眠れなくて888匹目の羊を数えようとしたとき、その羊は柵を越えられずに足を引っかけ、僕の方に向かってもんどりうって倒れてきた。僕は驚きのあまり眠る事すら忘れて羊の様子を窺った。
「おい、だいじょうぶか?」
「ああん、もう。やっちゃったよぉ」
羊は幼い子供に特有のちょっと鼻にかかったような甲高い声をあげて自らの不幸をののしった。
「血が出てるじゃないか」
僕は羊の膝の辺りににじんでいた血を見て、けがの様子を見ようと近寄ろうとしてみたが何故か前に進めなかった。
何も見えない目の前の空間に、分厚い密度の空気が柔らかい壁をつくっているみたいだ。
「だめだめ、入ってきちゃダメだよ。ここは羊しか入れないの」
「でも、痛そうだよ。他の羊はいないのかい」
僕は辺りを見回してみたが、不思議な事に羊の牧場だと思っていた場所は目の前のほんの小さな空間に限られていて、887匹めまでの羊がきちんと飛び越えていた柵の周辺以外は暗い靄がかかったようになっていた。考えてみれば羊を数えるときは柵と羊以外の牧場の様子などはまったく考えた事がなかったので、それは気付かなかっただけで今までずっとこうだったのだろう。
「ここは言ってみれば舞台の上だから、他の皆は手出しできないんだよ。余程の事じゃない限り」
「そのけがは、余程のうちには入らないのかな?」
「けががどうこう言うよりは、そもそも他の皆には見えてないんだ。ここは特別な場所だから」
「そうなのかい?」
「人間の眠りの入り口が、ぼくら羊の世界と一瞬だけコンタクトを取れるんだ。ここはそう言う場所」
「でも、もう何匹も数えたんだぜ」
「言ったろ?一瞬だけだって。ちゃんと順番があって、一匹ずつしか出て来れない決まりになってるんだ。それに、君は知らないだろうけど、羊は全部で300匹しか居ないんだ。もう三巡目でみんなくたくたになってる。いいかげん早く寝てくれよ。おお、痛い」
「それは、初耳だよ…」
「当たり前だよ。機密情報だからねぇ。あ、言っちゃった、どうしよう。秘密なのに」
この羊はどうやらずいぶん不器用なキャラクターらしいな、と僕は思った。
「だいじょうぶ、誰にも言わないよ」
「頼むよ。他の羊に会っても言っちゃやだよ」
「でも君、けっこう僕と話し込んじゃってるけど、時間の方はだいじょうぶなのかい?」
「あああ、全然だいじょうぶじゃないよう。行かなきゃいけないけど、頼むよ、他の皆には黙っててくれよ」
「わかったわかった。もう行きなよ。僕もできれば早く寝たいんだ。迷惑かけたい訳じゃないんだよ」
「わかったよ。でも黙っててよ。早く寝なよ」
羊はそう言ってけがした足を引きずりながら柵の反対側へ消えて行った。
すると間髪入れずに889匹目の羊が柵をきれいに飛び越えて、その次も、またその次も羊は柵を飛び続けた。
気のせいか、889匹目の羊が、柵を飛び越える時にちらりと僕の方を見ていた気がする。そしてその次の羊も、またその次の羊も、何が気になるのか、柵を跳び越えるときに僕の方をちらちらと見るようになっていたのだ。早く寝ろとでも言いたいのか。
それから30匹くらい数えて、僕は半ば無理矢理に目を開けて、羊を数えるのをやめた。
もう少しで眠れる気がするのだが、羊の目が気になってしまう。
ほとんど半分夢の中にいるような頭で、僕はふらふらと台所へ行って、胃袋がいっぱいになるほど水を飲んだ。
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