12月27日、午前8時を30分ほど過ぎた頃、祖父が他界した。
年末の誰もが忙しく動き回る最後の時期に、入院先の病院でほんの少しいつもと違う変化を見せて、静かに息を引き取った。
一昨年の春頃に一度生死の境を彷徨ってから奇跡的に持ち直し、それから一年と数ヶ月の間、ほとんど言葉も話せなくなり、動く事すらままならず、ベッドの上から起き上がる事が出来ない状態だった。最後を看取った祖母と私の母によれば、亡くなる前の日からその予兆のようなものを感じていたという事だ。
人工呼吸器を付ければ生命だけは維持できるが、どうするか、と言う医師の問い(或いは提案)を、祖母はやわらかく断った。そして祖父の呼吸はゆっくりと振幅を鎮めていき、その30分後に祖父は90年の生涯を終えた。
私がまだ幼い頃、祖父が共働きの両親の代わりに身の回りの細々とした家事を片付けてくれたおかげで、私の幼少時代はとてものんびりとした雰囲気とゆったりとした時間の流れに包まれたものになった。私の人格形成にはそのようなことも強く影響しているのだろうと、今にして思う。
祖父には怒られたり、小言を言われたような記憶が一つもない。寡黙で、口だけでなくその振る舞いも物静かな人だった。いつ家に来たのかも分からないほど足音もなくいつの間にか洗濯物を干していたし、私の大好きだった牛乳を一日も絶やす事なく冷蔵庫に常にキープしておいてくれていた。それで居ながら家事を手伝えと言われた事は一度もないし、勉強をしろと言われた事も記憶にない。ああしろ、こうしろ、というようなことを言わず、いつも静かに私の生活の風景の中に居た。私がそうと気付かないうちに。
当時の私はそれを余りにも普通の事として特に意識する事もなかった。それは今にして思えば不思議な事だ。
月日が私の人生のシナリオを先に進め、実家を離れ、一人暮らしを始め、現在に至り、祖父を亡くして過去を振り返った時、祖父はいつもそこに居たのだ、ということをやっと意識して思えるようになった。そして同時にあまりにも自然な祖父の思いやりと優しさの深さに驚き、その有り難さに胸が痛む。
私は祖父に何か返してあげることが出来ただろうか?
自問が絶えず頭の中を歩き回る。
祖父が寝たきりになってから、何度かお見舞いに訪ねたものの、そこで私が出来ることはほとんどなかった。ただ時々手を握ったり話しかけたりするだけだった。祖父は言葉を返すことが出来なくなっていたが、その様子からは意外と思える握力でしっかりと私の手を握り返してくれた。
一度だけ、私は涙を堪えられず、病室から逃げ出し、病院の廊下で泣いた。
その時の無力感は今でも続いているし、いつになったら克服できるのか分からない。もしかしたら一生その想いを抱き続けるのかもしれない。私はいつまでもこんなことを続けていていいのだろうか? もっと他にやるべきことがあるんじゃないのか?
おじいちゃんは、何をやったら喜んでくれるだろう?
久しぶりに家族が全員が集まる場所に身を置いて、話を聞けば従兄弟が紅白に出ることになっていた(ある女性ヴォーカリストの後ろでヴァイオリンを弾いていたのだ)。みんなでやあやあと彼の出番を楽しみながら、思いがけずのんびりとした普通の年末を過ごすことが出来た。そんなこともすべて祖父のおかげだと思えた。
祖父は亡くなってからも私に与え続けてくれている。
祖父の葬儀には多忙な時期にも拘らず多くの方にご参列いただいた。祖父の人徳だと思えたが、来てくれて頂いた方にはやはり感謝の気持ちでいっぱいです。
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