2008年7月13日日曜日

贋作師の憂鬱

 若い腕利きの贋作師は、毎日ひたすら名作をコピーしていた。
 彼は芸術史上に燦然と名を轟かせる幾人もの画家の絵をひたすらに研究し、多種多彩な画法を学び、彼らが生きていた時代の文化や風俗への造形を深め、「自分は他の誰よりも名作と呼ばれる絵画とその作家に慣れ親しんでいるのだ」と自負していた。実際、彼は美術の評論家として文章を書いた事もあったし、その内容に高い評価を与えた者も居たほどなのだ。
 だが、彼の本業はあくまでも贋作だった。
 評論を書くにしてもそのベースはあくまで作品をコピーする作業にあり、それなくして名作を語る事は、彼にとっては有り得ない話だった。

 彼の才能に最初に眼をつけたのは彼が通っていた芸術大学の教授だった。
 教授はたまたま自分のクラスに居た学生が特殊な力に恵まれている事をすぐに悟り、手を尽くして彼を自分の陣営に引き入れようと画策し、見事にそれが叶った。要するに、教授は不法な手段による副収入を得られるだけの人脈を持ち、その手段に長けていたのだった。
 教授は自分の優秀な生徒に名作のコピーを描かせ、それを裏のルートで売りさばいていた。その作品は思いのほか高い値段で取引が成立し、教授はすっかり味をしめたのであった。
 教授は贋作師を育てた。生徒は教授の期待に応え、自らは知らぬ間に腕利きの贋作師になっていたのだった。

 初めのうちは、贋作師にとって見れば、教授が自分に課してくる作業はとても幸福なものだった。彼は心の底から絵画を愛していたし、世界的、歴史的に有名なアーティスト達の個性的な絵画的手法を研究したり、時に独特な色彩感覚を学んで行くのは、楽しくて仕方が無かった。
 しかし問題があった。
 それは彼にとっては重要な事であるにも拘らず、彼自身がその問題を全く認識していない事でもあった。
 彼は自分が贋作師である事を知らなかったのだ。
 その事実を彼に教えたのは教授の取引先であるバイヤーの女だった。

 女は巧みに贋作師を誘惑し、彼が自分を愛するように仕組み、その為には女の武器をもふんだんに利用した。彼女は不相応な欲をかき始めた教授を始末して、もっと有益で平和的な取引を長く継続したかったのだ。
 その為にはまず自覚無き贋作師の個人的な信用を獲得し、贋作師自ら教授を憎むように仕向けたかった。贋作師の教授に対する無垢な尊敬の念が思っていた以上に深い事を彼女は理解していた。その為、教授がほぼ独占的に手にしているの贋作師に対する影響力を排除したかったのだ。
 バイヤーの女は頃合いを見計らって、贋作師に教授の裏切りの事をそれとなく伝えた。慎重に、かつ巧みに言葉を選び、贋作師の怒りが自分の方に向かう事の無いように……

 結果的に、若い贋作師はほぼバイヤーの女の意中通りに、自覚ある贋作者として名画のコピーを描き続けた。彼は自らの意志によって贋作を描き続け、好きなだけそうしていられる事に幸せすら感じていた。いつしか大学から姿を消した教授の事も気にかからないほどに。

 そうやって安定し始めた彼の学生生活は、彼の人生から見れば、ほんの短い間の出来事だった。
 彼の享受する平穏に新たな波紋をもたらしたのは、クラスメートと名乗る小柄な女生徒だった。
 クラスメートの小柄な女生徒は、若い贋作師の置かれた状況のほとんど全てを把握していた。簡単に言ってしまえば、彼の日常を隅から隅までストーキングしていた。
 彼女はやはり若い贋作師となった青年の才能に惚れ、毎日のように彼と彼の作品を眺め続けた結果、人知れず彼に恋するようになってしまったのだった。
 彼女は教授がどのようなひどい仕打ちを受けて姿を消したのか、そして女バイヤーがどのような理由で彼に近づき、利用する事しか考えていないか、という事を彼に伝えた。小柄なクラスメートは、若い贋作師のストーキングを続けるうちに探偵的な能力を身に付けたのだと言い、女バイヤーが愛人とベッドの上で絡み合って居る写真などをずらずらと並べて彼に示した。
「あなたは人に使われるだけで終わるようでいてはいけない。あなたには才能がある。そして、私には無い事が分かった」
 彼女はそう言って、絵を諦めてパパラッチになるのだと語った。

 一度彼との会話を交わした後は、女生徒はバイヤーの監視をすり抜けて何度も贋作師の所を訪れた。そして盲目的に彼を褒め称え、散々に彼を煽った。
「どうして自分の絵を描かないの?」
 その言葉は贋作師の心を捕えてしまった。やがて彼は小柄なパパラッチ候補生に心を開いて話すようになったが、自分の絵という物に対してはなかなか考えが進まなかった。
「自分の作品という物が何なのか、僕には分からないんだ」
 と、彼は正直に語った。
「じゃあ、もう一度基本から始めたら良いわ」
 女性とはそう言って彼の前で全裸になった。
 その日から、彼は毎日女生徒の裸体を描き続けたが、贋作も描き続けていた。
 彼はもう、何が正しいのか分からなくなっていた。きまぐれにクラスメートを抱いてみても、彼の胸の奥には満たされない空虚な空間があって、肉欲にのめり込む事すら出来なかった。
(俺は一体、何者なのだろう)
 その問いが自然発生的に彼の脳裏に浮かんだとき、彼は自分がようやく一個の人間としての原点に立ち返った事に気が付いたのだった。


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