奈々子は一番手前にあった錆び付いたママチャリを靴のかかとを使って思い切り蹴り飛ばした。
「なんだよこれ」
駅前の線路脇の小道には、「駐輪禁止」の看板の前に、山のように自転車が重ねられ、自転車の上にまた別の自転車が積み上げられている状態だった。
毎日の光景だから、別に珍しいという事ではない。いつもは徒歩で駅に通う奈々子だったが、この日は朝遅刻しそうになってやむなく自転車を使ったのだ。そして、やはり急いでいたため看板の目の前に自転車を止めたのだが、それが失敗だった。まるで看板の語句に対する集団的な挑発行為のように、その場所に自転車が集中している。
奈々子は腕組みをしてどうしたものかと考えた。この山のかなり奥の方に奈々子の自転車が埋もれているはずだ。
「ママ、気持ち悪い」
電車に乗ってしばらくすると、沙耶はしゃがみ込んでしまった。電車の中は満員で、座席は全て埋まっているし、立っている乗客も多い。律子は沙耶の肩に手を添えて沙耶の顔を覗き込んだ。
「だいじょうぶ?」
「気持ち悪い」
「吐きそう?」
沙耶は首を振った。
律子は周りの人間達の足元の邪魔になる事を注意しながらも、沙耶の隣りに自分もしゃがみこんだ。沙耶の顔色を確かめる。少し顔色が悪いかも知れない。ちょっと歩きすぎたのかもしれない。沙耶の通う幼稚園が創立記念日で休みだったので、友達の園児の母子と一緒に遊園地で一日遊び回ったのだが、昼前に遊園地に着いた時から沙耶も友達の子もちょっとはしゃぎ過ぎだと思っていた。
体力の限界を超えて走り過ぎたのだろう。沙耶の顔がみるみる曇って行く。
(誰か席を譲ってくれないかな)
律子はそう思って、ちらりと座席の方を見た。サラリーマン風の中年の男と一瞬目が合ったが、彼はすぐに目をそらして俯いてしまった。律子は思わず舌打ちしそうになったが、堪えた。
(まあ、みんな疲れているんでしょうけど)
「沙耶、ちょっと反対側向いて」
律子はしゃがみ込んだまま沙耶の背中を自分に向けて、膝の上に座らせて後から沙耶の体を支えるようにした。
「ちょっとは楽になった?」
うん、という声もほとんど聞こえないくらいだが、沙耶は首を縦に動かした。
律子は沙耶の負担にならないように気を遣いながらも、自分の娘をしっかりと抱きしめた。
駅前では奈々子が自転車の山を掘り起こしているところだった。傍目にはセーラー服を着て華奢に見える奈々子が、陸上部で鍛えた腕力で次々と放置自転車を右へ左へと放り投げて行く様に、通行人の何人かが時々足を止めて魅入っていた。奈々子はそれに気付くと意図的にそっちの方に自転車を放り投げて睨みを利かせた。
そうやって、なんとかかんとか障害を排除し、見慣れた愛車を救い出す事が出来た。
「ごめんよ、あんなとこに閉じ込めて」
奈々子は自分の愛車に語りかけながら傷が無いかチェックしてみたが、どうやら無事なようだ。後で奇麗にしてあげよう。
「奈々子」
後から声をかけられて、振り向くと沙耶を抱きかかえた律子が居た。
「あらお母さん。おかえり」
「これ、どうしたの」
律子は奈々子の周囲に散乱している自転車を眺め回して言った。
「え?これ?なんだろうね、知らないけど。沙耶、寝ちゃったの?」
「電車で気分悪くなっちゃったのよ。遊び過ぎたんだと思うけど」
「そうかあ。やっぱり若いねえ」
「何言ってんのよ」
「じゃあさ、車こない道通るから、後に乗って行きなよ。三人乗りしよ」
「危ないわよそんなの」
「だいじょうぶだって、鍛えてるんだから」
律子は何となく、また周りの自転車を眺めてしまった。
「やっぱりだめよ。危ないから」
「信用無いなあ」
「そう言う問題じゃないでしょ」
「じゃあ、沙耶と自転車、取り替えっこね」
奈々子は沙耶を抱っこして、律子は自転車を押して歩き出した。
「お父さん。今日は早いの?」
「さあねえ。ま、電話来るでしょ」
親子はのんびりとした足取りで線路沿いの道を我が家へと向かって行った。
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