2007年12月17日月曜日

三日寝坊

 目が覚めて時計を見ると、ゆうに三日は過ぎていた。
 僕はその日付と時刻をじっくりと見つめて、頭の整理をつけようとした。
 しかし当然ながらいくら眺めてみてもその数字が変わるような事はなかった。
 僕はその目覚まし時計を諦めて、お気に入りの腕時計を手に取ってみたが、それも僕を甘やかしてはくれなかった。
 僕はまるまる三日間、途中に一度の休みもなく、完全に寝ていたのだ。
 まるで冬眠だな、とそのとき僕はのんきな事を思った。
 三日も休みなく寝続ける事が出来る人間に僕はそれまで会った事がなかった。まさか自分がそんな事になろうとは想像した事すらなかった。
 いやまて、そもそも本当に僕は三日も寝ていたのか?
 僕はもう一度目覚まし時計を確かめ、腕時計を確かめ、部屋の中にある他のあらゆる時計を手に取ってそれがすべて同じ日時を示している事を確かめ、リビングのテレビに電源を入れ、画面が明るくなる間に玄関に行って郵便受けの中身を確かめた。新聞は三つ入っていて、今日と昨日と一昨日の日付が克明に記されていた。リビングに戻るとだめ押しのように
「○月○○日、朝のニュースのお時間です!」
 と爽やかな出で立ちの女性ニュースキャスターが僕に向かって断言していた。
 それが現実なのだ、と僕はようやく初めに目が覚めた時の驚きに抵抗する事を諦めた。

 ともかく、生活する事を始めなければならない。
 ええと、朝起きたらまずは何をしていたっけ?
 三日も寝続けたせいで記憶の回路がおかしくなったのか、僕は朝起きてから仕事に行くまでの手順をひとつひとつ思い出さなければならなかった。まずは朝食のために電気ポットでお湯を沸かして食パンをトースターにセットし、それから簡単にシャワーを浴びて……

 そこで僕ははっとした。仕事。
 連絡を取らなければいけない。しかし何と言って説明すればいいのだろう?
 正直にありのまま、
「すいません。三日間、寝坊しました」
 と言ったところで、通じるだろうか? 現実的に考えておかしな話だし、あまりに下手な言い訳ととられかねない。ともすれば相手を馬鹿にしているように聞こえる。
 こういった特殊な状況に置かれた場合、正直さは罪だ。相手と僕の人間関係に深い後遺症を残すような混乱の種を産み落とす結果になりかねない事は、容易に想像できる。質の悪いヤツは僕に「クマ」というあだ名を付けるかもしれない。あるいは冬眠が可能なあらゆる動物の名前で呼ばれるようになるかもしれない。そうなっては色々と対応するのが面倒くさいし、先が思いやられる。何かいい言い草はないものか。

 家族の誰かが死んだとか、親戚の誰かが死んだと言う事にしようか。
 しかしそれでは三日も連絡が取れないという事を弁明するには押しが弱いような気がする。

 隣りの家の火事に巻き込まれたとか。
 実際に家に来られたら一目瞭然だ。両隣の部屋にそんな痕跡は当然ながら跡形もない。

 誘拐されたけど必死に逃げてきたんだと言う事にしてみようか…
 これは下手をすれば大事になって警察沙汰になってしまう。そうなったら僕の軽い言い訳が狂言誘拐になって今度は警察から要らぬ疑いをかけられてしまう。以前一度だけ全くの勘違いから警察署に連れて行かれてあれこれなんだかんだと事情聴取のような事をされた経験があるのだが、彼らの非常に無骨な物言いの仕方は相手をめっきりと疲れさせるような効果を持っている。間違いですんだからよかったものの、本当に容疑者扱いされたとしたら、あの重い影響力はもっともっと僕を疲弊させてしまうだろう……

 そうこう考えているうちに電気ポットのお湯は沸き、パンはいい具合に焼き上がった。
 頭がうまく回らないのだが、体も思うように自分の意志に反応しない。三日も寝続けると言うのはそう言う事なのかもしれない。
 僕はのろのろと朝食のテーブルについてパンにたっぷりとマーガリンを塗りたくり、それを齧りながらインスタントのコーヒーを作った。そこで少し考えてからいつもの三倍くらいの砂糖を放り込んだ。少しでもうまく頭が回転してくれないかと思ったのだ。
 僕はいつもより念入りにパンを噛む一口一口を意識して行った。そうやって食事をする事で不思議と無心な心持ちになれた。
 電話が鳴った。携帯ではない。家の電話だ。
 一瞬、受話器を取るかどうか迷った。誰がかけてきたのだろう? 僕はまだ上手い言い訳を思いついていないのだ。それでも、放置している訳にもいかない。五回目の呼び出し音が鳴った時、僕はキッチンの脇に置いてある子機の受話器を取った。
「もしもし」
「もしもし? お兄ちゃん?」
 妹の青葉だった。こういう時に一番気が許せる相手だ。僕は胸を撫で下ろした。
「何だ青葉か。どうしたんだこんなに朝早く」
「どうしたじゃないわよ、もう。連絡が取れないってみんな心配してたのよ。警察に捜索願い出そうって話になりかけてるんだから」
「そんな大袈裟な」
 僕がそう言うと、受話器の向こうですうっと鼻で息を大きく吸い込んだような音が聞こえた。
「あのね、お兄ちゃんの会社から実家の方に連絡がいって、何度電話しても繋がらない、家に行っても何度チャイムならしても反応がない、新聞もそのままだって、どこ行ったか分からないかって聞かれたらしいの。それでお父さんもお母さんも何も聞いてないし、やっぱり連絡取れないからって私にさっき電話が来たの。みんな心配してるのよ。ねえ、何してたの? 大丈夫なの?」
 僕は一瞬、誘拐されてたんだと言いかけたが、何かが僕を押しとどめた。
「お前、俺の言う事が信じられるか?」
「何? そりゃ、信じるけど」
 今度は僕が深呼吸をする番だった。
「実はこの三日間、完全に寝てたんだ。それで電話があった事も、人が玄関先まで来ていた事も、気付かなかった」
「…………馬鹿にしてるの?」
「ほら、信じないじゃないか」
「もっとマシな言い訳はないの?」
「そう言われるだろうと思って考えてたところだよ」
「何かあった? 大丈夫?」
「わからん。まだ目が覚めた感じがしないんだ」
「ねえ、病院に行ったら?」
「なんで? ただ寝てただけだぜ。むしろしっかり休めたんじゃないかと思うんだけど」
「三日も寝る方がおかしいでしょ」
「うーん、やっぱ、そうだよねえ」
「何をのんきな空気出してるのよ。とにかく、他の人にすぐ連絡して。みんな心配してるんだから。頼むからもうちょっと危機感出してしゃべってね。いい?」
 そう言うと青葉は電話を切った。
 会社に電話をしなければならないと思うと、少し陰鬱な気分になった。この現状をどうやれば上手く説明できるだろう。寝坊なら寝坊で諦めがつくのだが、向こうからすれば三日間の無断欠勤にしかならない。何だか色々と考えるのが面倒になってくる。
 僕は左手で頭を掻きむしった。上手く考えが回らない時によくやる僕の癖だ。そう言えば言い訳を考えていたせいでシャワーを浴びるのを忘れていた。ちょっと頭がかゆい。
 風呂場の前まで来ると、僕はまた考えが変わった。どうせこんなに生活がずれてしまったのだから、もうちょっとゆっくりしてみようと思い、浴槽をきれいに洗ってお湯を溜め始めた。
 少しずつ上がって行く水かさの様子を、浴槽の縁に腰掛けて眺めているうちに、このまま退職してしまおうかと言う考えが起こった。それは突然の思いつきと言う訳ではなく、最近になってよく考えていた事だった。
 取り立てて会社に不満を持っていると言う訳ではない。むしろ会社の待遇には満足している。給料だって悪くないし、人間関係に悩まされるような事もほとんどない。ただひたすら忙しいというだけだ。サラリーマンの宿命、残業の嵐。
 僕は自分でも気付かないうちに、「ゆっくりしたい症候群」にでも罹ってしまったのだろうか。それで体が僕の意志に反して起きる事を拒否し、挙げ句に三日間も寝てしまったのだろうか。僕は自分に思い当たる節がないかと考えてみたが、そんな兆候は自分にはなかったように思える。
 お湯が浴槽の中に溜まって行く。もう少しで十分な深さになる。
 僕はそこで一度お湯を止めて、自分の部屋に戻り、パソコンの電源を入れた。
 メールソフトを立ち上げると、おびただしい数のメールが受信されていた。こんなに沢山のメールを毎日処理していたのかと、改めて思った。
 僕はそこで緩慢な思考回路に活を入れ、せめて風呂場であと少しゆっくり出来る時間が作れるような時間稼ぎの言い訳を考えた。


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