街は、何時になくざわついていた。
そこで生きている誰もが、いつもの生活を同じように繰り返しながらも、その日を楽しんだり何とかしのいだりしていたが、どこか気持ちの片隅で落ち着かないものを感じていた。何となくそういう雰囲気である、と言うことでしかないのだが、みんなそれをどう表現して良いのか判らずに困惑しているようだった。
(何かが起こる)
そんな予兆のようなものが街に漂い、空気を異質なものに染めていた。
時間だけが何も変わらずに経過していく。
力をつけてきたとは言え、ハイエナは街の中ではまだまだ新参者だった。
狂犬を叩きのめして、さらに名声を上げることに成功はしたものの、何時までもその感傷に浸っていられる訳ではなかった。
既存の勢力との戦い。
自分の組織内部の統制の維持。
そのための資金調達。
公権力への根回し。
やることはいくらでもあったし、そのどれもが重要で、何一つおろそかには出来ない類のものだった。
ハイエナはほとんど毎日ろくに寝る暇もなかったし、疲れ切っていた。自分の作り上げた組織をさらなる高みに育て上げていくことに全力を傾けてきたが、狂犬との一件で、緊張感の糸が切れていたのかも知れなかった。
そんな彼の耳に届いた知らせは、彼を困惑させ、落胆させ、憤らせ、目を覚まさせるのに十分なものだった。
一報を胸中に抱いたハイエナの舎弟は、怖ず怖ずと彼の耳元に口を寄せ、
『狂犬が、ウサギをさらって逃亡した』
と告げたのだった。
かつて狂犬であり、それから羊になり、そして一度その羊の皮を剥ぎ取られた男を暗く狭い牢獄のような部屋から救い出したのは、牧場で羊の群れを追いかけ回していた番犬だった。
番犬は、その後けっきょく牧場から逃げ出して、羊の後を追ってこの街までやっとの事でたどり着いたのだと言った。番犬は耳が良かったので、街を表から裏まで聞き耳を立てながら歩き回り、大小様々な情報を集め、吟味し、それぞれの情報の関連部分を整理してあの小さな部屋まで到達したのだ。
捕えられていた男がみた鏡の中の目は番犬のものだったのだ。
今、彼らはハイエナのいた街を離れ、なるべく人目に付く道を避けて移動している。
番犬は、自分がいかに完璧な逃亡劇を立ち回ったかということを、しきりに自慢していた。念のため、小太りのウサギを人質にしてさらっていく事にしていたが、後になってそれがその後の展開に非常に有効に働く結果となったことが、さらに彼の機嫌を良くしていた。
「ねえちゃんさあ、ウサギなんかやってないで、カモシカになりなよう」
番犬はしきりにウサギに話しかけていた。
ウサギは特に戒めを掛けられることもなく、比較的自由な状態で歩いている。彼女が人質の身分だとは、端から見てすぐに判断は出来ないだろう。
「あんた、馬鹿にしてんの? アタシみたいなころころした体つきのシカなんかいないっての」
ウサギは馬鹿にしたような目を番犬に向けた。
「いや、変わると思うんだよなあ。きれいな足してるしよう。その体格の割には足首、ほっそいしよう。その気になればすぐやせるって」
「ちょっと、変な目で見ないでよね」
再び羊の皮をかぶった男は、番犬と小太りウサギの会話を聞きながら、黙々と歩いていた。
「だいたいさあ、これからもう一匹のウサギを助けに行くんだろう? ウサギさんが二匹いたら色々と話がややこしくなるじゃねえか。あんたがその可能性のある脚線美を自覚してそんなウサギの格好なんかやめてくれれば、分かりやすくなるんだけどなあ。それってあんたの趣味なの?」
「ハイエナがこういうの好きなのよ。あいつ、女は全部ウサギにしちゃうの。実を言うとこの体格も、ハイエナの好みに合わせた結果なのよ」
「うへえ。なんだそりゃ。そうなのかい?」
「アタシけっこう気に入られてるんだからね。あんた、こんなことして、後からどうなっても知らないわよ」
「へん。俺は逃げ足だけは速いんだ。それに」
番犬は少し前を歩く羊の皮をかぶった男の背中に目を向けた。
「このあんちゃんがいれば、大丈夫さ」
「どうだかね……」
「それよりさあ、カモシカの話、考えてくれよう? カモシカが嫌ならバンビでも良いからさあ」
「……言ってること無茶苦茶ね。意味分かってるのかしら。ああそうだ、知ってる? 『カモシカのような足』って言うときの『カモシカ』って、本当はカモシカじゃなくてレイヨウのことを言うのよ」
「へ? レーヨー?」
「レイヨウ。知らないの?」
「なんだそれ?」
「レイヨウはレイヨウよ」
二人の会話は、少し前を歩く男の耳に不思議と心地良く響いていた。
男は、羊の皮がだんだんと体に馴染んできて、再び羊的な気分の自分に戻ってきていた所だった。
(俺は羊だ。今はそれで良い)
羊は拘束具を当てられていた手首の部分をさすった。枷を嵌められてついた跡が、まだ残っていた。
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