その青年は、自分を忍者の末裔だと主張した。
彼はきつい戒めを破ってべろべろに泥酔していた。
どうしてそんなに飲んでしまったのかと聞いたら、どうやら失恋が原因らしい。
相手は大学のサークルのメンバーなのだと言う。
僕は行きつけの居酒屋のカウンターでたまたま隣りに座った彼と意気投合してしまい、なんだかんだと酒の量が増えていった。
「いやね、これ以上は言えないけど、本当なんだよ」
彼はこのセリフを何度も繰り返した。
僕もかなり飲んでいたのだが、どんなに飲んでもその時の記憶を失ったことがないので、この話は信じてもらっていいと思う。
彼は今年成人を迎えたばかりで忍者としてはこれからが油ののってくる時期なのだと言う。
「そういうのはさ、普通のスポーツ選手の世界とかとおんなじなんだよね」
とも言った。
「そうは言ってもただでさえ、生活と修行の両立は難しいんっすよ」
「へえ、そうなのかい?」
僕は初めは冗談だと思っていたから、結構適当に彼の話を受け流して応えていた。彼は酔いが進む程、奇妙な敬語を使い始めた。
「俺なんか、昼間は大学、夜は修行でさ。休みの日は昼にしか出来ない修行があるしさ」
「何だかデビュー前の小説家みたいな生活だね、それじゃあ」
「いや、ほんと、そうっすよ」
そう言ってかれは十何杯か目の日本酒をぐいっと空けた。その姿は妙に様になっていた。
「でも、彼女はサークルで知り合ったんだろう?そんなに忙しくて会う暇はあったのかな」
「ないからダメになったんすよ」
「なるほどね。でもそもそもなんでサークルなんか入っちゃったの。修行、忙しかったんでしょ?」
僕がそう言うと彼はふうっと息を吐いて
「まあ、普通の大学生活みたいのに対する憧れですかね」と言った。
僕は昔のアイドルが引退する時に言っていたセリフを思い出していた。
「なんとは初めの方は時間作って行ってたんっすけどね。でもあれっすね、テニスサークルに入って本気でラケット振り回す奴いないんだね」
「テニスサークル?」
「っぽいでしょ、あれ。憧れの大学生活的なイメージ」
僕は自分が学生の頃の事を思い出した。一理あるような気がした。
「俺そこにいるだけで楽しくてさあ。浮かれてラケットブンブン振り回してたら、女の子達思いっきり引いちゃったりしてね」
「浮いちゃったんだ」
「そうそう。空気的にね。その場の雰囲気がね。でもそんな俺を彼女は気に入ってくれた…」
彼は遠い目をしてカウンターの向こうのボトルの並んだ棚の上の方の辺りを眺めていた。
「どんな子だったんだい?」と僕は聞いた。
「笑顔が可愛くて、優しい子っしたよ。普通の女の子っす」
「普通が良いんだね」
「普通が一番ですよ」
「でも君と話してると僕は普通に楽しいよ」
「ああ、俺もっす。なんでですかね」
「僕がデビュー前の小説家みたいなものだからかな」
「ええ?まじっすか。そんなんやってんっすか。かっこいいっすね」
「かっこよくなんかないよ。忍者の方がかっこいいよ」
「いやいやいや、よして下さいよお、まったくう。もう。ドロンしちゃいますよ。恥ずかしいから」
そう言って彼は僕を見ながら、顔の前で両手を合わせて人差し指を上に突き出す、あのおなじみのポーズをして見せた。
僕には彼がただの酔っぱらいにしか見えなかった。歳の割には古い事言うし。
それから僕らは互いの生活の事についてあれこれ言い合った。
出自を隠すために社会的な届けの名前は本当の名前とは違うのだとか、うちの親父は時代劇とか時代物の小説が好きだとか、そう言う小説は書かないの? とか、そんな事を彼は話し、僕は忍者について思いついた事を遠慮なく彼に対して質問した。
彼の話には本当に矛盾する所がなかったから、案外冗談としては出来過ぎてるな、と僕は思った。そして彼はやはり忍者の末裔なのだとだんだん信じ始めていた。
僕はいつまでも話したくなっていたのだけれど、彼は「そろそろ行かなきゃ」と言って立ち上がったので、僕も帰る事にした。
「また飲もうよ」
僕は店の前で彼に言った。
「そっすね。機会があったら」
「僕はいつもここで飲んでるから。じゃあ、また」
「んじゃ。ドロン」
そう言って、彼はその場に小さな煙を残してぱっと姿を消した。
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