2008年11月13日木曜日

名も無き動物たち.9

小太りなウサギが聞いてきたことは、そのままハイエナが知りたいことなのだろうと思えた。
しかし改めて何故だ、と言われると、自分でも首をひねってしまう。
理由など考えたことがなかったのだ。
「俺は羊になる」
と言い残して街から離れたのは、ああしたい、こうしたい、こうなりたい、どこどこへ行きたい、と言うような具体的な願望や目標があっての事ではなかった。
感情の赴くまま、気持ちの流れるままに行動した結果だった。
それは、狂犬として暴れ回っていたときと何も変わらないはずだった。
それでも敢えて言うならば。
その、自分を動かした感情の発露として思い浮かぶ事と言えば。
一匹の羊が、自分を見ていた。
自分がまだ荒々しい狂犬であった頃。
敵を前にして拳を固める瞬間。自分の後ろを大勢の手下どもがぞろぞろと付いてくる様を振り返った時。あるいは隣町の誰彼が自分に挑戦してくるらしいとの報告を受け取った時などに、狂犬の脳裏には現実の視界とは別にもう一つの映像が立ち上がっていた。
群れから離れた一匹の羊が、自分を見ているのだ。
何かを語りかけてくるでもなく、行動に示すでもなく、ただ、こちらを見ている。
初めのうちはさほど気にもとめていなかったのだが、時を重ねるごとに羊が頻繁に現れてくるようになると、無視するわけにはいかなくなった。
狂犬は、時として、その羊と向き合った。
羊は相変わらず黙して語らず、狂犬の方から語りかけようにも、その術がまるで分からなかった。
狂犬は羊とにらめっこする時間が日に日に長くなっていったのだが、日常の出来事は相も変わらず続いていた。
闘いに明け暮れる日々。
しかし、際限のない渇望の象徴のようであった狂犬の怒りは徐々に力を落としていく。
羊の無表情な顔が目に焼き付いて離れなくなってゆく。
狂犬の精神の中で、何かが空回りしていく。
次第に、自分と、羊の区別が付かなくなる。
そのような混乱の中に、彼は人知れず陥っていたのだった。
男はその話をウサギに伝えると、自分で話しながらも、不思議と落ち着いた気分になった。ウサギはどう思うだろうか。荒唐無稽な雰囲気にあふれた話ではあるが、嘘ではない。
「それって、本当の話?」
しばらく男の話に聞き入っていたウサギが示した反応は、その台詞に凝縮されていた。真実か否か、測りかねているのだ。
「少なくとも、嘘ではない」
男がそう言うと、ウサギは部屋の壁と床の間の一角をうつろな目で眺め始めた。それがこの女がものを考えるときの癖なのだということに、男はもう気付いていた。
「じゃあ、あなたは羊になろうと思ったというよりは、訳の分からない力に押し流されるようにしてそうせざるを得なかった、と言うことになるのかしら?」
「どうだろうな。そんなに難しくあれこれ考えていた訳ではなかったから。衝動的なことだったのは、間違いないかも知れない」
「狂犬と呼ばれることが嫌になった、と言う理由では無かった、と言うことは言えるかしら?」
「無い。……それは、ハイエナの考えか?」
ウサギは、質問を無視した。肉付きの良い二の腕をふくらますように腕組みして、壁と床の間を見つめていた。
男は、気にしなかった。ごろりと床に仰向けになり、高い天井を見上げた。
窓のところに、何かが見えた。
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