2009年5月9日土曜日

アートよ……

はてさて、天野喜孝の展示会に行ったら、腹の立つことがあった。
そこのスタッフ達がやたら売り姿勢を見せるのだ。

いくらも絵を見ていないうちに一人が話しかけてくる。
連休はどうだとか天気がどうだとか。
何の会話だこれは?
と思いつつ、まあ応えていると、終わる気配がない。
嫌な予感。
そのうち「お仕事は何を?」と聞かれて「バイトです」と言ったら、いくらかお茶を濁して何処かへ行ってしまった。
やっと落ち着いて絵が見れる、と思ったら、今度は別のおばちゃんが話しかけてくる。
しかもなんか「私は天野を理解してますのよふふふん」的な嫌な空気だ。そのうちFFからのファンは本当のファンだとか言い出した。なんかむかついてくる。
絵に集中したかったので途中から会話をシカトしたら、やっと話しかけなくなって来た。

会話の中で分かったことは、ここのスタッフ達は要するに版画を売りたいらしい。
原画を飾った細い通路の行き着く先にやたら広い版画スペースがあって、壁から離れたところに三四人掛けのテーブルが数組設置されている。そこで、どうやら「これ買え」と丁寧に進められている二人連れの女子が二組。小耳に挟んだ金額は、ン十万。なぜ?

昔からこんな奴らはいた。
特に欲しいとも思っていない者に、セールストークで売る方向に持っていこうとする奴ら。
価値が判断できない者を言いくるめるやり方だ。
これが天野喜孝の展示会で行われていることが、腹が立つ。これはもう、アーティストに対する侮辱でしかないのではないか? 天野作品は、そんなことしなくても買う奴は買うだろう!? つまり、何回も使ってる版でおいしい商売しようとしてるんだろう?

そんなことを考えながら、腹の立つまま会場を後にした。
僕の考えは間違っているだろうか。
それとも、これがアートの世界の常識なのだろうか。
なんかむしゃくしゃしたので、足の裏はあいかわらず痛かったが、さらに移動する。
定期で渋谷まで行き、そこから井の頭線に乗り換える。
僕は下北沢で降りた。
学生時代、ほとんど毎日ふらついていた街だ。

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2009年5月6日水曜日

田端。

そんな訳で神保町の翌日には田端へ行った。前日の勢いが続いている。(しかしさらにその翌日、派手に扁桃腺を腫らして寝込むことになる)
そんな訳とはどんな訳だ?
というようなことはあまりにも使い古されてもはや化石化してしまいそうな台詞ではあるが、敢えてこの自問自答の結論を下してみれば、「文士村」という単語に惹かれてしまったからだ。
そう。かつては文士村と呼ばれた土地、田端。
芥川龍之介が住んでいた街。
そんなところに住んでみたいかもしれないと思い立ち、電車を乗り継ぎ行ってみた訳だが、これがまあ何と言うか何ともしんみりとした町だった。

駅を出てすぐに文士村記念館なるものがあったりはするのだが、想像していた芥川邸跡みたいな古めかしい建物なんてどこにも無く、そうであったという場所にはその辺の街角にいくらでも見られるようなマンションがデデデンとあるばかりで、風情も趣も跡形も無い。
どうやら全部戦争で焼けたのだということらしい。
そう聞いてそりゃ仕方がないと思えれば良いのだが、偽物でもレプリカでも何でもいいから土地を保存して家屋を再現すりゃいいじゃねえかと、憤慨。頼むぜ北区。
文士村記念館で手に入れたガイドマップを片手にしばらく歩いたものの、脇道裏道好きが高じてすぐさま道に迷う。意外に緑がある。ここはどこだ。
手に入れた驚きと言えば、山手線の駅にこんな寂れた場所が存在するということか。
物件は悪くない。
しかし地味だ。
神保町は近い。
やたら坂が多い。
前日からの歩きづめでもうめっぽう足が痛くなって、大手町へ向かった。
天野喜孝の展示会に行くためだ。もう帰りたい。

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2009年5月4日月曜日

神保町歩き

半日かけて神保町を歩き回ってみた。
「なんとかここに住めないものか」
などと思ってしまったからだ。
そんなことを考えた理由は、やはり書籍密度が高いからに他ならない。
頭の中を活字で埋め尽くしながら寝て起きて、という生活がしてみたいのだが、なかなかそうはいかないので、住む場所から変えてしまえ、という訳だ。

しかしながら、予想通りと言うか、まー難しい。
風呂無しでもいいから安いのねえかと思っていたが、そんな都合のいいものは見当たらない。
不動産の軒先に貼り出されている物件情報は軒並み貸店舗だし、歩き回っていて気付いたのは、古い建物がどんどんと再開発されている姿だ。
人が住むということを前提にした土地ではないことには違いなさそうだ。
別に知ってたけどね。
一応、自分の足で確かめたということさ。

時々古本屋に入っては目につく本を手に取り、値段と財布の中身を比べて涙を呑みつつ棚に戻し、また表に出てひたすら街を縦に横にと歩いて回ったが、そのうちに尋常じゃないほど足の裏が痛みだした。
なれない靴の所為もあったが、それにしても頭痛がするほど痛みが響く。
時計を見たらもう五時間は歩き続けていた。
時間を忘れるにもほどがある。
それともこれは単なる体力の低下でしょうか?

ちまちまと写真を撮ったが、もっといろいろと撮れば良かった。
地図しか売ってない店とか演劇専門の店とかさくらホテルとか商店街の裏道に突如現れるきれいな一軒家とか、挙げるとけっこうきりがない。
またいずれ。

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2009年1月9日金曜日

change the world

「世界を変えたいんだ」
少年は小さな声で、しかしはっきりと、そう言った。
彼は僕の隣に座り、少しうつむいて地面を見ているように見えた。
僕は聞いた。
「どんな風に?」
「それは……」
少年は一度跳ねるように顔を上げたものの、言葉を探りあぐねたのか、また元の姿勢に戻ってしまった。
少年はそのまま深い沈黙の泉に身を沈め、目の前の虚空に潜む無限の奥行きに視線を向けた。
少年はしばらくそのまま固まってしまった。
僕は試しに少年の目の前に手をかざしてひらひらと振ってみたが、彼は彫像のようにその場に固定され、動く自由を放棄してしまったかのように一ミリも反応しなかった。
話の流れから考えれば、彼は今、適切な言葉を探し出そうとしているのだろう。
自分がどういう風に世界を変えたいのかについて。
あるいはその動機について。
はたまた生まれ変わった後の世界の価値について。
僕は待った。
彫像と化した少年は、そのまま長いあいだ沈黙を保った。
その間、二匹の蠅と一匹の蝶が彼の頭や肩に止まり、しばらくすると飛び去った。穏やかな風が彼の前髪を揺らし、雲の作る陰が何度か太陽の光を遮った。
日差しは非常に強く、刺すような痛みすら感じたが、少年は全く汗をかかなかった。僕は暑さにじっとしている事ができず、何度か手で首筋や顔を扇ぎ、少年に対しても同じようにしてみたのだが、少年は涼しい顔を崩さなかった。いや、それは涼しいというよりも、冷気すら感じさせる表情だった。ここに自分が居る事も、世界が存在している事も、今の彼にとってはまるで意味をなさない事のように見えた。
彼は遠い遠い異次元の世界に旅立ったまま、なかなか戻って来なかった。
凶暴なスズメバチが飛んで来て、僕が慌てふためいてその場を離れた時も、彼は微動だにしなかった。
やがて何度目かの風が彼のまつげに触れた頃、彼ははたはたと数回瞬きをして、この世界に帰って来た。
彼は無言のままに空を見上げ、深いため息をついた。長い長いため息だった。肺の中にあるものをすべて出し切ろうとしているかのようなため息だった。
「やあ」
と僕が声をかけると、少年はさわやかな微笑みを浮かべて僕を見た。それは知人の存在に気づいたというよりは、見慣れた風景を見ているような顔だった。
「大丈夫かい?」
と僕が聞くと、
「はい」
と少年は答えた。
「久しぶり、という感じがするよ」
と僕は少年に言った。本当にそう思ったからだ。
「すみません。物思いに沈んでしまって」
「いいさ」
「たまにあるんです。こういう事が。周りが見えなくなって、ひたすら自分の内面に入り込んでしまうんだ」
「何を考えていたの?」
「それが……思い出せない」
「思い出せない?」
「そう。何も思い出せない」
「君が変えるべき世界について考えていたのではないのかい?」
「そう。そのはずだった。でも……途中から僕はどこかへ行ってしまった」
「どこへ行っていたのか分からないのかい?」
少年はゆっくりと僕を見上げた。
「分からないんですよ。それが分かれば、僕はもう少し楽に生きていけるという気がするんだけれど」
僕はしばらく間を置いて彼の横顔を眺めていた。それは、そのまま消えてしまいそうなほど透明な雰囲気を宿していた。
「世界の事はいいのかい?」
僕は聞いた。
「もちろん、変えますよ」
少年は、何でもない事のようにそう答えた。


陽が暮れかけていた。
僕らはお互いに沈黙を守りながら、水平線の彼方に埋没していくオレンジ色の球体を見守っていた。
渡り鳥の小さな群れが視界を横切り、甲高い鳴き声を上げた。
遠くで女の人の声が響いた。どうやら家に戻らない子供を捜しているようだ。その声に応じるように、どこかで犬が吠えた。それに反応してまた別の犬が別の場所で吠えた。
海岸線を走っていた車がエンジンの音を残し、岬の向こうに消えた。
「帰らなきゃ」
少年が言った。
また子供を呼ぶ女の声が聞こえた。
「あれ、母なんです」
少年はそう言って大人びた仕草をした。しかし、その一連の動作は、僕にはかえって彼が本来持っているあどけなさを浮き彫りにしたように思えた。
少年が行ってしまった後も、僕はしばらくその場所に残って、そう遠くない未来に成長した少年が変えていく世界の事を思った。



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2008年12月27日土曜日

時空蟹

 蟹が泡を吹いていた。
僕はその泡を指先で掬った。
蟹は不思議と逃げなかった。
砂にほんの少し沈み込んだ爪先に少し力を加えて、僕は立ち上がった。
指先に付いた泡はすぐにぷつぷつと弾けて、薄い液体を僕の指先に残した。
蟹はまだそこに居た。
まるで僕を見上げているみたいだった。
僕は意識は遠い過去の記憶の抽き出しから、小学校のプールの情景を取り出した。

プールサイドに蟹が居たのだ。
場にそぐわない小さな闖入者を見つけて、落ち着きのない何人かの生徒がやいやいと周りに集まっていた。
一人がその蟹を突っついて笑う。
女の子が「やめなよ」と言う。
蟹がつくつくと足を動かして移動を始める。
僕はその進行方向を塞ぐような場所に手を置いた。
蟹はそこで、はた、と止まり、そこでやはり僕を見上げる格好になった。
始業のベルが鳴り、先生がみんなに声をかける。
僕は蟹と目を合わせたまま動けなかった。
僕は蟹の進路を塞いでいた手をプールサイドのコンクリートのタイルから浮かせ、蟹を自由にした。
それでも蟹は動かなかった。
後ろから近づいてきた先生が僕の頭をゴツンと叩き、僕は耳を引っ張られてクラスのみんなの列に混じった。
遠目に、蟹がつくつくとした歩みでどこかへいくのが見えた。

砂浜で僕と対峙した蟹は、あの時の蟹ではないかと、僕はそんなことを思った。
もちろんそんな訳はなく、あの時の蟹はもう寿命を迎えて死んでいて、しかも故郷から遠く離れたこの場所に居る蟹が、あの蟹であるはずは、到底なかった。
それでも僕は、あの時の蟹が時空を超えて僕の中の過去と現在を結びつけたのだと思った。

何のために?

そう聞かれても、答えようがない。
何かの意味があるようにも思えない。
ただ、あの時の蟹が、理由はともかく時空を超えて、再び僕の顔を見に来てくれたのだ、と僕はむりやり理解した。

僕は近くに転がっていた口の広い空き瓶を拾って中を海水で濯ぎ、そこに蟹を捕まえて入れた。
蟹はしばらく所在なげに足をむずむずと動かしていたものの、しばらくするとおとなしく なって、ガラスに映る歪曲された世界を興味深く眺めているように見えた。
僕はその瓶を片手に持ったまま、近くに住むカスミの家に向かった。

「蟹を拾ったんだ」
僕はカスミにそう言って蟹の入った瓶を見せた。
蟹はまたぷくぷくと泡を吹いた。
彼女はそれを見てきゃはははと笑った。
「暇だねえ」
カスミは僕に目を向けてそう言ったが、それでも瓶を突っついて蟹がぴくりと反応するのを楽しんでいた。
小さな生き物には何でも反応する彼女が喜ぶことは分かっていたのだ。思っていた通り、彼女の子供のままの好奇心を宿した目を見て、僕は自分の心が和んでいくのを自覚する。
「なんだか懐かしい気がしてさ」
それは事実だったが、僕はまるでいい訳のようにそう言った。
「一人で砂浜歩いてないで、先にうちに来てから一緒にいけばいいのに」
カスミはそう言った。
「いや、なんとなくさ」
一人で歩きたかったんだ、とは言わなかった。
カスミと歩くのが嫌な訳ではない。
ただ、一人になって海を眺めながら歩きたかったのだ。
「その蟹、昔見た気がするんだ」
「へえ、どこで?」
「小学校の頃、学校のプールで」
「……ずいぶん昔だね」
「うん。そうなんだ。不思議だろ?」
「不思議なのは君の方だよ……」
「でも、本当に似てるんだよ。あの時の蟹と」
僕は先ほど思い出した記憶のシーンをカスミに説明して聞かせた。
「他の人は蟹なんてどれ見ても同じだって思うかもしれないけどさ」
「そんなことないよ。どんな小さな生き物でも、ほ乳類でも昆虫でも、みんな違う顔してるよ。それは、小動物フェチのあたしが保証する」
「うん。だから、カスミならそれが分かってくれると思って」
「ふうん」
カスミはそう唸ると、妙に得意そうな顔つきをした。
「窓際に置いたら、干涸びちゃうかな」
カスミはそう言いながら蟹の入った瓶を南向きの窓際に置いた。
太陽は熱い熱量を含んだ光を室内に投げ込んでいて、おそらくカスミの言う通りになってしまうだろうと思えた。
「少し、水を入れたらいいんじゃないかな」
僕はそう言った。
「そうだね。そうしよう」
カスミは小動物好きではあったけれど、特に甲殻類の生体に詳しいと言う訳でもなかったし、その点に置いては僕と大差なかったので、どこか半信半疑のまま台所にいって瓶の中に少しだけ水を入れた。
窓際に戻された蟹は、また泡を吹いた。さっきまでより泡の量が多いように見えた。
僕らはしばらくそうして蟹を眺め続け、時おり口づけをかわした。
しかし窓から差し込んでくる光の熱さに肌が焼けてくるのを感じると、僕はやはり蟹のことが心配になった。
「やっぱり海に戻そう」
僕がそう言うと、カスミは賛成した。

僕はカスミと一緒に砂浜に戻った。
なるべく波打ち際に近づいて蟹を瓶の中から出すと、蟹は一目散、と言う風にまっすぐに海に向かって横歩きを始めた。
「やっぱり熱かったんだね」
カスミは言った。
「またあいつに会えるかな」
波間に消えていく蟹を見送りながら、僕はそう言った。
「多分、こんどはおじいちゃんになった頃に現れるんじゃない?」
「もうぼけちゃって覚えてないかもな」
僕はカスミが何か軽口を叩いて答えてくると思っていたのだけれど、予想に反して、彼女は僕の方にこつんと頭を寄せてきた。
彼女は何も言わなかった。
「どうしたの」
と僕が聞くと、
「こんな時間がずっと続けばいいなあと思ったの」
とカスミは答えた。
「また暇を作るよ」
僕はそう答えて、完全に見えなくなった蟹が泳いでいるはずの水面を眺めていた。



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