僕が初めて彼女を家に呼んだ時、母はホーミーの練習にはまっていた。
ホーミーとはモンゴルの民族に伝わる伝統的な発声法のようなもので、のどを使って高音と低音を同時に鳴らす「驚異の唱法」と言われているものだ。これが簡単のようで難しい。
母の鳴らすホーミーはと言うと、当然ながら凄まじく聞くに堪えない。
僕が部屋で彼女と仲良くしていても、変なタイミングで母のへたくそなホーミーが聞こえて来て、なかなかいい雰囲気を作ることが出来なかった。
いっそのことしばらく練習をやめてくれと頼みに行こうと思ったが、そうすると逆に母の関心が僕らの方に向かい、きっと何度も必要の無いお茶やお菓子を何回にも分けて部屋を覗きにくるに違いないのだ。
それはそれで面倒なので、僕は彼女と二人きりの時間を保つのを優先することにした。
「ごめんね、うるさくて」
僕は隣りに並んで床に座っている鈴に謝った。
「いいよ、別に。気にしないで」
鈴はむしろその状況を面白がっているみたいに見えた。
でも僕は気になって仕方が無かった。何しろその頃の僕は若かった訳で、彼女を部屋に入れる、というだけで内心興奮していたし、あわよくばいろいろ、いろいろしてみたいという下心に、かなりこころを惑わされていたのだ。
そこに母のホーミーが流れてくる。
雰囲気どころではない。完全な雑音だ。むしろ騒音と言った方がいい。これは立派な環境汚染だ。提訴したい。
「ねえ、聞いてる?」
僕が頭の中で母を罵っていると、鈴が僕に聞いて来た。
「え? ごめん、聞いてなかった」
「何考えてたの」
「いや、別に。何の話だっけ」
「今度のデート、どこ行こうかって話でしょ」
「それだ。どこか行きたいとこはある?」
「それを今言ってたのに」
「ごめん、もう一回お願い」
僕がそう言うと、彼女は体を僕に近づけて、
「今度はちゃんと聞いててよ」
と言った。鈴の顔は僕の目の前にあった。
僕が彼女の手を握った時、部屋のドアが勢いよく開いて母が入って来た。
僕と鈴は反射的に体を離し、母を見た。
「ねえ、聞いた? 今の聞いた?」
母は何やら興奮していた。
「な、なに?」
「今、すっごく綺麗なホーミーが鳴ったのよ!」
くらっと来た。
「ああ、そうなの? 聞いてなかった」
「もう、なんで聞いてないのよ!」
母はそう言って部屋を出て行った。
僕はどうしていいか分からず、助けを求めるような目を鈴に向けてしまった。
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