2007年12月26日水曜日

スーパーヴォイス 1

 親友のサカモトは危険な声の持ち主だ。
 彼のささやきは世の中のありとあらゆるどのようなタイプの女性も魅了した。初めに声をかけてから、相手の女性の目がとろんとして初対面の相手に対して築かれた障壁を溶かしていくまでに、まるで時間を必要としなかった。
 魅了する相手は女性だけではない。彼は歌うのだ。どちらかと言えばそれを先に言うべきだったかもしれない。何しろ彼は歌う事を仕事としているのだから。ただ、僕にとってのサカモトは昔からの長い付き合いの友人だし、歌を歌う事よりも彼の声そのものが世間に及ぼす影響の非常識さを何度も見せつけられている印象の方が強いのだ。
 だから大抵の人は彼の歌声を聴きたがるのだけれど、一度彼と親しくなってしまうとそれだけでは物足りなくなってしまう。僕に言わせれば、彼の歌よりも普通の声の方がよほど影響力がある。それは日常生活に紛れ込んだたちの悪い罠のようなものだ。彼に道を聞かれた人は老若男女の区別なく、知らず知らずのうちに自分も一緒に彼の目的地まで付き添って行ってしまうし、買い物をすると初めて行った店でも、必ず何かのおまけがついた。僕も彼と一緒に居る事でその恩恵をいくらか受けた事もある。
 そんなサカモトではあるが、僕と二人で飲む時などはあまり話さない。昔はそんな事はなかったのだけれど、彼が歌を歌いだし、少しずつ世間に名が知れて、求めなくても知らない人が向こうから話しかけてくる機会が増えるに連れて、彼は少しずつ無口になっていった。

「実際、疲れるんだ、本当に」
 彼はなみなみとグラスに注がれたブランデーをほとんど一息に飲み干して、言った。その言葉は一つ一つの単語を貴重な絵画を扱うような丁寧さで語られた。
 僕らは忙しいスケジュールの合間を縫って、久しぶりに学生時代によく集まっていたバーでカウンターに並んで一緒に酒を飲んでいたのだ。そして何となく会話の流れから、昔の事を懐かしんで、二人で馬鹿をやった時の事なんかをげらげらと笑い飛ばしていた。そして僕はついつい「お前は無口になったよな」とサカモトに向かって言ってしまったのだ。
 サカモトは「ああ」と言って急に声を落として下を向いた。
 僕は余計な事を言ってしまったのではないかと思って次の言葉を探しているうちに僕もまた無口になってしまった。
「俺の声の事は、分かるだろう?」
「ああ。長い付き合いだからな」
「幼稚園からだ」
「あの時はまだ普通だったよな」
「普通のガキだった」
「先生のおっぱいを掴むのに競争してたもんな。こっそり後ろから近づいたりしてさ」
 僕がそう言うと、サカモトはくくっと喉を鳴らして笑った。彼のそんな風に笑う姿を、僕は久しぶりに見た気がする。僕のその発言まで、サカモトは一つ一つの言葉を絞り出すようにして、固い食べ物を噛み砕くように話していた。
「あれだけはお前には敵わなかったな。先生の隙をつくのが本当に上手かった」
「今じゃ何の役にも立たない能力だけどな」
「いきなりおっぱい掴んじゃったらまずいよな。犯罪だよな」
「まずい。まじでまずい」
「狙いを変えればいいんじゃないのか? おっぱい掴むだけが能じゃないだろ」
 そう言われて僕は相手の隙をついて何かをする事について考えてみたが、あまり建設的な考えは浮かばなかった。それにしてもいつになく、彼がいろいろと話すのが僕は嬉しかった。そうやって懐かしい話に盛り上がっていると、とてもいい気分になれた。あるいはそれはサカモトの声がそう感じさせているのかもしれない。僕もやはり彼の声には魅了されてしまうのだろう。自分でも気付かないうちに。
 なんにせよ、僕が彼に「無口になった」と言った事がそういう彼の様々な言葉を呼び起こしたのだとしたら、それはそれで良かったのかもしれない。
「まあ別に、四六時中おっぱい触りたい訳じゃない」と僕は言った。言ってみて、本当にそうかと言う疑問がわいた。しかしそれはどうでもいい事だった。
 坂本と話をするのが本当に久しぶりだった事もあって、僕はもう少し、何も考えなくてもいい、馬鹿げた会話を続けたかった。しかしやはり僕らの時間は限られていて、必要な事は必要な事として聞いておかなければならなかった。僕は彼の言葉を無視する事は出来なかった。
「話すのは、苦しいのか?」
 僕はサカモトに聞いた。サカモトは僕の言葉を聞いて、また下を向いた。彼はブランデーのおかわりを頼んで、バーテンの仕事ぶりを眺めながら何かを思っているようだった。そして手元にグラスが戻ってくると指先でグラスを揺らし、氷のぶつかる音をコロンコロンと鳴らした。彼がそうすると、氷の音まで特殊なものに聞こえる気がした。
「苦しいと言うより、疲れるんだ」
「それはやっぱり、有名になっちゃった事が原因で?」
「それもあるな。なんせ知らない人間がいつでも話しかけてきて、休む暇がない。俺も初めの頃はいちいち丁寧に挨拶を返していたけど、そうやって話しているうちに相手は僕をまるで何かの宗教の教祖でも見るみたいな目で見るんだ。そんなのはもう、たくさんなんだよ。若い時はそれが良いと思えたりもしたけど、俺もそろそろガキじゃない。避けたい奴まで近づいて来るんだ。誰も俺を休ませてなんかくれない。俺は独りになりたいんだ。すれ違ったら振り返らないで無視して欲しい。俺ではなく他の何かを見て欲しい。俺と話をしても、俺の声を求めないで欲しい……透明人間にでもなりたい気分さ」
 サカモトはそこまでほとんど一息に喋りきると、またグラスの中身を飲み干し、深みのある溜め息をこぼした。彼にかかるとひとつの溜め息ですら雄弁な示唆を含んでいるみたいに聞こえてしまう。僕は思わずその不可思議な波動に溺れそうになったけれど、何かが僕にそうさせなかった。サカモトの言葉はともすればまるで脈絡のない支離滅裂な文章に変わってしまいそうな怪しいバランスの上に成り立っているように思えた。それほど彼は今不安定な状態なのだ。
 僕は彼にとっては古い友人であり、赤の他人ではない。だから彼の声に溺れてはいけない。。彼と対等でなければならない。その対等さこそが僕とサカモトの友情なのだ。


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