空は静穏だった。
僕はいつか寝た女の裸を思い出しながら海岸への道を歩いていた。
その道は用水路のすぐ傍を平行して進んでいたので、海までの道は完全な一直線になっている。
僕は一人だった。
海へ他の誰かと一緒に行った事は今まで一度としてなかった。
海にはほとんど用がない。
僕がそこへ行くのは、何かを楽しむためではなく、自分自身を見つめるためだ。
だから、なるべく朝の時間帯、人の少ないうちに行く。
交差点の赤信号で止まっていると、目の前を自転車に乗った通学中の女学生が横切って行った。
それはどこかで見た光景だった。
僕が彼女らと同じ世代であった頃、その時僕が住んでいた小さな町で。
僕は思わず彼女を目で追った。
自転車のスピードになびくスカートの裾が揺らめくのが妙に懐かしかった。
信号が青に変わる。
僕は足を踏みしめる。
足元にあった小石をつま先で蹴飛ばすと、予想に反して小石は遠くまでまっすぐに転がって行き、かなり先の方で右側に向かって急なカーブを描いて転がって、道の縁石にぶつかって止まった。
道ばたの風景に溶け込んでしまった小石を横目に見ながら、僕は先に進んだ。
風は全く感じない。
空が止まっているように見える。
僕は雲の形が気になった。
それは一度ちらりと僕の視界に入ってから、僕の意識にずっと引っかかってしまう。
生き物のような雲。
僕の歩く道を導くように、海に向かって伸びている。
いつからそこにいたのだろう。
僕は初めから空を見ていたはずなのに、その雲につい今まで気付かなかった。
雲はまっすぐではない。
ぐねぐねとうねっている。
その時僕は直感した。
この雲は生きているのだと。
我々の体が細胞の繋がりで出来ているように、この雲は水蒸気によって構成された生物なのだと。
龍だ、と僕は思った。
雲の龍。
そう思うと、今度は僕はこの龍に見られている気がした。
何もかも見透かされている気がしてならなかった。
僕は雲龍の導きに従って、風のない海への道を進んだ。
ランニングシャツに短パン姿の日焼けした老人が僕の横を走り抜けて追い越して行った。
その背中は生命力に溢れていた。
彼こそが龍の導きにふさわしい。
老人の背中が遠くなると、僕は自分の両の太ももを拳で何度か軽く叩いて、老人の背中を追って走り始めた。
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