2009年8月14日金曜日

汗にまつわる一つの人生と科学の発展について

 差し出された名刺は、何だかびしょびしょに濡れていた。
 搾ればボタボタと水が落とせそうだな、と私は思ったが、まさか本当にそうする訳にも行かない。それは失礼というものだ。
 男は多古田康夫と名乗った。
 多古田は痩せた外見に似合わず、次から次へと毛穴という毛穴からだくだくと汗を流し続けていた。季節は夏で、夏のど真ん中で、確かに気温は高かったものの、我々の居るこの部屋の中はばっちりと空調が効いていて、暑苦しさとは無縁の世界に位置しているはずだった。
 しかし、多古田は違った。
 ひっきりなしに流れ出る汗を、ハンカチでは事足りないと自覚しているからなのか、几帳面に折り畳まれた厚めのフェイスタオルで何度も何度も拭っていた。そのうち脱水症状を起こしておもむろにバタリと倒れてしまうのではないだろうかと思われた。
 私は失礼にならない程度の所作を気にしつつも、指先だけでその名刺を受け取った。指先には想像通り、しっとりとした湿り気が感じられた。
 見れば見るほど不思議な光景だった。
 多古田の頭髪は薄く、それを隠すように七三分けが横に流れていた。隣に置かれた鞄の側に軽く折り畳まれた上着には、アイロンがけを怠った感じのごわごわとした凹凸が見られた。ワイシャツは汗でぴったりと肌に張り付き、それによって露になった体のラインは、貧相な肉体を露呈していた。顔には控えめな営業スマイルが九月のクラゲのように漂い、口元は口角が微妙に上がりきらない位置で止まっている。彼の右手には折り畳まれたフェイスタオルが握られてはいたが、軽く搾っただけでも水滴が滴り落ちるのではないかと思った。そして靴が大きい。今はテーブルの下に隠れてしまって見えないが、明らかに本来の足のサイズよりもふたまわり以上大きなサイズを履いている。部屋に入ってくる時に聞いた彼の足音は、水が入ってしまったぶかぶかのゴム長靴のそれと酷似していた。
「暑いですねぇ」
 と多古田は言った。タオルでまた汗を拭った。
 私は自分のこめかみのあたりに流れる汗の存在に気付いた。
 欠伸みたいに、汗も伝染するという事なのか?
 お茶を運んで来た女性職員の梓さんがちらりと多古田に視線を放ち、わずかに躊躇いを見せたあと、テーブルの上に二つの湯呑みを並べた。彼女のこめかみにも一筋の汗が流れていた。二つの湯呑みからは仄かな熱波が感じられた。彼女の躊躇いの原因はこれに違いない。梓さんは普段からとても気のつく女性だ。珍妙な珍客に対してどのような配慮を示すべきか、普段通りにするべきか、敢えて冷たいお茶を用意すべきか迷ったに違いない。何かしらの思考的混乱を迎えたあと、いつも通りのあったかいお茶が出て来たという所だろう。
「今年の夏は、猛暑と言われてますからねえ」
 と私は多古田の言葉を受けて言った。
「それで、今日はどう言ったご用件で?」
「ええ。単刀直入に申しまして、弊社の空調設備のご購入を検討いただきたく、参りました。実はさる筋の方からお話を伺いまして、どうもこちらのビルで耐用年数を大幅に越えてしまった設備を一斉に新調しようと言うご計画がおありだとか」
「それは事実ですが、いったい誰からその話を?」
「○○ビルのオーナーである新城さんです」
 多古田の出した名前は私の知人だった。確かに面識はあるが、狡猾を人生訓としているような男で、あまり関わり合いを持たないようにしている為、親しい訳ではない。だが、町内会の会合の席で、設備投資についての話を確かに交わした記憶がある。あの男の事だ。この不可解な汗まみれの男を前にして、体のいい厄介払いを押し付けたに違いない。不必要なまでに警戒心の強い男なのだ。不可思議なものは追い返せ、とでも思ったか。
「なるほど。それで、空調設備について、とおっしゃいましたが、具体的には?」
「弊社で開発致しました、これまでのものとは全く異なる技術を使ったエアコンです」
 そう言って、多古田はまたタオルで汗を拭った。
 私は幻惑されたような気分になった。訳も無く汗を流し続けるような男がエアコンの営業をしているのだ。何かの間違いじゃないのか?
「弊社はまだまだ業界では弱小企業と言わざるを得ません。しかしながら社員一同一丸となって地道な開発研究を辛抱強く続けて参りました。そしてこの度、絶対の自信を持ってお客様にお勧めできる商品の開発に成功したのです」
 そこで多古田は一度話を切って、テーブルの上のお茶に手を伸ばした。そしてぐっと力を込めて熱いお茶をのどに通した。
「これはおいしいお茶ですね。私どもの会社もこのような良いお茶を常に用意しておきたいものです。それに熱い。熱いお茶は好きなんです。でもどこへ行っても冷たいお茶が出てくるんです。まあ、仕方の無い事かもしれませんが。いやあ、熱い。これはいい」
 そう言いながら多古田は湯呑みを空にした。
 もう、こっちは見ているだけで暑い。
「多古田さん、お話は分かります。御社も大変な苦労をされて新製品の開発に漕ぎ着けられたのでしょう。しかし、こういっては何ですが、それは他の企業でも同じ事ではありませんか? 大手でも、弱小でも、同じ事でしょう。それに、確かに最近のエアコンは様々な新しい技術や便利な機能などが付加されていて、それが製品の魅力でもある。しかしですね、嫌なことを言ってしまうかもしれませんが、そう言ったものは私にとってはさほど重要じゃないんです。私にとって重要な事は、私のビルではたらく人々の健康を守れること。そして快適な労働環境を提供できる事です。付加価値はさほど重要じゃないんです。そりゃあ、目新しいものは、話題の種にはなりますがね」
 私はなるべくやわらかい語調になるよう意識して話した。多古田の得体の知れなさが、私にそうさせていた。私はお茶のお代わりを梓さんに頼んだ。彼女は即座に行動に移った。
「おっしゃられる事はよくわかります」
 と多古田は言った。
「よくわかります」
 何度も頷きながら、多古田は自分の言葉を繰り返した。そして新しく注がれたお茶の入った湯呑みを手に取り、両手で包むようにして、その中の小さな水面をじっと見つめていた。
 私は多古田の言葉を待ってみたが、なかなかその後は続かなかった。お茶の水面に映し出された自分の過去の記憶を振り返っているかのように、彼は深い深い沈黙の海に沈んでしまっていた。
 後になって考えてみれば、それは多古田の戦略だったのかもしれない。きっと彼は私が話しだすのを待っていたのだ。
 私は沈黙に業を煮やして口を開いた。
「では、私の話をふまえた上で、御社の製品を購入する事で得られるメリットとは、何ですか? 他社製品に比べて、御社の製品が優れている点とは、何ですか?」
 私がそう聞くと、多古田はお茶に口を付ける事無く湯呑みをテーブルに戻し、背筋を伸ばした。
「私の汗が止まります」
 と多古田は言った。
 その言葉の後には形容のし難い沈黙が続いた。
 その静寂がその場の全員の体に深々と染み渡った頃、私は思わず
「嘘でしょう?」
 と言っていた。果てしなく失礼な発言であるにも拘らず。
「お気持ちは分かりますが、ほんとうです。弊社の開発したエアコンが効いている部屋の中でだけ、私のこの止めどない汗は止まるのです。と言うより、我が社の製品は、それを目的として、いや、目標として開発されたのです」
「それは……はあ、なるほどと言うか、いやあ」
 私はどう応えて良いものか分からなくなってしまっていた。思わず梓さんの方を振り返ってみたが、彼女は真剣なまなざしで虚空を睨みつけていた。
 私は気を取り直して多古田に聞いた。
「あの、御社で開発された技術とは、いったいどのようなものなのですか? さしさわり無ければ聞かせていただきたいのですが」
「もちろんです。ただ、企業秘密に関わる部分の詳細についてはお話し致しかねます。どちらにしろその辺はえらく専門的な部分なので、わたしもよくわからんのですが、大雑把に言うと、波動です」
「波動」
「はい。波動です。波です」
「波動が?」
「話すと長くなりますが、どうやら私のこの体質は、私の体内に流れる特殊な波動によるものらしいのです。これは様々な研究機関が私の体をいじくり回した結果、分かった事です。非常に信用の於ける機関です。これはまず間違いありません。
 しかしながら、その原因は何かとなると、分からない。これは誰にも分からなかった。一応、突然変異ではないか、と言う事で結論とされていますが、そんなもの、何も解決してくれはしません。研究が行き詰まりを見せた頃、一部の研究者達が集まって、実際的な問題の解決について動き出したのです。つまり、私の汗の出る原因を突き止める研究から、私の汗を止める研究にシフトしていったのです」
 その後の話を要約すると(多古田の話は分かりやすかったが、いささか冗長に過ぎたし何より本当に長かった)、どうやらその汗を止めようと言う技術が一般的に言っても体内の代謝機能や体温調節やその他もろもろの健康環境に好影響をもたらす事が分かり、それならいっそ製品化してしまおうと言う流れになったらしい。つまるところのその技術の鍵となっているのが
「波動なのです」
 と言う事だ。
「世界は波動に満ちています。以前は完全な無と考えられていた真空の中にさえ、波動は存在します。まして、我々人類が生活するこの地上ではなおさらです。ミクロの視点で見れば、我々人類は止めどない激流の中を生きているのです。
 私は偶然にもその影響を強く受けてしまう体を持ってこの世界に産み落とされました。この体を忌み嫌った事もありますが、この体が新しい技術を導く鍵にもなったのです。私は、今は、それを誇りに思えます。これが私の使命だったのだとさえ思う事ができます。
 今、世界中で多くの波動研究がなされています。様々な分野、様々な視点、様々な対象……この世界は膨大です。まだまだ未開の地が膨大に広がっていて、その分可能性も無限にあると言えますが、そこで何かを手にしたものはまだまだ一握りです。そう言う世界なのです。
 そして、我が社はその一端をコントロールする術を手にしています。一握りにも満たない、ひとつまみ程度かもしれない。しかし、大きな一歩を先に歩いています。どうですか。我々と一緒に、未来の先端に、立ってみようとは思いませんか?」
 多古田がそう言って話を終えたとき、私はすでに言葉を失っていた。発言すべき何ごとも思いつかなかった。
 後日、実際に多古田の会社を訪れて、その新技術を採用したエアコンの効いた部屋の中で暫くのあいだ多古田と話をした。
 確かに、その部屋の中で彼の汗は見る見る間に退いていった。多古田はそこで「ちょっと失礼」と言って仕切りの向こうに姿を隠し、乾いたスーツに着替えて出て来た。靴もぴったりとしたサイズに替えていた。汗をかいていない多古田は、どう見ても普通のサラリーマンにしか見えなかった。
 そして私は今、自分のオフィスのデスクで考えている。
 一応回答を保留にさせてもらった上で預かった契約書を目の前に置き、判子を押すべきかどうか躊躇っている。
 何だか大掛かりなペテンにかかっているような気分が、どうしても消えてくれないのだ。



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