2008年1月12日土曜日

抜け道裏道人の庭 その2

(その1からのつづきです)

「お茶が入りましたよ」
 いつの間にか婦人がテーブルの上に紅茶を用意し終えていて、僕に呼びかけた。婦人がそこに来るまで、僕はその気配すら感じ取る事が出来なかった。
 しかし僕はもうそんな婦人の静かな動きに驚く事は無く、この場にすっかり落ち着いて馴染み始めている。
 僕が席に着くと婦人は僕の前にカップを差し出し、ポットから紅茶を注いだ。テーブルの上に置かれたティーセットはけっこう細やかな模様が描かれ、さりげない金彩が施されている。それはただの貼り付けられた金箔だったかもしれないけれど、僕には判断がつかないし、それがどっちだったところで、婦人と同じ空間にあるというだけで上質なアンティークとしての価値を持ち合わせてしまうような気がした。
「よかったわ」
 と婦人が言った。僕はティーセットに気をとられていて半分聞いていなかったので「え?」と聞き返した。
「ここで落ち着いて頂いている様子なので」
「ええ、いい場所ですね」
 僕がそう言うと婦人は顔全体をゆっくりと動かして笑顔になった。
 僕はこのとき初めて婦人の顔をよく見る事が出来た。ある程度年齢を経た人であるのは間違いないのだけれど、その前提からすれば彼女はとても若く見える。婦人は体中の皮膚から溢れ出るような活力があって、オーラが出ていると言えばいいのか、実際何歳かと正確に考えようとすると分からなくなるタイプの人だと思えた。
「何だか、自分でも不思議なんですけど、僕はここにいると何かがしっくりと来る感じがします。来たばっかりでこんな事言うのも変な話なのかもしれませんけど」
「ありがとう」
 婦人は僕に礼を言った。婦人はまた顔を動かしてさっきとは違う笑顔になった。そうすると婦人の瞳がすぅっと深みを増した。僕は恥ずかしいような照れるような、なんだか変な気分になった。
「お名前を伺ってもいいかしら?」
「ヒロミです。薩川博己」
「あら偶然ね。私の名前もヒロミなの。古瀬川裕美」
「本当ですか? じゃあ、これからヒロミさんと呼んでもいいですか?」
「あら、先を超されちゃったわ。私がそう言おうと思ってたのに」
「お互いにヒロミと呼ぶって事でいいんじゃないですか」
「でも、そうすると会話がややこしくならないかしら」
「そうでもないと思いますよ。僕がヒロミさんと言えばあなたの事だし、あなたがヒロミと言えば僕の事だ。簡単でしょ」
 婦人は僕を見る目をさっきより少しだけ大きくした。そしてまた違う笑顔を見せてくれた。その笑顔は僕に「じゃあ、そうしましょう」と言っていた。

 その日から僕はこの広い古瀬川邸の敷地の中に足を運ぶ事が多くなった。ヒロミさんがぜひそうして欲しいと言ってくれて、僕がそうすると本当に喜んでくれたからだ。おまけに、いくらでも自由に通っていってくれていいとまで言ってくれた。もともと散歩コースだったのに加えて、ヒロミさんの家の中を通っていくといくつかの曲がり角を省略する事にもなったので、散歩以外の時でも僕にとっては都合が良かった。僕はこの家を囲む外から見たら鬱蒼とした雰囲気の草むらの中に草をかき分けて入り込み、反対側の草の壁から出て行くのが、回を重ねるごとに普通の事として自分の中に消化され馴染んでいくのが分かった。
 時間があって僕がヒロミさんとお茶を一緒に楽しむ時には、彼女に言われた事について相談したり、仕事で悩んだりしている事などを相談する事もあった。
 ヒロミさんと話していると僕が抱えている悩みや不満の多くが、その会話が終わる頃には何もかも大した事ではなかったように思える、というのが常だった。それは僕にとってはとても不思議な事で、ついさっきまであれやこれやと頭の中をうろつき回っていた問題は、ヒロミさんを通して浄化され、澱みない清涼な流れとして僕の中に残る事になった。
 何回かそうやってじっくりと話す機会はあったのだけれども、僕はまだヒロミさんの年齢を聞いた事が無かった。この人に年齢なんか関係ないのだと思えたし、それを知ったところで一体何になるのだろう? とも思った。でも、この美しく清楚で上品な女性が今までどのような人生を送ってきたのか、という事に関しては僕の興味は尽きなかった。
 それでも、ヒロミさんが自分から語ろうとするまでは過去については聞かないでおこうと思った。なぜそう思ったのかと言うと、意識的にか無意識にか、ヒロミさんは自分の事を話すのを避けているのではないかと感じていたからだ。
 彼女は話の流れをそれが自然な導きであるかのようにあるべきところに誘うように言葉を選んでいるからとても分かりにくいのだけれど、ヒロミさんが僕の身近な話について意見を述べる時などに、彼女自身の体験談として何かを語るという事はほとんどなかった。あったとしてもごく最近の事か、当たり障りの無い日常の表層的な事に限られた。
 なぜそうしているのかは分からないのだけれど、僕はそれはひょっとしたら触れてはいけない事なのかもしれないと思って余計な詮索はしない、という態度を一貫させる事にしたのだ。

 ともすれば、僕のそう言う態度が間違った結果を生んだのかもしれない。
 なぜ彼女がお手伝いも雇わずに独りでこんな広い屋敷に住んでいるのか、結婚はしていなかったのか、僕は聞いてしまった方が良かったのかもしれない。後になって思ってみれば、僕のそう言う一歩引いたところからの接し方というのが、その頃の僕の周りに蠢いていた様々な問題の根本的な原因だったのではないかと、ぼくはずっと、ずっとずっと途方も無い時間が過ぎてから、ようやく思い当たったのだ。

 それでも僕は一つだけ、ヒロミさんに関係する事について聞いてみたのだ。
 それはどうしても気になる事だったし、聞かないわけにはいかない事でもあったと言える。

「どうしてここには入り口が無いのですか?」
「いらないからよ」
「でも、困りませんか?」
「どうして?」
「だって、出入りするでしょう? 買い物に行く時とか、お客さんが来る時とか」
「そう頻繁に買い物になんていかないもの。時々草をかき分けて外に出て行くぐらい、大して面倒な話ではないのよ」
「でも、お客さんが来る時は?」
「ここに人は訪ねて来ないわ」
 そう言ったときのヒロミさんの顔はいつまでたっても忘れられない。僕はそのとき付き合っていた彼女の顔はもうどうしても上手く思い出せなくなっているのだけれど、この時、この言葉を発した瞬間に一度だけ見せたヒロミさんの表情は僕の記憶の深いところに深々と突き刺さり、二度と抜けない棘のようになってしまったのだ。そう、思えば僕はこの時から、ヒロミさんの過去については聞いてはいけないのだと思い込むようになったのだ。
「僕は来てますよ」
 僕は内心の動揺を隠して、可能な限りの演技力で平静を装って言った。
「あなたは特別。とても変わった人だもの」
「僕は変わってますか」
「ふふふ。変わってるわ。ここに迷い込んできて、私とこんなに仲良くなってくれたのは、あなただけなのよ」
「僕は至って普通にしているつもりなんですけど」
「ふふふふ。ありがとう」

 何度かあった事なのだけれど、僕はヒロミさんに「ありがとう」と言われた理由が分からなかった。それが最近になって朧げながらでも分かるような気がしてきたのは、僕もそれなりに歳を取ったという事なのかもしれない。そう思える。

 急な転勤で僕がヒロミさんに別れも言えずその町を離れてから、もう何年も経っていた。また戻ってきた時には古瀬川邸の敷地はシンプルで巨大なマンションに変わっていた。僕はそのマンションの回りをぐるっと一周回ってから、その隣りの建物との間にはほんのわずかな隙間も無い事を確かめた。おそらく建築法ぎりぎりの設計なのだろう。そこには人が通れるほど余裕のある隙間は無かった。
 僕は壁の外からその狭い狭い隙間を覗き込み、それから目を閉じてどこまでも広がる緑の芝生を思い出した。

                  〈おわり〉


にほんブログ村 小説ブログ 短編小説へ

2 件のコメント:

独マサ さんのコメント...

やばいでしょ。
めちゃおもしろい。

あえて、具体的なことに触れてないのか、
なにか意図するものがあったのか、ないのかは、作者のみが知る。ですが、想像力を掻き立てられます。

ただ文章の丁寧さ、緻密さには脱帽です。
文章の持つリズム、音楽にも似たその心地よさは、手入れされた庭の風景が思い浮かび、なんともいえない静かな時間をすごさせてくれました。

さた、ヒロミさんは、もしかして失恋から目をそらす為に、創り上げた空想の人物だったかもしれませんし、つらい過去を持った現実に存在した女性だったかもしれません。

ともかく、何年か過ぎて振り返えれば、過去のそのとき抱える苦しみや、奥底に流れる虚無感なんて、たいしたことがなかったと思う。過去を懐かしむことができる人間の生まれ持った回復力とでも言う漠然とした空気を最後のシーンに感じました。

だた一歩踏み出すだけで、現実から離れてしまった。
など、一文一文も魅力的でした。
そんな感じです~。おもしろかった~。

cokoly さんのコメント...

独マサさん、ありがとうございます。
ブログへのコメント、マジでうれしいです。
最近、超短編小説会になかなか顔を出せていないので、なおさら感謝です。
何とか長編を書き上げて、またちょこちょこと短編も書いていきたいので、これからもよろしくお願いします!