2009年8月14日金曜日

汗にまつわる一つの人生と科学の発展について

 差し出された名刺は、何だかびしょびしょに濡れていた。
 搾ればボタボタと水が落とせそうだな、と私は思ったが、まさか本当にそうする訳にも行かない。それは失礼というものだ。
 男は多古田康夫と名乗った。
 多古田は痩せた外見に似合わず、次から次へと毛穴という毛穴からだくだくと汗を流し続けていた。季節は夏で、夏のど真ん中で、確かに気温は高かったものの、我々の居るこの部屋の中はばっちりと空調が効いていて、暑苦しさとは無縁の世界に位置しているはずだった。
 しかし、多古田は違った。
 ひっきりなしに流れ出る汗を、ハンカチでは事足りないと自覚しているからなのか、几帳面に折り畳まれた厚めのフェイスタオルで何度も何度も拭っていた。そのうち脱水症状を起こしておもむろにバタリと倒れてしまうのではないだろうかと思われた。
 私は失礼にならない程度の所作を気にしつつも、指先だけでその名刺を受け取った。指先には想像通り、しっとりとした湿り気が感じられた。
 見れば見るほど不思議な光景だった。
 多古田の頭髪は薄く、それを隠すように七三分けが横に流れていた。隣に置かれた鞄の側に軽く折り畳まれた上着には、アイロンがけを怠った感じのごわごわとした凹凸が見られた。ワイシャツは汗でぴったりと肌に張り付き、それによって露になった体のラインは、貧相な肉体を露呈していた。顔には控えめな営業スマイルが九月のクラゲのように漂い、口元は口角が微妙に上がりきらない位置で止まっている。彼の右手には折り畳まれたフェイスタオルが握られてはいたが、軽く搾っただけでも水滴が滴り落ちるのではないかと思った。そして靴が大きい。今はテーブルの下に隠れてしまって見えないが、明らかに本来の足のサイズよりもふたまわり以上大きなサイズを履いている。部屋に入ってくる時に聞いた彼の足音は、水が入ってしまったぶかぶかのゴム長靴のそれと酷似していた。
「暑いですねぇ」
 と多古田は言った。タオルでまた汗を拭った。
 私は自分のこめかみのあたりに流れる汗の存在に気付いた。
 欠伸みたいに、汗も伝染するという事なのか?
 お茶を運んで来た女性職員の梓さんがちらりと多古田に視線を放ち、わずかに躊躇いを見せたあと、テーブルの上に二つの湯呑みを並べた。彼女のこめかみにも一筋の汗が流れていた。二つの湯呑みからは仄かな熱波が感じられた。彼女の躊躇いの原因はこれに違いない。梓さんは普段からとても気のつく女性だ。珍妙な珍客に対してどのような配慮を示すべきか、普段通りにするべきか、敢えて冷たいお茶を用意すべきか迷ったに違いない。何かしらの思考的混乱を迎えたあと、いつも通りのあったかいお茶が出て来たという所だろう。
「今年の夏は、猛暑と言われてますからねえ」
 と私は多古田の言葉を受けて言った。
「それで、今日はどう言ったご用件で?」
「ええ。単刀直入に申しまして、弊社の空調設備のご購入を検討いただきたく、参りました。実はさる筋の方からお話を伺いまして、どうもこちらのビルで耐用年数を大幅に越えてしまった設備を一斉に新調しようと言うご計画がおありだとか」
「それは事実ですが、いったい誰からその話を?」
「○○ビルのオーナーである新城さんです」
 多古田の出した名前は私の知人だった。確かに面識はあるが、狡猾を人生訓としているような男で、あまり関わり合いを持たないようにしている為、親しい訳ではない。だが、町内会の会合の席で、設備投資についての話を確かに交わした記憶がある。あの男の事だ。この不可解な汗まみれの男を前にして、体のいい厄介払いを押し付けたに違いない。不必要なまでに警戒心の強い男なのだ。不可思議なものは追い返せ、とでも思ったか。
「なるほど。それで、空調設備について、とおっしゃいましたが、具体的には?」
「弊社で開発致しました、これまでのものとは全く異なる技術を使ったエアコンです」
 そう言って、多古田はまたタオルで汗を拭った。
 私は幻惑されたような気分になった。訳も無く汗を流し続けるような男がエアコンの営業をしているのだ。何かの間違いじゃないのか?
「弊社はまだまだ業界では弱小企業と言わざるを得ません。しかしながら社員一同一丸となって地道な開発研究を辛抱強く続けて参りました。そしてこの度、絶対の自信を持ってお客様にお勧めできる商品の開発に成功したのです」
 そこで多古田は一度話を切って、テーブルの上のお茶に手を伸ばした。そしてぐっと力を込めて熱いお茶をのどに通した。
「これはおいしいお茶ですね。私どもの会社もこのような良いお茶を常に用意しておきたいものです。それに熱い。熱いお茶は好きなんです。でもどこへ行っても冷たいお茶が出てくるんです。まあ、仕方の無い事かもしれませんが。いやあ、熱い。これはいい」
 そう言いながら多古田は湯呑みを空にした。
 もう、こっちは見ているだけで暑い。
「多古田さん、お話は分かります。御社も大変な苦労をされて新製品の開発に漕ぎ着けられたのでしょう。しかし、こういっては何ですが、それは他の企業でも同じ事ではありませんか? 大手でも、弱小でも、同じ事でしょう。それに、確かに最近のエアコンは様々な新しい技術や便利な機能などが付加されていて、それが製品の魅力でもある。しかしですね、嫌なことを言ってしまうかもしれませんが、そう言ったものは私にとってはさほど重要じゃないんです。私にとって重要な事は、私のビルではたらく人々の健康を守れること。そして快適な労働環境を提供できる事です。付加価値はさほど重要じゃないんです。そりゃあ、目新しいものは、話題の種にはなりますがね」
 私はなるべくやわらかい語調になるよう意識して話した。多古田の得体の知れなさが、私にそうさせていた。私はお茶のお代わりを梓さんに頼んだ。彼女は即座に行動に移った。
「おっしゃられる事はよくわかります」
 と多古田は言った。
「よくわかります」
 何度も頷きながら、多古田は自分の言葉を繰り返した。そして新しく注がれたお茶の入った湯呑みを手に取り、両手で包むようにして、その中の小さな水面をじっと見つめていた。
 私は多古田の言葉を待ってみたが、なかなかその後は続かなかった。お茶の水面に映し出された自分の過去の記憶を振り返っているかのように、彼は深い深い沈黙の海に沈んでしまっていた。
 後になって考えてみれば、それは多古田の戦略だったのかもしれない。きっと彼は私が話しだすのを待っていたのだ。
 私は沈黙に業を煮やして口を開いた。
「では、私の話をふまえた上で、御社の製品を購入する事で得られるメリットとは、何ですか? 他社製品に比べて、御社の製品が優れている点とは、何ですか?」
 私がそう聞くと、多古田はお茶に口を付ける事無く湯呑みをテーブルに戻し、背筋を伸ばした。
「私の汗が止まります」
 と多古田は言った。
 その言葉の後には形容のし難い沈黙が続いた。
 その静寂がその場の全員の体に深々と染み渡った頃、私は思わず
「嘘でしょう?」
 と言っていた。果てしなく失礼な発言であるにも拘らず。
「お気持ちは分かりますが、ほんとうです。弊社の開発したエアコンが効いている部屋の中でだけ、私のこの止めどない汗は止まるのです。と言うより、我が社の製品は、それを目的として、いや、目標として開発されたのです」
「それは……はあ、なるほどと言うか、いやあ」
 私はどう応えて良いものか分からなくなってしまっていた。思わず梓さんの方を振り返ってみたが、彼女は真剣なまなざしで虚空を睨みつけていた。
 私は気を取り直して多古田に聞いた。
「あの、御社で開発された技術とは、いったいどのようなものなのですか? さしさわり無ければ聞かせていただきたいのですが」
「もちろんです。ただ、企業秘密に関わる部分の詳細についてはお話し致しかねます。どちらにしろその辺はえらく専門的な部分なので、わたしもよくわからんのですが、大雑把に言うと、波動です」
「波動」
「はい。波動です。波です」
「波動が?」
「話すと長くなりますが、どうやら私のこの体質は、私の体内に流れる特殊な波動によるものらしいのです。これは様々な研究機関が私の体をいじくり回した結果、分かった事です。非常に信用の於ける機関です。これはまず間違いありません。
 しかしながら、その原因は何かとなると、分からない。これは誰にも分からなかった。一応、突然変異ではないか、と言う事で結論とされていますが、そんなもの、何も解決してくれはしません。研究が行き詰まりを見せた頃、一部の研究者達が集まって、実際的な問題の解決について動き出したのです。つまり、私の汗の出る原因を突き止める研究から、私の汗を止める研究にシフトしていったのです」
 その後の話を要約すると(多古田の話は分かりやすかったが、いささか冗長に過ぎたし何より本当に長かった)、どうやらその汗を止めようと言う技術が一般的に言っても体内の代謝機能や体温調節やその他もろもろの健康環境に好影響をもたらす事が分かり、それならいっそ製品化してしまおうと言う流れになったらしい。つまるところのその技術の鍵となっているのが
「波動なのです」
 と言う事だ。
「世界は波動に満ちています。以前は完全な無と考えられていた真空の中にさえ、波動は存在します。まして、我々人類が生活するこの地上ではなおさらです。ミクロの視点で見れば、我々人類は止めどない激流の中を生きているのです。
 私は偶然にもその影響を強く受けてしまう体を持ってこの世界に産み落とされました。この体を忌み嫌った事もありますが、この体が新しい技術を導く鍵にもなったのです。私は、今は、それを誇りに思えます。これが私の使命だったのだとさえ思う事ができます。
 今、世界中で多くの波動研究がなされています。様々な分野、様々な視点、様々な対象……この世界は膨大です。まだまだ未開の地が膨大に広がっていて、その分可能性も無限にあると言えますが、そこで何かを手にしたものはまだまだ一握りです。そう言う世界なのです。
 そして、我が社はその一端をコントロールする術を手にしています。一握りにも満たない、ひとつまみ程度かもしれない。しかし、大きな一歩を先に歩いています。どうですか。我々と一緒に、未来の先端に、立ってみようとは思いませんか?」
 多古田がそう言って話を終えたとき、私はすでに言葉を失っていた。発言すべき何ごとも思いつかなかった。
 後日、実際に多古田の会社を訪れて、その新技術を採用したエアコンの効いた部屋の中で暫くのあいだ多古田と話をした。
 確かに、その部屋の中で彼の汗は見る見る間に退いていった。多古田はそこで「ちょっと失礼」と言って仕切りの向こうに姿を隠し、乾いたスーツに着替えて出て来た。靴もぴったりとしたサイズに替えていた。汗をかいていない多古田は、どう見ても普通のサラリーマンにしか見えなかった。
 そして私は今、自分のオフィスのデスクで考えている。
 一応回答を保留にさせてもらった上で預かった契約書を目の前に置き、判子を押すべきかどうか躊躇っている。
 何だか大掛かりなペテンにかかっているような気分が、どうしても消えてくれないのだ。



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2009年6月25日木曜日

血まみれの男は幻影に語りかける

 町に訪れたのは、半年ぶりの事だった。
 そんなに長い時間、町とのつながりを断った事は今までに一度もなかったので、僕の中には動揺にも似た気持ちがあった。
 大事なものを裏切ってしまったような。
 それでいて、「仕方がなかったんだ」と言い訳してしまうような。
 確かに仕事は忙しかった。
 以前と違って責任も生まれ、後輩たちの指導なんかもする。
 しかしそれでも、時間を作ろうと思えばそうできたはずだ。
 僕は何度も自問する。
 別に、町にくる事は誰かに課せられた義務ではないし、果たすべき約束という訳でもない。
 ただ、それは何かと結びついている。
 その何かとは何なのか、どのような結びつきなのか、それは僕にも分かっていない。分かってはいないけれども、見失ってはいけない、無くしてしまってはいけない繋がりなのだという感覚だけが、僕の中にあった。
 しかし、そんな風に葛藤をしながら再びこの町にたどり着いた瞬間の後ろめたさのようなものは、懐かしい町の風景が視界の中に踊った時にきれいさっぱりいずこかの忘却の彼方に過ぎ去っていってしまった。
 駅の改札を出たところで数歩すすむと、もう強い日差しが僕を包んだ。
 雲は少し出ていたが、空が翳るほどではなかった。
 いつもなら、日光浴がてらに陽のあたる道を歩いてゆくのだが、その日はまぶしさに目が耐えられず、建物の陰を選んで歩いた。
 疲れていたのかもしれない。
 人通りのひときわ少ない道を歩いていく途中で、僕は視界の端に異質なものを目にして立ち止まってしまった。
 血まみれの男が倒れていたのだ。
 男はアロハシャツにジーンズと言う出で立ちだったが、アロハの前ははだけていて、その内側の白いタンクトップは胸の辺りを中心に真っ赤に染まっていた。
 およそこの町には似つかわしくない光景と言えた。
 男はこの町で唯一背の高いビルが何本か立っている駅前の裏通りで、ビルとビルの隙間の小さな空間に挟まれるようにして窮屈そうに仰向けになっていた。
「よお」
 男は声を発した。その声は力の抜けた感じではあったけれど、弱々しくはなかった。
 僕は自分が話しかけられているのだとは思わず、しばしそのまま男を眺めていた。どうしたものか。しばらくそうしていると、
「よお」
 と男がまた言った。
 どうやら僕はその男に呼ばれたらしかったが、僕は躊躇った。当然だ。僕でなくとも、道ばたで血まみれの男に声をかけられて、気安く対応できる人はそうはいないだろう。
 それに、ひょっとしたら、彼は特に僕を呼んだというのではなく、たまたま僕が男の姿を目にして立ち止まった時に、男が不特定な誰かに、あるいは彼自身の空想や妄想の中の人物に語りかけた言葉だったのかもしれないとも思えたのだ。つまり独り言だ。なにしろ男はまるでこちらを見ていなかったのだから。
 警察を呼んだり、救急車を呼んだり、ビルの管理人に知らせたり、と、僕の頭の中では何かしら一般的にやるべきことの数々が巡っていたのだけれど、僕はそのどれも実行には移さなかった。
 なぜ?
 なぜだろう。
 僕にも分からない。
 男の目は、まっすぐに空を見上げていた。ビルとビルの間に挟まれた狭い空を。
 僕は男に近づいて、少し距離を置いたところで立ち止まった。僕と男の間には一メートルほどの距離ができた。
「大丈夫ですか?」
 と僕は聞いた。それ以外にかける言葉が思いつかなかった。
 男は少し首を動かして、ようやく僕を見た。
「変なこと聞きやがる。これが大丈夫に見えるか? 相変わらず間が抜けてるな、お前は」
 僕は少し考えた。しかし、やはりこの男とは初対面であるはずだった。
「どこかでお会いしましたか?」
「ああ? あっち行ってもう俺のこと忘れたのか。薄情なやつだ……」
「いや、その」
「お迎えもいいが、もうちょっと待ってくれ。久しぶりにゆっくり空を見てるんだ。狭いが、青くて、深くて、いい空だ。昔を、思い出すな。お前と、よく神社でこうして並んでたっけか……」
 男は、小さく呻いた。
「見てみろよ、お前も」
 僕は言われるままに空を見上げた。男の言う通りだった。
「先に行っちまいやがって」
 男が誰かと僕を間違えていることも確かなようだ。
「なんとか言えよ」
「救急車、呼びましょうか」
「ああ?」
 男はまた僕を見た。訝しがるような、強い視線を向けられる。
「……誰だ?」
「すいません、ただの通りすがりです」
「タカシは、どこに行った? 今、そこに居ただろう」
「さっきからここに居るのは僕とあなただけですよ」
「……じゃあ、あれは幻か……俺はまだ、生きてるのか」
「僕は生きてるはずなので、多分あなたもそうでしょう」
 僕がそう言うと、男は小さくため息をついた。
「案外、俺もしぶといな」
「大丈夫ですか。血が……」
「どうせ死ぬ身だ。放っといてくれ」
「ちょっと待っててください。救急車を呼びますから」
 僕がそう言って立ち上がろうとすると、男は僕の腕を掴んで止めた。死にかけの男とは思えない力だった。
「やめろ」
 男はそう言って、反対の手で懐の中から拳銃を取り出して僕に向けた。
「余計なことは、するんじゃ、ねえ……」
 僕はとりあえずその場に腰を下ろした。こんな暗い路地裏で、訳も分からず撃たれたくはない。
「病院なんか、ごめんだ」
 男はそう言ってほんの少し力を抜いたようだった。小刻みな振幅で揺れている銃口は、不安を誘う催眠術のようだった。
 銃を構えた時の男は、野性味のあふれる危険な目つきをしてはいたが、もう次の瞬間にはその凄みも極端な落差で治まっていた。
 そうして大人しくなった男の顔を見てみると、頬はややこけているものの、若さが見え、人好きのする、好感の持てる整った顔立ちであった。急に、彼と拳銃は似合わないように思えて来た。
「この町に住んでたんですか?」
 と僕は聞いた。
「何故そう思う?」
「さっき、神社によく行った、と言ってたので」
「ああ……。そうだ。生まれて育った町だ。ここは俺の町なんだ」
「今は、違うんですか?」
「……」
「その怪我、どうしたんです?」
「いちいち五月蝿い奴だな」
「銃で脅されて動けないんですよ。質問ぐらい、いいじゃないですか。じゃなきゃ救急車呼びますよ」
「なんだそれは。脅し文句か」
「ただの軽口です」
 男は鼻をふん、とならして手にしていた拳銃を握りなおした。傷が痛むのか頬が引きつっていて、突っ張ったようなシワが彼の顔からきえる事は無かった。銃口が揺れている。
「お前、素人だよな?」
「特別な能力は何も持ってませんよ」
「…………妙に腹の据わった奴だ」
 確かに銃を突きつけられてはいものの、あまり恐怖心は感じなかった。僕は自分でも不思議だったけれど、なぜか男はこの銃を撃たないだろうと思っていた。それは多分、銃を構えた男の姿に、必死さや殺意より、もう既に何かをあきらめてしまったような雰囲気が漂っていたせいなのだと思う。
 拳銃と言えど、ただの道具だ。そう思えた。
「悪かったな。ただ、ほっといてくれればいいんだ」
 男はまた空を見上げた。というより、一度込められた力を抜いて楽な姿勢になったように見えた。銃口は僕に向けられたままだった。
 僕は大人しくその男の姿を横で見ていた。
 立ち去ってしまう事もできたはずだが、それができなかったのは、僕が男の姿に見とれてしまっていたからだろう。一見すると惨めで、悲惨さすら伺える状況に違いないのだが、その姿は僕の視線を捉えて離さなかった。
 うらやましい、と思っていたかもしれない。
 平凡な平日を淡々と消化している僕とはまるで別世界の住人。
 幼い頃に夢見たような、戦いや冒険の日々。
 僕は勝手にそんなものを想像した。
「名前を聞いてもいい?」
 僕は男に言った。
 しかし、男は数瞬まえには確かに存在していた眼光の鋭さをずいぶん失っていた。
「ああ? 何だ、タカシ」
 どうやら僕が物思いに耽りながらその姿を眺めている間に、彼はまた幻覚を見始めているようだった。
「あなたの名前は?」
「馬鹿だな、お前は」
「大丈夫ですか?」
「心配するなって」
「救急車、呼びますよ」
「俺に任せとけって」
「銃を、下ろしてください」
「うまくいくはずなんだ」
 僕は男の視界の死角からそっと手を動かして、拳銃を奪おうとしていた。
 しかし、その試みがもう少しで達成されようとするところで、男は急に僕の腕をつかみ上げた。ばれたのかと思ったが、違った。
「しっかりしろよ、タカシ」
 ものすごい力だった。腕がそのままねじ切られるのではないかと思った。力の加減を間違って発砲されるのではないかと思った。
「絶望する前に、動け」
 強い眼光が戻っていた。
「お前が俺に言ったんだ。そうだろう? タカシ。諦めるな、俺がお前を」
 男はそこまで言うと、拳銃はするりと男の手からこぼれ、地面の上に転がった。と同時に彼は気を失って僕の腕からも手を離した。
 男はがっくりと首から上を前に垂れ、手足は力なく地面に落ちていた。
 僕はしばらくその場を動かなかった。動けなかったと言った方が良いのかもしれない。男の手はすでに僕から離れていたのに、今度は何か他の別の力によって体の自由を奪われていた。
 男の胸に広がる紅い染みが僕の視線を吸い付けていた。さっきより、広がっているように思える。
 しかし。
 僕は手を伸ばして男の口と鼻の辺りに近づけた。
 息をしている。
 彼はまだ生きている。
 僕はそこでようやく立ち上がった。足下に転がっていた拳銃を拾い上げてビルの空気清浄機の排気ユニットの陰に隠し、駅前の公衆電話まで走っていって、119番を回した。一通り事情を説明すると、通報者である僕の素性を求められたが、通りすがりのものだと前置きして、偽の個人情報を伝えた。とにかくもう死にそうな感じだから、急いでくれ、と念を押して僕は電話を切った。
 数分後、救急車がやって来て、男は運び出されていった。
 僕はぱらぱらと寄り集まって来た見物人に混じって、その様子の一部始終を見ていた。まだ死んではいないらしく、僕は人知れず胸を撫で下ろしてその場を去った。
 しばらく付近を歩き回って、浜にでも寄って、それからカスミの部屋に行こう、と考え、僕は表通りを歩き出した。いつの間にか、目は眩しさになれていて、太陽の下を歩くことに苦痛を感じなくなっていた。
 あの男は助かっただろうか。
 あの男は、僕をタカシというほかの男と間違えていた。
 彼の語った言葉から考えるに、タカシは既に死んでいるのだろう。
 タカシと僕は似ているのだろうか?
「絶望する前に、動け」
 僕は通りを歩きながら、一人、呟いた。

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2009年6月20日土曜日

ひたすらモノを捨てる日々

千葉から東京に移って、もう一週間が過ぎた。
ようやくインターネットも開通し、少しずつ生活の新しいサイクルが生まれようとしている。

表題の通り、今、ひたすらモノを捨てている。
以前から考えていたことであり、先日友人からも焚き付けられた事でもあるのだが、とにかく要らないもの、邪魔なモノを排除して身軽になろう、と。
大きな家具は半分は無くなっただろうか。
テレビもいざ処分してみると大して困りはしない。
むしろ音楽に耳を傾けたり、今まで読んでいなかった本をつい手に取ったりして、部屋での過ごし方に無駄がなくていい。
服も、もう何年も着てないとか、ここ数年で二回ぐらいしか着ていない、というのが案外あとからあとから目について、その度に思い切ってゴミ箱に放り込んでいる。
本ですら、段ボール8箱分ぐらいあったのを一部売り払って、約半分にした。さすがにこれは手放せない、というのがいくつかあって、そのうちのいくつかは『処分用の段ボール』と『残す用の段ボール』のあいだを何度か行ったり来たりした。

これだけ捨てる行為を繰り返していると、今まで「何を手に入れるか」という事を考えてばかりいたのが、今は「何を捨てられるか」という風に変わって来ている。同時に、当然と言えば当然なのだけど、モノに対する執着心がどんどん無くなっていく。

そんな中で、去年使っていた手帳を何の気なしにぱらぱらと捲っていたら、初秋の頃の頁に「モノを捨てて身軽になる!」と書いてあった。そして具体的に何をするべきか、というメモも付記してある。
今やっている事が、まったくそのメモの内容と符合しているのだが、これは結局自分で考えていた事を、人に言われてようやく思い切った、という事になる訳で、自分の行動の遅さに反省せざるを得なかった。しかもいつの間にか忘れていたのが更に痛い。

今年も、年が明けたと思ったら、もう半年が過ぎる。
光陰矢の如し、とは小学生の頃に学校で知った言葉だが、日を追うごとに、日を追わなければその意味は解らないものなのだと痛感する。過ぎ去った日々の分だけ過去が質量を増して、精神の重しになっているのかもしれない。その所為で自分よりも時間の方が速くなっていると感じているのかもしれない。

引っ越し直後、部屋の三分の一の容積を閉めていた段ボールがほぼ無くなって、ようやくじっくりと机の前に座る事ができるようになって、僕はそんな事を考えたのでした。

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2009年5月29日金曜日

住所が変わる

来月中頃、住所が変わります。
ここには書きませんけど。

約10年ぶりに世田谷区民ですわ。

渋谷、下北、高円寺、巣鴨
などなど不動産を回り、
結局昔なじみの街へ戻ることになる。

すでに家具の大半を処分。
ベッド、洗濯機、テレビ、エアコンetc……
伊豆への道のりを共にした愛車、Giant を
手放したときはさすがにちょっと涙が出た。

相変わらず、人生迷走してるなあ、俺。。。

2009年5月9日土曜日

アートよ……

はてさて、天野喜孝の展示会に行ったら、腹の立つことがあった。
そこのスタッフ達がやたら売り姿勢を見せるのだ。

いくらも絵を見ていないうちに一人が話しかけてくる。
連休はどうだとか天気がどうだとか。
何の会話だこれは?
と思いつつ、まあ応えていると、終わる気配がない。
嫌な予感。
そのうち「お仕事は何を?」と聞かれて「バイトです」と言ったら、いくらかお茶を濁して何処かへ行ってしまった。
やっと落ち着いて絵が見れる、と思ったら、今度は別のおばちゃんが話しかけてくる。
しかもなんか「私は天野を理解してますのよふふふん」的な嫌な空気だ。そのうちFFからのファンは本当のファンだとか言い出した。なんかむかついてくる。
絵に集中したかったので途中から会話をシカトしたら、やっと話しかけなくなって来た。

会話の中で分かったことは、ここのスタッフ達は要するに版画を売りたいらしい。
原画を飾った細い通路の行き着く先にやたら広い版画スペースがあって、壁から離れたところに三四人掛けのテーブルが数組設置されている。そこで、どうやら「これ買え」と丁寧に進められている二人連れの女子が二組。小耳に挟んだ金額は、ン十万。なぜ?

昔からこんな奴らはいた。
特に欲しいとも思っていない者に、セールストークで売る方向に持っていこうとする奴ら。
価値が判断できない者を言いくるめるやり方だ。
これが天野喜孝の展示会で行われていることが、腹が立つ。これはもう、アーティストに対する侮辱でしかないのではないか? 天野作品は、そんなことしなくても買う奴は買うだろう!? つまり、何回も使ってる版でおいしい商売しようとしてるんだろう?

そんなことを考えながら、腹の立つまま会場を後にした。
僕の考えは間違っているだろうか。
それとも、これがアートの世界の常識なのだろうか。
なんかむしゃくしゃしたので、足の裏はあいかわらず痛かったが、さらに移動する。
定期で渋谷まで行き、そこから井の頭線に乗り換える。
僕は下北沢で降りた。
学生時代、ほとんど毎日ふらついていた街だ。

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2009年5月6日水曜日

田端。

そんな訳で神保町の翌日には田端へ行った。前日の勢いが続いている。(しかしさらにその翌日、派手に扁桃腺を腫らして寝込むことになる)
そんな訳とはどんな訳だ?
というようなことはあまりにも使い古されてもはや化石化してしまいそうな台詞ではあるが、敢えてこの自問自答の結論を下してみれば、「文士村」という単語に惹かれてしまったからだ。
そう。かつては文士村と呼ばれた土地、田端。
芥川龍之介が住んでいた街。
そんなところに住んでみたいかもしれないと思い立ち、電車を乗り継ぎ行ってみた訳だが、これがまあ何と言うか何ともしんみりとした町だった。

駅を出てすぐに文士村記念館なるものがあったりはするのだが、想像していた芥川邸跡みたいな古めかしい建物なんてどこにも無く、そうであったという場所にはその辺の街角にいくらでも見られるようなマンションがデデデンとあるばかりで、風情も趣も跡形も無い。
どうやら全部戦争で焼けたのだということらしい。
そう聞いてそりゃ仕方がないと思えれば良いのだが、偽物でもレプリカでも何でもいいから土地を保存して家屋を再現すりゃいいじゃねえかと、憤慨。頼むぜ北区。
文士村記念館で手に入れたガイドマップを片手にしばらく歩いたものの、脇道裏道好きが高じてすぐさま道に迷う。意外に緑がある。ここはどこだ。
手に入れた驚きと言えば、山手線の駅にこんな寂れた場所が存在するということか。
物件は悪くない。
しかし地味だ。
神保町は近い。
やたら坂が多い。
前日からの歩きづめでもうめっぽう足が痛くなって、大手町へ向かった。
天野喜孝の展示会に行くためだ。もう帰りたい。

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2009年5月4日月曜日

神保町歩き

半日かけて神保町を歩き回ってみた。
「なんとかここに住めないものか」
などと思ってしまったからだ。
そんなことを考えた理由は、やはり書籍密度が高いからに他ならない。
頭の中を活字で埋め尽くしながら寝て起きて、という生活がしてみたいのだが、なかなかそうはいかないので、住む場所から変えてしまえ、という訳だ。

しかしながら、予想通りと言うか、まー難しい。
風呂無しでもいいから安いのねえかと思っていたが、そんな都合のいいものは見当たらない。
不動産の軒先に貼り出されている物件情報は軒並み貸店舗だし、歩き回っていて気付いたのは、古い建物がどんどんと再開発されている姿だ。
人が住むということを前提にした土地ではないことには違いなさそうだ。
別に知ってたけどね。
一応、自分の足で確かめたということさ。

時々古本屋に入っては目につく本を手に取り、値段と財布の中身を比べて涙を呑みつつ棚に戻し、また表に出てひたすら街を縦に横にと歩いて回ったが、そのうちに尋常じゃないほど足の裏が痛みだした。
なれない靴の所為もあったが、それにしても頭痛がするほど痛みが響く。
時計を見たらもう五時間は歩き続けていた。
時間を忘れるにもほどがある。
それともこれは単なる体力の低下でしょうか?

ちまちまと写真を撮ったが、もっといろいろと撮れば良かった。
地図しか売ってない店とか演劇専門の店とかさくらホテルとか商店街の裏道に突如現れるきれいな一軒家とか、挙げるとけっこうきりがない。
またいずれ。

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2009年1月9日金曜日

change the world

「世界を変えたいんだ」
少年は小さな声で、しかしはっきりと、そう言った。
彼は僕の隣に座り、少しうつむいて地面を見ているように見えた。
僕は聞いた。
「どんな風に?」
「それは……」
少年は一度跳ねるように顔を上げたものの、言葉を探りあぐねたのか、また元の姿勢に戻ってしまった。
少年はそのまま深い沈黙の泉に身を沈め、目の前の虚空に潜む無限の奥行きに視線を向けた。
少年はしばらくそのまま固まってしまった。
僕は試しに少年の目の前に手をかざしてひらひらと振ってみたが、彼は彫像のようにその場に固定され、動く自由を放棄してしまったかのように一ミリも反応しなかった。
話の流れから考えれば、彼は今、適切な言葉を探し出そうとしているのだろう。
自分がどういう風に世界を変えたいのかについて。
あるいはその動機について。
はたまた生まれ変わった後の世界の価値について。
僕は待った。
彫像と化した少年は、そのまま長いあいだ沈黙を保った。
その間、二匹の蠅と一匹の蝶が彼の頭や肩に止まり、しばらくすると飛び去った。穏やかな風が彼の前髪を揺らし、雲の作る陰が何度か太陽の光を遮った。
日差しは非常に強く、刺すような痛みすら感じたが、少年は全く汗をかかなかった。僕は暑さにじっとしている事ができず、何度か手で首筋や顔を扇ぎ、少年に対しても同じようにしてみたのだが、少年は涼しい顔を崩さなかった。いや、それは涼しいというよりも、冷気すら感じさせる表情だった。ここに自分が居る事も、世界が存在している事も、今の彼にとってはまるで意味をなさない事のように見えた。
彼は遠い遠い異次元の世界に旅立ったまま、なかなか戻って来なかった。
凶暴なスズメバチが飛んで来て、僕が慌てふためいてその場を離れた時も、彼は微動だにしなかった。
やがて何度目かの風が彼のまつげに触れた頃、彼ははたはたと数回瞬きをして、この世界に帰って来た。
彼は無言のままに空を見上げ、深いため息をついた。長い長いため息だった。肺の中にあるものをすべて出し切ろうとしているかのようなため息だった。
「やあ」
と僕が声をかけると、少年はさわやかな微笑みを浮かべて僕を見た。それは知人の存在に気づいたというよりは、見慣れた風景を見ているような顔だった。
「大丈夫かい?」
と僕が聞くと、
「はい」
と少年は答えた。
「久しぶり、という感じがするよ」
と僕は少年に言った。本当にそう思ったからだ。
「すみません。物思いに沈んでしまって」
「いいさ」
「たまにあるんです。こういう事が。周りが見えなくなって、ひたすら自分の内面に入り込んでしまうんだ」
「何を考えていたの?」
「それが……思い出せない」
「思い出せない?」
「そう。何も思い出せない」
「君が変えるべき世界について考えていたのではないのかい?」
「そう。そのはずだった。でも……途中から僕はどこかへ行ってしまった」
「どこへ行っていたのか分からないのかい?」
少年はゆっくりと僕を見上げた。
「分からないんですよ。それが分かれば、僕はもう少し楽に生きていけるという気がするんだけれど」
僕はしばらく間を置いて彼の横顔を眺めていた。それは、そのまま消えてしまいそうなほど透明な雰囲気を宿していた。
「世界の事はいいのかい?」
僕は聞いた。
「もちろん、変えますよ」
少年は、何でもない事のようにそう答えた。


陽が暮れかけていた。
僕らはお互いに沈黙を守りながら、水平線の彼方に埋没していくオレンジ色の球体を見守っていた。
渡り鳥の小さな群れが視界を横切り、甲高い鳴き声を上げた。
遠くで女の人の声が響いた。どうやら家に戻らない子供を捜しているようだ。その声に応じるように、どこかで犬が吠えた。それに反応してまた別の犬が別の場所で吠えた。
海岸線を走っていた車がエンジンの音を残し、岬の向こうに消えた。
「帰らなきゃ」
少年が言った。
また子供を呼ぶ女の声が聞こえた。
「あれ、母なんです」
少年はそう言って大人びた仕草をした。しかし、その一連の動作は、僕にはかえって彼が本来持っているあどけなさを浮き彫りにしたように思えた。
少年が行ってしまった後も、僕はしばらくその場所に残って、そう遠くない未来に成長した少年が変えていく世界の事を思った。



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