2007年12月12日水曜日

沈黙のロープ

 するするするする、とロープが上から下りて来た。
 ロープが下りて来ただけで、他には何も変化がない。
 僕は枯れた井戸の底へ置き去りにされていたのだ。
 もうこの場所で二日は経過しているはずだった。

 夜になって上を見ると、暗闇の中にぽっかり開いた丸い井戸の口の中に、うまい具合に満月がすっぽり収まっていて、それが一昨日、昨日と続いていたのだ。
 もちろん僕がこんな所に居るのにはワケがある。誰も好き好んで脱出の当てもない井戸の底なんかに一人で降りて来たりはしない。
 僕は友人に突き落とされたのだ。いや、友人だと思っていた男に。彼の名は章太郎と言う。
 僕らは互いに同じ女性に恋をして、抜け駆けはしない、と言う紳士協定を結んでいた。だがある日、章太郎がその約束を無視して彼女と二人でホテルから出てくる姿を目撃してしまい、僕は彼を呼び出して説明をさせるつもりだった。
 彼女の名前は清水瞳子と言った。
 瞳子を奪い合う関係ではいながらも、僕は章太郎との友情を失いたくはなかったし、出来ればずっと仲の良い友人であり続けたかった。
 しかし章太郎は、僕が話を切り出さない内に僕を井戸の中へと押し込んだのだ。
 不意を討たれて、僕は成す術もなかった。思っていたよりも井戸の深さは大した事はなく、頭の方から落ちたにもかかわらずどうやったのか足から先に着地できたのは不幸中の幸いと言って良いのだろうか。
 とにかく、僕は井戸に落ちた。
 深さが思っていた程ではなかったと言ったのは、地上からは暗くて穴の底が見えなったからだ。僕らは小さい頃からその井戸の近くでよく遊んでいて、よく冗談まじりに井戸の縁から身を乗り出して底の方を覗き込んだものだった。辺りは森林の緑濃く枝葉がよく茂っていて、昼であっても普段から薄暗かったので井戸の底を映し出す程の明るい光は差し込んでこなかった。
 自分が底に落ちてみて、そこから上を見上げた時、僕は章太郎への怒りや失望や他の様々な感情よりも先に思った事は、「ああ、たったこれだけの深さしかなかったのか」という事だった。
「ごめん、カズ」
 穴に落ちた僕の姿が見えているのかどうかは分からないが、章太郎は井戸の縁から顔を出して下を覗き込みながら、言った。
「でも、もう俺はあの娘に狂っちまったんだ」
「待てよ、章太郎。いきなりこんな事するなんて、どうかしてるぞ。僕は話がしたいだけなんだ」
「話す事なんてない。俺はもうお前を裏切ってしまったんだ。ガキの頃からの親友のお前を。俺は、俺自身が許せない」
「じゃあなんでこんな事するんだ」
「瞳子を失いたくないんだ」
「彼女をお前から奪ったりしない。だからここから出せよ!」
 章太郎は少しは考え直したのだろうか。その次の回答までに、僕の額から流れ出た汗が鼻筋をなぞり、頬を渡り、顎を伝って、つっと井戸の底へ落ちた。
「だめだ」と章太郎は言った。
「やっぱり俺は自分を許せない。お前をそこから出してやる事は出来ない」
「そんな理屈おかしいだろ」
「理屈じゃないんだ。俺は狂っちまったんだ」
 僕は一瞬、頭が真っ白になった。何を言っても通じない気がしたのだ。
「章太郎、何があったんだ。僕に話してくれ」
「ごめん、カズ」
 そう言って、章太郎は僕の視界から消えた。小さな丸い空は夕焼けのオレンジのグレデーションに染まっていた。僕は呆然と上を見上げたまま動けなかった。

 何も理解できなかった。章太郎の理屈も、なぜ僕が井戸に落とされたのかも。
 何度か自力で壁を這い上がって井戸の外に出ようと試みたが、穴の直径が微妙に広すぎて両手両足を踏ん張って力を込めるのは難しかった。挑戦し、休み、挑戦し、休み、その内に穴を這い出ようという努力が虚しく感じられて来た。
 僕は井戸の底を指でほじくってみたり、壁を拳で軽くコンコンと叩いてみたり首をぐるぐる回したりしてみて、章太郎の行動について考えた。
 僕はまだ、瞳子の事について何も章太郎と話していない。話す前に井戸に落とされてしまった。そして話し合いを持ちかけても、章太郎は自分の事を「狂っている」と言って会話すら成り立たなかった。章太郎が自分を許せないからと言って僕を井戸の外に出せないというのもおかしな話だと思った。
 あれこれと考える事はきりがないのだけれど、やがて僕は腹を空かしてしまい、ただただ腹が減るだけで考えるどころではなくなって来たのだ。
 僕は膝を折り畳んで横になった。そして壁の中の闇を見つめた。そうしてジッとしていると、ぽつぽつと言葉を超えたイメージが闇の中から語りかけて来た。
 章太郎が井戸の中の暗闇を覗き込んでいた。身動き一つしなかった。彼の視線は穴の底に向けられ、微動だにしなかった。やがて彼は体を起こし、そして辺りを見回した。視線の先には瞳子が立っていた。瞳子は章太郎に微笑みかけ、彼はそれに答えるように顔を崩した。
 これはただの空想だ。
 あるいは空腹の為に見てしまった幻覚に違いない。
 僕は今まで瞳子の人格について親密に触れ合うような機会を持った事はまだなかったが、そのイメージの中に現れた瞳子から受ける印象は、僕の知っているそれとは余りにもかけ離れていた。
 そのように闇に捕われていた時、僕の頭にコツン、と何かが降って来た。それが先端をビニールテープで固められたロープだった。
「章太郎か? 戻って来たのか?」
 呼びかけても、誰も何もは答えてはくれなかった。ただロープが下りて来ただけだった。僕はそのロープを手に取る事をためらった。登り切った所には章太郎が息をひそめて隠れていて、僕が地上に出たとたんにまたこの井戸に突き落とすのではないだろうか。
 あるいはもっと何か別の……
 しかしいくら考えても登らない訳にはいかない。
 この穴の底で三日めの断食を強制させられるよりは、例え罠であってもこのロープをたぐらなければならない。声をかけてもやはり返事は返ってこない。
 僕はロープを握って空腹に耐えながら全身に力を込めた。少しでも気が緩むとロープが手の中で滑ってしまいそうだった。
 そして僕はなんとか地上に出る事が出来た。

 井戸の周りには誰もいなかった。試しに誰か居ないか声をかけてみたが、濃密な沈黙がその密度を増しただけだった。ロープを下ろしてくれたのはやはり章太郎なのだろうか。
 頭に浮かんでくるいろんな混乱を押し殺して、僕は歩き出した。とにかく腹が減って仕方なかった。森を出て、温かい食事にありつく事しか考える事が出来なかった。
 僕は一度だけ振り返った。そこには月明かりに照らし出された井戸が淡い光のスポットライトを当てられたように浮かび上がって見えた。


にほんブログ村 小説ブログ 短編小説へ

0 件のコメント: