2008年5月13日火曜日

象になりたい

 まだ子供の頃の話だが、
「大きくなったら何になりたい?」
 と聞かれた時は、
「象になりたい」
 と僕は答えていた。
 そういう時の相手の反応として、典型的なのはやはり学校の先生だ。

「ゾウ?」
 先生は聞き返す。僕は黙って首を縦に上下させる。
「ゾウって、動物のゾウ?」
「はい。灰色で、鼻が長くて、でっかくて、主にアフリカやアジアの南部に生息している、あの象です」
 ようこ先生は、生徒の間でもかなり人気があった。いつも元気で笑顔を絶やさず、テレビに出てくるようなアイドルよりもよっぽど綺麗で可愛い人だった。
「ふうん。でも、ケンイチ君は人間だから、ゾウにはなれないよね?」
「そうですね」
「ここはひとつ現実的に、将来、どんな事をしたいみたいのかなーっていうところを聞かせてくれないかな?」
 ようこ先生は、子供相手だからって手を抜いたりしない。ちゃんとじっくり言葉を選びながら、僕の目を見て話してくれる。
 しかしながら僕もその時から変わり者の片鱗を見せ始めていたので、頭をひねって更に聞き返した。
「大きくなったら、と言うのは、仕事の話なんですか? 僕はてっきり将来の夢の話だと思ったんですけど」
「あら、そうよ。もちろん、将来の夢を聞きたいの」
「だから、僕は象になりたいんです」
 ようこ先生は指先をこめかみに当てながら、腕を組んだ。何か考えているようだ。
「よし。そうねえ。じゃあ、どうして、ゾウになりたいと思うの?」
「先生、象って素晴らしいと思いませんか?」
「どんなところが?」
「あんなに大きな体をしているのに、見るからに平和的じゃないですか。多分、その気になったら強いと思うんです。象って。力もありそうだし。でも、象を見て、争いを連想する人ってあまり居ないと思うんです。動物園に居ても、あの長い鼻で人を楽しませてくれるし。ぼく、あんな風に平和な存在になりたいんです。だから、象になりたい」
「ゾウみたいな平和な人になりたいのね?」
「いえ、あくまで象になりたいです」
「でも君は……」
「はい、僕は人間です。それが問題なんです」
「一応聞くけど、君の言ってる事は、比喩的な話ではない訳ね?」
「そうですね。比喩じゃないです」
「基本的に無理な話だってことは、自分では解る?」
「はい。残念ながら。叶わない夢なんです」
「真剣に考えた結果なのよね?」
「はい。眠れない夜もありました」
 ようこ先生はこめかみに当てた手の指先をとんとんと叩いた。そしてふぅっと息を吐き、胸の前で組んでいた手を今度は腰に当てた。
「まあ、悪意で言ってるんじゃなさそうね」
「とんでもないです。僕、ようこ先生の事、大好きですよ」
 僕がそう言うと、ようこ先生はじろりと僕を睨んだ。
「からかってるの?」
「違います。すみません。余計な事を言いました」
 僕は耳の先が熱くなるのを感じていた。下を向いても、先生の目はやっぱり僕を見ているような気がした。ふぅっ、と、また先生のため息が聞こえた。今度は少し鼻にかかった感じの音だった。
「ケンイチ君、こっちを見なさい」
 僕はそう言われて、先生の顔を見た。
「いい? ゾウになりたいのなら、心も大きくならなくちゃ」
「こころ、ですか?」
「そう、心です。心の小さい人が、大きなゾウになれると思う?」
 僕は考えてみた。子供ながらに。恐らくその時、僕が考えたと言っても、それは到底論理的な思考ではなかっただろう。ただ、なんとなく、『それは正しい気がする』という事を感じただけの事だったのだと思う。
「なれないとおもいます」
 僕は答えた。
「うん。じゃあ、自分を鍛えなさい。全てはそこからよ」
「はい。僕、強くなります」
「強いだけじゃダメよ。優しい男になりなさい。ゾウは、優しそうでしょ?」
「そうですね。気をつけます。ねえ、先生」
「なあに?」
「僕が強くて優しい男になったら、結婚してくれますか?」
 先生は姿勢も表情も動かさなかった。そしてさっきとはまたちょっと違う種類の溜息を漏らした。
「あと十年もしたら、君のその考えは変わってしまうと思うけど、まあいいわ。結婚出来る歳になるまで、努力しなさい」
「はい!」

 ようこ先生の素晴らしいところは、最後まで僕の話を聞いてくれた事だった。
 大抵の場合は、「象になりたい」なんて言うと、相手は変な顔をして話題を変えるか、僕の考えを変えさせようとしたものだが、認めてくれたのはようこ先生だけだった。
 それから十年経った頃、僕はふたつ年下の彼女と付き合って、結婚まで考えるようになり、ようこ先生の予言は的中した。
 でも、頭の中では今も、あの時の想いは失われていない。
 強くて優しい象になろうと……


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