「ともかく、君はここから元の世界に戻るんだ」
(あの鏡に吸い込まれて行くのかな)
僕はそう言ってその部屋の鏡ばりの天井に目を向けた。
「あれはただの鏡だよ」
影はそう言いながら部屋の中央に移動した。天井の鏡に映された姿には、影は僕と同じ平面の中で繋がっているように見えた。
「ふう」と、影がため息をついた。
(どうしたんだ?)
「鏡は苦手なんだ」
(そう言えば君、なんだか色が薄くなってないか)
「そうかい?」
(影が薄いとはこの事だな)
「君の軽口だけはどうやらこんなときも直らないらしいね。あっちの世界でも普段からそうしてなよ」
(いつもの僕はどうしてるんだろう)
「考え過ぎのところはあるみたいだな。まあいい。いろいろ話したい事はあるけど、やっぱり時間がない。僕はこの部屋ではどんどん力が弱っていくし、君の記憶もずいぶん危うくなって来てる」
(この部屋に来てからけっこう楽になって来たんだけど)
「この部屋に来たから楽になったんだ。その代わり僕は力を失う。でもこれでいいんだ。影というのは本来、沈黙しているものだからね」
(でも…)
僕がまだ何かいおうとすると、影はキッと僕を睨んだ。一瞬、影の中でそれまで閉じていた目が開かれた気がして、僕はその雰囲気に押されて口をつぐんだ。
「君は物事を自分で複雑にし過ぎるところがある。もっと、感じたままに理解すればいいと思うよ」
感じたままに理解する、と、僕は口の中で影の言葉を繰り返した。
「じゃあ、そのまま天井に映った自分の姿を見て。自分と目を合わせるんだ」
さっきのセリフをもう一回口の中で繰り返して、僕は影の言葉に従った。
僕は鏡の中の自分の姿をまっすぐに見た。僕はそこに懐かしさを感じた。その行為はきっと今までずっと繰り返してきたものに違いなく、自分を見つめる目の奥に吸い込まれて背中が浮いて行くような感覚があった。
(ねえ、僕はこのまま行っちゃうのか?)
「そうだよ」
(君はどうなるんだ)
「ただの影に戻るだけさ」
(そうなったら、もう話せないのか)
「ああ」
(なんだかすごく寂しい気持ちがする)
「そう悲観したものでもないさ。例えお互いが別れを望んだとしても、僕らの縁は誰にも切る事が出来ない。太陽と、ブラックホールがある限り」
(そういうものか)
「そういうものさ」
(でも不安だ。なんだか怖くて眠れないよ)
「それでいい。その調子だ。君の背中の後ろの、ずうっと後方にあるはずの太陽の事を考えるんだ。この星の中心で、光り輝く球体が君を後押ししているという事をイメージするといい」
じんわりと、ゆるやかな波が砂浜に打ち付けてくるように、僕の意識はその世界から遠のいていった。そのとき僕が感じた世界の姿は、光でも闇でもなく、ましてやグレーでもない。音も色も無く、それでいて全てが余すところ無くあたたかい水に満たされているような、あらゆる束縛から解放された場所だった。
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