僕の部屋の西方の壁には、昔知人の画家から買った黄色い絵が飾られている。
その絵はいわゆる抽象画であり、少し距離を置いて全体的に見ると黄色い平面に何本か複雑に交差する線が描かれていて、それが何を示すのかと言う具体的な示唆はない。
風水的には西の方に黄色い物が置いてあると金運が上がるだとか言う話だったので、僕はその絵を飾る場所を決めたのだ。
結果的に言うと、僕は風水に従って正解だったのだと思う。
金運が著しく上昇した、という事は今の所ないのだが、その絵は奇妙なくらいに西側の壁にしっくりと馴染んでしまったのだ。そのたたずまいはまるで僕よりもこの部屋に何年も住んでいるかのような余裕と威厳を感じさせるもので、自然で、かつ存在感があった。
僕は自分の中でいつの間にか、その絵を『西の太陽』と呼んでいた。
何か悩んだり落ち込んだりしている時にふとその絵を見ると、その中に描かれた線が僕に何かを伝えようとしているみたいに思える事がある。その雰囲気に僕はついつい引き込まれ、しばらく絵と向き合う事になる。
その時に絵から何かを感じ取れるかどうかはおそらく僕の内面の問題になるのだろう。
いくつもの線が無規則に絡み合い、その全体像は複雑な迷路のようであり、上空から見た都市の地図のようにも見える。
色は一面的ではなく、場所によっては深い陰影があり、またある場所には奥底に秘められた光の淀みが蠢いている。
それは相容れぬ性質の細胞が闘い合う戦争の姿なのかも知れない。
線は時に曲線を描き、別の線にぶつかる。よく注視してみれば、途中で行き場をなくして中途半端に浮いている線の端はどこにもない。すべての線は何らかの形で別の線に繋がっている。
僕はその絵の世界に住んでみる事を考える。
線を建物の輪郭や道路のラインに見立て、色の強弱をその世界を覆う雰囲気や天候など何かしらの空気に例えてみる。
半円形のドームから延びる街道を、複雑な小路の絡み合うダウンタウンへと下る。
そこで僕はこじんまりとしたホテルに入り、お世辞にもきれいとは言えない部屋のベッドに体を投げ出し、ドームで見た演劇の事を考える。
それは太陽への巡礼を叶えようとする旅人達の悲喜劇を物語っていた。
その世界に置ける太陽は、銀河系の中心としての存在ではなく、いつか歩いて訪れるための場所なのだ。
別の意識がその世界の僕に語りかける。
(太陽は宇宙にあるから歩いては辿り着けないんだよ)
しかしその声はその世界の僕にはまるで聞こえない。もちろん、その他の誰にも聞こえない。
その世界にはその世界の価値観があって、もし僕のその声が聞こえたとしても彼らは太陽への巡礼をやめないだろう。
そして別の場所ではじっと息をひそめてこの世界に波乱を巻き起こそうと考えている連中がいる。彼らは闇の中で機会を待っている。自分たちの正義が試される機会を。
それは戦争の足音なのだ。
部屋に据え付けられた古ぼけた針時計が時を刻む音を立てる。
僕はその音に耳を澄まし、やがて訪れるカオスの予感から逃れる為に夢に入る。
僕の部屋にある『西の太陽』には鮮やかな世界が潜んでいる。
向き合えば向き合う程、その世界は深みを増し、新たな地平の広がりを僕に提示してくれるのだ。
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