とうとう車を買ってしまった。
前々から考えてはいたのだけれど、なかなか手を出せないでいたのだ。
何故今になって購入へ踏み切ったかと言うと、自分でもよくわからない。
ある休日にふと衝動的な気分が自分を襲ってその足でカーディラーヘ行き、
その2時間後にはもう納車の日取りを話し合っていた。
今までそれを避けていたのにはそれなりの理由がある。
自分が信用できないのだ。
ガソリンを入れアクセルを吹かせば、陸が繋がる限りどこへでも行けてしまう。
そうなれば私はどこかへ行ってしまう。
きっとそうしてしまう。
そう言う懸念がずっと頭の中にあったのだ。
それは心配の種でもあったが同時に強烈な誘惑でもあった。
一カ所にじっとしているのがどうしても耐えられない質だと言う訳ではない。
私は失踪と言う行為に憧れを抱いているのだ。
自分の関わる社会や人々、住んでいる土地や行きつけの店、
そういったあらゆる日常的なもの全てを背中の方へ押しやりかかとで蹴り出して、
独立した一つの存在として旅立つ事を、私は胸の張り裂ける思いで望み続けていた。
だからこそ、自家用車と言う力強い移動手段は私にとっては危険なものだったのだ。
これでいつでも失踪できる。
その事実は不思議な安心感を私の心に植え付けた。
そのおかげで私のうちなる欲望は日の目を見ずに済んでいる。
でも私は感じているのだ。
内に秘められるからこそ、欲望のマグマは地底で深く力を溜め、
今や今かと噴火の瞬間を待ち望んでいる事を。
自分は何故そのような飢えを抱くに至ったのだろう?
私には妻も居るし子供も二人居る。
家庭内の人間関係ははすこぶる円満で、その生活には何の不満も無い。
出来ればこの幸せを永遠に保ち続けたいと思う。
世間一般に照らしてみても、私の家庭のように何もかもが幸福に満ちているような家はそうはあるまい。
なのに何故。
私は疲れているのだろうか。
幸せを感じる心の裏でふとした隙に、自分が突如この世間から姿を隠す事を考える。
そしてその夢想は次々に拡大し、私は別の街で新しい生活を始め、名前も変える。
寝食を共に出来るような女性を捜し、彼女の家を新しい住まいとする。
車はどこか適当なところに止めておいて、秘密を抱えたままそれなりに幸せな生活を送る。
そして新しい幸福に包まれた生活を投げ出し、また当ての無い失踪の旅に出る。
まるで失われた記憶を突然取り戻したように、その衝動はやってくる。
私には逆らう術がわからない。今はただ、耐えているだけだ。
一度でもこの秘めたる思いに従ってしまえば、二度と逆らえまい。
休日のガレージで、家族サービスを終えた後の愛車の汚れをホースから水を飛ばして洗った後、
幸福に包まれた食卓で家族との団らんを楽しみながら、私の頭には失踪への思いが渦巻いていた。
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