きてから仕事に行くまでの手順をひとつひとつ思い出さなければならなかった。まずは朝食のために電気ポットでお湯を沸かして食パンをトースターにセットし、それから簡単にシャワーを浴びて……

 そこで僕ははっとした。仕事。
 連絡を取らなければいけない。しかし何と言って説明すればいいのだろう?
 正直にありのまま、
「すいません。三日間、寝坊しました」
 と言ったところで、通じるだろうか? 現実的に考えておかしな話だし、あまりに下手な言い訳ととられかねない。ともすれば相手を馬鹿にしているように聞こえる。
 こういった特殊な状況に置かれた場合、正直さは罪だ。相手と僕の人間関係に深い後遺症を残すような混乱の種を産み落とす結果になりかねない事は、容易に想像できる。質の悪いヤツは僕に「クマ」というあだ名を付けるかもしれない。あるいは冬眠が可能なあらゆる動物の名前で呼ばれるようになるかもしれない。そうなっては色々と対応するのが面倒くさいし、先が思いやられる。何かいい言い草はないものか。

 家族の誰かが死んだとか、親戚の誰かが死んだと言う事にしようか。
 しかしそれでは三日も連絡が取れないという事を弁明するには押しが弱いような気がする。

 隣りの家の火事に巻き込まれたとか。
 実際に家に来られたら一目瞭然だ。両隣の部屋にそんな痕跡は当然ながら跡形もない。

 誘拐されたけど必死に逃げてきたんだと言う事にしてみようか…
 これは下手をすれば大事になって警察沙汰になってしまう。そうなったら僕の軽い言い訳が狂言誘拐になって今度は警察から要らぬ疑いをかけられてしまう。以前一度だけ全くの勘違いから警察署に連れて行かれてあれこれなんだかんだと事情聴取のような事をされた経験があるのだが、彼らの非常に無骨な物言いの仕方は相手をめっきりと疲れさせるような効果を持っている。間違いですんだからよかったものの、本当に容疑者扱いされたとしたら、あの重い影響力はもっともっと僕を疲弊させてしまうだろう……

 そうこう考えているうちに電気ポットのお湯は沸き、パンはいい具合に焼き上がった。
 頭がうまく回らないのだが、体も思うように自分の意志に反応しない。三日も寝続けると言うのはそう言う事なのかもしれない。
 僕はのろのろと朝食のテーブルについてパンにたっぷりとマーガリンを塗りたくり、それを齧りながらインスタントのコーヒーを作った。そこで少し考えてからいつもの三倍くらいの砂糖を放り込んだ。少しでもうまく頭が回転してくれないかと思ったのだ。
 僕はいつもより念入りにパンを噛む一口一口を意識して行った。そうやって食事をする事で不思議と無心な心持ちになれた。
 電話が鳴った。携帯ではない。家の電話だ。
 一瞬、受話器を取るかどうか迷った。誰がかけてきたのだろう? 僕はまだ上手い言い訳を思いついていないのだ。それでも、放置している訳にもいかない。五回目の呼び出し音が鳴った時、僕はキッチンの脇に置いてある子機の受話器を取った。
「もしもし」
「もしもし? お兄ちゃん?」
 妹の青葉だった。こういう時に一番気が許せる相手だ。僕は胸を撫で下ろした。
「何だ青葉か。どうしたんだこんなに朝早く」
「どうしたじゃないわよ、もう。連絡が取れないってみんな心配してたのよ。警察に捜索願い出そうって話になりかけてるんだから」
「そんな大袈裟な」
 僕がそう言うと、受話器の向こうですうっと鼻で息を大きく吸い込んだような音が聞こえた。
「あのね、お兄ちゃんの会社から実家の方に連絡がいって、何度電話しても繋がらない、家に行っても何度チャイムならしても反応がない、新聞もそのままだって、どこ行ったか分からないかって聞かれたらしいの。それでお父さんもお母さんも何も聞いてないし、やっぱり連絡取れないからって私にさっき電話が来たの。みんな心配してるのよ。ねえ、何してたの? 大丈夫なの?」
 僕は一瞬、誘拐されてたんだと言いかけたが、何かが僕を押しとどめた。
「お前、俺の言う事が信じられるか?」
「何? そりゃ、信じるけど」
 今度は僕が深呼吸をする番だった。
「実はこの三日間、完全に寝てたんだ。それで電話があった事も、人が玄関先まで来ていた事も、気付かなかった」
「…………馬鹿にしてるの?」
「ほら、信じないじゃないか」
「もっとマシな言い訳はないの?」
「そう言われるだろうと思って考えてたところだよ」
「何かあった? 大丈夫?」
「わからん。まだ目が覚めた感じがしないんだ」
「ねえ、病院に行ったら?」
「なんで? ただ寝てただけだぜ。むしろしっかり休めたんじゃないかと思うんだけど」
「三日も寝る方がおかしいでしょ」
「うーん、やっぱ、そうだよねえ」
「何をのんきな空気出してるのよ。とにかく、他の人にすぐ連絡して。みんな心配してるんだから。頼むからもうちょっと危機感出してしゃべってね。いい?」
 そう言うと青葉は電話を切った。
 会社に電話をしなければならないと思うと、少し陰鬱な気分になった。この現状をどうやれば上手く説明できるだろう。寝坊なら寝坊で諦めがつくのだが、向こうからすれば三日間の無断欠勤にしかならない。何だか色々と考えるのが面倒になってくる。
 僕は左手で頭を掻きむしった。上手く考えが回らない時によくやる僕の癖だ。そう言えば言い訳を考えていたせいでシャワーを浴びるのを忘れていた。ちょっと頭がかゆい。
 風呂場の前まで来ると、僕はまた考えが変わった。どうせこんなに生活がずれてしまったのだから、もうちょっとゆっくりしてみようと思い、浴槽をきれいに洗ってお湯を溜め始めた。
 少しずつ上がって行く水かさの様子を、浴槽の縁に腰掛けて眺めているうちに、このまま退職してしまおうかと言う考えが起こった。それは突然の思いつきと言う訳ではなく、最近になってよく考えていた事だった。
 取り立てて会社に不満を持っていると言う訳ではない。むしろ会社の待遇には満足している。給料だって悪くないし、人間関係に悩まされるような事もほとんどない。ただひたすら忙しいというだけだ。サラリーマンの宿命、残業の嵐。
 僕は自分でも気付かないうちに、「ゆっくりしたい症候群」にでも罹ってしまったのだろうか。それで体が僕の意志に反して起きる事を拒否し、挙げ句に三日間も寝てしまったのだろうか。僕は自分に思い当たる節がないかと考えてみたが、そんな兆候は自分にはなかったように思える。
 お湯が浴槽の中に溜まって行く。もう少しで十分な深さになる。
 僕はそこで一度お湯を止めて、自分の部屋に戻り、パソコンの電源を入れた。
 メールソフトを立ち上げると、おびただしい数のメールが受信されていた。こんなに沢山のメールを毎日処理していたのかと、改めて思った。
 僕はそこで緩慢な思考回路に活を入れ、せめて風呂場であと少しゆっくり出来る時間が作れるような時間稼ぎの言い訳を考えた。


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2007年12月14日金曜日

ひねりドアと嘘つき

 ひねりドアの事は最近ささやかな社会的問題としてニュースでも扱われるようになった。
 建物の構造的な欠陥だとか、ドアそのものの欠陥だとか、いろいろ言われているが、ひねりドアはどこにでも現れる。様々な分野の専門家たちが日夜喧々諤々の議論を闘わせているが、今のところ決定的な解決策はまだ見出されていないようだ。人によってはミステリーサークルにも匹敵する怪奇現象だなどと主張したりもしている。事実はどうであれ、僕ら庶民の生活レベルからすればただただ迷惑なだけである。
 そんな折、ある夜僕が仕事から帰ってくると、わが家の玄関はかなりひねくれたひねりドアに変わっていた。
 ひねりドアをしっかりと閉めるのは難しい。
 ドアそのものもひねっているが、その周りの枠も同じようにひねっているので形を合わせる事は可能なはずだが、ちょっと上にずらしてから押す、とか、軽く外に引っ張ってからノブを回す、など、ドアを閉める作業に頭を使う事になる。全身で解き明かす為に作られた知恵の輪みたいなものだ。
 ひねりドアを閉めるのは案外結構な体力を使う事になるので、めんどくさくなって隙間の開いたまま強引にドアチェーンをひっかけ、放っておいてしまいたくなる。
 でもちゃんと閉めないと、夜には嘘つきがやって来て隙間から顔を出し、僕に悪い誘いをかけてくるのだ。今朝のニュースでも「ひねりドアと嘘つきはセットです」みたいな事を言っていた。
 ここしばらくは残業続きで疲れていて、僕はどうしてもひねりドアにきっちりと対処する事が出来ないでいた。そして僕が風呂から上がってベッドの中に潜り込む頃になると、玄関の辺りからぼそぼそと声が聞こえてくるようになる。
 確かに嘘つきがやって来たのだ。
「ねえねえ小堀さん、あなたの彼女の梨花さんはは今あなたの上司の鎌倉さんと寝ているよ。いいのかい?」
 僕は蒲団を頭からかぶって聞こえないようにする。彼の言っている事は嘘なのだ。まともに聞いてはいけない。
「それに鎌倉さんは君の事が邪魔だから、地方に左遷しようとしているんだよ。そんなヤツはすぐに懲らしめた方が良い。やっちゃいなよ。やっちゃいなよ」
 嘘つきはどうやって僕のプライベートを調べたのだろう? しかし嘘つきはいつの時代もどの国でも意図的に他人を貶めようとする悪人でもある。そんなヤツの言う事を信じるわけにはいかないのだ。
 嘘つきへの対応法としては、ただ一つ「耳を貸さない事」だと言われている。しかし彼らとてもしぶとく、粘り強い。生半可な意志では耐える事が出来ないのだと言う。
「君の彼女は君が思っているよりとてもイヤラシい事が好きなんだ。浮気の相手は鎌倉さんだけじゃないよ。他にもいっぱい居るんだよ」
 僕はなんとかしてくたびれた頭を振り絞って毎日ドアをしっかり閉めようとしているのだけれど、僕は昔から知恵の輪を解くのが苦手だったし、残業続きで終電帰りが続いているから体力も限界に近い。どうしてもドアを閉め切れない日が出てきてしまう。そして嘘つきはそんな隙を見逃さない。確かに専門家の言う通り、彼らは驚く程まめで粘り強い。

「それで困ってるんだ」
 僕は女友達のマユミに相談した。マユミは会社の同僚でもあり、学生時代からの友達付き合いだ。なんと言っても信用できるし、彼女が昔ひょいひょいと知恵の輪を解いていた姿を思い出して、何か知恵が借りられないかと思ったのだ。
「彼女には相談してみたの?」
「いや、忙しくて最近会ってないんだ。電話では話すけど」
「まさか、嘘つきの言葉に惑わされているんじゃないよね?」
「冗談じゃないよ。だいたい、梨花と鎌倉さんに接点なんかないもの」
「そう? それならいいけど」
 マユミはそう言ってワインの入ったグラスを傾けた。
「ひねりドアはどうやったらきちんと閉められるのかな?」と僕は聞いた。
「一度解いちゃえばあとは同じよ。最初にこうして、次にこうして、って覚えちゃえば良いのよ」
「でも僕はあれが苦手なんだ。たまにきちんと閉められる時があるけど、どうやってそうなったのか全然分からないんだよ」
「小堀君は昔からそう言う所があるからなあ。頭悪い訳じゃないのに、なんでだろうね」
「それが分かれば苦労しないよ」
 僕はそう言って自分のビールを一気に飲み干した。
「うちにも一度嘘つきがきたよ」
 とマユミが言った。
「へえ、マユミがドアを閉められなかったの?」
「わざとよ。嘘つきがどんな嘘をつくのか聞いてみたくて」
「何を言われた?」
 僕が聞くとマユミはその時の事を思い出すような目をしてふふふ、とひとりで笑った。
「ないしょ」
「なんだそれ、言えよ」
「ねえ、ドアの閉め方教えてあげようか」
 マユミは僕の言葉を無視して言った。それは願ってもない提案だったので、僕らはそこで店を切り上げて、僕の家に行く事にした。

 僕がどうやってもうまく閉められないひねりドアを、マユミはまるで扱いに慣れた自分のもののように簡単に閉める事が出来た。
「さすがだね」
「こんなの、なんでもないわよ」
 マユミはぱんぱんと手を打って「お茶煎れてほしいなあ」と僕に言った。
 マユミは僕の入れたお茶を飲みながら、
「ほんとうは嘘つきの言ってる事が気になってるんじゃないの」と言った。
「そんな事ないよ」
「そうかな? ドア閉めるくらいなら梨花さんにも出来るんじゃない? どうして私なの」
「マユミは信頼できるからさ」
「それだけ? だったら他の男友達でも良いじゃない」
「迷惑だったなら謝るよ。でも、君が自分で言い出したんじゃないか」
「そうだっけ? ぜんぜん覚えてない」
 マユミは何だかいつもと雰囲気が違って見えた。アルコールはもう十分に抜けているはずなのに、酔っぱらって絡んできているみたいだった。テーブルに両肘をついて手にあごを乗せ、どこかとろんとした目で僕の方を見ている。現実的な感覚から少し離れてしまったようなフワフワとした目つきだ。僕は何だか落ち着かなかった。
「マユミ、今日はなんかおかしいよ」
「そう?」
 どう見ても変だ。僕は何となく、気にかかっていた事をマユミに聞いてみた。
「君んところに来た嘘つきは、なんて言ってたんだ?」
「ないしょって言ったでしょ。それよりいい事教えてあげる。梨花さん、本当に浮気してるわよ」
 僕はすぐにはマユミの発言に反応する事が出来ず、お茶を飲もうとした手は空中で止まってしまった。
「本当よ。私見たんだもん」
「やめろよ」
 僕がそう言うと、マユミは椅子から立ち上がり、じりじりと僕の方に近づいてきた。
 僕が何か言おうとする前に、僕の口はマユミの唇によってふさがれてしまった。
 僕は混乱した頭の中で、マユミが嘘つきの言葉にたぶらかされてしまったか、そうでなければマユミが嘘つきそのものなのだと思った。


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すり抜けて行く…

 狂おしい程の空白が頭の中にある。
 誰も話す相手がいない夜。考えても考えても答えの出ない問題。待てど暮らせど辿り着かない約束の手紙。どんなにもがいても見つからない最初の一文。
 僕は空白を見つめ、そこで泳ぎ、溺れ、沈みつつ、水面を見上げる。
 浮かばない言葉。辿り着かない場所。
 そこに太陽はない。生命もない。宇宙が誕生する前の泥の中だ。
 僕は茫漠として広がる智の深淵の前に立ち、形がなされる前のあらゆる存在が、混じり合い、流れ、触れたかと思えばするりと抜けて行く、とりとめのない緩慢な変化の姿を眺める。
 それは発露の場だ。
 手を伸ばし、僕は何かを掴もうとする。
 掴んだかと思えば次の瞬間には手の中で溶解し、元の形のない何かに変わる。残るのは手に何かが触れた、という感触だけだ。それも一晩寝てしまえば綺麗さっぱり無くなってしまう。
 掴んでも掴んでもすり抜けて行く作業の連続。
 いっその事、空白の中に身を投げてしまいたくなる。そして自ら形のない何かとして生き、同じように空白の前でもがく様々な人間の手の中をすり抜けて行くのだ…


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2007年12月12日水曜日

沈黙のロープ

 するするするする、とロープが上から下りて来た。
 ロープが下りて来ただけで、他には何も変化がない。
 僕は枯れた井戸の底へ置き去りにされていたのだ。
 もうこの場所で二日は経過しているはずだった。

 夜になって上を見ると、暗闇の中にぽっかり開いた丸い井戸の口の中に、うまい具合に満月がすっぽり収まっていて、それが一昨日、昨日と続いていたのだ。
 もちろん僕がこんな所に居るのにはワケがある。誰も好き好んで脱出の当てもない井戸の底なんかに一人で降りて来たりはしない。
 僕は友人に突き落とされたのだ。いや、友人だと思っていた男に。彼の名は章太郎と言う。
 僕らは互いに同じ女性に恋をして、抜け駆けはしない、と言う紳士協定を結んでいた。だがある日、章太郎がその約束を無視して彼女と二人でホテルから出てくる姿を目撃してしまい、僕は彼を呼び出して説明をさせるつもりだった。
 彼女の名前は清水瞳子と言った。
 瞳子を奪い合う関係ではいながらも、僕は章太郎との友情を失いたくはなかったし、出来ればずっと仲の良い友人であり続けたかった。
 しかし章太郎は、僕が話を切り出さない内に僕を井戸の中へと押し込んだのだ。
 不意を討たれて、僕は成す術もなかった。思っていたよりも井戸の深さは大した事はなく、頭の方から落ちたにもかかわらずどうやったのか足から先に着地できたのは不幸中の幸いと言って良いのだろうか。
 とにかく、僕は井戸に落ちた。
 深さが思っていた程ではなかったと言ったのは、地上からは暗くて穴の底が見えなったからだ。僕らは小さい頃からその井戸の近くでよく遊んでいて、よく冗談まじりに井戸の縁から身を乗り出して底の方を覗き込んだものだった。辺りは森林の緑濃く枝葉がよく茂っていて、昼であっても普段から薄暗かったので井戸の底を映し出す程の明るい光は差し込んでこなかった。
 自分が底に落ちてみて、そこから上を見上げた時、僕は章太郎への怒りや失望や他の様々な感情よりも先に思った事は、「ああ、たったこれだけの深さしかなかったのか」という事だった。
「ごめん、カズ」
 穴に落ちた僕の姿が見えているのかどうかは分からないが、章太郎は井戸の縁から顔を出して下を覗き込みながら、言った。
「でも、もう俺はあの娘に狂っちまったんだ」
「待てよ、章太郎。いきなりこんな事するなんて、どうかしてるぞ。僕は話がしたいだけなんだ」
「話す事なんてない。俺はもうお前を裏切ってしまったんだ。ガキの頃からの親友のお前を。俺は、俺自身が許せない」
「じゃあなんでこんな事するんだ」
「瞳子を失いたくないんだ」
「彼女をお前から奪ったりしない。だからここから出せよ!」
 章太郎は少しは考え直したのだろうか。その次の回答までに、僕の額から流れ出た汗が鼻筋をなぞり、頬を渡り、顎を伝って、つっと井戸の底へ落ちた。
「だめだ」と章太郎は言った。
「やっぱり俺は自分を許せない。お前をそこから出してやる事は出来ない」
「そんな理屈おかしいだろ」
「理屈じゃないんだ。俺は狂っちまったんだ」
 僕は一瞬、頭が真っ白になった。何を言っても通じない気がしたのだ。
「章太郎、何があったんだ。僕に話してくれ」
「ごめん、カズ」
 そう言って、章太郎は僕の視界から消えた。小さな丸い空は夕焼けのオレンジのグレデーションに染まっていた。僕は呆然と上を見上げたまま動けなかった。

 何も理解できなかった。章太郎の理屈も、なぜ僕が井戸に落とされたのかも。
 何度か自力で壁を這い上がって井戸の外に出ようと試みたが、穴の直径が微妙に広すぎて両手両足を踏ん張って力を込めるのは難しかった。挑戦し、休み、挑戦し、休み、その内に穴を這い出ようという努力が虚しく感じられて来た。
 僕は井戸の底を指でほじくってみたり、壁を拳で軽くコンコンと叩いてみたり首をぐるぐる回したりしてみて、章太郎の行動について考えた。
 僕はまだ、瞳子の事について何も章太郎と話していない。話す前に井戸に落とされてしまった。そして話し合いを持ちかけても、章太郎は自分の事を「狂っている」と言って会話すら成り立たなかった。章太郎が自分を許せないからと言って僕を井戸の外に出せないというのもおかしな話だと思った。
 あれこれと考える事はきりがないのだけれど、やがて僕は腹を空かしてしまい、ただただ腹が減るだけで考えるどころではなくなって来たのだ。
 僕は膝を折り畳んで横になった。そして壁の中の闇を見つめた。そうしてジッとしていると、ぽつぽつと言葉を超えたイメージが闇の中から語りかけて来た。
 章太郎が井戸の中の暗闇を覗き込んでいた。身動き一つしなかった。彼の視線は穴の底に向けられ、微動だにしなかった。やがて彼は体を起こし、そして辺りを見回した。視線の先には瞳子が立っていた。瞳子は章太郎に微笑みかけ、彼はそれに答えるように顔を崩した。
 これはただの空想だ。
 あるいは空腹の為に見てしまった幻覚に違いない。
 僕は今まで瞳子の人格について親密に触れ合うような機会を持った事はまだなかったが、そのイメージの中に現れた瞳子から受ける印象は、僕の知っているそれとは余りにもかけ離れていた。
 そのように闇に捕われていた時、僕の頭にコツン、と何かが降って来た。それが先端をビニールテープで固められたロープだった。
「章太郎か? 戻って来たのか?」
 呼びかけても、誰も何もは答えてはくれなかった。ただロープが下りて来ただけだった。僕はそのロープを手に取る事をためらった。登り切った所には章太郎が息をひそめて隠れていて、僕が地上に出たとたんにまたこの井戸に突き落とすのではないだろうか。
 あるいはもっと何か別の……
 しかしいくら考えても登らない訳にはいかない。
 この穴の底で三日めの断食を強制させられるよりは、例え罠であってもこのロープをたぐらなければならない。声をかけてもやはり返事は返ってこない。
 僕はロープを握って空腹に耐えながら全身に力を込めた。少しでも気が緩むとロープが手の中で滑ってしまいそうだった。
 そして僕はなんとか地上に出る事が出来た。

 井戸の周りには誰もいなかった。試しに誰か居ないか声をかけてみたが、濃密な沈黙がその密度を増しただけだった。ロープを下ろしてくれたのはやはり章太郎なのだろうか。
 頭に浮かんでくるいろんな混乱を押し殺して、僕は歩き出した。とにかく腹が減って仕方なかった。森を出て、温かい食事にありつく事しか考える事が出来なかった。
 僕は一度だけ振り返った。そこには月明かりに照らし出された井戸が淡い光のスポットライトを当てられたように浮かび上がって見えた。


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2007年12月10日月曜日

愛はこの坂の上に

 何だかもう転がり過ぎて、どこまで転んだんだか分からなくなって来た。
 この坂はどこまで続くのだろう。
 さっきから見える景色は地面と空が交互に入れ替わる天地の走馬灯状態で、遮る物もなくぶつかる物もなく、勢いはどんどん増して僕は転がり続けている。
 あんまりずっと転がり続けたせいで、転がり始めの混乱は次第に収まって来て僕は不思議と頭の中が冷静になって来た。
 見える景色は地面、空、地面、空、地面、空、地面、空、変わらない。
 僕の体は進行方向にほぼ垂直に角度をつけて、凹凸のほとんどない真っ平らな山の斜面を転がっているのだ。
 この坂のずっとずっと上の方に、彼女を一人、残してしまった。
 僕の転がり続ける姿はまだ彼女の視界の中にあるだろうか? もうそれも叶わないほど長い時間転がっている気がする。
 せっかくの秘密のデートがこれじゃあ台無しだ。

 こっそりおじさんに借りた別荘を使って、僕らは家族の誰にも内緒でこの山に来ていたのだ。
 なぜ内緒かと言うと、僕らはお互いの家族に結婚を反対されて、ただ会う事すら妨害を受ける、と言う、このご時世考え難い苦境に立たされていたのだ。
 僕は彼女の両親とことごとく馬が合わず、彼女は僕の両親の理想とは余りにもかけ離れていた。
 ついでに言うと両親同士も顔を合わせると激しく反発を感じるらしく、僕の親が彼女の親にケチを付け、彼女の親がそれに応じてさらに辛辣な悪態を僕の親に向けると言う、堂々巡りの不毛な争いが際限なく僕らの周りでは起こっていた。
 それでも僕らは愛し合っているのだ。
 彼女は女性としてはどちらかと言うと激しい性格の持ち主で、僕は逆に男としては漢っぷりに駆ける軟弱さを持っていた。
 彼女はその軟弱さを、かけがえのない優しさだと言ってくれた。
 僕は彼女の激しさを、生命力に溢れた太陽のようだと言った。
 お互いがお互いの足りない部分を補強し合い、がっちりと深く噛み合い、食い込み合い、絡まり合って、その存在なくしては生きて行けないと思う程に離れ難い存在となっていた。
 だから周りがどんなに騒いでも、僕らの気持ちは変わらなかった。
 愛には一片の曇りもなく、むしろその透明さは陽を追う毎に美しく透き通って行くようだった。
 昔、今の奥さんと駆け落ちしたと言うおじさんだけが僕らの味方だった。
 僕らはおじさんの厚意に甘えて、邪魔の入らない二人だけの場所で、二人の愛をもっともっと高める事だけを考える事が出来ていたのだ。

 それが、あんなところで雪に隠れた木の幹に足を引っかけるなんて、間抜けもいい所だ。
 もう少し、季節が進めばこの坂は、世にもまばゆい白銀の世界。
 字余り。
 この山すべてがおじさんの所有する土地らしい。
 プライベートゲレンデとしてはあまりにも贅沢な空間。
 こんな真っ平らな坂はそうそう自然界にはないんじゃないか?
 それにしても長い。あまりにも長い。
 僕はいつまで転がって行かなければならないんだ。もう木に激突してでもいいから止めて欲しい。冬眠中のツキノワグマにぶつかってでもいいからこの転落を終わらせたい。
 これじゃあ出口のない迷宮と変わりないじゃないか。
 軽い混乱。
 地面、空、地面、空、地面、空、地面、空、ああ、視界の端っこに太陽が見える。
 あれは世界の為の太陽だ。
 この世の全てを照らす光だ。
 でも、今の僕には必要ない。
 僕に必要なのは、僕だけの太陽なのだ。
 心に彼女の姿を想い、僕はすこしでも状況を変えるべく、体に力を込めた。転がる向きを変えればいいんだ。
 僕はまた冷静さを取り戻した。
 少しずつでもなるべく斜めに転がって行って、やがてその方向が斜面に向かって平行になって行けば、落下速度は弱まるだろう。
 そして止まる事が出来たら、永遠のようなこの坂を僕は彼女を目指して走って行く。
 太陽の中へ向かって行く。
 少しずつ、すこしずつ。


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2007年12月8日土曜日

巨大なダッタ君

 ダッタ君は、とても大きい。
 ダッタ君より大きい人をぼくは見たことがない。
 ダッタ君と話をするときは、みんな顔をずっと上の方に向けて話さなければいけない。
 ぼくはダッタ君とよく話をするから、しょっちゅう首が痛くなってしまう。
 ダッタ君はやさしいので、ぼくが首を痛そうにしていると、その大きな体をググーッと折り曲げて、ぼくの顔の高さに合わせようとしてくれる。
 でも、ぼくはクラスでも一番前に並ぶくらい背が小さいから、ダッタ君がそんなふうに気をつかってくれても、やっぱりすこし上を見上げて話をすることになるんだ。
「ダッタ君は、大きくなったら何になりたい?」
「ぼくはこれ以上大きくなりたくないよ」
「そうなの? ぼくは小さいからちょっとうらやましいけどなあ」
「ぼくはケンジ君の方がうらやましいよ」
「でも、チビチビって言われるよ。大きい方がいいよ」
「ぼくは大きいだけで何もできないってパパに言われるんだ。そりゃちょっと動きはにぶいかも知れないけど、そこまでひどくはないつもりなんだ」
「ダッタ君はそんなにひどいなんてことないよ。誰もとどかない所に手がとどくしさ」
 ぼくがそう言うと、ダッタ君はしゃがみ込んだまますこし上を向いた。
「そうかな」
「そうだよ」
 そしてダッタ君は何回かうんうんとうなずいて、大きく口をまげて笑った。
「それで、さっきの話だけどさ」
「何だっけ?」
「ダッタ君は大きくなったら何になりたい?」
「ぼくはこれ以上大きくなりたくないよ」
「そうじゃなくって、しょうらいの夢とか、仕事とか」
 ダッタ君はしばらくぼくの顔を見て「考えたことないな」と言った。
「ケンジ君は考えたことあるのかな」
「ぼくはね、柔道の選手になりたいんだ」
「ジュウドウ?」
「うん。それでね、自分より大きな人を投げ飛ばすようになるんだ」
「そんなことできるの?」
「そうだよ。そういうのを柔よく剛を制すって言うんだよ」
「そうか。じゃあケンジ君は強くなるんだね」
「うん。強くなりたいなあ」
「ぼ、ぼくも投げられちゃうかな」
 ぼくはダッタ君の顔を見上げた。
「ダッタ君、ちょっと立ってみてよ」
 ダッタ君が立ち上がると、ダッタ君の顔は思っていたよりもずっとずっと高い所にあった。
 ぼくは思わずため息をついた。
「ダッタ君は、ほんとうに背が高いねえ」
「で、でも、投げ飛ばすんでしょ?」
「ダッタ君は投げないよ」
「どうして?」
「だって、ともだちだもん」
「そうか。ケンジ君がやるならぼくも柔道やろうかな」
「ダメだよ」
「どうして?」
「ぼくとダッタ君が試合するときは投げ飛ばさなきゃいけなくなるよ」
 ダッタ君は、はっとして首を振った。
 そしてまたしゃがみこんだ。
「でも、いいなあ」
「ダッタ君はバスケットの選手がいいよ。ぜったい活躍できるよ」
「そうかな」
「バスケットは背が高い人に向いてるんだ」
「活躍できるかな」
「ダッタ君ならだいじょうぶだよ」
「じゃあ、そうしようかな」
 ぼくはダッタ君を投げ飛ばすのはちょっとむずかしいと思っていたから、正直言ってほっとした。
 でももしぼくがダッタ君を投げ飛ばしたら、ダッタ君は傷ついてしまうと思うんだ。
 ダッタ君はけっこう繊細なので、ぼくは意外と気をつかっている。

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2007年12月6日木曜日

運転手の夢

 そのタクシーの運転手は、夕方の日だまりの中でシートを倒して熟睡していた。
 夕方と言っても陽の差し具合でそう見えるだけで、冬の入り口に当たるこの時期、彼の眠りは『昼寝』と言ってしまって差し支えないと思う。
 この時期、車の中で眠るには今が一番心地よい時間帯なのかも知れない。
 僕は運転手の安らかとも間の抜けたとも言える寝顔をしばし眺めてしまった。
 ここは人通りの少ない住宅地の片隅で、人目を避けて休憩を取るには格好の死角となる場所なのだろう。実際タクシーの後ろには同じようにひっそりとした雰囲気のトラックが停車していて、僕はそれを見ただけでトラックの運転手も今ここで休んでいるのだと思った。
 僕は同じように車のシートに寝そべって昼寝をしたいと思った。
 ほんのひとときだけ「勤務中にサボって寝ているタクシーの運転手」になって、シートを全開に倒して熟睡したいと思った。
 彼の寝顔はそれほどまでに僕を引きつけてしまったのだ。
 運転手の口元がむにゃむにゃと動いた。
 夢を見ているのかも知れない。
 彼はどんな夢を見るのだろう?
 宝くじが当たった夢だろうか。
 家族がみんな幸せな笑顔を浮かべている団らんの風景だろうか。

 むにゃむにゃ

 運転手は目を開けた。
 そして僕に気付いた。
 運転手はどこか要領を得ない様子でズズーっと窓を開け、
「いらっしゃいませ」
 と言った。
「こんにちは」
「…こんいちは」
 運転手はまだ半分寝ぼけているようだった。口元の言葉もおぼつかない。何より、「いらっしゃい」という言葉自体、タクシーとしてはおかしいのではないか?
「どちらか御用ですか」
「いえ、特には」
「…すんませんねえ、熟睡しちゃって」
「とても気持ち良さそうでした」
「そうですか?」
「はい。羨ましかったです」
 運転手は眉根を寄せて顔をしかめた。
「すんません」
 運転手は何故かもう一度誤って窓を閉め、エンジンをかけた。
 僕は歩道に上がって走り去るタクシーの後ろ姿を眺めた。

「いらっしゃいませ」

 と言った時の運転手の顔は何だか力みが抜けていて、それが本当の顔なのかも知れない、と僕は思った。

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2007年12月5日水曜日

炎の中で踊る小人と老人の語り

 燃えさかる炎の中に、その顔は浮かんでいた。
 目尻や額や口の周りにに深いしわが何本も刻まれ、髪の毛がすっかりと禿げ上がった老人の顔。
 目は閉じているのか、薄く開かれているのか分からない。が、その口元は何かを語ろうとしていた。唇の動きから、それが何かの言葉の連なりである事を思わせるのだけれど、声が全く聞こえてこない。
 やがてその顔がすうっとまっすぐ空中に浮き上がり、首から下の体が現れた。老人はかなりの長身で、幼かった僕が彼の顔を見るにはずっと上を見上げなければならなかった。
 老人の背後で炎に巻かれて元の組成を失ったカーテンが床に焼け落ち、火の粉が舞った。火の粉は老人の周りを囲むようにして広がり、その広がりとともに日に焼けたような肌の色の小人が一度に何十人も現れ、老人の周りをくるくると動きながら踊り始めた。
 僕はその光景に魅入られていた。自分の家がどういう訳か激しい火災に飲み込まれているという状況も忘れ、老人の顔から目が離せなくなっていた。
 炎の勢いが激しくなるにつれ、老人の語る言葉が少しずつ理解できて行くような気がしていたのだ。

 それが、幼い頃焼け落ちた家の中で僕が最後に見た光景だった。
 僕は助け出されたのだ。決死の覚悟で飛び込んで来た消防隊員が僕をその場から連れ去り、僕は命を取り留めた。
 その後、僕がその老人の話をしても、誰も信じてはくれなかった。それどころか僕は火事による影響で精神の一部に支障をきたしてしまったのではないかとさえ疑われた。
 やがて僕はそのことを他人には語らなくなった。

 そんな過去があった為、僕が「消防隊員になる」と言い出した時、両親はトランプをひっくり返したらジョーカーが出て来た、という風にぱたっとこちらを向いて顔色を変えた。
 僕は内心に潜む想いをひた隠しにしながら、過去の事はもう何も関係ないのだ、僕は純粋に自分が救われた経験から、他の誰かを救いたいと思ったのだと言う事で訝しがる両親を説得し、もちろん多大な努力を払って、消防隊員になる事ができた。
 自分で言うのもなんだが、僕は非常に優秀な消防隊員になった。ひとたび事件が発生すれば、誰よりも先に装備を整え、火事場に着けば誰よりも優先して火の中に飛び込んだ。
 今にして思えば、やはり僕の精神はあの老人と出会った事で既に深く病に犯されていたのかも知れない。なぜならあの日からずっと、僕は老人の言葉の続きを聞きたくて仕方が無かったのだ。
 そんな気持ちのせいか、僕は炎に包まれるような状況になると、だんだんと心が落ち着いて行くようになった。最近になってそのことがよく分かって来たのだ。僕が炎の中に居る事はとても自然な事だと。しかしその自覚は僕の社会的非常識性をあまりにも明確にしてしまう為、誰にも言う事ができずに、人知れず炎の中で悶々としてしまう事もあるのだ。
 いっその事、人目をはばからず狂ってしまえたら、どんなに楽かと思う事もある。
 あのとき現れた小人のように、炎の中で嬉々として踊り舞い、背の高い老人を礼賛するのだ。
 だが一度でもそんな事をしてしまえば、僕はその後異常者として扱われ、火事場に出る事はおろか、精神病院の病室から出られなくなるはめになるだろう。

 このように、僕は子供の頃たった一度だけ見た風景に延々と悩み、心を奪われてしまっている。
 老人の口から語られる言葉を聞きたくて、ずっとずっと待ち続けている。
 やはり既に僕はおかしくなってしまったのだろうか?
 自分では、もう分からなくなってしまっているのだ。

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2007年12月3日月曜日

傘泥棒は連鎖する

 傘が無い。
 僕の目の前には傘がいっぱい詰まったコンビニの傘立てがあり、僕の背後では雨がざあざあと降っている。そして僕がここまでやって来た時に差していた傘は、傘立てからは消えていた。
 おそらく、ほぼ間違いなく、誰かが持って行ったのだろう。
 僕は、誰でも心に秘めているはずの、些細でありがちなな邪心と良心の狭間で揺れていた。
「傘は天下の回りものです」
 と後輩が言った言葉を思い出していた。
「特にビニール傘という物はみんなで共有するべき物です」
 ヤツはのほほんとした口調で、それが当然、と言う顔をして言い切った。
 確かに、ビニール傘に強いこだわりを持っている人間はあまり存在しないだろう。ワンタッチ式だとか、ちょっと色がくすんでいるとか、そんな違いはあるものの、あらゆるビニール傘は『ビニール傘』として一括りにされてしまいがちだし、実際僕も何の気なしに他人のビニール傘を間違えてもって返ってしまった事はある。
 誰でも傘泥棒になれるのだ。そして、そうなる可能性をみんな平等に持っている。
 もし仮にその可能性を不可避のものとして公式に認め、「傘泥棒はしょうがないのだ」という事になったとして、それが社会的な問題に発展する事はほとんどゼロに近いのではないだろうか。
 そんな事をいちいち考えている人間は居ないだろうが、世界中の無邪気な傘泥棒たちは頭のどこか片隅で無意識にそのような言い訳を自分にしているに違いないのだ。
 ビニール傘をなくしたら、他のビニール傘を使えば良い。という常識。
 しかしやはり考えてほしい。
 そうやって連鎖的に発生する傘泥棒たちの陰に隠れるように、間の悪い誰か一人は確実に持つべき傘をなくしてしまうのだ。
「ちょっとすみません」
 僕が傘立ての前であれこれ考えていると、一人の女性が横から手を伸ばして傘立ての中から一本引き抜いた。僕は傘立てを利用する人たちの邪魔をするような位置に立っていたのだ。
「ああ、すみません」
 ふと女性の顔を見ると、それは大学で同じ講義を受けている浜宮優里だった。
 優里も僕の顔に気付いたようだ。
「伊藤君、だっけ?」
 驚いた。彼女が僕の名前を知っているとは思わなかった。同じ講義を受けているとは言え、クラスは違うし、サークルなど、他に僕と彼女の接点になるようなものは無いはずだ。
「浜宮さん、だよね」
 確認などするまでもなく彼女の名前は僕の頭にしっかりと刻まれていたのだが、僕はそんな言い方をしてしまった。僕は焦っている。動揺している。でも嬉しい。彼女が僕を知っていた。
「何してるの? 傘立ての前で突っ立っちゃって」
「持ってかれたみたいなんだ」
 優里は、あら、と言う顔をした。
「どこ行くの?」
「駅まで」
「私も。一緒に入っていきなよ」
 そう言って優里はほんの少し傘を僕の方に傾けた。
 こんな偶然があるなんて。僕はやはり安易に他人の傘を持って行かなくて良かったのだ。
「ねえ、もし暇だったら、ちょっと買い物に付き合ってくれない?」
 と優里が言ったので、僕はもちろん即座にオーケーした。
「良い傘だね」
 と僕が褒めると、優里はちょこっと舌を出して、
「実は私も盗まれたの。頭に来ちゃって誰のか知らないけど持って来ちゃった」
 と言って僕にいたずらっぽい笑顔を向けた。
 僕はほんの少し良心が傷んだが、優里の笑顔には敵わなかった。

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2007年12月2日日曜日

抜け落ちた記憶

 何かを忘れるかも知れないという恐怖心が、僕の中から消えた事は無い。
 とにかく僕は物覚えが悪いのだ。
 毎朝のように定期や財布を忘れる、なんて言うのはまだ良い方で、時々友人と交わした約束を、約束した事実そのものから忘れてしまったりする。つまり、
「あのときここで待ち合わせって、話しただろう。お前、頷いてたじゃないか」
 などということを言われたとしても、その「あのとき」が記憶からスポリと抜けていて、どんなに考えても思い出せないのだ。その時の出来事が起こった時間帯と、その前後の記憶から思い出せる事を総動員してなんとかかんとか起こった事を類推して対処しなければならなくなる。
 いろいろと注意して周りのみんなにはそんな事はないのかと窺ってみたものの、どうやらそんなひどい忘れ方をする者は僕以外にはあまり居ないらしい。
 他人と共有したはずの時間が僕だけ失われてしまうというのは、あまり気持ちのいい事じゃない。悪い事だけを忘れていくのならまだしも、どうやら僕の記憶は何の区別も選別もなく、無作為に消えていくようである。
 忘れてしまってかえって都合が良かったりする時もたまにはあるが、たいていの場合はその後に厄介な問題を残すことになる。当たり前だ。約束というものの価値について事あるたびにいちいち根本的な問いかけをしなければならないという状況は、不毛と言うしかない。
 携帯電話の呼び出しが鳴った。
 近頃はこの電話一本に緊張する時もある。ひょっとしてまた重大な忘れ物でもして誰かから怒りやお叱りの電話がかかって来たのではないかと思ってしまう。
「もしもし」
「あ、セイジ?」
「何だ、美樹か」
「何だって何よ」
「いや、何でもないけど。言葉のあやだよ。あやあやあや」
「相変わらず訳分かんないわね」
 僕は美樹にはまだ僕の記憶がかなり怪しい事になっている、という事を伝えられずにいる。とにかく馬鹿なことを言う半天然キャラで押し通しているのだ。ちょっと無理はあるけれど。
「話があるんだけど」
 何だか声の機嫌が悪そうだ。
「なに、どうしたの」
「今あんたの部屋に居るのよ」
「あれ、そんな約束してたっけ」
 しまった。急いで戻らなければ。
「してないわよ」
「えー、じゃあ俺の部屋で何してるの」
「何してるのじゃないわよ。あんたの部屋に居る女、一体誰なのよ」
 何の話だ?
「え、誰か他に居るの?」
「すっとぼけんじゃないわよ! とにかくすぐ戻って来い!」
 美樹は電話を切った。
 僕は一生懸命昨日の出来事を思い出そうとした。しかし会社から帰った後の事は切り落とされた体の一部のようにそこだけ透明で、イメージを形作る事ができなかった。
 合コンの約束は無かったはずだし、田舎の母や妹が上京してくるような約束も無かったはずだ。
 まさかナンパでもしたのだろうか? この僕が?
 自慢じゃないが知らない女の子に街で声をかけた事なんて一度も無い。
 一体何があったというのだろう。部屋に戻って美樹に何を説明すれば良いのやら。そもそもその女は何者だ?
 僕は、僕の部屋に誰かしら無いけれど女が居る。という事態について、それが起こりうるあらゆる可能性を頭の中で想定しながら、美樹と、その女と、僕自身に対してうまいこと話がまとまる説明を考えながら帰り道の電車に飛び乗った。

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2007年12月1日土曜日

盗人家業

 自由を阻害されるのが、この世で最も煩わしいことだ。
 この世は組織とシステムによって管理されていて、その管理の範疇に収まらない者は徹底的にはじき出される。
 俺が盗人になったのも、理由はそんな所からだ。もともと集団生活というものに馴染めなかったし、ガキの頃から一人で動いた方が気が楽だった。それで周りと違う行動をとると、いろんな方向から俺を矯正しようというする奴らが現れて、叩きのめされる訳だ。
 まあ、どこにでもある話だ。そんなに珍しくも面白くもない。
 要は結果として一人の盗人が生まれましたよ、とそれだけ伝わればいい。
 それで何で盗人なのだ、他にも道はあるだろう、と言われると、それはそうかも知れないと今では思える。それまでの人生でもっと尊敬できる人間や立派な大人に出会えていたなら、俺も今頃違う道を歩んでいたかも知れない。でも俺はそうではなかった。こうなってしまった。そして、これはこれで一つの生き方だと思っている。他の生き方は今の所分からない。
 盗人家業も本気でやると楽ではない。何しろ手を抜いたりほんの少しでも油断があると簡単に逮捕されて即、刑務所行きだ。一度捕まったら余罪を追及されて軽い刑では収まらないだろう。それなりに大きなリスクを抱えてやっている訳だ。だから準備は怠らない。他の奴は知らないが、俺は何しろ安全第一でやる主義だ。強引な侵入なんかしない。入れる家に無理無く入るようにしている。
 しかし最近は面倒になって来た。同業者が増えて来たんだ。しかもそこに外国人のグループなんかが居たりする。一度うっかり現場で鉢合わせにしそうになったことがある。不用心な家はどんな盗人から見ても同じように不用心に見えるという事なのだろう。俺もこの家業が長いから、妙な雰囲気を感じて様子を窺っていたら、先客が居たっていう次第だ。
 奴らが派手にやるせいで、警察はパトロールを強化させるし、一般家庭でのセキュリティに対する意識は高まる一方。おかげ出稼ぎはいい時の半分ぐらいにまで減ってしまった。まあ、コツコツ貯金していたからしばらくは生活に困る事は無いんだけどな。
 先々いろいろ考えて、転職しようかと思っているんだ。って言ったって組織につくのはまっぴらごめんだから、今まで鍛え上げた腕を買ってくれそうな探偵社なんかどうかと思ってね。履歴書が必要、なんて言う所はまずお門違いだ。堂々と人に見せられる経歴なんか俺には無い。
 いろいろ探してみるつもりで入るが、どこかいい所知ってる奴が居たら、ぜひ教えてくれ。謝礼はたっぷり出すからさ。でも、金の出所なんて聞かないでくれよ…

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2007年11月29日木曜日

鷹の目の王子

 王子は退屈していた。
 お城の窓からぼんやりと遠くを眺めることが多くなった。
 剣術の練習にも家来を引き連れての狩りにも詩を考えることにも、もう集中できなかった、
 なぜ毎日はこんなにつまらないのだろう。
 家来たちはおべっかばかり使って来て本音で話せるような人間はほとんど居ないし、宮廷の厳格なしきたりや儀礼作法の数々もうんざりだった。
 それもこれもあいつに会ってからだ。

 ひと月程前のことだっただろうか。
 一匹の鷹が王子の部屋の窓に降り立ち、王子を驚かせた。
 王子は当然そんな野性の存在には慣れていなかったので、恐れ、剣を抜いて追い払おうとした。
 しかし鷹は自分に向けられた刃に動じる気配など微塵も見せなかった。
 王子は鷹と目が合った。
 それは宮廷に出入りするどんな人間の目よりも鋭く、威厳に満ちていた。
 王子は剣を降ろした。
 鷹は啼き、踵を返して空へと舞い戻った。
 王子は窓のそばへ急ぎ、鷹の背中を目で追った。
 鷹は翼を広げて風を受け、悠然と旋回しながら上昇していく。
 なんと素晴らしいのだろう。
 王子はまるで初めて空を見たような気持ちになった。
 それはどうみても新しい世界だった。
 鷹はどんな束縛も受けず、自由に見えた。
 王子にとって、自由という言葉が身に沁みて感じられたのは、この時が初めてだった。
 王子は、鷹になりたいと思った。

 それ以来、城の中でどんな催しが行われようと、王子は楽しめなくなった。
 舞踏会の賑わいは煩わしい喧噪に変わり、家来たちに何を言われても浅ましい追従にしか聞こえなくなった。
 狩りに出かけても、獲物よりも空の広さが気になってくる。
 あの鷹は飛んでいないか。

「私は鷹になりたい」
 ある日王子はそば付きの小姓に言った。
 その小姓は王子の子供の頃から王子の世話をしていた、城の中で心を許せる数少ない者の一人だった。小姓は答えた。
「王子様は鷹のような猛々しい武将になれますとも」
「違う。私は鷹になりたいのだ。大空を駆け巡り、自由に世界を飛んでみたいのだ」
 小姓は少し考えた。
「私も空を飛んでみたいと夢見たことがあります」
 王子は窓の外に向けていた視線を小姓の方へ移した。
「私は空を飛びたいのではない。鷹になりたいのだ」
「王子様。あなたは他の誰でもなくあなたなのです。それは鷹も同じことではありませんか」
「お前のいうことは分かる。しかし、それを聞いても満足もできないし納得もできない。それは私の求める言葉ではないのだ」
「王子様は言葉をお求めなのですか」
「……いや。それも違うな」
 王子は語るのをやめた。いくら言葉を費やしても、これ以上何も伝わるまい。それに、話せば話す程、自分の想いから外れたことを言ってしまいそうな気がしたのだ。
「なぜ、私の前に現れたのだ?」
 王子は鷹の目を思い出していた。
「何かおっしゃいましたか?」
「いや、いいんだ。下がってくれ。一人になりたい」
 小姓は恭しく頭を下げ、王子の部屋から出て行った。

 鷹の目が、どこかで王子を見ている気がした。
 日を追う毎にそのイメージは強くなり、どんなことをしていても、王子は鷹の目を頭に描くようになった。
 その内に、自分が鷹を見ているのか、鷹に見られているのかも分からなくなって来た。
(父が死に、私が王になったら……)
 王子は考えた。
 私は鷹になろう。すべてを私の自由にしてやるのだ。
 その日を境に、王子は王宮の中で理不尽な権勢を振りかざし始めた。

 鷹は優雅に空を飛んでいた。
 城の上を何度か旋回し、景色を眺め、その日の獲物を求めて山の方へと飛び去った。

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2007年11月28日水曜日

魔法使いへの道

 少年は、魔法使いになりたかった。
 でも、どうすればなれるのか分からない。
 お母さんに聞いてみても、お父さんに聞いてみても、なぜか適当に話をはぐらかされてしまって、なっとくのいく答えを聞くことができなかった。
 自分とおなじぐらいの年の子が魔法使いとして大活躍する映画やマンガを見て、いろいろと呪文を研究したりほうきにまたがってみたりしてみたけれどいっこうに魔法が使えるようにはならなかった。
 でも少年はたくさんたくさんマンガを読んだことで、少し難しい漢字を読めるようになった。わからない字はテッテイ的に辞書で調べるようにしたおかげだ。
 そこでこんどはもっと難しい字がもっとたくさん使われている本を読むようになった。
 その本には魔法についてもっと詳しいことが書かれていた。
 でも、いろんな種類の魔法についての説明や効果については書かれていたけれど、どうやってそれを学び、身につけていくことができるのかは書かれていなかった。
 それでも、少年は想像の中でさまざまな魔法を使う自分の姿を浮かべ、ますます魔法使いへの夢をつのらせていった。

 そんなある日、少年は友達に笑われた。
 少年は「魔法使いになりたいんだ」と言ったのだ。
 友達は初めは冗談だと思ったので、面白がって笑っていたが、少年が真剣に、具体的に魔法についての詳しい話をずらずらとならべたてて話すので、やっとのことで少年が本気だと言うことを理解したのだ。
「ばっかじゃねえの」
 と友達は言った。
「おまえ、だいじょうぶか?」
 と別の友達は言った。
 少年はそんなことを言われたのは初めてのことだったので、予想外の展開になんと言い返せば良いか分からなくなった。少年にとって魔法使いになることは現実的な夢だったのだ。
 それからいろいろと議論を交わしていくと、少年は友達たちが自分のように魔法についていろいろと調べたり呪文の言葉をおぼえたりしている訳ではないと分かって、彼らは知らないからそう言うことを言うのだと思った。
「じゃあ、ケンたちは何になりたいんだ?」と少年は聞いた。
「サッカー選手」
「パイロット」
「証券マン」
 そこで少年はケンたちにサッカーやパイロットや証券マンのことについて聞いてみたが、彼らはしきりに「かっこいい」とか「すげえ」とかを繰り返し、その話はいっこうに具体的にどうするかと言うことには発展しなかったので、少年は少しがっかりした。

 少年は誰よりも勉強していたし、魔法使いになる為の計画も立てていた。
 必要なことも分かっていた。化学と物理を学び、古代の物語の原文を読み尽くし、それから世界を旅して秘境の地に残る密教の魔術を修め、それらを融合して新しい自分の魔法を作り上げるのだ。

 理由はともかく、少年の両親はとにかく少年の成績が急激な右肩上がりで伸びていくので、まあ良いかと思うことにした。
 少年は両親の期待通りに一流の大学に入り、その中でもダントツの成績を収めた。
 少年は少年でなくなっても、自分の指先から言葉一つで稲妻がほとばしる日を変わらずに夢見ている。


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2007年11月27日火曜日

ありきたりなロック

 どんな方向にアンテナを動かしても、ラジオの音声は一向に改善しなかった。

 ガガー、ザザー、ピー

 雑音に時折パーソナリティーの言葉が混じる。

 こんばんガガー
 みんな元ピー
 今日ガーいつものザザーごきげんピー

 何かの歌が始まった。
 雑音に紛れてよく内容が判らないが、いつの時代、どこの国にもありそうなありきたりのロックなメロディーだということが分かる。もっとも、ロックと言う音楽の歴史の浅さを思えば、そう思えることは僕が生きている間のことだけなのかも知れないが、不思議なことに、そう言う歌は雑音だらけでもそこそこ聞ける気がした。

 お前のことがピーピピー
 愛ガーるザザー
 ピーピピー

 僕はアンテナを調整することを諦めて、そのままの音楽を流した。
 僕は島をわたるフェリーの三等客室で、なんとか暇をつぶそうとしていたのだ。
 僕は他の乗客たちの邪魔にならないようにと、ラジオの音量は極力さげていたのだが、全く聞こえないようにすると言うのは不可能な話だった。
 何人かの乗客は幾分批判的な視線を僕とラジオの方に向けていたが、中には音に合わせて指先でリズムを取っている人も見受けられた。
 その違いは初めからロックが好きか、そうでないかと言う事でしか無いのではないだろうかと、僕は想像してみる。
 それはほんとうにとってもありきたりなロックだった。
 簡単にノレるし、簡単に聞き流せる。
 一途な愛に関する個人的な叫び。

 ヴォーカルのシャウトの始まりが雑音でかき消され、一瞬、奇妙な音が客室の中に漂った。
 不思議なことに、それを聞いた客室の人々の動きが同時に止まった。
 静寂は雑音にかき消された。

 お前ザザーピー
 ガーガーガガーガーガー
 ピピピピザー

 船が大波を受けたのか、下腹に響くような重い動きで大きく傾いだ。
 僕は目を閉じて、ロックの続きを楽しんだ。

2007年11月25日日曜日

飛んでしまった彼女

 彼女はさっきからしきりに鏡を気にしている。
「何を気にしてるの?」
 と僕が聞くと
「うん、ちょっと」
 と言って詳しくは教えてくれなかった。
 僕は時々彼女が分からなくなる。
 付き合い初めの頃から、その傾向はあった。
 どういうきっかけでそれが訪れるのか分からないけれど、彼女はふとした瞬間に何か別のことを考えていて、会話中であろうが、散歩中だろうが、テレビを見ている間だろうが、おかまいなしに意識をどこかへ持って行かれてしまっているのだ。
 僕が「どうしたの?」とか「何考えてるの?」とか聞いてみても、そう言う時はどうにも煮え切らないような返事しか返ってこない。
 彼女のその反応に僕は不安になることがある。
 僕と一緒にいるのがつまらないのだろうか? あるいは僕と一緒にいながら他の誰かのことを考えたりしているのではないだろうか?
 僕はどうしても気になるのでその症状について確認してみようと思い、彼女に聞いてみたことがあるのだけれど、彼女は案外あっけらかんとして答えた。
「ああ、私飛んじゃう時があるの。でも気にしないで。それで何がどう悪くなるという訳でもないから」
 それでも、彼女が『飛んじゃう』と言った時の表情はその瞬間だけ真剣で、前後の流れから切り離されてまるで別の顔写真を埋め込まれたみたいに違う顔になった。
「飛んじゃうの?」
「うん。ちょっとだけね」
 彼女は親指と人差し指の間に狭い空間を作り、片目をつぶって指の隙間から僕の顔を覗き込んだ。その表情はとてもかわいらしくて、僕はまあいいか、とその時は思ってしまうのだ。
 しかし、『ちょっと、飛んじゃう』とは一体なんなのだろう。
 彼女は僕の質問には答えてくれたのだけど、その回答はとても僕の理解を超えたものだ。
「飛んじゃうって、何か別のことを考えているということなのかな?」
 僕はまた別の機会に聞いてみた。
 彼女は一瞬、何の話かと首を傾げたけれど、すぐに思い当たったようだった。
「やっぱり気になる?」
「ちょっとね」
 と僕は答えた。
「どうやら翔君は私のスマイルじゃごまかしきれないみたいね」
 と言って彼女はいつものスマイルを披露した。その威力は十分で、僕はうっかり「まあいいけど」と言いそうになった。
「私にもうまく説明できないのよね。何を考えているのって言われると何も考えていないんだけど、ああいう時って、記憶もずいぶん怪しくなるのよね」
「記憶が? 覚えてないってこと?」
「そうみたい。人から指摘されてやっと気付いたんだけどね」
「それってやっぱり色々と困るんじゃない? こないだは何も悪くなることは無いって言ってたけど」
「そんなことないよ。案外世の中どうとでもなるものよ」
「そうなの?」
「試してみたらいいよ。一度聞いた話を全部忘れたことにして、その話をした相手とどういう風に会話のつじつまを合わせたらいいか、そしてもう一度同じことを相手に言わせるにはどういう風に会話を運べばいいか、実験してみるの」
「……僕にはとても出来そうにない」
「他に選択肢が無ければやれるようになるものよ」
「そうか。でもどうしてそうなっちゃたんだろうね」
 僕がそう言うと彼女はふうっと一つ息を吐いた。
「みんな同じこと聞くんだよなあ。それがうっとうしくてごまかしてたんだけど。ひとこと言えるとしたら、それが私なの。理由なんか判らないわよ」
 そういって僕を見る彼女の表情にははっきりとした確信めいたものが浮かんでいた。
「わかった。もう聞かないよ」
 僕がそう言うと彼女はほっとしたようで、いつもと少し違うスマイルを見せてくれた。そして僕らはデートの続きをする為に並んで歩き始めた。そこで僕はうっかり余計なことを聞いてしまった。
「みんなってやっぱり元カレとか?」
 そのとき彼女は既にどこかへ『飛んで』いて、僕の言葉は聞こえないようだった。

2007年11月24日土曜日

母のホーミー

 僕が初めて彼女を家に呼んだ時、母はホーミーの練習にはまっていた。
 ホーミーとはモンゴルの民族に伝わる伝統的な発声法のようなもので、のどを使って高音と低音を同時に鳴らす「驚異の唱法」と言われているものだ。これが簡単のようで難しい。
 母の鳴らすホーミーはと言うと、当然ながら凄まじく聞くに堪えない。
 僕が部屋で彼女と仲良くしていても、変なタイミングで母のへたくそなホーミーが聞こえて来て、なかなかいい雰囲気を作ることが出来なかった。
 いっそのことしばらく練習をやめてくれと頼みに行こうと思ったが、そうすると逆に母の関心が僕らの方に向かい、きっと何度も必要の無いお茶やお菓子を何回にも分けて部屋を覗きにくるに違いないのだ。
 それはそれで面倒なので、僕は彼女と二人きりの時間を保つのを優先することにした。
「ごめんね、うるさくて」
 僕は隣りに並んで床に座っている鈴に謝った。
「いいよ、別に。気にしないで」
 鈴はむしろその状況を面白がっているみたいに見えた。
 でも僕は気になって仕方が無かった。何しろその頃の僕は若かった訳で、彼女を部屋に入れる、というだけで内心興奮していたし、あわよくばいろいろ、いろいろしてみたいという下心に、かなりこころを惑わされていたのだ。
 そこに母のホーミーが流れてくる。
 雰囲気どころではない。完全な雑音だ。むしろ騒音と言った方がいい。これは立派な環境汚染だ。提訴したい。
「ねえ、聞いてる?」
 僕が頭の中で母を罵っていると、鈴が僕に聞いて来た。
「え? ごめん、聞いてなかった」
「何考えてたの」
「いや、別に。何の話だっけ」
「今度のデート、どこ行こうかって話でしょ」
「それだ。どこか行きたいとこはある?」
「それを今言ってたのに」
「ごめん、もう一回お願い」
 僕がそう言うと、彼女は体を僕に近づけて、
「今度はちゃんと聞いててよ」
 と言った。鈴の顔は僕の目の前にあった。
 僕が彼女の手を握った時、部屋のドアが勢いよく開いて母が入って来た。
 僕と鈴は反射的に体を離し、母を見た。
「ねえ、聞いた? 今の聞いた?」
 母は何やら興奮していた。
「な、なに?」
「今、すっごく綺麗なホーミーが鳴ったのよ!」
 くらっと来た。
「ああ、そうなの? 聞いてなかった」
「もう、なんで聞いてないのよ!」
 母はそう言って部屋を出て行った。
 僕はどうしていいか分からず、助けを求めるような目を鈴に向けてしまった。

2007年11月23日金曜日

猫がいた

 完全に一人になってみたくて、無人島へやって来た。
 そこは今は誰も住んではいないけれど、過去には地下炭坑の労働者の世帯などで賑わいを見せたこともある、人の歴史の跡が残っている場所だった。
 僕はそこにキャンプを張って、ふた晩過ごす予定でいた。
 港の近くにテントをつくり、生活のためのこぢんまりとしたベースを整えると、僕はカメラと手帳と水筒をもって島の中央部へと足を伸ばした。
 地図によればここは東京の千代田区程の大きさしかない。
 その島のほとんど真ん中に今は枯れ果てた炭坑の入り口があるはずだった。
 僕はまずそこへ行き、その閉鎖された入り口を写真に撮った。
 出来れば入り口を塞いでいる鍵を外して中の様子を見たいものだと思ったけれど、それは本来の目的ではないし時間も労力もかかりそうだったので、僕は早々にその考えを諦めた。
 扉にはいかにも頑丈そうな南京錠がかけられていて、僕はその鍵穴の中から誰かに見られているような錯覚を受けたので、鍵穴に思い切りレンズを寄せて、穴の中を覗き込むような気持ちでシャッターを切った。
 また歩いて、むかし人の集落があった区域へと入った。
 そこには四階建ての公団住宅のような意外にもしっかりとした造りの住居棟がいくつか並んでいて、まだ炭坑が生きていた頃のこの場所の賑わいを感じることが出来た。
 僕はその中の一つに足を踏み入れた。
 廃墟の中に入って行くという行為は、僕に特別な感慨を与えるものだ。どこか来る者を拒むような、それでいて誘っているような、底の見えない空虚への侵入。わずかに早くなる呼吸。
 一階と二階の部屋の玄関は鍵がかかっていて入れなかった。そこに住んでいた人たちは、この島を出て行きつつも、また戻ってくることを考えていたのかも知れない。
 ようやく三階まで登って鍵のかかっていない部屋の中に入ることが出来た。
 南向きの窓からよく陽が差し込んで、空気そのものは温かい温度を感じさせてくれるものの、物音一つとて無いその場所はやはり寂しかった。
 スニーカーの裏で畳を踏みしめる音がやけに耳に残る。
 僕はそうしている間も盛んにカメラのシャッターを切り続けていた。
 少しでも僕の目に留まった者はことごとく僕の手元でデジタルの画像データとして記録されて行く。
 それらはすべて、既に失われてしまったものたちの群像だった。目に映るすべての物事はずっと以前に魂を亡くしていて、それらが自ら何かを語りかけてくることは無い。ただ、それが寄り集まって一つの風景となった時、その姿は僕に向かって、圧倒的な物量で何かを語りかけてくるようだった。
 ただ人が住んでいない、というだけでこんなにも世界は様相を変えてしまうのだ。
 僕は部屋の窓から街を見下ろしてみた。
 何があった後なのか、道の真ん中にガラスの破片や木材の瓦礫が散らばっていて、通れなくなっている道が見えた。その道は港と反対側の方向に向かって伸びていた。
 僕は部屋を出て、その道の先に何があるかと思って住宅棟の裏側から回り込んで島の反対側に出た。そこには小さな砂浜があってまわりを岩場に囲まれていた。
 僕は砂の上に寝転んで空を写した。
 空はどこも同じだと言うけれど、僕にはそうは思えなかった。
 物音がして振り返ると、僕が来た道の入り口の辺りで一匹の猫が僕を見ていた。
 その存在に虚をつかれた。
 猫がいた。目が合った。
 僕がニャアと言うと、猫は一瞬ぴくっと体を震わせ、しっぽを立てた。
 その姿は何故か僕の胸を熱くした。

2007年11月21日水曜日

矛盾の華

 ミサイルに意志はない。
 ただプログラムに従って、ターゲットを目指すだけだ。
 誰もがそう思っている。

 彼は格納庫の奥でじっとその時を待っている。
 ひとたび尻に炎がつけば、それはもう彼にとって死へのカウントダウンの始まりだ。
 空を飛び、目標に辿り着いた瞬間、爆発する。
 その姿を見る者には、陣営の違いというだけで全く別の印象を浮かばせる。
 ある側にとっては英雄であり、別の側にとっては死神にもなる。

 ミサイルの歴史は古い。
 その名前はローマ時代のラテン語に由来している。
 元々は主に飛び道具を意味する言葉だった。
 少し調べればすぐに分かることだが、今の時代にミサイルと言えば、その一言では片付けられない程沢山の種類があることが分かる。
 目標への距離、戦場の地理的条件、戦術的な用途、それらすべての要素を満たし、なお技術の違いなどもある。
 ミサイルそのもののシンプルさに比べ、その中身、その周辺は非常に複雑な状況に置かれることが常である。

 彼らは人間世界に起きる複雑怪奇な利害と主義の絡み合いの中で生み出された。
 そこには皮肉な人間の願いがあると思う。
 もっとこの世界がシンプルなものであってほしいと言う、切実な願い。
 それはあまりにミサイルに対して同情的な意見だと言われるかも知れない。
 彼らを作り上げたのは破壊主義的なマッドサイエンティストに違いないのだと言われれば、僕もそうかも知れないと思う。
 例えそうだとしても、この世に生まれ出た彼らの姿、その役割はあまりにも簡潔にまとめられていて、そのシンプルさが僕に何かを訴えかけてくるのだ。

 こうは思えないだろうか。
 ミサイルが一発撃たれるたびに、それを撃った人間の中には皮肉な矛盾が蓄積されて行く。
 シンプルに破壊する為に撃ち、自分の内側に多くの複雑さを取り込んでしまう。
 簡潔な結果を求め、その行動によって我々は手に追えない問題を増やしてしまう。

 ミサイルは、矛盾の華だ。
 彼らはきっと泣いている。
 撃つのはやめよう。

 僕はやっぱり平和な世界が好きだ。
 どんなに甘いと言われようとも。

2007年11月20日火曜日

西の太陽

 僕の部屋の西方の壁には、昔知人の画家から買った黄色い絵が飾られている。
 その絵はいわゆる抽象画であり、少し距離を置いて全体的に見ると黄色い平面に何本か複雑に交差する線が描かれていて、それが何を示すのかと言う具体的な示唆はない。
 風水的には西の方に黄色い物が置いてあると金運が上がるだとか言う話だったので、僕はその絵を飾る場所を決めたのだ。
 結果的に言うと、僕は風水に従って正解だったのだと思う。
 金運が著しく上昇した、という事は今の所ないのだが、その絵は奇妙なくらいに西側の壁にしっくりと馴染んでしまったのだ。そのたたずまいはまるで僕よりもこの部屋に何年も住んでいるかのような余裕と威厳を感じさせるもので、自然で、かつ存在感があった。
 僕は自分の中でいつの間にか、その絵を『西の太陽』と呼んでいた。
 何か悩んだり落ち込んだりしている時にふとその絵を見ると、その中に描かれた線が僕に何かを伝えようとしているみたいに思える事がある。その雰囲気に僕はついつい引き込まれ、しばらく絵と向き合う事になる。
 その時に絵から何かを感じ取れるかどうかはおそらく僕の内面の問題になるのだろう。
 いくつもの線が無規則に絡み合い、その全体像は複雑な迷路のようであり、上空から見た都市の地図のようにも見える。
 色は一面的ではなく、場所によっては深い陰影があり、またある場所には奥底に秘められた光の淀みが蠢いている。
 それは相容れぬ性質の細胞が闘い合う戦争の姿なのかも知れない。
 線は時に曲線を描き、別の線にぶつかる。よく注視してみれば、途中で行き場をなくして中途半端に浮いている線の端はどこにもない。すべての線は何らかの形で別の線に繋がっている。

 僕はその絵の世界に住んでみる事を考える。
 線を建物の輪郭や道路のラインに見立て、色の強弱をその世界を覆う雰囲気や天候など何かしらの空気に例えてみる。
 半円形のドームから延びる街道を、複雑な小路の絡み合うダウンタウンへと下る。
 そこで僕はこじんまりとしたホテルに入り、お世辞にもきれいとは言えない部屋のベッドに体を投げ出し、ドームで見た演劇の事を考える。
 それは太陽への巡礼を叶えようとする旅人達の悲喜劇を物語っていた。
 その世界に置ける太陽は、銀河系の中心としての存在ではなく、いつか歩いて訪れるための場所なのだ。
 別の意識がその世界の僕に語りかける。
(太陽は宇宙にあるから歩いては辿り着けないんだよ)
 しかしその声はその世界の僕にはまるで聞こえない。もちろん、その他の誰にも聞こえない。
 その世界にはその世界の価値観があって、もし僕のその声が聞こえたとしても彼らは太陽への巡礼をやめないだろう。
 そして別の場所ではじっと息をひそめてこの世界に波乱を巻き起こそうと考えている連中がいる。彼らは闇の中で機会を待っている。自分たちの正義が試される機会を。
 それは戦争の足音なのだ。
 部屋に据え付けられた古ぼけた針時計が時を刻む音を立てる。
 僕はその音に耳を澄まし、やがて訪れるカオスの予感から逃れる為に夢に入る。

 僕の部屋にある『西の太陽』には鮮やかな世界が潜んでいる。
 向き合えば向き合う程、その世界は深みを増し、新たな地平の広がりを僕に提示してくれるのだ。

2007年11月18日日曜日

雲龍

 空は静穏だった。
 僕はいつか寝た女の裸を思い出しながら海岸への道を歩いていた。
 その道は用水路のすぐ傍を平行して進んでいたので、海までの道は完全な一直線になっている。
 僕は一人だった。
 海へ他の誰かと一緒に行った事は今まで一度としてなかった。
 海にはほとんど用がない。
 僕がそこへ行くのは、何かを楽しむためではなく、自分自身を見つめるためだ。
 だから、なるべく朝の時間帯、人の少ないうちに行く。
 交差点の赤信号で止まっていると、目の前を自転車に乗った通学中の女学生が横切って行った。
 それはどこかで見た光景だった。
 僕が彼女らと同じ世代であった頃、その時僕が住んでいた小さな町で。
 僕は思わず彼女を目で追った。
 自転車のスピードになびくスカートの裾が揺らめくのが妙に懐かしかった。
 信号が青に変わる。
 僕は足を踏みしめる。
 足元にあった小石をつま先で蹴飛ばすと、予想に反して小石は遠くまでまっすぐに転がって行き、かなり先の方で右側に向かって急なカーブを描いて転がって、道の縁石にぶつかって止まった。
 道ばたの風景に溶け込んでしまった小石を横目に見ながら、僕は先に進んだ。
 風は全く感じない。
 空が止まっているように見える。
 僕は雲の形が気になった。
 それは一度ちらりと僕の視界に入ってから、僕の意識にずっと引っかかってしまう。
 生き物のような雲。
 僕の歩く道を導くように、海に向かって伸びている。
 いつからそこにいたのだろう。
 僕は初めから空を見ていたはずなのに、その雲につい今まで気付かなかった。
 雲はまっすぐではない。
 ぐねぐねとうねっている。
 その時僕は直感した。
 この雲は生きているのだと。
 我々の体が細胞の繋がりで出来ているように、この雲は水蒸気によって構成された生物なのだと。
 龍だ、と僕は思った。
 雲の龍。
 そう思うと、今度は僕はこの龍に見られている気がした。
 何もかも見透かされている気がしてならなかった。
 僕は雲龍の導きに従って、風のない海への道を進んだ。
 ランニングシャツに短パン姿の日焼けした老人が僕の横を走り抜けて追い越して行った。
 その背中は生命力に溢れていた。
 彼こそが龍の導きにふさわしい。
 老人の背中が遠くなると、僕は自分の両の太ももを拳で何度か軽く叩いて、老人の背中を追って走り始めた。

2007年11月16日金曜日

イマドキの忍者

 その青年は、自分を忍者の末裔だと主張した。
 彼はきつい戒めを破ってべろべろに泥酔していた。
 どうしてそんなに飲んでしまったのかと聞いたら、どうやら失恋が原因らしい。
 相手は大学のサークルのメンバーなのだと言う。
 僕は行きつけの居酒屋のカウンターでたまたま隣りに座った彼と意気投合してしまい、なんだかんだと酒の量が増えていった。
「いやね、これ以上は言えないけど、本当なんだよ」
 彼はこのセリフを何度も繰り返した。
 僕もかなり飲んでいたのだが、どんなに飲んでもその時の記憶を失ったことがないので、この話は信じてもらっていいと思う。
 彼は今年成人を迎えたばかりで忍者としてはこれからが油ののってくる時期なのだと言う。
「そういうのはさ、普通のスポーツ選手の世界とかとおんなじなんだよね」
 とも言った。
「そうは言ってもただでさえ、生活と修行の両立は難しいんっすよ」
「へえ、そうなのかい?」
 僕は初めは冗談だと思っていたから、結構適当に彼の話を受け流して応えていた。彼は酔いが進む程、奇妙な敬語を使い始めた。
「俺なんか、昼間は大学、夜は修行でさ。休みの日は昼にしか出来ない修行があるしさ」
「何だかデビュー前の小説家みたいな生活だね、それじゃあ」
「いや、ほんと、そうっすよ」
 そう言ってかれは十何杯か目の日本酒をぐいっと空けた。その姿は妙に様になっていた。
「でも、彼女はサークルで知り合ったんだろう?そんなに忙しくて会う暇はあったのかな」
「ないからダメになったんすよ」
「なるほどね。でもそもそもなんでサークルなんか入っちゃったの。修行、忙しかったんでしょ?」
 僕がそう言うと彼はふうっと息を吐いて
「まあ、普通の大学生活みたいのに対する憧れですかね」と言った。
 僕は昔のアイドルが引退する時に言っていたセリフを思い出していた。
「なんとは初めの方は時間作って行ってたんっすけどね。でもあれっすね、テニスサークルに入って本気でラケット振り回す奴いないんだね」
「テニスサークル?」
「っぽいでしょ、あれ。憧れの大学生活的なイメージ」
 僕は自分が学生の頃の事を思い出した。一理あるような気がした。
「俺そこにいるだけで楽しくてさあ。浮かれてラケットブンブン振り回してたら、女の子達思いっきり引いちゃったりしてね」
「浮いちゃったんだ」
「そうそう。空気的にね。その場の雰囲気がね。でもそんな俺を彼女は気に入ってくれた…」
 彼は遠い目をしてカウンターの向こうのボトルの並んだ棚の上の方の辺りを眺めていた。
「どんな子だったんだい?」と僕は聞いた。
「笑顔が可愛くて、優しい子っしたよ。普通の女の子っす」
「普通が良いんだね」
「普通が一番ですよ」
「でも君と話してると僕は普通に楽しいよ」
「ああ、俺もっす。なんでですかね」
「僕がデビュー前の小説家みたいなものだからかな」
「ええ?まじっすか。そんなんやってんっすか。かっこいいっすね」
「かっこよくなんかないよ。忍者の方がかっこいいよ」
「いやいやいや、よして下さいよお、まったくう。もう。ドロンしちゃいますよ。恥ずかしいから」
 そう言って彼は僕を見ながら、顔の前で両手を合わせて人差し指を上に突き出す、あのおなじみのポーズをして見せた。
 僕には彼がただの酔っぱらいにしか見えなかった。歳の割には古い事言うし。
 それから僕らは互いの生活の事についてあれこれ言い合った。
 出自を隠すために社会的な届けの名前は本当の名前とは違うのだとか、うちの親父は時代劇とか時代物の小説が好きだとか、そう言う小説は書かないの? とか、そんな事を彼は話し、僕は忍者について思いついた事を遠慮なく彼に対して質問した。
 彼の話には本当に矛盾する所がなかったから、案外冗談としては出来過ぎてるな、と僕は思った。そして彼はやはり忍者の末裔なのだとだんだん信じ始めていた。
 僕はいつまでも話したくなっていたのだけれど、彼は「そろそろ行かなきゃ」と言って立ち上がったので、僕も帰る事にした。
「また飲もうよ」
 僕は店の前で彼に言った。
「そっすね。機会があったら」
「僕はいつもここで飲んでるから。じゃあ、また」
「んじゃ。ドロン」
 そう言って、彼はその場に小さな煙を残してぱっと姿を消した。

レディードッグ

 公園のベンチでハンバーガーを食べていたら、どこからか身なりの奇麗な白い犬がやって来て、僕の足元で僕に寄り添うようにしてその場に居座った。
 身なりが奇麗、と表現したのは、その犬があまり単純ではない服を着せられていたからだった。
 おそらくこの犬の飼い主は無頼の犬好きに違いない、
 しかしそのような飼い主が、こんなに着飾った犬を勝手気侭に歩かせたりするものだろうか?
 僕は辺りを見回して、飼い主らしき人物を捜してみたが、公園の中には二、三人の子供達が鉄棒で遊んでいるのと、別のベンチで新聞を読んでいるサラリーマン風の紳士が一人見えるだけで、他には誰もいなかった。
 犬がもぞもぞと動いて僕の足に体をすりつけてくる。
 しかし派手な服だ。
 この犬が着せられている服は、ただ服というだけの表現ではとても十分ではない。ドレスと言った方が良い。胴体の部分にも袖の部分にも派手なフリルが何重にも付いていて、それを見ただけで僕はこの犬の飼い主は成金嗜好の悪趣味なセンスをもったどぎつい化粧のマダムに違いないと思ったものだ。
 しかし。
 寄り添って来た犬に目をやると、犬も僕の方を見ていた。
 それは当然と考えていいものか、犬の瞳はとても澄んでいてまっすぐだった。僕の頭には自然に『イノセント』という単語が浮かんだ。
 そして、やはりどう考えても考え過ぎだと思うのだが、犬は僕に何かを伝えようとしていたように思えてならないのだ。
 どうしてそう思うかと言うと、僕が目を逸らさない限り、犬は僕の食べているジャンクフードを欲しがるでもなくただじっと僕を見つめていたし、僕が他の事に注意を払うとすかさず体を僕に押し付けて来たからだ。
 僕は犬の首輪を探した。
 首輪はなかった。
 そこで犬の体を持ち上げて、犬が雌である事を確かめた。
 ここで僕は暇に任せて一つの仮定を試みた。
 この犬は元々人間で、魔法使いに呪いをかけられてこんな姿になったどこかの国のお姫様なのだ、と。
 まあ、僕も暇だったから。
 でもその仮定はあまりにも時代錯誤に思えたので、設定を変えた。
 この犬は元々人間で、金の亡者となった事業家の父が悪魔と取引をして、自分の利益と娘の呪いとを天秤にかけた末に金の方を選択し、そして娘はこんな姿になってしまったのだ、と。
 とんでもない親父だ。今目の前にいたら有無を言わさずぶん殴ってやりたい。
 僕は一瞬、自分の空想に本気で腹を立てた。
 そしてため息をついた。
 我ながら馬鹿な事を考えちゃったな、と思って何気なく視線を泳がせた時、離れたベンチで新聞を読んでいた紳士と目が合った。
 紳士は目を逸らした。
 ここは住宅街のど真ん中で、時間は平日の真っ昼間である。
 よく考えたらあの紳士の存在は非常に不自然ではないか。
 僕はしばらくその紳士から目を離せなかった。
 犬が足元に寄り添ってくる。
 犬を見ると、犬も紳士の方を見ていた。
 そしてまた犬は僕を見た。
 事業家の父の命を受けて犬となった娘を監視している部下かも知れない。
 まさか、ね。
 僕は面白半分に考えた仮定の物語を改めて否定し、犬の頭を撫でてやった。そうしていると、この犬に対してとても親密な感情が生まれ、その感情は少しずつ大きくなっていくような気がした。
「お前、名前はなんて言うんだ?」
 僕は犬の両前足を手に取って、犬の目の中を覗いた。

2007年11月15日木曜日

ある夢の夕暮れ

 久しぶりに飲んだ酒は体の隅々にまで沁みた。
 体内に取り込まれたアルコールは一晩眠っただけでは消化されず、その影響なのか、俺は夜明け前に全身を倦怠感に包んでしまうような気の重くなる夢を見た。


 黄昏がいつまでも続く町並みの中、俺は疲れ切った体を引き摺るようにして逃げ回っていた。
 そいつはずるずると地面を這うようにして俺を追ってくる。
 俺はいくら走ろうとしても歩く事しか出来なかった。
 体が俺の意志から切り離されてしまったように、言う事を聞いてくれない。
 しかしいくら後ろを振り返ってみても、そいつの姿は見えないのだ。
 ずるずると言う足音だけが俺の耳を捕えて離さず、その耳の中の感触が、そいつが迫って来ている事を厳しく警告している。
 俺は訳も分からず、とにかく逃げた。
 夢の初めから逃げていた訳だから、何故逃げていたのかは分からない。
 もしかしたらそいつは邪悪な何かではなく、害のない存在なのかも知れなかったが、とにかく逃げる事に必死だった俺はそいつの正体が何であるかという事を問題にしている場合ではなかったのだ。
 今はこうするしかない。
 とにかく走るしかない。
 しかしやはり気持ちが先走るばかりで、体は緩慢な徒歩を続ける事しか出来ない。

 夕日はいつまでも沈まなかった。
 俺の進行方向のほとんど正面に位置していた太陽は、燃えさかる炎のような赤とオレンジの中間の色で世界を染め上げていた。
 俺は逃げながらもその姿を見て、世界は間違いなくあの赤い球体を中心に回っているのだと感じた。
 生命の源。
 種の起原。
 いつか見た風景。
 不意に訪れるデジャヴ。
 俺がまだこの世の中の片隅の断片でしか物事を判断できなかった幼い頃、俺は確かにこうして夕陽に向かって走っていた。
 それはただその時走っていた方向の先に偶然夕陽があったというだけの話で、何故走っていたのかはまるで思い出せない。

 俺の記憶の回路はどうにかしてしまったらしい。
 何かを思い出したときには別の何かを忘れてしまい、思い出そうとしているうちに別の何かをまた忘れていく。
 俺は今まで何をしていたのだ?

 ずるずる。
 音が聞こえる。
 俺はまた振り返り、地面の中から俺の影がゆっくりと立ち上がるのを見た。
 俺自身のメタファー。
 立ち上がった影と対峙した時、俺の魂は自分の体からすうっと離れて、そのまま背中から夕陽の方へと吸い込まれていった。


 目が覚めた時、酒は飲み過ぎるのも離れ過ぎるのも良くないのだな、と俺は思った。

左利きの恋

 子供の頃、僕は左利きになりたかった。
 世の中は右利きにあふれていて、左利きと言うとそれは僕の耳にいつも特別な響きを感じさせた。
 もちろんそんな憧れは小学生や中学の初めの頃の事であって、自分が右利きであるという現実を受け入れてからはそのような思いは徐々に薄れていったのだ。

 それでも時々思う事がある。
 もし僕が左利きであったなら。
 彼女とつなぐ手は逆になっていたかも知れない。
 デートの時の位置取りは左右が入れ違っていたかも知れない。
 それがどんな変化や違いを生み出すのか、あるいはそんな事が人間の交友関係に及ぼす影響など皆無に近いものなのか、今の僕に知る術はない。

 僕は学生の頃の事を思い出す。
 キャンパスの中で人目を気にせずに彼女と手をつないで歩いていたキンモクセイの並木道のすっきりとした直線を思い浮かべる。
 僕は右手で彼女の左手と繋がっていて、必要以上に彼女の腕が僕の体に密着するように腕をねじって二人の間の物理的な距離を埋めようとしていた。
 試験の問題やサークル内での人間関係やバイト先の上司に対する愚痴やその他もろもろのとりとめのない話を僕らはいつまでも言い合っていた。
 あのとき彼女は話し難くはなかっただろうか。
 僕の左側に移りたがった彼女の言葉に一度は応えてみたものの、やっぱり勝手が悪いと言って僕はすぐに元のように彼女の左側に移動した。
 今になって思うのだ。
 もし僕が左利きであったなら。
 僕も彼女の右側にいる事が心地よく居られたのだったら。
 僕らの会話はすれ違う事なく今でもずっと一緒にいられたのかも知れない。
 そんな感傷をもし今の君に伝えたら、あっけらかんと笑い飛ばして
「そんな事ある訳ないじゃない」
 と言われてしまいそうな気がするけれど、そんな些細な事が僕らの人生を大きく変えてしまう事は十分に考えられると言う気も同時にするのだ。

 僕らが別れた原因はもっと他にあるには違いないのだけれど、やはり考えてしまう。
 もし、僕が左利きであったなら、と。

2007年11月13日火曜日

Q-FRONT:STARBUCKS

 店の中は満員で、空席を求めて人々が彷徨っていた。
 ここには様々な種類の人間がいる。

 旅行の計画を立てる恋人達。
 仕事の資料を広げるサラリーマン。
 時間をつぶしているだけの若者の固まり。
 スクール帰りの少年達。
 買い物の後の紙袋をいくつも抱えた女性。

 次々と休みなく、人は訪れる。
 女が携帯電話で何やら話しながらまわりのテーブルから空いている椅子をかき集め、後から来る仲間の席を確保した。
 空席を探していたカップルは、容器返却の棚の傍らで壁に寄りかかった。

 この限定的な雑踏の中で、どこかの雑誌のモデルのような長身の女が店の真ん中を突っ切って歩いた。
 彼女が数歩、歩いただけでその後の空間は鮮やかに切り裂かれ、彼女の前にはモーゼの十戒のように道が開いた。
 しかしそんな光景すらも小さな奇跡でしか有り得ず、店の喧噪はほんの少しも衰えなかった。

 流行のメイクなのか、あるいはごくごく普通の事なのか、瞳が大きい、あるいは大きく見える女性が多い。
 いくつかの瞳が強く印象的に僕の目を捉え、しばらくするとその情動の欠片は記憶の辺縁から過去の洞穴へと落下していった。

 人は休みなく次々と訪れ、彷徨い、時には諦め、時に妥協し、そうでなければ待ち続けた。
 いつまでも、いつまでもその営みは繰り返され、窓際の席から見下ろせるスクランブル交差点では地面のアスファルトを覆い隠す程の人ごみがもぞもぞと蠢き、この街がこうして生きているのだと、僕に教えてくれた。

ハートビート

 ハートの音が聞こえる。
 ぼくはそれを無視できない。
 あの見慣れたマークが、確かに僕の胸にある。
 それが脈打っている。
 歌っている。
 叫んでいる。

 そして僕に主張する。
「俺を閉じ込めるな!俺を解放しろ!」
 僕は思う。
(まあ、冷静になれ)
 ハートは反発する。
「俺の辞書にそんな言葉はないんだ。止まってる場合じゃないんだ!」
 ハートが高鳴る。
 激しいリズムでむちゃくちゃなドラムを叩く。
「止めるんじゃねえ!止めるんじゃねえ!」
 僕はその勢いに動揺する。
 ちょっと待て、考えさせてくれ。
「ふざけるな。お前は俺に洗脳されてればいいんだ!」
 ハートの叫びはどんどん強烈になっていく。
 彼がひとたび音を鳴らすと、僕の体は全身が強く揺さぶられる。
「お前は俺の奴隷なんだ。下僕なんだ。何も考えるな。俺に従え!」
 僕は次第に圧倒される。
 ハートに従うのが当たり前なのかも知れない、と思い始める。
 苛烈な叫び。
 繰り返される動悸。
 波動の振幅が激しく上下に運動を始める。
 胸が痛む。
 息苦しくなる。
 考える事が出来なくなる。

 もういいんだ。
 楽になれ。
 僕はハートとひとつになる。

2007年11月10日土曜日

ピクニックトラック

 元治は愛車の10tトラックのコンテナの屋根の上で、コンビニで買った弁当を食べながら海を眺めていた。
 この場所で長距離運送のつかの間の一息を楽しむのが、彼の密かな楽しみになっている。
 コンテナにビニールシートを敷いて、そこにお茶を入れたポットと弁当を並べ、あぐらをかいて緊張を解く。
 彼の頭のてっぺんは既につるつるにはげ上がっているが、側面と後頭部に残った毛髪は十分に風に揺られている程度には残っている。
 元治は無精故にざらついた顎や頬を右手でじょりじょりと撫で付け、その感触を楽しんだ。
 彼の目は少年のような煌めきがあり、このひとときを楽しんでいる表情はいたずらな少年のように不敵な雰囲気が漂っている。
 
 カップのみそ汁をすすっていると、別の10tが元治のトラックのうしろに停車した。
 元治はちらりとそっちを向いて、ビニールシートの中央から少し横に移動する。
 うしろのトラックから降りた女性は弁当袋をぶら下げて元治のトラックの方へ小走りにやって来ると、ハシゴを上って元治の隣りに腰掛けた。
「ああ、良かった、間に合ったわぁ」
 見た所、彼女は元治よりふたまわりは若く見える。
「なんじゃ、ゆっちゃん、途中で何かあったんか」
「東名で事故渋滞に巻き込まれちゃって。もう、時間かかったわぁ」
「そうか。あんまり無茶に飛ばしたら行かんぞ」
「はぁい」
 元治は優希の屈託の無い笑顔のほだされて頬の力が抜けてしまう。優希はいつの間にか元治の憩いのひとときに入り込んで、今では底にいるのが普通の事のようになった。いつもここで休憩している元治の姿がとても気持ち良さそうで、ついつい話しかけてしまった、というのが始まりだ。
 初めは何となく鬱陶しがっていた元治も、優希の無邪気ともいえる遠慮のなさと素直さに、こわばっていた心が緩んでしまった。

(ひょっとしたら俺自身、一人でいるのに飽きていたのかも知れん)
 元治はそう思う。
 仕事仲間というのはそんなに多くない。運送会社の事務所に行けば同僚達は大勢いるが、個人的な付き合いを積み上げていく事は敢えてしてこなかった。
 二十年連れ添った妻を病気で亡くしてからは、人付き合いそのものが煩わしくなってしまい、仕事も辞めて今の職に落ち着いた。
 服装にも、身なりにも、あまり気を遣わず、ただ淡々と仕事をこなす毎日を続けた。
 ある時から気分転換のつもりで海を眺めるようにしていたら、それが習慣になってしまったのだ。

 優希が横にいても、特に元治が気を遣うような事は無く、相変わらず海を眺めている。
 どんなに平穏な天候が続いたとしても、海の表情は一日ごとにまるで違う。それは至極当たり前の事だとしても、不思議でならない。
 どんなに見続けても見飽きる事は無かった。
 むしゃむしゃとコンビニのおにぎりを頬張り、遠くの波の動きや空を駆ける渡り鳥と風の戯れ、群れなして漁をする漁船同士の船の間隔がどのくらいなのかなど、海に現れる状況をぼんやりと観察していると案外きりがないのだ。
 優希も元治と同じように海を見る。人懐っこい性格ではあるが、余計な事は言わず、元治の隣りにいる。
「ゆっちゃんは、彼氏はおらんのか」
「ええ?いきなり何ですかあ」
「いや、何となくな」
「珍しいですね、元さんが質問なんて」
「うん、いや、いいんだ」
 優希は海を見たまま会話を続ける元治の横顔を見て、ふむ、と頷いた。
「ちょっとね、今彼氏どころじゃないから。これでも家族を支えてるんですよ、私」
「今いくつだい」
「今年で二十歳」
「そら大変だなあ」
 何がおかしかったのか、優希は元治の横顔を見たままけたけたと笑った。
 その笑い方が、妻に似ている、と元治は思った。
(そうか、そういうことか)
「うちの親父、借金放り出して逃げちゃってね、ほんと、もう大変よぉ」
「その割には楽しそうじゃないか」
「いちいち落ち込んじゃいられないしね。うちの残された家族は、みんなしこたま働きまくってますよ。大変だけど、楽しいよ」
「強いなあ」
「そう?」
「とてもかなわん」
「やめてくださいよお。元さんは人生の大先輩だと思ってるんだから」
 元治は優希の顔を見た。笑っているが、目に真剣さがあった。
「俺はそんなタマじゃねえよ」
「そんなことありません」
「何でそう思う」
「顔に出てるから」
 そう言われて、元治は無精髭の伸びて来た顎を右手でじょりじょりとさすった。
「そんな顔しとるか?」
「うん。元さんがお父さんだったら良かったのにって思う」
 元治は思わず顔がほころんだ。何かが胸の奥でうずいて、元治のこころを揺さぶった。
「そうかい」と元治は言った。
「うん。機会があったらここにうちの家族みんな呼んでピクニックしたいと思ってるの」
「ここって、ここでかい?」
 元治はトラックの屋根を指差していった。
「もちろん」優希は答えた。
 元治は優希とまっすぐに視線を合わせて、それも悪くないと思った。

2007年11月9日金曜日

エンドレスホース

 ぼくはホースの先端を持ったまま、歩き出した。
 ホースは意外な程よく伸びた。
 ぼくは家の門を通って敷地の外に出た。ホースはまだまだ伸びる。
 所々、気になる所に向かって水を放った。
 ホースヘッドのグリップを軽く握るだけで、それまでホースの中に充満していた水圧が一気に放出される。
 初めは各々の家庭の庭などで育てられている鉢植えの向けてだったり、アスファルトの隙間から力強く芽を出し、太陽に向かって伸びる雑草なんかに向けて水を向けていたけれど、そのうち何でも良くなった。
 ぼくは目の前をふらっと横切った小さな虫に向かって水を向けた。
 水は当たらなかった。
 虫は危険な空気でも感じたのか、すぐさま空中で踵を返し、猛スピードで離れていった。
 僕はホースヘッドの先端を操作して、水が広範囲に広がるシャワーになって出るようにした。
 空中に向けて水を放つと少し離れた所に奇麗な虹ができた。
 その虹を見て、ぼくは
「ああ、懐かしいな」
 と思った。
 そのまま歩いていると、公園で子供達が遊んでいる姿が見えた。
 僕は公園に入っていって、グリップの握りを強め、空に放つシャワーの勢いを可能な限り強くした。
 虹は少し大きくなった。
 子供達は喜んで、さかんに虹を掴もうとした。
 でも、何がどうなっているのか、どんな方向から虹に向かっていっても、誰もが同じようにすり抜けていくだけだった。
 ぼくはホースを持たない方の手を伸ばして、子供達と同じように虹を掴もうとしてみたけれど、反対にグリップを握る力が弱まってしまい、子供達から不満の声を浴びせられるだけだった。
 やがて子供達はずぶぬれになってしまった服を乾かすために水の届く範囲から遠ざかっていった。
 子供達の歓声が過ぎていくと、ぼくはまた歩き出した。
 まわりの豊かな緑に向かって思う存分水を放ちながら、公園の真ん中を突き抜けていった。
 しばらく歩くと、どこへ向かう道なのか、ながいながいまっすぐな遊歩道に出た。
 遊歩道の両脇には背の高い何だか分からない木が左右入れ違いに同じ間隔で植えられていて、過剰に人の手入れが入り過ぎていない状態の古代の遺跡に向かう回廊のように見えた。
 木々の枝葉のの影や、その隙間から漏れ込む光が、回廊のような遊歩道の床面に風に揺れながら動く仕掛けの模様を描いていた。
 それはモノトーンに彩られた幾何学模様のタイルを思わせた。
 すべてが美しかった。
 ぼくはその遊歩道の両側の並木に盛んに水をかけながら、タイルの上を踏みしめていった。
 この道はどこへ続くのだろう?
 辿り着いた先には何があるのだろう?
 それともこうして歩き続けて、ぼくはどこかへ辿り着く事が出来るのだろうか?
 ホースはまだまだ伸びている。
 この道が途切れるまで、ホースの長さはもってくれるだろうか。
 不安とも、悲しみともつかない思いを抱きながら、ぼくは水を撒き続ける。

2007年11月7日水曜日

一発の銃弾

 人は人生に対峙するとき、常に一人である。
 僕が自分の胸を貫こうとする弾丸を見た時、全ての時は止まり、背中にいる人の事やその銃を撃った人の事、そして僕らが存在していたその場所にあったあらゆる物事は、映画のスクリーンを飛び越えて観客席の向こうへと飛んでいったように感じられた。
 僕の人生は、僕と、その弾丸の関係に集約されてしまったのだ。
 僕はそれまで、僕の人生を呪い、他人を呪い、僕自身を呪っていた。
 僕は弾丸に向かって話しかける。
「お前が僕の待っていたものなのか?」
 弾丸は答える。
「その答えは君にしか分からないだろう?」
 いつもこうだ。問いかけると、更なる問いが返ってくる。明確な答えなど何処にもなく、疑問に呼応する疑問が次々と派生的に増殖していくだけだ。際限のないループ。同じ事の繰り返し。それは、人生そのものと変わりがないのじゃないか? だとすれば、永遠に問いかけ、問いかけられる事が人生なのだろうか。
 どんなに考えても答えは見つからない。僕は明確な答えを求めていた。僕の頭を嵐の後の空気のようにすっきりと清々しい気持ちにさせてくれる最後の答えを。
 だが、その苦悩ももう終わる。
 一発の銃弾が、僕を救う。

2007年11月6日火曜日

夕日メンテナンス

美しい夕日がどうやってつくられるか、知っているかい?
毎日空を眺めていれば分かる。
時々、不思議な雲が夕焼け前の太陽を包んで、その中で磨いているんだ。
雲で出来た巣の中で、孵るのを待つタマゴのような姿。
新木場あたりの駅のホームからなら、その様子がよく見えるかも知れない。

それはとても壮大で、神話的とも言える光景だ。
人の手が決して届かない場所で、新たに生み出される光。
自然の力が寄ってたかってその場所に向かって集結していくように感じる事が出来る。

もちろん現実には太陽は太陽系の中心と言う遥か手の届かない所にあって、雲の中にいる訳ではない。
そんな事は分かっていても、はっきり言ってどうだっていい。
太陽は磨かれている。
それが僕が見た空における唯一の真実だ。
太陽は、自然の力を集めて、常に鮮やかに光る。

2007年11月5日月曜日

黒電話の語り

「そんなに俺を嫌うなよ」
 電話は、黒光りする体に僕の片隅を映し出しながら、言った。
 苦々しげなその口調に、僕は幾分申し訳ない気持ちになった。さっきから、もう何本もかかってきた電話を無視しているのだ。
「いや、そう言う訳じゃないんだけどさぁ……」
 僕の声は何故か何かに対する言い訳のような響きを持った。
「まあいいさ」
 黒電話は頭の上に乗っかった受話器をかたかたと揺らした。笑っているのか。
(お前の事は解っているぞ)
 と言う声が聞こえた気がしたが、何しろ電話には口がついている訳ではないから、その声が僕の頭の中のものなのか、電話の発した声なのか、僕には正確には分からない。
「まあいいさ」
 黒電話はもう一度繰り返した。
「どうあろうと、人それぞれだからな」
「悪気は無いんだ。本当だよ」
「気にしてない。それに、俺は別にどうだっていいんだ」
「ああ、分かってるよ」
「いいのかい?電話に答えなくて」
 僕はゆっくりと首を振った。
「分からないんだ。どうしたらいいのか」
「不器用も過ぎると迷惑だぜ」
「それも分かってる」
「何だかな、俺から見ると、君は自分で自分に鎖をかけているみたいだ」
「そうかな?」
「ああ。ひどく不自由な顔のオランウータンみたいだね」
「へえ。でも、その言い方はオランウータンに失礼じゃないか?」
「ただの例えだよ。別にオランウータンじゃなくってもいい。シロクマだって、ペンギンだって同じだよ」
 僕は壁に立て掛けられたスタンドミラーの中の僕を見て、「なるほど」と言った。僕はしばらく自分の姿を見続けた。
「まあいいさ」
 また、黒電話は言った。
「約束するけど、次にかかってくる電話は、とてもいい知らせになるよ。君にとって」
「そんなの、分かるのか?」
「当たり前だ。どこの電話だって同じだよ。みんな、いつどんな電話がかかってくるか初めから知ってるのさ」
「それなら、前もって教えてくれよ。そしたら、出なくていい電話には出なくて済むし」
「おいおい、電話に甘えてるんじゃないよ」
「冗談だよ」
「とてもそうは聞こえなかったがな」
「まあいいじゃん」
「ふん」
 そう言って黒電話はまた受話器をかたかたと揺らした。その動きがどんな情動を表現したものなのか、僕には分からなかった。
 その動きが止むと、電話の呼び出し音が鳴り始めた。「まあいいさ」と電話が言っている気がした。

2007年10月31日水曜日

何度扉を開いても、その部屋からは出られなかった。
一つ扉を開けばその向こうにまた扉があり、どこまで扉を開いていっても同じ部屋が続くばかりだった。

その部屋にはちょっと一休みするのには最適、といったものが揃っていた。
コーヒーメーカー、ゆったりと腰の落ち着きそうなソファー、結構本格的な雰囲気のオーディオセット、その他諸々。
一言で言えば、趣味の洗練された個人用のリビングだ。
なんでこんな事になったのだろう。

確か僕は仕事の合間にちょっとこっそり休憩しようと、あまり普段は寄り付かない資料室に潜り込んで隠れてタバコを吸おうとしたのだ。
別にタバコを吸うぐらい、喫煙室へ行けば良いだけの話なのだが、なんだかあの空間がどうしても好きになれない。それに、昔から隠れてタバコを吸うのが習性のようになっていて、やめられない、と言うのもある。
ところがその資料室は、僕の思っていたような場所ではなかった。中に入った瞬間に部屋に漂うきつめの甘い香りが鼻腔に潜り込んで来て、僕は少し面食らったが、次の習慣目にしたこの部屋の風景に半ば呆然としてしまった。
(これは資料室どころか休憩のための部屋だ)
僕は足を踏み入れ、いかにも気持ちの良さそうなソファーで一服いただいてしまった。
テーブルの上のリモコンでコンポを操作してCDを起動させると、どこかで聴いたようなジャズが流れて来た。僕はジャズはあまり詳しくないが、聴いているのは好きな方だ。特に、このようなリラックスできる空間で聴くジャズは身に染みるものだと思っている。
ちょっとサボるつもりが意外な快適空間を満喫してしまった所で、僕はさらに調子に乗ってコーヒーを煎れ始めた。
あんまりゆっくりしちゃうと良くないなあ、と思いつつも僕はすでにこの空間が醸し出す誘惑に負けていた。

ソファーに戻ってコーヒーを一口飲んだ所で、部屋の反対側のドアに気付いた。
(あんなドア、さっきあったっけな……?)
僕は不思議に思いつつ、コーヒーカップを持ったまま、その扉を開いた。そして抜け出せなくなったのだ。
同じ部屋が続いている。

僕は何がなんだか判らずに扉を開き続けた。何の変哲も無い日常からいきなりこのような異常な状況に置かれた人間は、判断力と言うものを失うらしい。僕は何かに取り憑かれたように次々と同じドアを開けていった。コーヒーカップを持ったまま。
僕はコーヒーを飲み干すと言う事すら考えの中から消えていた。もう十数回も扉を開いたのではないかと思った辺りで僕の足は一瞬ふらつき、その表紙にコーヒーがカップからはねて、僕のシャツにかかってしまった。残り少なくなったカップの中のコーヒーに口を付けると、冷たい味がした。そこで僕は初めて自分を見直す事が出来た。
そうだ。入って来たドアから出れば良いんだ。

僕は部屋に入って来たドアを一度しっかりと閉め、表に「資料室」と書かれているはずの廊下に面したドアを想像した。
そして目を閉じて扉を開き、また目を開けるとそこは元の会社の廊下だった。
僕の背後でバタンと扉のしまる音がした。振り返るとそこには「資料室」の扉があった。中をのぞくと、それはどこにでもある極めて一般的な資料室の風景だった。そして僕の手からはいつの間にかコーヒーカップも無くなっていた。
(一体あれは何だったのだろう?)
カップから飛び出したコーヒーの染みはシャツについたままだった。

2007年10月30日火曜日

やさしさ

「そこまでして、やらなくちゃいけない事なの?」

 夜も更け、人の少なくなった物静かな喫茶店の片隅で、小さな声で告げられた彼女の言葉はとても優しくて、僕はそのぬくもりに溺れそうになるのだけれど、どうしてもそうする訳にはいかない。
 彼女の純粋な思いやりや気遣いに甘えたいのは山々だけれど、僕はどうしてもやらなければならない事がある。
 それは誰に強制されている訳でもない、あくまで個人的な目的でしかないのだけれど、今の僕にとって何よりも大事なことだ。彼女だってそれは解っていて、それでもやはり言わずにはいられないのだろう。僕はその気持に感謝する。
 やめることは簡単で、その瞬間に僕は楽になれる。そして同時に大きなものを失ってしまう。心の一部。存在の理由。大げさかもしれないけれど、特別な事じゃない。何かを目指してしまった者なら、誰にでもあるものだ。

 ねえ、もし今この時に、君の言葉に全てを委ねてしまったら、僕は心の空洞に巨大な虚無を抱えたまま、いつまでも君の優しさを求めてしまうだろう。それはきっと近い将来、終わりのない絶望と変わらなくなってしまう。
 だから今だけは、君の優しさを受け入れる事が出来ないんだ。

 ごめんね、でもありがとう。

2007年10月29日月曜日

傷痕

その男の胸に深く深く刻まれた傷痕を見て、女は目を離せなくなり、話を聞かない訳にはいかなくなった。
「この傷か?昔ちょっともめてな…」
男はそれ以上、あまり語りたがろうとはしなかった。
その態度を見て、女の興味はさらにかき立てられ、ハスキーな声で甘く囁いた。
「聞きたいわ」
「あまり面白い話じゃない」
「秘密なの?」
「まあ、そんな訳じゃないが…」
女は食い下がり、「教えてくれたら、すごい事してあげる」と言った。
「そんな技を持ってるのか」と男が言うと、
「一生忘れられないような事よ」と女は答えた。

男は空中にむかってひとつ息を吐き、「まあいいか」と言った。
「この傷は俺のガキに付けられたんだ」
「ガキって、あなたの息子ってこと?」
「ああ」
「なんでまた……」
「まあ、事情は色々さ」
「その子の母親を泣かしたんでしょう」
「そうかもしれんね」
「でも、それだけ深い傷を負って、よく生きてられたわね」
「おれはしぶといからな」
男はそう言って、にやりと笑った。

男は一度話し出すと饒舌になったようだ。
「しかしまあ俺の息子もさすがに俺の血を引いていてしつこいんだ」
「追いかけられてるの?」
「多分な。今も近くにいる気がしてならん」
「危ないじゃない」
「だいじょうぶさ。奴が俺を見た所で誰だか判るまい」
「どういうこと?」
「この顔も、名前も偽物だってことだ。全て変えた。俺と、俺の過去を結びつけるものは全て捨てた」
女は目を輝かせて男に迫った。
「本当の名前を教えてよ」
「ダメだ」
「いいことしてあげるから」
そう言って女は何事かを男の耳元に囁いた。
男はニヤニヤと頬の弛みを隠せなくなって、「しかたねえな」とつぶやいて女の耳元に何事かを囁き返した。
女は満足そうに頷いて、軽く男に寄り添った。
「じゃあ、約束だぞ」
「二度と忘れられない夜になるわよ」

女は時間をかけて磨き上げた様々な技を駆使して男を快楽の渦へと沈めていった。
男が我を忘れて女の導きに身を委ねているのを見て、女はにやりと笑った。
その怪しい笑顔は不思議と男のそれとよく似ていた。
そして女は心の内で密かに思った。
(お母さん、とうとう見つけたよ。今度こそ敵を取るからね……)

2007年10月27日土曜日

閑話休題

「ひとやすみすれば?」
と言われて、何もせずに一日中ベッドの中にいた。
外はあいにくの雨で、外に出るのも面倒な日だ。

僕は借り物の女性週刊誌や読みかけの小説を読み、
極力何も考えないように今日一日を過ごした。
日常の中で体の中に少しずつ溜まっていたと思われる様々な種類の疲れの塊が、
頭から順番に体の下の方に移動し、気怠さに覆われた足の指先から徐々に空気中に揮発していった。

いつの間にか溜まっていた疲れは思いのほか僕の体の隅々にまで浸透していた。
肉体を構成する要素が軽めの食事と休息によって古いものと入れ替わる。
そうして体とともに心まで回復していくのだが、そうやって自分がリフレッシュしていくのを感じるのは奇妙な事のような気もした。
急ぐ事も焦る事も忘れ、僕は流れに身を任せる。
マイナスの方に大きく傾いていたベクトルが少しずつフラットになっていく。
これで、僕に休息を勧めた彼女が横にいてくれたら、これ以上幸せな事は無いのだが。

僕は布団の中で丸くなりながら、子供の頃熱を出して一日中同じように過ごしていた時の事を思い出した。
大人になると病気の現れ方はわかりにくくなって、気付かないまま病んでいる事がままあると思う。
どこかで失ったバランスを取り戻す時間が、皆にあればいいのだ。

とにかく、今は寝よう……

2007年10月25日木曜日

失踪

とうとう車を買ってしまった。
前々から考えてはいたのだけれど、なかなか手を出せないでいたのだ。
何故今になって購入へ踏み切ったかと言うと、自分でもよくわからない。
ある休日にふと衝動的な気分が自分を襲ってその足でカーディラーヘ行き、
その2時間後にはもう納車の日取りを話し合っていた。

今までそれを避けていたのにはそれなりの理由がある。
自分が信用できないのだ。
ガソリンを入れアクセルを吹かせば、陸が繋がる限りどこへでも行けてしまう。
そうなれば私はどこかへ行ってしまう。
きっとそうしてしまう。
そう言う懸念がずっと頭の中にあったのだ。
それは心配の種でもあったが同時に強烈な誘惑でもあった。
一カ所にじっとしているのがどうしても耐えられない質だと言う訳ではない。
私は失踪と言う行為に憧れを抱いているのだ。

自分の関わる社会や人々、住んでいる土地や行きつけの店、
そういったあらゆる日常的なもの全てを背中の方へ押しやりかかとで蹴り出して、
独立した一つの存在として旅立つ事を、私は胸の張り裂ける思いで望み続けていた。
だからこそ、自家用車と言う力強い移動手段は私にとっては危険なものだったのだ。

これでいつでも失踪できる。

その事実は不思議な安心感を私の心に植え付けた。
そのおかげで私のうちなる欲望は日の目を見ずに済んでいる。
でも私は感じているのだ。
内に秘められるからこそ、欲望のマグマは地底で深く力を溜め、
今や今かと噴火の瞬間を待ち望んでいる事を。

自分は何故そのような飢えを抱くに至ったのだろう?
私には妻も居るし子供も二人居る。
家庭内の人間関係ははすこぶる円満で、その生活には何の不満も無い。
出来ればこの幸せを永遠に保ち続けたいと思う。
世間一般に照らしてみても、私の家庭のように何もかもが幸福に満ちているような家はそうはあるまい。
なのに何故。

私は疲れているのだろうか。
幸せを感じる心の裏でふとした隙に、自分が突如この世間から姿を隠す事を考える。
そしてその夢想は次々に拡大し、私は別の街で新しい生活を始め、名前も変える。
寝食を共に出来るような女性を捜し、彼女の家を新しい住まいとする。
車はどこか適当なところに止めておいて、秘密を抱えたままそれなりに幸せな生活を送る。
そして新しい幸福に包まれた生活を投げ出し、また当ての無い失踪の旅に出る。
まるで失われた記憶を突然取り戻したように、その衝動はやってくる。
私には逆らう術がわからない。今はただ、耐えているだけだ。
一度でもこの秘めたる思いに従ってしまえば、二度と逆らえまい。

休日のガレージで、家族サービスを終えた後の愛車の汚れをホースから水を飛ばして洗った後、
幸福に包まれた食卓で家族との団らんを楽しみながら、私の頭には失踪への思いが渦巻いていた。

2007年10月24日水曜日

マイの銀河鉄道

 電車の窓から見える風景は次々と右から左へ塗り替えられ、定まらない。それはいつも流れているのに、変わり映えのしない日常の一部でもある。やがて列車は長くゆるやかなカーブにさしかかり、先へ延びる線路の曲線の彼方に、高層ビルの建ち並ぶ都心の一角が新しい風景としてマイの視界に入った。

 いくつもの列車がその街を目指して走り、辿り着いては人々を降ろして行く様を思い浮かべて、マイはふとため息をついた。このまま銀河鉄道みたいにこの列車が空へ向かって旅立って行ったら、ちょっとは面白いかもしれない。そして同じ列車に乗り合わせた他の乗客達と一緒に果て無き宇宙の旅に出て、星々をわたり時を超え、苦難の果てに真実の愛を発見するのだ。マイは窓の中の風景に、宇宙へ伸びゆく一直線の線路を思い描いた。

 そんな事を考えているうちに、列車は街の中心に深く進入し、やがて駅のホームに横付けされた。この街の駅は路線の終着地で、乗り過ごしてしまった乗客以外はみんなここで降りて、代わりに反対方向へ進む人たちが車内になだれ込む。マイは体の余分な力を抜いて、人波の流れに身を任せてしまう。
 改札を抜け、駅ビルの一階から三階までをくり抜いたような吹き抜けをくぐり、マイは地上に降り立った。

 ああ太陽よ、お前はいつも眩しいね。
 掌を君に透かして見れば、自分の手に赤い血が流れているのが分かる。朝だと言うのに陽はすでに高い。
 もう夏が近いのだ。これからもっと眩しくて、暑っ苦しい風が吹く。首にタオルでも巻いて歩くか。
 お昼にはもう老若男女が入り乱れ、走る隙間も無い程に人、人、人、で埋まるこの繁華街も、朝のこの時間は上を向いて歩いてたって誰かとぶつからないで済む。
「マイさん!」
 後から、どうやら走って追いついてきた、このガキっぽい顔の少年は、今年マイと同じ会社に入社したばかりの新人社員、健太郎。かなり背の低いマイと比べて、健太郎は背が高い。そして線が細い。きっとこいつは小学生の頃、あだ名がもやしだったはずだ、とマイは心中毒を吐く。小学生みたいな顔のくせにその身長は許せない、とも思う。
「マイさん、歩くの速いっすね」
 なんだろう、どうも出会った初めから、マイは健太郎の吐く言葉に理不尽な苛立ちを感じてしまう。
「わたし足が短いから、速く歩かないと人並みのスピードで進めないのよ」
「何言ってるんですか。身長考えたら全然短くないですよ」
 気を遣っているようで無神経なセリフだ。別にコンプレックスを持っている訳ではないが、自分の身長の低さが特に好きと言う訳でもない。他人を気遣う振りをして結局傷つけてしまう、質の悪いのがたまにいるけど、実際身近にいると蹴りたくなってくる。
 そんな訳で、マイは健太郎の太ももにローキックを入れた。でも身長差のせいでマイのフォームはミドルキックのそれになった。それでもキックは正確に健太郎の腿を打った。
「痛え!何するんですか」
「うるさい!朝の気分が台無しになった報いだ」
「乱暴すぎますよー。僕が何したって言うんですか」
「知るか!」
 マイはもう健太郎には目もくれず歩き出した。なんでこんなにイラつくのだろう。原因はもう判っている。あいつは弟に似過ぎているのだ。あの身長の高さ以外は。

 仕事をやってる時間なんか、あっという間に過ぎていく。朝が来て、訳の分からないまま時に乗り、世間の荒波の中で右に左に流されて、気が付けば夕日は遠い過去の出来事。再び街を歩く頃にはとっぷりと日は暮れて、空は銀河への入り口を開いている。

 まっすぐ駅には向かわない。可能な限りくねくねと入り組んだ街の路地をあっちとこっちつないで彷徨う。表通りの店にはまるで興味を持てないから、ひっそりと、闇に隠れたような店を探す。見つからなければそれでいい。いい店があれば気分次第で乗り込んでいく。女一人で居酒屋巡りだ。いつしかそれは帰り道の習慣となっていた。細い路地でひかえめな明かりの中をふらふらと歩いていると、弟の魂に会える気がしてしまう。
 健太郎の顔が思い浮かんだ。
 なんでお前が出てくる。やめてくれ。記憶の中で、薄れ始めた面影をどうしてお前が思い出させる。お前はあの子じゃないのに。
 うすぼんやりと灯籠のような灯りの続く路地の中、マイは空の闇を見上げた。そこにある銀河鉄道を夢見て。

?来穴

物足りない。
書いても書いても物足りない。
もっといける。
まだまだやれる。
終わりの無い戦い。
永遠に続く道。

どこまでも果て無き欲望。
飢えは満たされる事が無く、
更なる深みに僕を誘う。

僕は地面に穴を掘り、どこまれもどっこえまでおm深くゔぉった。
やがてそこには水が噴き出し、水は周囲の土を飲み込み穴の面積を広げた。
そして穴の側面からゴロgフォロと相ツア石や岩が現れ、
熱い湯が噴き出し、その穴は温泉となった。
僕は掘り続けながら服をふぎ、道具を捨て、
湯の中に潜りながら更に穴を掘り続けた。
dっこまれも、どこまでも、息が続く限り掘って、
苦しくなったら水面に顔を出し、空気の恩恵を知った。
穴が深くなるほど潜る時間は長くなり、苦しみは増す。
それでもボオウはやめレアr内。
僕はもう掘り始めてしまったのだ。
そこに築かれたものや新しく生み出されたものは、
あたたかいえwr温泉の一部として見えていはイオrhjけれど、
何も完ペポイではない。

完璧なkもlんlねあdl何も無いとはよく言われる事だし、
否定する気もない。
自分が完璧さを求めているジョアンhかオヅかさえも実はわからない。
ただ掘り続けるだけだ。
それはただ羞じ笑めrてしまった尾のをやめられないという精神の迷路に
自らはまってしまっただけの事なのかも知れない。

つまり、僕は今tっと病んでいる。

2007年10月23日火曜日

私の渦

やはり消えてはいない。
あの奇妙な雲はいつになったら消えてくれるのだろうか?

絵美がそれに気付いたのはもう二週間も前の事だ。
初めのうちは大して気にも止めていなかった。日々の生活をこなしていると意外と毎日空を見る機会は無いものだ。
だが数日経って、それでもその雲がぴたりと空の一角から身動きもしない様を見て、絵美はそのときやっと異変に気付いた。
それからは毎日と言わず何かと空を観察するようになった。
どう考えても非常識だ。
形状は誰にでも馴染みのある形。小さな渦。
満潮と干潮が入れ替わる時の鳴門海峡みたいに、ほかの雲の隙間にその渦はある。
そう言えばこのところ、雲一つない空、と言うのを見ていない。皆はそれに気付いているだろうか?
大きさはたいした事ないのに、そのグレーの姿は何やら圧迫感があって、絵美は単純に嫌な感じだと思った。

お隣の奥さんと世間話をしている時に、ふと話題に出してみたら、そんなものは見えないと言う。
「あそこにある」
と指差してみたら、かなり怪訝な顔をされて
「だいじょうぶ?旦那さんとうまくいってないの?」
と、予想外の心配をされた。ほかの人にも確かめてみたが、誰も同じような反応で、絵美の疑問は深まるばかりだ。
どうやらあの雲が見えているのは自分だけらしい。
もしかしたら隣りの奥さんが心配しているように精神的な問題なのかも知れない。
でもわからない。
なぜ?
自分は今とても幸せな生活をしていると思う。
夫の愛情も十分すぎる程感じているし、ご近所の奥様達ともとてもいい関係を保てていて、後は子供が出来るのを待つばかり。
人生の中でこれほど完璧な時があっただろうかと何度も思うほどだ。
放っておけばその内消えてくれるのじゃないかと、こっそり空を見るけれど、その渦の形をした雲はやはりそこにある。
北極星のようにいつも同じ場所だ。方角が違うだけだ。
はやり夫に相談しようかと思うのだが、それも悩む。
夫はきっと心配してくれるだろう。そして私に起こった問題を解決しようと努力してくれるだろう。
しかしそれは違うのだ。問題は雲なのであって私ではない。
やはりできない。こんな完璧な生活を、私の些細な悩みで壊したくない。

それから私は誰にもこのことを言わず、もはや頭に焼き付いてしまった渦とともに日常の生活を平和に続けているのだ。

静寂の中のステップ

誰も見ていないと思って、僕は道の真ん中でステップを踏んだ。
靴音が廊下の壁に反響して小気味よい音を立てる。
車も、人も見当たらない、静寂の街角。
僕を邪魔するものは無く、次第に夢中になって行く。
本当に誰もいない。
嘘のように誰もいない。
奇跡のような時間帯。
毎日ここを歩いていると、ふとこんな時間が訪れる。
それは滅多に無い事だ。
まるで時間の流れからこの空間だけ切り取られてしまったように
今、ここには僕一人だ。

ステップは、速度を増す。
僕は静寂と一つになる。
意識はもう自分だけのものではなく、
その空間に広がるあらゆる精神的なものと結びつく。
靴音のリズム。
街角の波長。
喧噪はまだ遠く深い眠りに落ちたまま。
軽く始めたステップは、
更に更に速度を上げる。

僕はいつしかステップと一体になり
街と一体になり
静寂と空虚の中に溶け込んでいく。
思考は途切れ無意識が拡大する。
自分の中で何かが弾け飛んで行く。
僕は僕自身を失いそうな程、
その行為に没頭していく。
もう少し、もう少しで…

別の通りから車のクラクションが鳴り、
その破壊的な轟音は文字通り静寂を破り、
僕はステップをやめて歩き始めた。

2007年10月21日日曜日

888匹目の羊

眠れなくて888匹目の羊を数えようとしたとき、その羊は柵を越えられずに足を引っかけ、僕の方に向かってもんどりうって倒れてきた。僕は驚きのあまり眠る事すら忘れて羊の様子を窺った。
「おい、だいじょうぶか?」
「ああん、もう。やっちゃったよぉ」
羊は幼い子供に特有のちょっと鼻にかかったような甲高い声をあげて自らの不幸をののしった。
「血が出てるじゃないか」
僕は羊の膝の辺りににじんでいた血を見て、けがの様子を見ようと近寄ろうとしてみたが何故か前に進めなかった。
何も見えない目の前の空間に、分厚い密度の空気が柔らかい壁をつくっているみたいだ。
「だめだめ、入ってきちゃダメだよ。ここは羊しか入れないの」
「でも、痛そうだよ。他の羊はいないのかい」
僕は辺りを見回してみたが、不思議な事に羊の牧場だと思っていた場所は目の前のほんの小さな空間に限られていて、887匹めまでの羊がきちんと飛び越えていた柵の周辺以外は暗い靄がかかったようになっていた。考えてみれば羊を数えるときは柵と羊以外の牧場の様子などはまったく考えた事がなかったので、それは気付かなかっただけで今までずっとこうだったのだろう。
「ここは言ってみれば舞台の上だから、他の皆は手出しできないんだよ。余程の事じゃない限り」
「そのけがは、余程のうちには入らないのかな?」
「けががどうこう言うよりは、そもそも他の皆には見えてないんだ。ここは特別な場所だから」
「そうなのかい?」
「人間の眠りの入り口が、ぼくら羊の世界と一瞬だけコンタクトを取れるんだ。ここはそう言う場所」
「でも、もう何匹も数えたんだぜ」
「言ったろ?一瞬だけだって。ちゃんと順番があって、一匹ずつしか出て来れない決まりになってるんだ。それに、君は知らないだろうけど、羊は全部で300匹しか居ないんだ。もう三巡目でみんなくたくたになってる。いいかげん早く寝てくれよ。おお、痛い」
「それは、初耳だよ…」
「当たり前だよ。機密情報だからねぇ。あ、言っちゃった、どうしよう。秘密なのに」
この羊はどうやらずいぶん不器用なキャラクターらしいな、と僕は思った。
「だいじょうぶ、誰にも言わないよ」
「頼むよ。他の羊に会っても言っちゃやだよ」
「でも君、けっこう僕と話し込んじゃってるけど、時間の方はだいじょうぶなのかい?」
「あああ、全然だいじょうぶじゃないよう。行かなきゃいけないけど、頼むよ、他の皆には黙っててくれよ」
「わかったわかった。もう行きなよ。僕もできれば早く寝たいんだ。迷惑かけたい訳じゃないんだよ」
「わかったよ。でも黙っててよ。早く寝なよ」
羊はそう言ってけがした足を引きずりながら柵の反対側へ消えて行った。
すると間髪入れずに889匹目の羊が柵をきれいに飛び越えて、その次も、またその次も羊は柵を飛び続けた。
気のせいか、889匹目の羊が、柵を飛び越える時にちらりと僕の方を見ていた気がする。そしてその次の羊も、またその次の羊も、何が気になるのか、柵を跳び越えるときに僕の方をちらちらと見るようになっていたのだ。早く寝ろとでも言いたいのか。
それから30匹くらい数えて、僕は半ば無理矢理に目を開けて、羊を数えるのをやめた。
もう少しで眠れる気がするのだが、羊の目が気になってしまう。
ほとんど半分夢の中にいるような頭で、僕はふらふらと台所へ行って、胃袋がいっぱいになるほど水を飲んだ。

2007年10月20日土曜日

キリンの焦燥

床に落ちていた鏡の破片の中に映った自分の顔はどこから見てもキリンである。変わり果てた自分の顔を見つめて僕はしばし途方に暮れた。
つかの間の、現実逃避。

僕はキリンになってしまった自分の足をそっと持ち上げて、自分が踏みつぶしてしまったものを確かめた。
粉々になってしまった携帯電話が、床の上で力なく息絶えてしまっている。その姿は僕の体に起こった異変がこれから先に呼び起こすであろう数々の困難を象徴しているように思われた。僕は泣きたくなったけれど、キリンがどのようにして泣くのか分からなかった。キリンが泣いている姿など、生まれてこのかた見た事無い。そんな事を考えたせいで泣きたい気持ちも薄れてしまった。混乱が余計に深まりそうな気配を見せた次の瞬間、僕の思考回路は驚くべき速さで切り替わった。
(サキに会いに行こう)
とにかく、このままここでうろうろしていたら、自分も気付かないうちに頭がおかしくなってしまう。そして自我は崩壊し、僕の中の本能がキリンの野性と結びついて、本当に心の底までキリンになってしまうかも知れない。そうしたら僕はもう、サキの事さえ思い出せないかも知れない。
僕はデスクの上に置いておいた箱を見た。その中身は僕が今日彼女に渡すはずの婚約指輪だ。間違っても、粉々に踏みつぶした携帯の二の舞は踏めないと思って、僕はそれを箱ごと口でくわえた。そして狭い部屋いっぱいに拡大してしまったキリンの体をどうにかこうにか動かして、玄関の扉を正面に据えた。
手は使えない、足もろくに伸ばせない。顔から突っ込んでドアを突破するしか無い。
後ろを向いて足でドアを蹴破ると言う考えが、何故かその時は起こらなかった。僕がまだ、この体の使い方をまるで理解していなかったからだろう。とにかく僕は腹を決めて、勢いまかせにダッシュした。

一度のアタックで、ドアはあっさり弾け飛んだ。それでもやはり顔面からいった訳だから、鼻と歯を痛打した。僕はモゴモゴと口を動かして指輪の箱が無事かどうか確かめたが、奇跡的におかしなところは無いようだ。
歯と鼻が痛くて泣きそうだ。ああ、僕は今泣いているかも知れない。
この部屋がアパートの二階で良かった。これが高層マンションの最上階だったりしたら、地上に降りるのにどれほど時間がかかるだろう?ともかく僕が部屋の外に出ると、すぐ横に下の階の部屋に住むおばちゃんが突っ立っていた。まるまると広がった目で僕を見上げている。
あんまりドタバタとこの巨体で転んだりもがいたりしてしまったから、文句を言いに来ていたのかも知れない。
おばちゃんは口をぱくぱくさせていて、何か言いたいはずなのに言葉がどこかへ消えてしまったみたいだ。
とにかく、そこにいられたら邪魔だ。僕は行かねばならないのだ。
僕は指輪の箱をくわえた歯を剥き出しておばちゃんの目前に突き付けた。おばちゃんは軽い悲鳴を上げて逃げ出した。その後ろ姿を見て
(ああ、これで本当に騒ぎになってしまう)
と僕は思った。もう後には戻れない。
僕はたった今、平和な住宅街に突如として現れた身元不明のキリンとして扱われるであろう存在となったのだ。

一歩手前

うずうずしていた。
ずっとずっと、そのイメージは僕の頭の中に住みついていた。
でも、長い間、僕はそれを無視していた。
ありっこない。考えては行けない、と。

しかしいざビルの屋上でフェンスを越えて
足元に広がる莫大な空間を目にした時
それは僕にとって果てしない可能性を思い起こさせた。

飛べるかも知れない。

子供の頃から、考えていたのだ。
本当は、ひとは飛べるのではないだろうか。
無理に羽ばたこうとしたり、
鳥の羽を模したものを造って身につけたりしなくても、
心のままに飛ぶイメージにに身を任せてしまえば、
実は飛べたりするんじゃないのか?

僕はまだ、一度も試してさえいない。
木のてっぺんから飛び降りたり、
高い壁の上から飛び降りたり、
そういう挑戦は無駄で馬鹿のする事だと教えられたし、
僕も自然にそう思っていた。
でも、僕はそう言う常識の影で、
何か得体の知れない生き物が、
腹の中で成長しているのを感じていた。
今になってそれが何者だったのか、よく分かる。
あれは僕自身の
「飛びたい!飛びたい!」
と言う叫びだったのだ。

特にきっかけがあったと言う訳ではないと思う。
ただ、その叫びは表に出なかった分だけ、
僕の腹の中であらゆる常識的障害から守られて、
ゆっくりと、着実に、純粋なままで、
育っていたに違いない。

正面から、有無を言わさず体を揺さぶるような
激しい風が吹きつけ、僕はふらふらと屋上の縁をふらつきながら移動した。
僕は表の世界に顔を出してきてしまった叫びと、
これまでの人生で培ってきた常識の壁がぶつかる境界線を、
いつまでもいつまでも歩き続けた。

2007年10月16日火曜日

空中庭園

 ビルの屋上には立派な庭が出来ていたのは少し意外な気がした。何しろもうこの建築物もそこそこ歴史と言えるものを刻んできているので、こんなところで屋上緑化を実現させようと考えた人間がいることに驚いたのだ。
 屋上はほぼ隙間なく緑を維持するための土地として活用されているようだ。昔はただ無機的な灰色のコンクリートが剥き出しになっていて、しかもきれいな平面ではなくでこぼこしていて、どうせ見えない所だからと職人が手を抜いたのだろうと思っていた。常に清掃が行き届いているわけでもなく、その打ち捨てられた感じが好きで、よくここに忍び込んでは都会の喧騒を見下ろしたものだ。
 それにしても。これではまさに空中庭園だ。ここまで大量の土や植物を載せて、床が抜けてしまわないのだろうか。屋上を担当した職人は手を抜いていたと思っていたから、その強度とかには少なからず不安を感じてしまう。
 庭の中央には円形の広場が出来るように植栽が整えられていて、その中央には大きな傘が突き刺さってしまったような雰囲気の休憩所のようなものが設えられていた。私は吸い寄せられるようにその屋根の下へと歩いて行った。
 庭園の中を歩きながら、私は周りのビルの群れを眺めまわした。近代的なビルばかりが目につくのを考えると、このビルが今まで生き残っていたというのが不思議にも思えてくる。二十年、歳月の潮流に耐え抜いたのだ。私がこのビルから追い出され、会社が消滅しても、建物だけは生き残った。
 私が休憩所の屋根の下で、そこに備え付けられていた椅子に腰掛けていると、足音がして一人の男がこちらに近づいている事に気付いた。男は一見して日本人のものではない体格と顔立ちで、背丈は非常に高くて肌が浅黒く、目や鼻の辺りの彫りの深さが印象的な男だ。男はその風体にそぐわない流暢な日本語を話した。それは実際の日本人が語るような日本語より、もっと美しく洗練された言語であるかのような雰囲気を漂わせる語り口だった。
「こんなところにお客さんがいらっしゃるとは思いませんでした」
「いえ、私は。黙って入ってきてすみませんでした」
「いいんですよ。たまには見知らぬ方が来て頂ける方が、ここの緑達も自然を楽しめるのではないかとも思いますし」
私は男の持つ雰囲気に好意を持つ事が出来た。
「私は以前このビルで働いていた者です。西村と言います」
「私はアランです。よろしく」
私は、そう言って差し出されたアランの手を握り返した。大きな手だ。
「ここ、奇麗でしょう」
「ええ、素晴らしい緑ですね。あなたが造ったのですか?」
「いやあ、私は初めにこんな庭があったらいいなあと、イメージとして少し絵を描いてみただけで、あとは職人まかせです。でも、文句なし。私はここがとても気に入っています」
「昔はこの辺りはこのビルより高い建物はありませんでした。あっちの方には海が見えたものです」
「あのビルの向こうですか?ふうむ。それは見てみたい気がしますね」
「絵を描いたとおっしゃいましたが、デザイナーの方ですか?」
「いや、趣味なんですよ。いちおう、ここの所有者と言うか。成り上がり者です」
私はまたもや歳月の事を思った。彼はどう見ても若く、私と比べればもう孫の年齢に近いと言えるだろう。
「お仕事の方は、順調ですか?」
「いやもう、いっぱいいっぱいで。なんとか、かんとか、ですよ」
彼は私から見てもかなり落ち着いた雰囲気で話す。見た目の若さより数倍の落ち着きがある。苦労しているのだろう。それに悪い人間ではなさそうだ。私は彼に改めて好感を持った。
「そろそろお暇します。またここに来てもいいですか?」
「いつでもどうぞ。大歓迎です」
今度は私からアランの方へ手を差し出した。
 アランはその手をぐっと握りしめた。力強く、優しさにあふれていると思った。この男は昔の私が持ち合わせていなかったものをすでに手にしている。あるいはそれは生まれつきの才能や才覚と言うべきものなのかも知れない。
 私たちはどちらとも無く頷きあって、手を離した。そして私は踵を返し、その場を離れた。名残惜しい気持ちを抑え、私は空中庭園を後にした。

素質

「私は女王様じゃありません!」
ボンテージファッションのメガネっ子が駅の前でひざまづいた男を一喝している。
少なくともその辺りを歩いていた人々の半数は、その光景を一種のプレイだと想像したに違いない。
 彼女の服装は上から下まで黒づくめで、膝まで伸びたブーツが黒い光沢を放っている。彼女の手にはワインレッドと黒のツートンカラーの携帯電話が握られていて、ミニスカートの丈もずいぶん短い。

 さくらはいつの頃からかそんな服装が気に入って、おしゃれを始めたころからその趣味は一貫している。しかし彼女のファッションの趣味がある種の男性のこころを深く揺さぶるたぐいのものであるとは、初めは全く知らなかった。ただ単に、カッコイイかもと思っていたのだ。
 しかし、高校生になってから自分のセンスにもだいぶ磨きがかかってきたんじゃないかと思っていたら、やたらと腰の引くい男が時々街で声をかけてくるようになった。

 どちらかというと厳しく躾けられてきた方だ。父は厳格で、門限には厳しい。例え街に遊びに出ても、夜の七時には家に帰っていなくてはならない。自分は仕事で毎日遅く帰ってくるくせに、まるで定時連絡みたいに門限の時刻には母親に確認の電話を入れてくる。実は一度だけ時間を忘れて門限を守れなかったことがあったが、その時は母がうまくごまかしてくれた。母はさくらの大事な味方だ。桜が門限を守っているのは母を困らせたくないから、というところが大きい。
 とにかく、そんな感じで夜遊びなんかしたことないし、まだ男も知らないが、人並みの興味ぐらいは十分にある。結婚するまでバージンを保つなんて考えたこともない。ナンパされるにしても何でこんなおどおどした態度の男ばっかり寄ってくるのだというのは秘かな不満だった。そしてその原因がどうやら自分の服の好みにあるらしいと、少しずつ理解し始めていた。

 そんなある日、冬が訪れ太陽が早々に星の影に隠れたころ、その男はさくらの目の前に現れた。さくらが新橋の駅前で友達のユミを待っていると、ふとさくらの前に立ち止まった男がいた。男は背が高く、バリッとスーツを着こなした紳士に見えた。さくらはさっと男を観察し、自分の父親よりいくらか下の歳ではないかと考えた。見た感じは大いに彼女の好みに合っている。むしろ理想に近い。もうちょっと若かったら、いや、年齢なんかどうでもいいかも…と彼女は密かに勝手に恋の芽生えに期待した。
 その紳士は次の瞬間彼女の前に膝まづき、
「私を踏んでください!」
とうるんだ瞳を彼女に向けた。
 そしてまたその次の瞬間、さくらはブーツのかかとで男を踏んだ。
 なぜそうしてしまったのか、さくらには解らない。しかし、男のスーツにくっきりとヒールの跡が残るほど、しっかりと踏んでしまった。男は奇妙な声を上げた。さくらは気味が悪くなって今度はわき腹をけり上げて逃げ出した。背後で男が何か言っているようだったが、さくらは構わず逃げた。

2007年10月15日月曜日

ある朝のクラゲ

 隣りの部屋の目覚まし時計で目が覚めた。時刻はぴったり七時。
「起きろー」
と、可愛い女性の声がする。
「起きなさい」じゃなく、「起きて」でもなく、「起きろー」と言う、高い声。ウルサくは感じない。むしろその声は柔らかくて、もっと聞いていたくなる。
 まどろみの中、想像する。隣りの部屋は新婚夫婦で、朝起きて、おはようと言うだけで幸せになり、新しい一日が始まる。その後で交わす「いただきます」や「行ってきます」、そして「お帰りなさい」の一言を、笑顔で交わす毎日を過ごしているに違いない。
 目覚まし時計の音が止む。
 僕はほんの少しまどろみから抜け出し、隣人の幸福を借りて気持ちのいい朝を迎える。閉じたカーテンの隙間から、眩しさが部屋に染み込み、ワンルームの室内が色づいているのを、まだ眠りから覚め切っていない目で見渡すと、ようやく自分も(起きなければ)と思い始める。
 ベッドから降りて、キッチンへ行き、お湯を沸かす。顔を洗い、手を荒い、トイレを済ませ、一度コンロの火を止めて、シャワーを浴びる。そうしながら体をほぐし、今日と言う日の準備を始めている。
 一人暮らしで享受する自由、その代償としての寂しさ。
 感傷は波に揺れるクラゲように訪れ、そのままどこかへ過ぎ去って行った。

2007年10月14日日曜日

光と影6

「ともかく、君はここから元の世界に戻るんだ」
(あの鏡に吸い込まれて行くのかな)
僕はそう言ってその部屋の鏡ばりの天井に目を向けた。
「あれはただの鏡だよ」
影はそう言いながら部屋の中央に移動した。天井の鏡に映された姿には、影は僕と同じ平面の中で繋がっているように見えた。
「ふう」と、影がため息をついた。
(どうしたんだ?)
「鏡は苦手なんだ」
(そう言えば君、なんだか色が薄くなってないか)
「そうかい?」
(影が薄いとはこの事だな)
「君の軽口だけはどうやらこんなときも直らないらしいね。あっちの世界でも普段からそうしてなよ」
(いつもの僕はどうしてるんだろう)
「考え過ぎのところはあるみたいだな。まあいい。いろいろ話したい事はあるけど、やっぱり時間がない。僕はこの部屋ではどんどん力が弱っていくし、君の記憶もずいぶん危うくなって来てる」
(この部屋に来てからけっこう楽になって来たんだけど)
「この部屋に来たから楽になったんだ。その代わり僕は力を失う。でもこれでいいんだ。影というのは本来、沈黙しているものだからね」
(でも…)
僕がまだ何かいおうとすると、影はキッと僕を睨んだ。一瞬、影の中でそれまで閉じていた目が開かれた気がして、僕はその雰囲気に押されて口をつぐんだ。
「君は物事を自分で複雑にし過ぎるところがある。もっと、感じたままに理解すればいいと思うよ」
感じたままに理解する、と、僕は口の中で影の言葉を繰り返した。
「じゃあ、そのまま天井に映った自分の姿を見て。自分と目を合わせるんだ」
さっきのセリフをもう一回口の中で繰り返して、僕は影の言葉に従った。
僕は鏡の中の自分の姿をまっすぐに見た。僕はそこに懐かしさを感じた。その行為はきっと今までずっと繰り返してきたものに違いなく、自分を見つめる目の奥に吸い込まれて背中が浮いて行くような感覚があった。
(ねえ、僕はこのまま行っちゃうのか?)
「そうだよ」
(君はどうなるんだ)
「ただの影に戻るだけさ」
(そうなったら、もう話せないのか)
「ああ」
(なんだかすごく寂しい気持ちがする)
「そう悲観したものでもないさ。例えお互いが別れを望んだとしても、僕らの縁は誰にも切る事が出来ない。太陽と、ブラックホールがある限り」
(そういうものか)
「そういうものさ」
(でも不安だ。なんだか怖くて眠れないよ)
「それでいい。その調子だ。君の背中の後ろの、ずうっと後方にあるはずの太陽の事を考えるんだ。この星の中心で、光り輝く球体が君を後押ししているという事をイメージするといい」

じんわりと、ゆるやかな波が砂浜に打ち付けてくるように、僕の意識はその世界から遠のいていった。そのとき僕が感じた世界の姿は、光でも闇でもなく、ましてやグレーでもない。音も色も無く、それでいて全てが余すところ無くあたたかい水に満たされているような、あらゆる束縛から解放された場所だった。

2007年10月13日土曜日

光と影5

その建築物は、きちんとした計画の上で整然と組み上げられたものだという感じがあまりしなかった。むしろ、新館と旧館の構造が複雑な迷路のようになってしまった温泉宿のように、後から後からそれぞれ別の人間がその都度新しい部分を付け足していったような印象を受けた。
影はしばらく一言も話さず、身動きもしなかった。僕の疲れを取るためにはそれが一番良いという事だ。
僕は影のいう事に大人しくしたがっていた。反論する体力すら惜しいほど疲れてしまったのだ。確かに影が動きを止めると、幾分か僕の体力は回復して行くように感じられた。
影は僕が元の世界に戻らなければならないと言うが、僕にとってそんな事はどうでも良い事だった。もうどうなったっていい。このまま疲れ果てて、この闇が支配する世界で重力に満ちた空へ吸い込まれて行ったところで、いったい何が問題だというんだ?誰も困りゃしないし、例え死んでしまったところで、しばらくすれば人ひとりの死など、簡単に忘れ去られてしまう。
「なあ、あんまり悪い事考えるなよ」
影はまるで僕の考えなぞ全てお見通しだぞ、という風に僕の貧弱になってしまった思考を遮った。
「今は元の世界に戻る事だけを考えるんだ」
(どうしても戻らなくちゃいけないのかな)
「またそんなことを言う」
(僕はもう、このままでもいいという気がしてるんだけど)
「…そろそろ動いた方がいいみたいだな。休憩は終わり」
そう言って影は立ち上がった。僕は逆らいようも無い。

影は僕を形の歪な建物の中へと連れて行く。中もやはりグレーな感じだ。影は今度は慎重にスピードを押さえて進んでいるようだ。僕の体力に気を遣ってくれているのだろう。考えてみれば、僕の影は僕の一部分でもあるはずで、だとすればこんなに人を心配したり気遣ったりする神経が僕の中にも存在するという事になるのだろうか。僕自身、それはとても意外な事のように思えた。そんな自分を感じた事が今までにあっただろうか?
僕は記憶を辿ろうとしてみたが、うまくいかなかった。過去をさかのぼろうとすると急に頭の中のイメージは薄れ、ぼんやりとした靄の中に不明瞭な輪郭の色彩が入り交じり、記憶の根源に辿り着かない。そう言えば、さっき影が「記憶が失われている」と言っていた気がする。確かにその通りなのかも知れない。僕は昔の事を思い出すどころか、考える事すらおっくうになっている。この世界の中で、考える事以外ほとんど何も出来ないというのに。

「ここだ」
影はそう言って立ち止まると、広い部屋の中へ移動した。
(なんだい?)
「ここは君のような迷子のために造られた場所さ」
部屋の天井には懐かしいものがあった。鏡だ。この部屋の天井は全て鏡で出来ているみたいだ。僕は久しぶりに自分の姿を見た。堅い床に描かれた輪郭の中に、僕が映っている。
(ちょっと色褪せてないか?)
「その通りだ。もう幾分君は光を吸い取られてしまった」
僕は鏡の中の自分を見て、少し複雑な気分になった。こんなイメージで自分存在が消えて行く事は想像してなかった。灰色の床の中に沈んで行くみたいに見える。僕は初めて、この世界に抵抗を覚えた。

(ちょっと聞きたいんだけど、君はここに来たのは初めてだって言ってなかったっけ?)
「ああ」
(なのになぜこんなにこの世界の事について詳しいんだい?)
「僕は君の影として光の世界の中に居たけれど、常にこことは繋がっていた。特に意識をしていた訳じゃないけど、僕という存在の中心にいつもこの世界の事を感じていたんだ」
(それは、記憶のようなもの?)
「似ているけど、違うと思う。もっと、抽象的で、原初的なものだよ」

2007年10月11日木曜日

光と影4

影は歩調を緩める事無く歩き続けた。
僕はその動きに合わせて自然と動く事になるから、体力も労力も使わない。不思議な事に、そう言う状態でも僕は次第に疲れを覚えて来た。
(何か変だな)
「どうした?」
(ちょっと疲れた。僕が動いてる訳じゃないのに、変だな)
「そうか。でも少し頑張ってくれ。さっきみたいな陰険な影が周りに増えてるんだ」
(危険なのか)
「みんな少しずつ僕らに対しての反応が強くなっている。急ごう」
僕は影の動きに身を任せながら、視界の中でスクロールして行く灰色の空を眺めた。確かに、さっきよりも他の影が視界に入ってくる確率が高い。見られている、という感じもする。僕はまた目と口を閉ざした。

しばらくすると、僕の影は歩みを止めた。
「目を開けていいよ」
僕は素直に影の言葉に従った。
(だいじょうぶなの?)
「大きな建物の陰へ入った。ここなら他の影は近づいてこない」
(疲れがひどくなっているみたいだ。なぜなんだろう)
「それは僕が動いたせいさ。結構無理したから」
(君も疲れたんじゃないのか)
「いいや。僕は疲れない。僕の疲れは君が背負うんだ」
(そういうものなの?)
「ここではね」
(厳しいね)
「帰りたくなってきただろう?」
(この世界も、なかなか楽じゃないってことかな)
「どこへ行ったって同じさ」
(すっきりしないね)
「戻る気になったかい?」
(ううーん…)
「何が嫌なんだ。君を待っている人もいるんだぞ」
(誰も待ってなんかいないよ。僕は一人だ)
「そんな風に考えるからこんなところに来ちゃうんだ。君がいくらそう思っていてもどこかに人の縁ってものはある。いいか?僕がこんな事を話せるのは、本当は君にも分かっているってことなんだ。悲しみに負けちゃダメだ。早く帰れ」
(僕は悲しくてここに来たのかな)
「思い出せないのか」
(よくわからないよ)
「記憶が失われ始めたのかも知れない」
(困ったね)
「困るなんてものじゃない。あんまりひどくなると戻れなくなるぞ」
(そうなったらここに住むしかないな)
「馬鹿な事を。さっきすれ違った影みたいになりたいのか。記憶は光だ。光を失えば君は消えて、僕の存在も消えてなくなるんだ」
(なんでそうなるんだ)
「頼むから黙って言う事を聞いてくれ。君はまだ死んじゃいけない」
(そう言われると、ちょっと胸に響くものがあるね。理由が分からないけど)
「それで良いんだ。理由なんか考えるな」
僕は記憶どころが何かを考える事すら難しくなって来ていたが、それを影に伝える事が出来なかった。

2007年10月10日水曜日

光と影3

地面にへばりついた平面の僕は、その位置からでも見える限りの周囲の風景を見ようとさかんに視線を動かしてみた。
(それにしても、殺風景な場所だね。色もグレースケールだし)
「ここは光が失われてゆく場所だからね。仕方ない事だよ」
(ブラックホールがあるから?)
僕がそう言うと影は背後を指差して、
「あれのせいでこうなったというよりは、ここがこうだからあれがあると言った方がいいかもね」
(ひどく抽象的な物言いだな)
「僕だってそんなに世界を理解している訳じゃないんだ。うまく説明できない事の方が多いんだよ」
そう言って影は少しずつ移動を始めた。彼は歩き出したのだ。
僕の平面の体は完全に影の動きに呼応して、おそらく彼の背後の彼方にあるブラックホールを中心に旋回しながら移動する。そうやって見える世界はなんだか新鮮で、僕は胸の奥がタワシでこすられたみたいにざわざわと沸き立つのを感じた。
(どこへ行くんだい?)
「どこって…元に戻るんだよ」
(なんだい、えらく気が早いな。もうちょっとゆっくり出来ないのか)
「ここは本当は君が来ちゃいけない世界だ。僕もちょっと好奇心に負けて面白がってしまったけど、長居する場所じゃないんだよ」
(でも、僕は君の影でいるのも悪くないよ)
「いいか、忘れるなよ。君は僕の影なんかじゃない。君は光のままなんだ。この世界ではそれはとても危険な事なんだ」
(そうなのかい?)
「君の世界で、つまり光が主役の世界で、影が口をきいたりするかい?」
(普通はしゃべらない)
「だろう?今君がここでそうして口を開いてしゃべっているという事は、それと同じくらい異常なんだ」
(さっきから思ってたんだけど、君は説明がうまいな)
「のんきな事言ってる場合じゃない」
(他の影、いや、光か、ややこしいな。この世界で僕のような他の光はどうしてるんだ)
「色々さ。人の形をしているものもあれば、なんだか良く分からない抽象画みたいなのもいる。人の場合はみんな目を閉じて黙っているよ…しっ、静かに」
やにわに影はそう言って、人差し指を口に添えた、ように見えた。そして影のすぐ傍を別の影が通り過ぎて行った。そのもう一つの影はすれ違い様に僕を見た。それは影でしかなくても明らかに、見られた、と僕は感じたのだ。それはほんの一瞬の事だったけれど、背筋に冷たい氷を急に押し付けられたような、物騒な緊張感を持ち合わせた視線だった。僕は反射的に目を閉じたものの、それでごまかせたとは思えなかった。
(今のは、誰?)
「知らないよ。ただの通行人だ」
(なんだかひどくいやな雰囲気じゃなかったか?)
「異質なものを排除しようと言う精神はここでも同じなんだ。そして、君のいた世界よりずっと、その傾向は強い」
(僕は今、そんなに目立つのかな)
「気付かないのか?さっきから、ここで音を立てているのは僕らだけだ。光も音も、本来、君がいた世界のものなんだよ」
(ひょっとして、僕は君に迷惑をかけているのかな)
「そう言う訳じゃないけど、面倒は避けた方がいい」
(目を閉じて、黙っていた方が良いかい?)
「うん。悪いけど、僕が良いというまでしばらくそうしてくれないか」
(わかった)
僕が目を閉じると、影はさっきよりもスピードを上げて動き出したようだ。
そうしている間、僕は背中をなぞる地面の感触を味わっていた。

2007年10月9日火曜日

光と影2

影は腕組みをしたようだが、シルエットだけしか見えないから、本当のところは片方の手をあごにかけてでもいるのかも知れない。
「しかし、困った事になっちゃったね」
(ここはどういう場所なんだ?僕は君の影になってしまったのか)
「それはちょっと違うな。僕と君、影と光の関係が逆転してるだけなんだ」
(逆転?)
「そう。例えば、この世界の空には太陽の代わりにブラックホールが浮かんでいる」
(なんだって?!)
「それだけじゃない。地球の中心には太陽があるんだ」
(ちょっと待ってくれよ…そもそもここは地球なのか?)
「そうだよ。当たり前じゃないか」
(ブラックホールが空に浮かんでいるのに?僕には全然見えないけど)
「そりゃそうさ。考えてもみなよ。僕は光の世界じゃ太陽を見た事は一度も無いんだぜ」
(なんでさ)
「いつも君が間にいるから」
(…なるほど。言われてみればそうかも知れない。でも、ここが地球だと言うのがいまいち分からないけど)
「そうだな…例えば、ゴムの柔らかいボールがあったとしよう。ボールのどこかに鋭いナイフで切れ込みを入れる。そして内側と外側をひっくり返す。そうすると外と中の関係が逆になるだろう?その時出来たひっくり返ったボールを地球に置き換えて考えてみるといい」
(なんだか難しい話だな)
「まあ、慣れないとね。とにかくそう言うものだ。だから、重力の中心たるべきブラックホールが空から光を吸収しているという訳さ」
僕は地面から空を見上げた。灰色の空に、一筋の光が流れて僕の影の向こう側に消えて行くのが見えた。よく目を凝らしてみると、幾筋かの光が時折影の向こう側の一点を目指して集まっているように見える。影の言う通りなら、おそらくその向こうで光がブラックホールに吸収されているのだろう。
(まるで流れ星だね)
「ぞっとしないね」
(そうかい?なかなか奇麗じゃないか)
「分かってないな」
影はため息をついたようだ。
「光あっての影なんだ」
僕は、僕の影が感じている危機感をまだ理解できない。
(なあ、聞いてもいいかい?)
「なんなりと」
(今の君から僕はどんな風に見えてるの?)
影はにやりと笑った。もちろん黒い人型でしかない影だから、そんな雰囲気に見えたというだけなのだが。
「君は色鮮やかなままさ。ちょっと平面的だけどね」
その言葉を聞いて、僕は不思議とほっとした気分になった。

光と影

その影は、常に僕の少し前に居て、僕を誘うようにしていた。
僕はふらふらと影の後をついてゆく。
酩酊したような気分のままで、一歩、また一歩と進むうちに、体が前のめりになって行く。
体はだんだん傾きを増して、地面が近づいてくる。
ひょっとしたら、このまま影と同化して、僕は地表に貼り付いてしまうのかも知れない。
今にも顔が地面にひっつきそうになった時、影は子供のような甲高い声で囁くように話しかけて来た。
「そんなに近づかなくてもいいんだよ」
僕はその声をぼんやりと聞いているだけだった。なんだか実感が無い。ここにこうしている、という自分自身の存在感が希薄なのだ。
「あんまりこっち側に来ちゃ行けないよ」
(こっち側?)
「心が離れてるんだよ、きっと」
(君が誘ってたんじゃないのか)
「僕はただの反映だからね。君を誘ったのは君自身だ」
(これは…夢?)
「まあ、似たようなものかもしれない。早く目をさました方がいいんじゃないか?」
(どうして?)
「戻れなくなるよ」
(どこに?)
「日の当たる世界にさ」
(ここは、違う?)
「僕と話しているくらいだから。ここは影の世界なんだよ」
いつの間にか、僕の周りの風景は変わっていた。全体的に薄暗く、息苦しさを感じる。なぜこんなところに居るのかと思ったが、じゃあ今まで居たのはどんなところだったのかと考えてみても、何故か思い出す事が出来なかった。それは失われた遠い過去の記憶のように靄がかかって姿が見えない。
(僕はどうしてここに来たんだ?僕を戻してくれ)
「さっきも言ったけど、君が、僕との対話を求めて来たんだ。戻るなら、君が戻る気にならないと」
(だから、戻してくれと言ってるじゃないか)
「それじゃダメだ」
(どうして?)
「自分で考えるんだ。どうしてダメなのか、分からないと出られないよ」
僕はどうやらかなり質の悪い夢を見ているらしい。ここから抜け出すには目を覚ますのが一番だ。そう思って僕は目を閉じて、
(起きろ、起きろ!)
と強く念じた。すると僕の意識はじわじわと何かに引きずられるように流動を始め、渦に飲み込まれるようにある時点から一気に一つの方向に流れ出るような感覚を受けた。

僕は目を覚ました。
しかし、辺りを見回すとそこはまるで見覚えの無い風景が広がっていた。薄暗い、灰色の空。
「やあ、こっちに来ちゃったのか」
声に振り向くと、そこには影が立っていた。
「今まで、僕の方から君がどう見えるか、考えてみた事があるかい?」
影が僕を見下ろしている。
「実は僕もここに来たのは初めてなんだ。なかなか面白いもんだね」
どうやら僕はこの見知らぬ世界で、僕の影の影として地面に貼り付いてしまったらしい。

2007年10月7日日曜日

空想都市2

客席の一番窓際に座っているわたしの位置からは
これから降りる空港の姿が正面に見渡せる。
もう少し旋回をすれば
やがて機体の進行方向に
滑走路が見えてくるのだろう。

もうすぐ日が落ちる。
太陽が地平線の彼方に身を隠し、
客室内を真横から打ち抜いていた光が
ふっ、と瞬間的な減衰を見せる。
それはとても美しい人生の一瞬として
つかの間に
わたしの記憶に残る。
でもそう長くは続かない。
次から次に時は訪れ
わたしは美しさから引き剥がされる。

だから
時間に負けたくなくて
他の事を投げ打って
頑張ってきた。
あの人の事も。

なぜ急に彼の事を思い出したのか
その理由はよくわからない。
新しく生まれようとしている都市で
彼が働いている事は
旅立つ直前に彼に電話するまで知らなかった。
思わぬ巡り合わせに驚いてしまった事と
登場時間に追われて
慌ててしまって
迎えに来てなんて言ってしまったけど
彼は来てくれるだろうか。
迷惑ではなかっただろうか。
彼も仕事で来ていると言っていたし
邪魔になってしまったのではないだろうか。

何年も忘れていたのに
なぜこんなに突然気になっているのだろう。
ひょっとしてわたしは
まだ彼の事を愛しているのだろうか。

気持ちに何の整理もつかないまま
わたしの乗った便は
着陸態勢に入った。

空想都市

真っ白な空間。
卵形のドームのように偏って緩やかに丸みを帯びた天井。
その下に広がる回廊は
百人ぐらいが横一列にならんでも余裕が持てる程幅広く、奥深い。
床には
回廊の奥に向かって二つの平行した道を描くように正方形のタイルが並べられ
その他の面をそれよりも小さい大きさのタイルが
一見不規則とも思える幾何学模様を描き出している。
空間の中は一本の柱も存在しない。

全体を見渡してみると
不思議とグレーな色合いに染められているような気がするが
ほとんどが白を基調にして設計されているはずだ。
回廊の両端は、片側は光沢のある壁になっていて
その反対側は無職透明なガラスの窓になっている。
そこから見える風景の中にはこの国で最大の規模を誇る
空港の発着場が見えている。

人通りはあまり無い。
僕は回廊の真ん中辺りでガラス窓の手すりに肘をつき
反対側の壁に埋め込まれた自販機で買った
甘いミルクコーヒーをすすりながら
飛行機が到着するのを待っていた。
窓の向こうに空港が見える。

この都市はまだ建設中で住民も少ないが
壮大な移民計画が進められていて
やがては賑やかになるはずである。
必要な施設と巨大な建造物から
優先的に造られて行くので
ただ広いだけという空間が
あちこちに生まれている。

僕はまだ迷っていた。
後数分で降りてくる乗客の一人を
迎えに行くべきか
ここで引き返すか
それは彼女から僕に与えられた選択肢でもある。

答えは簡単なはずだった。
ただ、彼女に付帯する過去と言う属性に
なぜか足を引っ張られる思いがして
僕は足を止めた。
何もかもを新しく始めたこの場所で
果たして過去が必要だろうか?

僕は答えのつかないまま
また一機
この星へ降り立つのを眺めていた。

2007年10月5日金曜日

空想人格

僕は、映画や、漫画や、小説なんかを読んで、あまりに感動したりすると、もうほとんどそのストーリーの中の世界に入り込んでしまって抜け出す事が出来なくなってしまう事がある。それは、夢を見ているような感覚なんてものではなく、きわめて実体的な体験として僕の身に降り掛かってくるのだ。

カンフー映画を見た後で人ごみの中を歩くと、知らず知らずのうちに足元のステップが効率的になっていたりする事はまあよくありがちな話だけれど、天変地異が地球を襲うような話の後では、ガラス張りのビルがいつ砕けて落ちてくるのかと警戒し、いざガラスの破片が落ちてきた時はどう動いてそれをかわすのが良いかをずっと計算しているし、幾多の障害を越えて成就される恋愛ものの小説を読んだ後で、付き合っている彼女との間に起こりうる最悪の事態を幾通りも思い浮かべて「そんな事はさせるものか」と人知れず奥歯をかみ殺したりしているのだ。

はっきり行ってそんな空想は取り越し苦労以外の何物でもなく、自分でも辟易してしまっているのだが、どうする事も出来ない。
自分でも困っているのだ。自分は普通の生活をしているつもりが、いつの間にか別の世界の住人になっていて、有りもしない、起こりよう筈もない事に思考能力のかなりの部分を奪われている。
だけど、やはり、そうは言っても、人の考えつく事など、実際に我々の身に降り掛かってくる数多くの苦難や試練に比べたら可愛いものだと思える事が、世の中には数えきれない程転がっている。とも思えるのだ。
だから、あらゆる事態を想定して生きる事は決して悪い事ではないし、自らのみを守る手段ともなり得るはずだ。

それに、そんな僕の性質が無益な行動を生むばかりではない時もあるのだ。とても質のいい恋愛映画を見た後では、普段の自分からは想像もできないようなセリフ回しで彼女を感動させて、キスの嵐を受けた事もあったりする。

僕がそういう問題を持ち合わせた人間なのだという事を彼女に打ち明けた時、彼女は
「それは、言ってみれば数に制限のない多重人格者みたいなものかしらね」
と言った。言われてみれば確かにそう言えるかも知れない。そんな表現は自分には思いつかなかった。
「でも、私平気よ。数が無限なら偏りがなくていいじゃない。横で見てたら楽しそうだし」
僕はそんな彼女の言葉に支えられて、毎日なるだけ多くの作品を読んだり見たり聞いたりするようにしているのだ。

2007年10月4日木曜日

あの坂の向こうに

あの流れ星はどこへ飛んで行くのだろう。
山の向こうへ消えて行ったみたいだけど、どこかで地面へ落ちたのだろうか。
自分の息子が生まれて初めて流れ星を見て、それがまだ何かも分からず夜空に向けて星をつかもうとしている姿に、私は子供の頃に感じた疑問を思い出していた。
今息子と見ているのと同じあの坂の向こうに、地上に落下した流れ星が転がっているかも知れないと思って、見に行こうよ、と父に何度もねだったのだ。父はその度に「流れ星の周りは危険だから近づいちゃ行けないんだ。気が立ってるからそっとしてあげないと」と言ってごまかしていたのを思い出す。「流れ星は怒っているの?」と私が聞くと、「いや、どちらかと言うと寂しいんだと思う」と父は答えた。「慰めてあげなくていいの?」
「落ち着くまでしばらく待った方がいいんだよ。結構時間がかかるはずだから、お前はもう寝なさい。お父さんが後で行ってくるよ」
そう言って父は私を肩に担ぎ、何度も丘の向こうへ振り返る私の気を逸らしながら家に連れ帰るのだった。
父はとてもうまく嘘をついてくれたと思う。あれがただの宇宙の塵で、大気の摩擦で燃えているから光って見えるのだと説明されたら、果たして当時の私は理解できただろうか?もしかしたら夜空に対してまるで興味を失ったかも知れないし、あるいは星や宇宙に対してもっと違った関心を抱いて、今頃物理学者にでもなっていたかも知れない。
ともあれ、私は父の嘘が、そうとは知らず好きだった。幼い私にとって、それはリアリティのある物語だった。

坂の向こうには流れ星は落ちていない。その事はいつの間にか当たり前のように分かるようになっていたが、考えてみれば実際に確かめに行った事は無い。
私は息子を肩に担ぎ、坂の方に向かって歩き始めた。幼い息子はその変化を喜んでいるようだ。私の頭上で甲高い声を上げ、さかんに手足を動かしている。
私は息子が肩から落っこちないように支えながら、少しずつ坂を登る。そうして歩き始めてみると、意外にも胸が高鳴り始めた。
私は本当はずっとこの坂の向こうを見たかったのかもしれない。そう思うと、確かにそうだと、はっきりと意識が目覚める感じがした。
本当はその向こうに何があるのか、私は十分知っている。
でも、もしかしたら、何か違うものが見えるかも知れない。
ありえないとは思いながら、私は少年のような心で一歩一歩坂を登って行った。

2007年10月3日水曜日

帰り道の風景

奈々子は一番手前にあった錆び付いたママチャリを靴のかかとを使って思い切り蹴り飛ばした。
「なんだよこれ」
駅前の線路脇の小道には、「駐輪禁止」の看板の前に、山のように自転車が重ねられ、自転車の上にまた別の自転車が積み上げられている状態だった。
毎日の光景だから、別に珍しいという事ではない。いつもは徒歩で駅に通う奈々子だったが、この日は朝遅刻しそうになってやむなく自転車を使ったのだ。そして、やはり急いでいたため看板の目の前に自転車を止めたのだが、それが失敗だった。まるで看板の語句に対する集団的な挑発行為のように、その場所に自転車が集中している。
奈々子は腕組みをしてどうしたものかと考えた。この山のかなり奥の方に奈々子の自転車が埋もれているはずだ。

「ママ、気持ち悪い」
電車に乗ってしばらくすると、沙耶はしゃがみ込んでしまった。電車の中は満員で、座席は全て埋まっているし、立っている乗客も多い。律子は沙耶の肩に手を添えて沙耶の顔を覗き込んだ。
「だいじょうぶ?」
「気持ち悪い」
「吐きそう?」
沙耶は首を振った。
律子は周りの人間達の足元の邪魔になる事を注意しながらも、沙耶の隣りに自分もしゃがみこんだ。沙耶の顔色を確かめる。少し顔色が悪いかも知れない。ちょっと歩きすぎたのかもしれない。沙耶の通う幼稚園が創立記念日で休みだったので、友達の園児の母子と一緒に遊園地で一日遊び回ったのだが、昼前に遊園地に着いた時から沙耶も友達の子もちょっとはしゃぎ過ぎだと思っていた。
体力の限界を超えて走り過ぎたのだろう。沙耶の顔がみるみる曇って行く。
(誰か席を譲ってくれないかな)
律子はそう思って、ちらりと座席の方を見た。サラリーマン風の中年の男と一瞬目が合ったが、彼はすぐに目をそらして俯いてしまった。律子は思わず舌打ちしそうになったが、堪えた。
(まあ、みんな疲れているんでしょうけど)
「沙耶、ちょっと反対側向いて」
律子はしゃがみ込んだまま沙耶の背中を自分に向けて、膝の上に座らせて後から沙耶の体を支えるようにした。
「ちょっとは楽になった?」
うん、という声もほとんど聞こえないくらいだが、沙耶は首を縦に動かした。
律子は沙耶の負担にならないように気を遣いながらも、自分の娘をしっかりと抱きしめた。

駅前では奈々子が自転車の山を掘り起こしているところだった。傍目にはセーラー服を着て華奢に見える奈々子が、陸上部で鍛えた腕力で次々と放置自転車を右へ左へと放り投げて行く様に、通行人の何人かが時々足を止めて魅入っていた。奈々子はそれに気付くと意図的にそっちの方に自転車を放り投げて睨みを利かせた。
そうやって、なんとかかんとか障害を排除し、見慣れた愛車を救い出す事が出来た。
「ごめんよ、あんなとこに閉じ込めて」
奈々子は自分の愛車に語りかけながら傷が無いかチェックしてみたが、どうやら無事なようだ。後で奇麗にしてあげよう。
「奈々子」
後から声をかけられて、振り向くと沙耶を抱きかかえた律子が居た。
「あらお母さん。おかえり」
「これ、どうしたの」
律子は奈々子の周囲に散乱している自転車を眺め回して言った。
「え?これ?なんだろうね、知らないけど。沙耶、寝ちゃったの?」
「電車で気分悪くなっちゃったのよ。遊び過ぎたんだと思うけど」
「そうかあ。やっぱり若いねえ」
「何言ってんのよ」
「じゃあさ、車こない道通るから、後に乗って行きなよ。三人乗りしよ」
「危ないわよそんなの」
「だいじょうぶだって、鍛えてるんだから」
律子は何となく、また周りの自転車を眺めてしまった。
「やっぱりだめよ。危ないから」
「信用無いなあ」
「そう言う問題じゃないでしょ」
「じゃあ、沙耶と自転車、取り替えっこね」
奈々子は沙耶を抱っこして、律子は自転車を押して歩き出した。
「お父さん。今日は早いの?」
「さあねえ。ま、電話来るでしょ」
親子はのんびりとした足取りで線路沿いの道を我が家へと向かって行った。

2007年10月2日火曜日

明日になったら

俊平はもう一度小銭入れの中身を確かめてみたが、やはり結果は同じだった。
もうどうにも金がない。
小銭入れにふたをして振ってみれば、昔聞いたビスケットの歌みたいに一枚ずつ小銭が増えて行ってくれるのじゃないかと、何故だか思えてしまったのだが、そんな奇跡は起きるはずも無かった。何度振ってみてもそこには百円玉と十円玉と一円玉が一枚ずつ入っているだけで、その枚数はまったく変わらない。増えもしなければ減りもしない。
(減らないだけまだましか)
俊平は試しに財布の方を振ってみた。財布には小銭入れが付いていないから、余計に音がしない。何にも音がしないと小銭以上に何かが増えるという雰囲気が足りない気がした。そして中身を確かめて、やはり一枚のお札も入ってはいない事を再認識した。そんな結果が待っている事は当然分かっていても、俊平は軽い落胆を覚えて、財布を机の上に投げ出した。
俊平は自分の部屋の机の前で椅子をくるくる回転させながら、時が過ぎるのに身を任せていた。机の向こうにはカーテンを開け放したままの窓があって、夜の住宅街をひっそりと映し出していた。
俊平は小銭入れを気怠そうに振り続け、部屋の中には俊平の手の中で鳴る、金属の擦れ合ったりぶつかりあったりする音が響いていた。
机の上には投げ出されて開きっぱなしの財布と携帯電話が置いてあるだけだった。
俊平が椅子をくるくるくるくる回転させながら天井を見ていると、やにわに携帯の着信が鳴り始めた。俊平を呼んでいるのは友達のヒロトだった。
「明日暇?」
「なんで?」
「どっかいこうぜ」
「悪い。先約があるんだ」
「なんだよ、デートか?」
「まあ、そんなとこ」
「しょうがねえな、じゃ、またな」
通話は切れた。あっさりしたもんだ。
つまらない嘘をついてしまった、と俊平は思ったが、何となく金を借りて遊ぶ気がしなかった。
俊平はまた天井を眺めてくるくると回り始めた。
そろそろ首が痛くなってきたな、と思い始めた頃、また携帯が鳴った。今度はサオリだった。
「ちょっと、どういう事?」
「…なんで怒ってるの」
「浮気してるんでしょ」
「してないよ」
「嘘。さっきヒロトから聞いたんだから。明日デートだって?」
「ああ、あれ嘘だよ」
「嘘。なんでそんな嘘つく必要があるの」
「あいつと飲むと金かかるから」
「…お金無いの?」
「無い。一銭も無い」
「一銭も!?」
「ああ、今の嘘。百十一円だけある」
「それじゃ何も出来ないじゃん」
「缶コーヒーも買えないよ」
「…明日暇なの?」
「する事も無ければ出来る事も無い」
「しょうがないな。ご飯作りに行ってあげるよ」
「おお、助かる」
「まったく、世話の焼ける」
「サオリが居てくれて助かるよ」
「調子に乗るなよ。ご利用は計画的に」
電話は切れた。
明日は久しぶりにまともなものが食えると思うと、俊平は数日ぶりに落ち着いた気分になった。
それから先どうなるかという事が一瞬頭をよぎったが、まあそれは、明日になったら考えればいいことだ。

2007年10月1日月曜日

赤と青の海

青年の心は欲望にまみれていた。しかしその中身は、邪悪さというよりは自然発生的に彼に宿った若さの象徴であった。そのように生まれたはずだった。
欲望の流動は青年の精神の表層に、無数のマグマの渦を生んだ。そしてそれぞれの渦の中心は、深く精神の無意識領域に、その空洞を触手のように伸ばしていく。
彼の心は、今や欲望という巨大な概念によって犯されようとしているのだ。
しかし、その海はまだ浅い。
マグマの渦は幾つかが固まって一つになり、より大きな空洞を生もうとしている。その勢いに抗えるのは、沸騰するマグマ自身が生み出した上昇気流の風だけだ。風は次第に速度を増し、マグマの上に透明なカオスを築き上げた。
青年の心はマグマの渦と風のカオスの二つの極に割れそうになっている。そのような対立構造があまりにもシンプルに浮かび上がってしまうほどに、彼は欲望に取り憑かれてしまったのだ。
超常現象の戦場のようであった彼の心の葛藤も、大勢が決しつつあった。いよいよ渦が青年の心の深層に触れたのだ。風の揚力はマグマの重力に遠く及ばなかった。
欲望の力は、青年の心を支配した。そして更に多くを求めた。深く、より深く、奥へ、奥へと。

青年の心は既に動物と化していた。あらぶるマグマの跳梁を押さえるものはもう何も無いとさえ思えた。
しかし、密かに心の奥深く、意識と無意識の間に挟まれた精神の中央に、欲望のマグマの未だ及ばない、不明瞭な領域が存在していた。マグマの生んだ空洞はその存在に気付き、それまで感知されずにいた不可思議な空間を当然のように犯したいと望んだ。
そして欲望は空間の壁に穴をあけた。と同時に、その守られた領域の姿を見た。
それは記憶だった。
理性や、思考、現在と時間の壁を剥ぎ取られた剥き出しの記憶に、青年の欲望が触れた。
そしてまるで奇跡のように、風と記憶は結びつき、欲望の海を青く染めた。


そのような過程の後で、青年はようやく目の前にいる相手の顔をしっかりと見る事が出来た。
そして己の無力さと、茫漠とした幸福感に深く心を切り裂かれたのだ。

2007年9月30日日曜日

バスとタクシー

私はバスを待っている間、小説の単行本を手にして時間をつぶす。それはもう決まり事のようにいつも繰り返している事だ。
ここは1時間に一本しかバスの通らない田舎で、一本逃すと大変な遅れが出てしまうので、いつも早めにバス停に到着して、残りの時間をそうやって過ごす事にしているのだ。
今日は珍しくバス停に先客が居た。とても若く、きれいな女性で、裾の長いスカートに、袖の短い白いシャツを着ていた。
彼女は僕がいつもするのと同じようにバス停のベンチの端に腰掛けて、ぱらりと単行本のページをめくった。
私はなぜか遠慮がちな気分になって、彼女とは反対側のベンチの端に座ってバスを待った。
もうそろそろかな、と言う頃に、遠くで何かが破裂したような音が響いた。そしてそれは一度では終わらず、何度も連続して聞こえて来た。私は音のする方を見たが、道が丘の向こうへ伸びるのが見えるだけで、他には何の変化もない。

丘を越えて姿を現したバスが、その音の主である事が分かるのに、それほど時間はかからなかった。
バスは、ボカン、パーンと奇妙な破裂音を鳴らしながら緩慢なスピードで進み、気の遠くなるような加速度でバス停の前に止まった。スピードが遅くなっても破裂音は最後まで鳴り続けていた。
プシューッと気圧の抜ける音がして、入り口のドアが開いた。
私が本を閉じて乗り込もうとすると、まだ足を踏み入れる前に運転手が声をかけて来た。
「待って下さい。乗るのは一人だけです」
私は顔を上げた。運転手は乗客の隙間からこちらを覗き込むようにしていた。
「なんだって?」
私は聞き返した。
「乗れるのは一人だけです。見て下さい。もう満員なんですよ」
確かに、バスの中を見ると立っている乗客達がぎゅうぎゅう詰めになってバスの中で押し合いへし合いしているのが分かった。運転手はその隙間からこちらを見ていたのだ。
「でも次のバスは1時間後になってしまう。なんとか乗れないの」
「無理ですよ。タクシーでも呼んでくれませんか」
「何だって今日に限ってこんなに混んでるんだ」
「さあ、ちょっと分かりませんけど、今日はどこも人でいっぱいなんですよ。こっちが聞きたいくらいです。何か、事故とか事件とか、ニュースで言ってませんか?」
「聞いてないな。とにかく私は乗りますよ」
そう言って私は強引にバスの中に入ろうとしたが、人の体が入り口の所までこぼれそうになっていて、その柔らかい塊はどんなに押しても柔軟なゴムのように僕を外へ押し返した。私が一旦仕切り直して外に出ると、
「ほら、言わんこっちゃない」
と運転手が困った顔をした。
すると先に乗った女性が降りて来て、
「タクシーを呼びますから折半にしませんか」
と言った。
突然の申し出で、私は一瞬何を答えればいいのか分からなくなってしまったが、その隙をつくようにバスはドアを閉め、大きな破裂音を響かせながら走り去ってしまった。
元のバス停に取り残された私たちは、しばらくバスの背中を見送るしか無かった。
「どこまで?」と彼女が私に聞いた。
「私は終点まで行きます」
「偶然。私も終点まで乗るつもりだったから、かえってこれで良かったんだわ。それにあの中、なんだか気持ち悪かったし」
すると丘の向こうから甲高いエンジン音が聞こえた。時を置かずに一台のタクシーがバス停の前で急停車した。
「バス、乗れなかっただろ」
タクシーの運転手は助手席の窓を開けて話しかけて来た。
「そうなんです。いつもより人が多くて。何かあったんですか?」
「いや、俺も分かんねえけどとにかく後ろついていったら乗れない奴が出てくると思って後を付いて行ってるんだ。もちろん乗るだろ?」
もちろん我々に異論がある訳は無く、二人でタクシーに乗り込んだ。タクシーの中で、私はゆったりとした時間をいつもよりも更にゆったりと楽しむ事が出来た。

2007年9月28日金曜日

時計の誤差

私は時計師。
私の作る時計は完全な私のオリジナルだ。
時計の針が回転する仕組みを一から考え直し、一つ一つの歯車から文字盤のデザインに至るまで、全てが私の手作りなのだ。
物心ついた頃から時計が好きで、分解しては組み立て、また分解しては組み立て、あらゆる時計の構造を独自に学んで来た。
そしていつしか世界に一つだけの時計を作る人間になる事を心に決めたのだ。
私は長年の間研究を重ね、ついにオリジナルの時計を完成させた。初めそれは14型のブラウン管TVとほとんど同じ大きさだったが、そこからさらに改良を加え、今ではなんとか腕に巻いて使える程の大きさにまで小型化を進める事が出来たのだ。
しかし、ここまでやって、問題が発生してしまった。

私の作った時計は一日につき6秒の狂いを生じるのだ。
これは現代の時計の基準としては到底見過ごす事の出来ない誤差である。
私の時計には、どこかに私の気付かない欠点があるということだ。
構造にミスが無いか、何度も計算を繰り返したが、理論上の間違いは無いはずだった。
ならば部品が悪いのかと思い、分解して一つ一つ精度を確かめていったが、どれも設計から寸分の狂いも無かった。
私は6秒の狂いを生じる原因を見出す事が出来ず、毎日毎晩人知れず、出口の見えない迷路を彷徨い続けた。
そしてある日、私は一人のねじ師に出会った。

ねじ師はどこからか私の時計の話を聞きつけて来たらしく、私の顔を見るなりうんうんと頷いて、「分かっているよ」と言う顔をした。
「あなたの時計の噂はもう業界中の話題ですよ」
「そんな大げさな」
「いや、謙遜には及びません。私の技術が少しでも助けになればと思ってやって来たのです」
ねじ師はそう言って、さっそく時計の組み立てに着手した。
私は彼に設計の解説をしながら、一緒に組み立てを手伝った。
そして驚いた事に彼が組み立てを手伝ってくれたおかげで一日の誤差が2秒にまで減ったのだ。
私は彼の技術に感謝した。
「素晴らしい事です。どうやらこの時計は私一人では不完全と言う事ですね。あなたのねじ回しの技術で、これからも一緒にやりませんか」
「もちろんです。私が力になれるのであればいくらでも。しかし」
「ええ。あと2秒」
「また考えなければなりませんね。設計には問題ないとして、自分で言うのもなんですが、恐らく私以上のねじ師は少なくともこの国には存在しないでしょう。そうするといったい何が足りないのか」

二人が悩み続けていると、ある日一人の娼婦が訪ねて来た。
「愛が足りないのよ」
彼女は開口一番そう言い放ち、「私の愛は強烈よ」と続けた。
それに答えてねじ師は言った。
「わ、私には妻が居ます」
「そう、じゃあ、あなたにあげる」
彼女はそう言って私の胸にすらりと爪ののびた人差し指を突き付けた。
「何かの間違いではないですか」
「あら、あなたの時計を最初に手にする女は誰だ?って、結構噂になっているのよ。私、才能のある男が好きなの」
「しかし、まだ完全ではないんです」
「私はいいのよ。2秒ぐらい遅れてたって」
不思議な事に、彼女が強引に私の家に住みついてからしばらくすると、時計の誤差は1日につき1秒をきった。
私は、目に見えない力がこの世界に於いていかに重要な要素であるかと言う事を学んだ気がした。
おまけに彼女は料理洗濯片付け掃除と、あらゆる家事を完璧にこなし続けた。

それでも誤差は直らなかった。
私は更に、更に試行錯誤を繰り返し、同時に小型化も進め、一ヶ月に丁度1秒、と言う所まで誤差を縮める事が出来た。
その辺りで私は家に住みついた女と結婚し、誤差を残した時計を彼女にプレゼントした。
彼女は大変喜び、親兄弟や女友達や親戚達に彼女の腕時計を自慢して回った。
そしていつしか噂は更に広がり、私の時計は誤差があると言う事で人気が出て、売れに売れまくっているのだ。

2007年9月27日木曜日

キーホルダー

キン、と音を立てて、ユウシの指先から飛び去ったのは、リングの部分にいくつもの鍵を付けたままのキーホルダーだった。
キーホルダーは道路脇の草むらの中へ、がさりと音を立てて落ちていった。
ユウシは考え事をしながら指先にキーホルダーのリングを引っ掛けて振り回す癖があって、その時もいつものように、知らず知らずのうちに無意識な習慣でそうしていた。
「何?今のひょっとして鍵?」
ユウシの隣りを歩いていた杏が、一瞬自分の目の前を飛び去って行った物体の事をユウシに聞いた。
ユウシはまだ考え事の世界から抜け出せていないのか、草むらの方を心ここにあらずの顔で眺めている。
「あー、飛んでっちゃったね」
「ちょっと、だからその癖やめてって言ってたのに!あたし今日合鍵持って来てないのよ!」
「え?マジ?ごめん」
「ごめんじゃないわよ。どうするのよ」
「探すしかないね、ちょっと待ってて」
ユウシは歩道を外れて草むらの中へ足を突っ込んでいった。杏は歩道の上からうんざりした顔でその様子を見ている。
「あーちょっと暗いなー。ほとんど何も見えないよ。飛んでったの、この変だよね」
杏は腕組みしたまま仁王立ちの状態になっている。
「もうちょっと二三歩ぐらい左じゃない?」
「そうだっけ」
「もっと奥じゃない?」
「えー?」
「あーもうじれったい」
杏はスカートの裾をまくり上げてその端を下着の中に押し込み、ヒールを脱いだ。歩道の上は外灯に照らされているので、スポットライトの中に居るみたいだ。
「おー、なんか、昭和初期のブルマーみたいだね」
「好き好んでこんな格好しやしないわよ!誰のせいだと思ってんの」
杏はストッキングだけのほとんど素足の状態で、ずかずかと草むらの中に入って一緒に手探りで地面を探し始めた。
「確かこの辺よ」
「あ、そっち?」
「勘だけど」
「勘かよ!」
「突っ込み入れてる暇があったら手を動かしなさい」
「動かしてますがな」
「下手な関西弁使わない」
「へいへい」
「返事は一回」
「へい!」
「本当に何にも見えないわね」
「でしょ?」
「ああもう、スカートやっぱり汚れちゃう。お気に入りの奴なのに!」
杏がそう言って一度腰を伸ばそうと立ち上がった時、足元でちゃりん、と音が鳴った。
「ストップ!動くな!」
ユウシが身軽な動きでひとっ飛び、杏の傍に来て屈み込んだ。
「右足上げて。ないな。今度は左足」
ユウシは杏の左足の下からキーホルダーを取り上げた。
「あったー」
「やったー。よかったあ」
「よし、戻ろう」
ユウシはキーホルダーをポケットに戻すと、杏を抱き上げた。
「ちょっと、何してるの」
「お姫様だっこ。スカート汚れちゃうでしょ」
「もうとっくに汚れてるんだけど」
「まあまあ」
「はあ、あんたと居ると飽きないわ。色んな意味で」
ユウシは歩道の上に杏をそっとおろして言った。
「俺たち、結婚しないか?」
「え?何?」
「何かさあ、こういう事よくあるじゃん。俺たち。結構良いなあと前から思ってたんだよ」
「冗談で言ってるの?」
「本気だけど」
杏はほとんど呆気にとられてしばらく何も言えなかった。
「いろいろ言いたい事はあるけれど、まあそれは良いとして」
「うん」
「即答して上げても良いけど何かむかつくから返事はしばらく後にするわね」
「ええ?マジ?」
「いやなら断る」
「うーん、しょうがないか。わかったよ」
杏はともかくもスカートの裾をもとに戻して、草むらの上に突っ立っているユウシに手を伸ばした。
「ほら、いつまでそんなとこ居るのよ」
ユウシはぶつぶつ良いながらも杏の手を取った。
杏はその手を握ったまま、今度はユウシを支えにして脱いだヒールを履いた。

2007年9月26日水曜日

散歩のわけ

男は雨の中を傘も差さずに歩いていた。
手に持った傘を開かずに、子供のように体の横でぶんぶんと振り回しているのだ。
男はとても背が低かったから、そうしていると遠目には本当の小学生のように見えた。
実際の年齢は全然違って、小学校を卒業した時のことなど、あまりにも古い記憶でうまく思い出せないぐらいだった。
男は羽織っていたコートのフードを深々とかぶっていたから、やはりレインコートを着て気まぐれに雨を楽しんでいる小学生にしか見えない。
小学生ではないにしろ、男が雨を楽しんでいるのは本当だった。
男は傘以外の荷物を持っていないので、とても身軽だ。
男は自分の背が低いことをよく理解している。若いころは自分の背の低さにコンプレックスを持った時期もあったが、今となってはそんな気おくれした心持ちなどみじんもない。
(こういう視界の悪い日にこんな恰好で外を歩いていたら、小学生にしか見えないだろうな)
とひそかに思っている。
最近では家に居ると、妻や息子夫婦がやたらと自分を邪魔者扱いして、まるで面白くない。
息子は見事に自分の血をひいて、背が低い。まだ背の低さにコンプレックスを持っていて、そんなものはなんのその、といった超然とした態度はとれないらしい。
(あれだけ気立てのいい嫁を貰っといて、今更何が不満だというのか。背が低いのは親父のせいだなどと、どうでもいいことでまだ文句を言っている。まったくあいつめ、全然成長してくれない)
男はぶつぶつと文句を口にする。いつしか彼は人気のない公園の中を歩いている。ここなら考え事を口に出してしまったところで誰も聞いている人間などいないし、たまたま人が近くを通りかかっても、雨が大概の事は流し去ってしまう。
彼がこんな散歩をするのは今に始まったことではない。もう、それこそ彼が小学生の時から何かの拍子にやってしまう習慣めいたことなのである。大学への進学や会社の転勤などで住む土地が変わったりしても、彼はいつも大きな公園を探してその近くに住むようにしていた。
そんな訳で、雨の公園は、彼にとって密かな癒しの場になっていった。男にとって傘は差すものではなく振り回して楽しむものだし、雨は気分を塞ぐものじゃなくて雑念と雑音を一緒くたに流し去ってくれるものだ。公園は地面が土だから、そうやって流れていったものが大地に吸収されて、生態系を巡り巡っていくうちに水蒸気となって、空中で紫外線に焼かれて昇華していくのだ。だから歩くのは出来るだけアスファルトの上じゃない方が良い。

小学生の振りをした、初老の域に入ったばかりの男は、そのような事を考えながら、雨の中で散歩を続けるのだった。

2007年9月25日火曜日

ルートマップ

「やっぱり電気つけようよ」
「ばか。それじゃ雰囲気でないだろ」
「そうだよ。これがいいんだよ」
「でも地図見えないよ。僕、視力悪いのに」
「お前は普段から勉強し過ぎなの」
「そうそう」
「そこまでやってる訳じゃないけど…」
「いや、お前はやってるよ」
「だな。高橋には負けるけどな」
「高橋君は本当に頭がいいんだよ。僕より勉強時間短いはずなのに」
「べつにいいじゃん。サクぐらい頭よければ十分だろ」
「そうそう。高橋の奴が異常なの」
サクと呼ばれた少年は、話しながらも必死に机の上の地図に目を凝らしていた。
一緒に居るのはサザンと丸井の二人だ。三人は夏休みの自由研究にかこつけて自転車でちょっとした旅をしようという話し合いをしているのだ。
「やっぱさあ、川沿いは走らないとな」
サザンが地図の上にキューッとマジックで線を引く。その動きが起こした小さな風を受けて、ろうそくの炎が揺れる。
「景色としては必要だね。写真のネタ的にも良いと思う」
「でも、そんなに距離取ると他のルートがきつくならない?」
「そうか?」
「確かに最終的にはこの山の頂上がゴールだから、遠回りになるけど、この企画は素材が命だと思うんだよ」
「川沿いにそんなに写真を撮る所あるかな」
「この最後の所の橋、なかなかいいぜ」
「うん、あれはいい」
「なにがいいの?」
「そんなの、形?だよなあ?」
「まあ、雰囲気とかね。風情がある感じ?」
「そうかあ、遠いけどね」
「ここから山行くのは確かに気合いの入れどころだな」
「このルートなら車もあまり通らないし、信号も少ないはず」
そう言って、丸井が地図にキューッと新しい線を引く。
「あ、ここ、通った事あるよ。ビンの牛乳売ってるんだ。コーヒー牛乳もあったよ」
「マジで?サク、なんでそんなの知ってんだよ」
「このへん行った事あるの?」
「え、うん、まあ」
「あ、よく考えたらここ、あつみの家の近くじゃん」
「やっぱり付き合ってる噂は本当だったか」
「そんなんじゃないよ。親同士が知り合いだから、昔から知ってるだけで」
「まあまあ、照れるなって」
「あつみちゃんかわいいもんなあ。ぶっちゃけ反則だよ」
「もう、それはいいじゃん。とにかく、この店、寄っていこうよ。ちょっと小休止で」
「確かに、いいタイミングかもね」
「俺、休憩の事考えてなかった」
「じゃあ、決まりで」
サクがキューッと線を引く。
「後は、山だな」
「ここはもう気合い入れるしか無いね」
「きつそうだなあ」
「山頂ゴールかあ、燃えてきた」
「好きだねえ」
「何の話?」
「ツール・ド・フランスだよ。お前、見てねえの!?」
「知らない」
「今度DVD貸すよ」
「まあ、俺的にはメインはここの登りだから」
サザンが山頂までの道にキュキューッと線を延ばした。
「これでルートは完成だね」
三人はしげしげとろうそくの前に置かれた地図を見下ろした。ひらひらと揺れる炎に照らされただけの、薄暗い部屋の中で。
「なんか、宝の地図みたいだね」
「お、ロマンチックな事言うねえ」
「さすがに恋してる男は違うね」
「だから、そんなんじゃないってば」
「じゃあ、俺、あつみちゃんにアタックしていい?」
「え?え?」
「ほらな。焦るぐらいなら素直になれって」
「冗談だよ」
「もう、電気つけようよ」
「そうだな」
「じゃ、ろうそく消して」
丸井が電気のスイッチのところへ行く前に、サザンがふっと一息にろうそくの火を吹き飛ばし、ほんの一瞬、部屋は真っ暗になった。