何度扉を開いても、その部屋からは出られなかった。
一つ扉を開けばその向こうにまた扉があり、どこまで扉を開いていっても同じ部屋が続くばかりだった。
その部屋にはちょっと一休みするのには最適、といったものが揃っていた。
コーヒーメーカー、ゆったりと腰の落ち着きそうなソファー、結構本格的な雰囲気のオーディオセット、その他諸々。
一言で言えば、趣味の洗練された個人用のリビングだ。
なんでこんな事になったのだろう。
確か僕は仕事の合間にちょっとこっそり休憩しようと、あまり普段は寄り付かない資料室に潜り込んで隠れてタバコを吸おうとしたのだ。
別にタバコを吸うぐらい、喫煙室へ行けば良いだけの話なのだが、なんだかあの空間がどうしても好きになれない。それに、昔から隠れてタバコを吸うのが習性のようになっていて、やめられない、と言うのもある。
ところがその資料室は、僕の思っていたような場所ではなかった。中に入った瞬間に部屋に漂うきつめの甘い香りが鼻腔に潜り込んで来て、僕は少し面食らったが、次の習慣目にしたこの部屋の風景に半ば呆然としてしまった。
(これは資料室どころか休憩のための部屋だ)
僕は足を踏み入れ、いかにも気持ちの良さそうなソファーで一服いただいてしまった。
テーブルの上のリモコンでコンポを操作してCDを起動させると、どこかで聴いたようなジャズが流れて来た。僕はジャズはあまり詳しくないが、聴いているのは好きな方だ。特に、このようなリラックスできる空間で聴くジャズは身に染みるものだと思っている。
ちょっとサボるつもりが意外な快適空間を満喫してしまった所で、僕はさらに調子に乗ってコーヒーを煎れ始めた。
あんまりゆっくりしちゃうと良くないなあ、と思いつつも僕はすでにこの空間が醸し出す誘惑に負けていた。
ソファーに戻ってコーヒーを一口飲んだ所で、部屋の反対側のドアに気付いた。
(あんなドア、さっきあったっけな……?)
僕は不思議に思いつつ、コーヒーカップを持ったまま、その扉を開いた。そして抜け出せなくなったのだ。
同じ部屋が続いている。
僕は何がなんだか判らずに扉を開き続けた。何の変哲も無い日常からいきなりこのような異常な状況に置かれた人間は、判断力と言うものを失うらしい。僕は何かに取り憑かれたように次々と同じドアを開けていった。コーヒーカップを持ったまま。
僕はコーヒーを飲み干すと言う事すら考えの中から消えていた。もう十数回も扉を開いたのではないかと思った辺りで僕の足は一瞬ふらつき、その表紙にコーヒーがカップからはねて、僕のシャツにかかってしまった。残り少なくなったカップの中のコーヒーに口を付けると、冷たい味がした。そこで僕は初めて自分を見直す事が出来た。
そうだ。入って来たドアから出れば良いんだ。
僕は部屋に入って来たドアを一度しっかりと閉め、表に「資料室」と書かれているはずの廊下に面したドアを想像した。
そして目を閉じて扉を開き、また目を開けるとそこは元の会社の廊下だった。
僕の背後でバタンと扉のしまる音がした。振り返るとそこには「資料室」の扉があった。中をのぞくと、それはどこにでもある極めて一般的な資料室の風景だった。そして僕の手からはいつの間にかコーヒーカップも無くなっていた。
(一体あれは何だったのだろう?)
カップから飛び出したコーヒーの染みはシャツについたままだった。
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