2007年11月25日日曜日

飛んでしまった彼女

 彼女はさっきからしきりに鏡を気にしている。
「何を気にしてるの?」
 と僕が聞くと
「うん、ちょっと」
 と言って詳しくは教えてくれなかった。
 僕は時々彼女が分からなくなる。
 付き合い初めの頃から、その傾向はあった。
 どういうきっかけでそれが訪れるのか分からないけれど、彼女はふとした瞬間に何か別のことを考えていて、会話中であろうが、散歩中だろうが、テレビを見ている間だろうが、おかまいなしに意識をどこかへ持って行かれてしまっているのだ。
 僕が「どうしたの?」とか「何考えてるの?」とか聞いてみても、そう言う時はどうにも煮え切らないような返事しか返ってこない。
 彼女のその反応に僕は不安になることがある。
 僕と一緒にいるのがつまらないのだろうか? あるいは僕と一緒にいながら他の誰かのことを考えたりしているのではないだろうか?
 僕はどうしても気になるのでその症状について確認してみようと思い、彼女に聞いてみたことがあるのだけれど、彼女は案外あっけらかんとして答えた。
「ああ、私飛んじゃう時があるの。でも気にしないで。それで何がどう悪くなるという訳でもないから」
 それでも、彼女が『飛んじゃう』と言った時の表情はその瞬間だけ真剣で、前後の流れから切り離されてまるで別の顔写真を埋め込まれたみたいに違う顔になった。
「飛んじゃうの?」
「うん。ちょっとだけね」
 彼女は親指と人差し指の間に狭い空間を作り、片目をつぶって指の隙間から僕の顔を覗き込んだ。その表情はとてもかわいらしくて、僕はまあいいか、とその時は思ってしまうのだ。
 しかし、『ちょっと、飛んじゃう』とは一体なんなのだろう。
 彼女は僕の質問には答えてくれたのだけど、その回答はとても僕の理解を超えたものだ。
「飛んじゃうって、何か別のことを考えているということなのかな?」
 僕はまた別の機会に聞いてみた。
 彼女は一瞬、何の話かと首を傾げたけれど、すぐに思い当たったようだった。
「やっぱり気になる?」
「ちょっとね」
 と僕は答えた。
「どうやら翔君は私のスマイルじゃごまかしきれないみたいね」
 と言って彼女はいつものスマイルを披露した。その威力は十分で、僕はうっかり「まあいいけど」と言いそうになった。
「私にもうまく説明できないのよね。何を考えているのって言われると何も考えていないんだけど、ああいう時って、記憶もずいぶん怪しくなるのよね」
「記憶が? 覚えてないってこと?」
「そうみたい。人から指摘されてやっと気付いたんだけどね」
「それってやっぱり色々と困るんじゃない? こないだは何も悪くなることは無いって言ってたけど」
「そんなことないよ。案外世の中どうとでもなるものよ」
「そうなの?」
「試してみたらいいよ。一度聞いた話を全部忘れたことにして、その話をした相手とどういう風に会話のつじつまを合わせたらいいか、そしてもう一度同じことを相手に言わせるにはどういう風に会話を運べばいいか、実験してみるの」
「……僕にはとても出来そうにない」
「他に選択肢が無ければやれるようになるものよ」
「そうか。でもどうしてそうなっちゃたんだろうね」
 僕がそう言うと彼女はふうっと一つ息を吐いた。
「みんな同じこと聞くんだよなあ。それがうっとうしくてごまかしてたんだけど。ひとこと言えるとしたら、それが私なの。理由なんか判らないわよ」
 そういって僕を見る彼女の表情にははっきりとした確信めいたものが浮かんでいた。
「わかった。もう聞かないよ」
 僕がそう言うと彼女はほっとしたようで、いつもと少し違うスマイルを見せてくれた。そして僕らはデートの続きをする為に並んで歩き始めた。そこで僕はうっかり余計なことを聞いてしまった。
「みんなってやっぱり元カレとか?」
 そのとき彼女は既にどこかへ『飛んで』いて、僕の言葉は聞こえないようだった。

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