2008年11月9日日曜日

名も無き動物たち.8

 囚われの身であるはずの男に運ばれてくる食事は、回を重ねるごとにどういう訳か次第に量が増え、内容もバラエティに富んだ豊かなものに変わっていった。
 男はそれを訝しんだが、聞いてみたところで小太りウサギは何も説明しなかった。
 彼女は男の質問に答えるような口ぶりでいつの間にか世間話を始めてしまうと言う特技に長けているようだった。
 こちらから何か質問を飛ばしてみても、ウサギは先ずそれに答えるように
「こんな話があってね……」
 と言う風に質問から連想される何かのたとえ話を始め、その話を解説するためにまた別のたとえ話を重ね、
「……というわけなのよ」
 と彼女が言う頃には、まるで別の物語が結末を迎えているのだった。ここはどこなのだ? ハイエナは何を考えている? と男が何度問いかけても、結果はいつも同じだった。

 ウサギの話には、彼女の周辺に生活していると思われる者が登場人物として現れ、生き生きとして語られた。世間話としては筋が良くまとまっていて、いつの間にか聞き入ってしまう展開のうまさがあった。
 その話の内容によって、男は自分が今閉じこめられている場所の周辺でどんな生活が行われているのかという事を感じることが出来たが、あまりに話がよく出来ているものだから、実は全て嘘なのではないかと疑う事もあった。どちらにせよ、彼が現状で知る事の出来る情報はウサギが語る話の中にしかなかったので、真偽の程は確かめようがなかった。

 食事が終わるとウサギは空になった盆を持って狭い監禁部屋を出て行き、また男は一人になる。
 手足の自由を制限している鎖は架せられたままだったが、傷は次第に癒えてきた。
 制限された状況下にありながらも、男は胸につかえていた重いものが少しずつ軽くなり、気分的な明るさも取りも取り戻せているようだった。
 男のそのような内面の変化には、ぽっちゃりなウサギとの会話が大きく影響していることは明らかだった。会話の内容がどうこうと言うことではなく、会話するという行為自体が男の神経に潤いを与えたのだ。
 不思議なことに、男にとってそれはこれまでの人生でほとんど経験することが出来なかった安らぎの時間でもあった。囚われの身でありながらどこか緊張感に欠けていて、何をしなくても出てくる食事を淡々と腹にいれ、女との会話の時間を持ち、それが終わればする事もなくただ寝ているだけ。
 男は床に寝転がり、遙か壁の高所にある窓のあたりに漏れ込んでいる外からの光を見つめた。
 ここに閉じこめられてからしばらくはどうやって抜け出すべきかということを考えていたのに、今やこの環境に順応しようとしている自分のことをぼんやりと考えていた。
 窓の外から、鳥のさえずりらしき音が聞こえた。それはとても美しい音色だった。目を閉じると、自分は広大な草原の真ん中で昼寝をしているのだと思うことも出来た。
 しかし。
(俺はこんなところで安心してしまっていいのか?)
 自問する己の心の声はそう易々と消滅するものでもなかった。

 何度目かの食事が運ばれてきたとき、男は断固とした気持ちを奮い立てて、これまでに何度も繰り返した質問をウサギにぶつけた。
 ウサギはすぐには答えようとはしなかった。彼女は男の口調がいつもと違うことを敏感に感じ取ったのだろうか。いつもの調子で関係のない話を始めることも無いようだった。
 そして、ウサギはしばらく間が空いた後、軽いため息をついた。
「ねえ、あなたは色々と知りたがるけれど、それを知ってどうする気なの? ここから逃げ出す算段でもたてようっていうつもりなのかしら? まさか、気付いてないとは思わないけど、始めから、ここの扉に鍵かかってないし」
「ええ?」
「嘘よ。馬鹿ね。ほんとにあなた単純で面白い。私の親戚にも似たような人がいたわ。その人もすぐだまされちゃうの。その辺あなたにそっくりよ。誰でも分かるような簡単な嘘なのに、いつも引っかかっちゃうの。おそらく、警戒心が欠けてるのよね」
 男は危うくまた彼女のペースにはまりそうだと思ったので、手のひらを彼女の顔に突き出してその話を制した。
「まともに答えてくれないか?」
 男がそう言うと、ウサギは不満の色を顔に浮かべた。
「これからがほんとに面白い話なのに。聞きたくないの?」
「それはまた今度にしよう。俺は知らなければならない。話を前に進めたいんだ。ハイエナは何を考えてる? 俺を捕えておきながら、どうしてまともな飯を食わせたりするんだ? あいつは今何をやってるんだ」
「知らないわ」
「嘘だ」
「本当よ」
「じゃあ、別の質問をしよう。お前は、何故ハイエナに従ってる?話しぶりから考えても、お前はものすごく頭が切れる。あいつの片棒を担ぐ以外に出来ることはいくらでもあるはずだ」
「それも却下ね」
 そこで男は深いため息をついた。手足を結ぶ鎖がじゃらりと音を鳴らした。
「そんなに知りたいことがたくさんあるんなら、少しだけ教えてあげてもいいわ。ただし、その前に私の質問に答えてもらうけれど?」
 男は、そのウサギの提案は事態に前進を示すものだと考えた。
「わかった。何を聞きたい?」
 ウサギは、そこで涼やかな笑顔を浮かべ、
「なぜ、羊になろうと思ったの」
 と聞いた。
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