そのタクシーの運転手は、夕方の日だまりの中でシートを倒して熟睡していた。
夕方と言っても陽の差し具合でそう見えるだけで、冬の入り口に当たるこの時期、彼の眠りは『昼寝』と言ってしまって差し支えないと思う。
この時期、車の中で眠るには今が一番心地よい時間帯なのかも知れない。
僕は運転手の安らかとも間の抜けたとも言える寝顔をしばし眺めてしまった。
ここは人通りの少ない住宅地の片隅で、人目を避けて休憩を取るには格好の死角となる場所なのだろう。実際タクシーの後ろには同じようにひっそりとした雰囲気のトラックが停車していて、僕はそれを見ただけでトラックの運転手も今ここで休んでいるのだと思った。
僕は同じように車のシートに寝そべって昼寝をしたいと思った。
ほんのひとときだけ「勤務中にサボって寝ているタクシーの運転手」になって、シートを全開に倒して熟睡したいと思った。
彼の寝顔はそれほどまでに僕を引きつけてしまったのだ。
運転手の口元がむにゃむにゃと動いた。
夢を見ているのかも知れない。
彼はどんな夢を見るのだろう?
宝くじが当たった夢だろうか。
家族がみんな幸せな笑顔を浮かべている団らんの風景だろうか。
むにゃむにゃ
運転手は目を開けた。
そして僕に気付いた。
運転手はどこか要領を得ない様子でズズーっと窓を開け、
「いらっしゃいませ」
と言った。
「こんにちは」
「…こんいちは」
運転手はまだ半分寝ぼけているようだった。口元の言葉もおぼつかない。何より、「いらっしゃい」という言葉自体、タクシーとしてはおかしいのではないか?
「どちらか御用ですか」
「いえ、特には」
「…すんませんねえ、熟睡しちゃって」
「とても気持ち良さそうでした」
「そうですか?」
「はい。羨ましかったです」
運転手は眉根を寄せて顔をしかめた。
「すんません」
運転手は何故かもう一度誤って窓を閉め、エンジンをかけた。
僕は歩道に上がって走り去るタクシーの後ろ姿を眺めた。
「いらっしゃいませ」
と言った時の運転手の顔は何だか力みが抜けていて、それが本当の顔なのかも知れない、と僕は思った。
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