床に落ちていた鏡の破片の中に映った自分の顔はどこから見てもキリンである。変わり果てた自分の顔を見つめて僕はしばし途方に暮れた。
つかの間の、現実逃避。
僕はキリンになってしまった自分の足をそっと持ち上げて、自分が踏みつぶしてしまったものを確かめた。
粉々になってしまった携帯電話が、床の上で力なく息絶えてしまっている。その姿は僕の体に起こった異変がこれから先に呼び起こすであろう数々の困難を象徴しているように思われた。僕は泣きたくなったけれど、キリンがどのようにして泣くのか分からなかった。キリンが泣いている姿など、生まれてこのかた見た事無い。そんな事を考えたせいで泣きたい気持ちも薄れてしまった。混乱が余計に深まりそうな気配を見せた次の瞬間、僕の思考回路は驚くべき速さで切り替わった。
(サキに会いに行こう)
とにかく、このままここでうろうろしていたら、自分も気付かないうちに頭がおかしくなってしまう。そして自我は崩壊し、僕の中の本能がキリンの野性と結びついて、本当に心の底までキリンになってしまうかも知れない。そうしたら僕はもう、サキの事さえ思い出せないかも知れない。
僕はデスクの上に置いておいた箱を見た。その中身は僕が今日彼女に渡すはずの婚約指輪だ。間違っても、粉々に踏みつぶした携帯の二の舞は踏めないと思って、僕はそれを箱ごと口でくわえた。そして狭い部屋いっぱいに拡大してしまったキリンの体をどうにかこうにか動かして、玄関の扉を正面に据えた。
手は使えない、足もろくに伸ばせない。顔から突っ込んでドアを突破するしか無い。
後ろを向いて足でドアを蹴破ると言う考えが、何故かその時は起こらなかった。僕がまだ、この体の使い方をまるで理解していなかったからだろう。とにかく僕は腹を決めて、勢いまかせにダッシュした。
一度のアタックで、ドアはあっさり弾け飛んだ。それでもやはり顔面からいった訳だから、鼻と歯を痛打した。僕はモゴモゴと口を動かして指輪の箱が無事かどうか確かめたが、奇跡的におかしなところは無いようだ。
歯と鼻が痛くて泣きそうだ。ああ、僕は今泣いているかも知れない。
この部屋がアパートの二階で良かった。これが高層マンションの最上階だったりしたら、地上に降りるのにどれほど時間がかかるだろう?ともかく僕が部屋の外に出ると、すぐ横に下の階の部屋に住むおばちゃんが突っ立っていた。まるまると広がった目で僕を見上げている。
あんまりドタバタとこの巨体で転んだりもがいたりしてしまったから、文句を言いに来ていたのかも知れない。
おばちゃんは口をぱくぱくさせていて、何か言いたいはずなのに言葉がどこかへ消えてしまったみたいだ。
とにかく、そこにいられたら邪魔だ。僕は行かねばならないのだ。
僕は指輪の箱をくわえた歯を剥き出しておばちゃんの目前に突き付けた。おばちゃんは軽い悲鳴を上げて逃げ出した。その後ろ姿を見て
(ああ、これで本当に騒ぎになってしまう)
と僕は思った。もう後には戻れない。
僕はたった今、平和な住宅街に突如として現れた身元不明のキリンとして扱われるであろう存在となったのだ。
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