足元に転がっていた空き缶がふと目に止まり、何とは無しに、僕はそれを蹴飛ばした。
郊外の巨大なベッドタウンの一角を占める公団住宅の、棟の間をくねくねと延びる歩道。多くの人が寝静まる時間。空き缶はからんころんと音をたて、右に左に跳ねながら、僕の進むルートの先に空虚な音を立てながら転がって止まった。
その音はあまりにも懐かしく、遠い遠い時間の向こう側の風景を僕に思い起こさせた。
あの時となりに居た少年は誰だっただろう?
名前は?
住んでいた場所は?
同じクラスに居たっけ?
それが悲しい事なのか、そうでないかはともかくとして、僕は何も思い出せなかった。ただ、そこに少年が居た事だけが思い出された。
僕はもう一度空き缶を蹴った。
少年が甲高い声で空き缶を追いかける。
僕もそれに続く。
何も求めない、勝ち負けの無い追想劇。
僕らは空き缶がどんな風に転がっていくか、どんな方向に飛んでいくか、ただそれだけを楽しんでいたのだ。
走り回る僕らの背中では、ランドセルの中身ががさごそと揺れ動き、筆箱の中の鉛筆や消しゴム、教科書やノートがそれぞれに固有の音を鳴らした。
太陽は遥か上空で人知れず輝き、僕らはその存在にすら気付かない。
近所のとある家の塀の内側で吠える犬。電柱の上に止まったままの烏。ひとつ向こうの通りで時折過ぎ去ってゆく車のエンジン音。
そんな全てが、ひとつの調和された世界を成立させていた。
風景は完璧なまでに思い出された。
しかし少年の姿はぼんやりと霞みに包まれ、そこだけが激しくピントのずれた写真のようになってしまう。
やがて放課後の情景は薄れ、僕はまたベッドタウンの中に戻る。
月のない夜。
足元にあったはずの空き缶はどこへ蹴飛ばしてしまったものか、見回してもどこにも見つからなかった。
耳の奥で、アスファルトを叩く薄っぺらい金属の音が響いて、僕はまた自分の部屋に向かって歩き出した。
2008年6月11日水曜日
夢の中の大島渚
意味なんかあまり無い。
意味なんて言うほどのものはないんだ。
夢の中、大島渚に怒られた。
大島渚というのは、あの映画監督の大島渚だ。
「鷹揚さが必要なんだよ!」
監督は、そう叫んで僕の書いた原稿を会議室のテーブルの上に叩き付け、その上に指先までいっぱいに広げた手を激しく重ねた。監督は口角泡を飛ばし、ブルブルと唇を震わせ、顔全体を真っ赤に紅潮させていたので、その勢いに僕は思わず身を引いた。
もしかしたら彼は別に怒っている訳ではなく、ただ単純に興奮しているだけなのかもしれなかったが、何しろ夢の中の事だし、訳の分からないうちにその夢は僕の意識の表面からぼんやりと形を失っていったため、その真意を確かめる事も、思い出す事も、かなり難しい話だと言える。
監督がテーブルの上に手を振り下ろした時の音で、僕の意識は睡眠と覚醒の間の深いまどろみに移動する。監督の言葉が何度も何度も耳の中でこだましている。
(一体どう言う意味だろう?)
僕の意識が居場所を移動した事で、僕は夢の中ではなくまどろみの中を彷徨いながら、夢の中にいる僕の背中を眺めている。そしてまどろみの中で考える。夢の中の僕は監督の勢いに気圧されて硬直したままだ。そんな僕を見かねたように、監督は背後にあったホワイトボードに大きな文字で
《鷹揚さ》
と書いた。
僕の意識はだんだんと睡眠の領域からはなれ、まどろみの中を泳ぐようになる。
そのようなすれ違いのせいで、僕と監督の間には会話というものが生まれなかった。僕はただ、大島渚と僕の背中を俯瞰しているだけだった。
僕の意識は睡眠とまどろみと覚醒の間を行ったり来たりするようになる。
僕はベッドを抜け出し、文字通り這いずってパソコンの前に辿り着き、しがみつくようにキーボードを叩く。ディスプレイがスリープ状態から覚め、暗い部屋に白い光が灯る。
僕は新規のテキストファイルを作成し、一行目に
〈鷹揚さが必要だ。〉
と打ち込み、改行して
〈大島渚〉
と入力する。
そこで僕は力尽きる。また這いずってベッドに戻り、横になる。蒲団を頭からかぶり、パソコンのディスプレイの光から目を守る。
鷹揚さのある物語ってどういうものだろう?
話の鷹揚さってどういう事だろう?
ひょっとして、もっと違う意味の事なのだろうか?
覚醒に近づいた意識がまた、深いまどろみの中に落ちてゆく。
次に目を覚ましたのは、目覚ましのアラームが部屋に鳴り響く二秒前の事で、僕の意識ははっきりと覚醒の中にあった。それが通常の目覚めなのだ。僕はいつもそのように目を覚ますのだ。
僕はずっと考えている。話の鷹揚さについて。鷹揚なストーリーについて。
言っても仕方の無い事だけど、あの夢の中、大島渚監督ともっと話が出来ていたら、と思ってしまう。鷹揚さについて分からない事を全て質問する事が出来たら、と思う。
その一方で、あれはただの夢だ。日常のストレスやら不満やらが大島渚の形をとって不可思議な形で爆発しただけなんだ、と考える僕もいる。
意味なんかあまり無い。
意味なんて言うほどのものはないんだ。
そんな風に。
好きな映画監督は? と聞かれたら、僕は他の監督の名前を挙げる。それはずっと以前からそうだったし、最近になって変わったという事も無い。だから、夢の中に大島渚が現れたのは不思議でしょうがない。
でもせっかくだから、僕は意味を考える。考えて、考えて、考え続ける。出来ればもう一度遊びに来てもらって、もっと話をしてみたい。僕の方からは、訪ねる方法が分からないから。
猛り狂ったような監督の表情は、簡単には忘れる事が出来ない。
意味なんて言うほどのものはないんだ。
夢の中、大島渚に怒られた。
大島渚というのは、あの映画監督の大島渚だ。
「鷹揚さが必要なんだよ!」
監督は、そう叫んで僕の書いた原稿を会議室のテーブルの上に叩き付け、その上に指先までいっぱいに広げた手を激しく重ねた。監督は口角泡を飛ばし、ブルブルと唇を震わせ、顔全体を真っ赤に紅潮させていたので、その勢いに僕は思わず身を引いた。
もしかしたら彼は別に怒っている訳ではなく、ただ単純に興奮しているだけなのかもしれなかったが、何しろ夢の中の事だし、訳の分からないうちにその夢は僕の意識の表面からぼんやりと形を失っていったため、その真意を確かめる事も、思い出す事も、かなり難しい話だと言える。
監督がテーブルの上に手を振り下ろした時の音で、僕の意識は睡眠と覚醒の間の深いまどろみに移動する。監督の言葉が何度も何度も耳の中でこだましている。
(一体どう言う意味だろう?)
僕の意識が居場所を移動した事で、僕は夢の中ではなくまどろみの中を彷徨いながら、夢の中にいる僕の背中を眺めている。そしてまどろみの中で考える。夢の中の僕は監督の勢いに気圧されて硬直したままだ。そんな僕を見かねたように、監督は背後にあったホワイトボードに大きな文字で
《鷹揚さ》
と書いた。
僕の意識はだんだんと睡眠の領域からはなれ、まどろみの中を泳ぐようになる。
そのようなすれ違いのせいで、僕と監督の間には会話というものが生まれなかった。僕はただ、大島渚と僕の背中を俯瞰しているだけだった。
僕の意識は睡眠とまどろみと覚醒の間を行ったり来たりするようになる。
僕はベッドを抜け出し、文字通り這いずってパソコンの前に辿り着き、しがみつくようにキーボードを叩く。ディスプレイがスリープ状態から覚め、暗い部屋に白い光が灯る。
僕は新規のテキストファイルを作成し、一行目に
〈鷹揚さが必要だ。〉
と打ち込み、改行して
〈大島渚〉
と入力する。
そこで僕は力尽きる。また這いずってベッドに戻り、横になる。蒲団を頭からかぶり、パソコンのディスプレイの光から目を守る。
鷹揚さのある物語ってどういうものだろう?
話の鷹揚さってどういう事だろう?
ひょっとして、もっと違う意味の事なのだろうか?
覚醒に近づいた意識がまた、深いまどろみの中に落ちてゆく。
次に目を覚ましたのは、目覚ましのアラームが部屋に鳴り響く二秒前の事で、僕の意識ははっきりと覚醒の中にあった。それが通常の目覚めなのだ。僕はいつもそのように目を覚ますのだ。
僕はずっと考えている。話の鷹揚さについて。鷹揚なストーリーについて。
言っても仕方の無い事だけど、あの夢の中、大島渚監督ともっと話が出来ていたら、と思ってしまう。鷹揚さについて分からない事を全て質問する事が出来たら、と思う。
その一方で、あれはただの夢だ。日常のストレスやら不満やらが大島渚の形をとって不可思議な形で爆発しただけなんだ、と考える僕もいる。
意味なんかあまり無い。
意味なんて言うほどのものはないんだ。
そんな風に。
好きな映画監督は? と聞かれたら、僕は他の監督の名前を挙げる。それはずっと以前からそうだったし、最近になって変わったという事も無い。だから、夢の中に大島渚が現れたのは不思議でしょうがない。
でもせっかくだから、僕は意味を考える。考えて、考えて、考え続ける。出来ればもう一度遊びに来てもらって、もっと話をしてみたい。僕の方からは、訪ねる方法が分からないから。
猛り狂ったような監督の表情は、簡単には忘れる事が出来ない。
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