2008年1月18日金曜日

海辺の風力計

 佳織は退屈そうにしていた息子を見かねて、家事を適当に手早く済ませて一緒に外に出た。
 数日続いたどんよりとした曇り空が久々にすっかりと晴れあがり、その事を早朝の時間帯から天気予報が何度も強調していた。家族の朝食の用意をしながら、ブラウン管の向こうで晴れ空に負けじと笑顔を満開にしているお天気キャスターの姿がどこのチャンネルでも同じだったのが妙に目についていた。
 確かに、目が覚めてリビングの東側のカーテンを開いた時に部屋に差し込んだ太陽の光は、それだけで気分の高揚を誘うものだった。佳織は開き切ったカーテンからしばらく手を離せず、目の中に光を溜めるような気持ちで空からの恩恵に身を浸した。そうしているだけで、一日のエネルギーが自分の中に蓄積されていくような気がした。
「気温は低くて寒いんですが、思わず外に出たくなる、今日はそんな一日になるでしょう」
 お天気キャスターの声がリビングで朗らかに響いた。
(仕事でやってるにしたって、まあ気持ち良さそうにしゃべるものだわ)
 佳織はそう思った。
 夫が目を覚まして寝ぼけた顔でテーブルにつき、新聞を片手にテレビのリモコンを操ってチャンネルをあれこれと変えていく。そして天気予報が始まるとチャンネルの移動は一旦そこで止まる。何度かそんな事を繰り返していたが、どこの局でもお天気キャスターたちは同じ種類の笑顔を惜しげも無くお茶の間に向けて広げていた。
 朝からそんな調子だったから、気分が初めから外に向いていたのかもしれない。
 洗濯物をあらかた干し終えてしまうと、お昼の準備まではやる事がほとんど無くなってしまうので、それならば早めに片付けて今日は少し遠めの距離を散歩してみようと思ったのだ。

 佳織は三歳になる息子の翔の手を引いて、海岸までの一本道を歩く事にした。この道は海までの最短距離でもあり、道幅が広いので視界の広さも楽しめる。片道二車線の四車線道路。両側の歩道には街路樹が植えられていて、今日のように天気の良い日は空から注がれる光が木々の緑を生き生きと浮き立たせる。吹き抜ける風に枝葉が揺れ、ざわざわと音を立てる。
 普段は海まで行く事はそんなに無い事なので、翔は物珍しげにあっちこっちに目を向けてきゃあきゃあと高い声を上げる。
「あれ何? あれ何?」
 としきりに聞いてくる。
 視界に入る何もかもが新鮮で、興奮しているのだろう。油断するとどこへ行くか分からないから、うかつに風景に没頭する事はなかなか出来ない。手を離すと息子はどこまでも走っていってしまう。

 佳織はもってきたDVDカメラを片手で構えて翔の動きを追っていた。夫の年末のボーナスのほとんどはこのカメラと新しいパソコンのために消えてしまったが、それ以来ことあるごとにカメラを回す習慣がついて、当然のごとく主に翔の成長の記録としての意味はあるものの、佳織に取っては新しく手に入れた趣味のようにもなっていた。
 好きなようにカメラを回して、翔が寝ている時などに、録画した動画をパソコンで編集する事までやっている。機械はもともと得意ではないと思っていたが、やってみれば意外と簡単に出来てしまった。最近ではカメラのアングルやカット割りの事まで考えてカメラを回す意識が自然と身に付いてきたようにも思える。
 そんな訳でただ散歩と言っても佳織の場合、案外神経を使う。家事をしている時間も考えれば、のんびりしている時間なんかほとんどない。

 海岸にたどり着いたことで、ようやく少し気が抜ける。
 ここでは車もバイクも自転車も走らない。平日の昼間だから無軌道に暴れている若者たちの群れもない。
 佳織は翔の手を離して好きなようにさせた。
 翔は水打ち際までちょこちょことおぼつかない足取りで走っていった。
「翔、こけないでねー」
 後ろから、声をかける。翔は少し振り向いて、また走り出して、波の前で止まった。
 そこで波の動きに合わせて濡れないように一歩踏み出したりまた下がったりしながら、きゃあきゃあという声を上げる息子の姿に、佳織は言いようのない感動を覚えた。
 この、自分の胸に迫ってくるものは、いったい何なのだろう?
 カメラ越しに見ていた翔の姿を自分で見たくなって、佳織はモニターに向けていた視線を外した。
 翔はやはりきゃあきゃあと言いながら、波から少し逃げている所だった。
 眩しさを感じて、佳織は空を見た。太陽はすでに高く昇り、雲一つない海の世界を煌々と照らしていた。
 視線を戻すと翔の姿が消えている。
 辺りを見回すと、息子は勢いよく羽を回転させている海辺の風力計を見上げていた。ちょうど翔の背中の方から風が吹いていて、風力計の風車が翔の正面を向いていた。翔はその時ばかりはきゃあきゃあとは言わずにぽかっと口をあげて風力計を見上げていた。
 ああ、息子は今感動しているのだな。
 佳織はそう思ってカメラを翔に向けた。
 良い画が取れたと思った。


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