その建築物は、きちんとした計画の上で整然と組み上げられたものだという感じがあまりしなかった。むしろ、新館と旧館の構造が複雑な迷路のようになってしまった温泉宿のように、後から後からそれぞれ別の人間がその都度新しい部分を付け足していったような印象を受けた。
影はしばらく一言も話さず、身動きもしなかった。僕の疲れを取るためにはそれが一番良いという事だ。
僕は影のいう事に大人しくしたがっていた。反論する体力すら惜しいほど疲れてしまったのだ。確かに影が動きを止めると、幾分か僕の体力は回復して行くように感じられた。
影は僕が元の世界に戻らなければならないと言うが、僕にとってそんな事はどうでも良い事だった。もうどうなったっていい。このまま疲れ果てて、この闇が支配する世界で重力に満ちた空へ吸い込まれて行ったところで、いったい何が問題だというんだ?誰も困りゃしないし、例え死んでしまったところで、しばらくすれば人ひとりの死など、簡単に忘れ去られてしまう。
「なあ、あんまり悪い事考えるなよ」
影はまるで僕の考えなぞ全てお見通しだぞ、という風に僕の貧弱になってしまった思考を遮った。
「今は元の世界に戻る事だけを考えるんだ」
(どうしても戻らなくちゃいけないのかな)
「またそんなことを言う」
(僕はもう、このままでもいいという気がしてるんだけど)
「…そろそろ動いた方がいいみたいだな。休憩は終わり」
そう言って影は立ち上がった。僕は逆らいようも無い。
影は僕を形の歪な建物の中へと連れて行く。中もやはりグレーな感じだ。影は今度は慎重にスピードを押さえて進んでいるようだ。僕の体力に気を遣ってくれているのだろう。考えてみれば、僕の影は僕の一部分でもあるはずで、だとすればこんなに人を心配したり気遣ったりする神経が僕の中にも存在するという事になるのだろうか。僕自身、それはとても意外な事のように思えた。そんな自分を感じた事が今までにあっただろうか?
僕は記憶を辿ろうとしてみたが、うまくいかなかった。過去をさかのぼろうとすると急に頭の中のイメージは薄れ、ぼんやりとした靄の中に不明瞭な輪郭の色彩が入り交じり、記憶の根源に辿り着かない。そう言えば、さっき影が「記憶が失われている」と言っていた気がする。確かにその通りなのかも知れない。僕は昔の事を思い出すどころか、考える事すらおっくうになっている。この世界の中で、考える事以外ほとんど何も出来ないというのに。
「ここだ」
影はそう言って立ち止まると、広い部屋の中へ移動した。
(なんだい?)
「ここは君のような迷子のために造られた場所さ」
部屋の天井には懐かしいものがあった。鏡だ。この部屋の天井は全て鏡で出来ているみたいだ。僕は久しぶりに自分の姿を見た。堅い床に描かれた輪郭の中に、僕が映っている。
(ちょっと色褪せてないか?)
「その通りだ。もう幾分君は光を吸い取られてしまった」
僕は鏡の中の自分を見て、少し複雑な気分になった。こんなイメージで自分存在が消えて行く事は想像してなかった。灰色の床の中に沈んで行くみたいに見える。僕は初めて、この世界に抵抗を覚えた。
(ちょっと聞きたいんだけど、君はここに来たのは初めてだって言ってなかったっけ?)
「ああ」
(なのになぜこんなにこの世界の事について詳しいんだい?)
「僕は君の影として光の世界の中に居たけれど、常にこことは繋がっていた。特に意識をしていた訳じゃないけど、僕という存在の中心にいつもこの世界の事を感じていたんだ」
(それは、記憶のようなもの?)
「似ているけど、違うと思う。もっと、抽象的で、原初的なものだよ」
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