2007年12月2日日曜日

抜け落ちた記憶

 何かを忘れるかも知れないという恐怖心が、僕の中から消えた事は無い。
 とにかく僕は物覚えが悪いのだ。
 毎朝のように定期や財布を忘れる、なんて言うのはまだ良い方で、時々友人と交わした約束を、約束した事実そのものから忘れてしまったりする。つまり、
「あのときここで待ち合わせって、話しただろう。お前、頷いてたじゃないか」
 などということを言われたとしても、その「あのとき」が記憶からスポリと抜けていて、どんなに考えても思い出せないのだ。その時の出来事が起こった時間帯と、その前後の記憶から思い出せる事を総動員してなんとかかんとか起こった事を類推して対処しなければならなくなる。
 いろいろと注意して周りのみんなにはそんな事はないのかと窺ってみたものの、どうやらそんなひどい忘れ方をする者は僕以外にはあまり居ないらしい。
 他人と共有したはずの時間が僕だけ失われてしまうというのは、あまり気持ちのいい事じゃない。悪い事だけを忘れていくのならまだしも、どうやら僕の記憶は何の区別も選別もなく、無作為に消えていくようである。
 忘れてしまってかえって都合が良かったりする時もたまにはあるが、たいていの場合はその後に厄介な問題を残すことになる。当たり前だ。約束というものの価値について事あるたびにいちいち根本的な問いかけをしなければならないという状況は、不毛と言うしかない。
 携帯電話の呼び出しが鳴った。
 近頃はこの電話一本に緊張する時もある。ひょっとしてまた重大な忘れ物でもして誰かから怒りやお叱りの電話がかかって来たのではないかと思ってしまう。
「もしもし」
「あ、セイジ?」
「何だ、美樹か」
「何だって何よ」
「いや、何でもないけど。言葉のあやだよ。あやあやあや」
「相変わらず訳分かんないわね」
 僕は美樹にはまだ僕の記憶がかなり怪しい事になっている、という事を伝えられずにいる。とにかく馬鹿なことを言う半天然キャラで押し通しているのだ。ちょっと無理はあるけれど。
「話があるんだけど」
 何だか声の機嫌が悪そうだ。
「なに、どうしたの」
「今あんたの部屋に居るのよ」
「あれ、そんな約束してたっけ」
 しまった。急いで戻らなければ。
「してないわよ」
「えー、じゃあ俺の部屋で何してるの」
「何してるのじゃないわよ。あんたの部屋に居る女、一体誰なのよ」
 何の話だ?
「え、誰か他に居るの?」
「すっとぼけんじゃないわよ! とにかくすぐ戻って来い!」
 美樹は電話を切った。
 僕は一生懸命昨日の出来事を思い出そうとした。しかし会社から帰った後の事は切り落とされた体の一部のようにそこだけ透明で、イメージを形作る事ができなかった。
 合コンの約束は無かったはずだし、田舎の母や妹が上京してくるような約束も無かったはずだ。
 まさかナンパでもしたのだろうか? この僕が?
 自慢じゃないが知らない女の子に街で声をかけた事なんて一度も無い。
 一体何があったというのだろう。部屋に戻って美樹に何を説明すれば良いのやら。そもそもその女は何者だ?
 僕は、僕の部屋に誰かしら無いけれど女が居る。という事態について、それが起こりうるあらゆる可能性を頭の中で想定しながら、美樹と、その女と、僕自身に対してうまいこと話がまとまる説明を考えながら帰り道の電車に飛び乗った。

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