2008年10月29日水曜日

名も無き動物たち.4


 ハイエナの嗅覚は優れていた。
 だから、街を出ようとする一匹の羊を見つけた時、ハイエナは不思議とムズムズし始めた自分の鼻を信じた。
(あいつ、怪しいんじゃねえの?)
言葉にすれば、そんな感覚。
しかし、それはただの感覚であっても、絶対的に正しい。
 かつて狂犬が街を去ったとき、そこには完璧だった力の空白=秩序の崩壊が残った。
 ハイエナにとってそれはチャンスだった。そして彼はそれを確実にものにした。己の卑劣な知性と、物事を見極める抜群の嗅覚がハイエナの武器だった。
 ハイエナは、嘘と、罠を、自分が必要なときに正しいタイミングで自在に操り、ライバルを貶め、他人を犠牲にして今の地位を築いてきたのだ。
 危ない橋を渡ってクスリを売りさばき、金も手にした。ついでにその二つを使って、いくらでも自分の言うことを聞く手下を何人も侍らせるようにもなった。
 自分は狂犬とは違うやり方で同じ力を手にしたのだ。
 そう言う自負が、ハイエナを支えている。
 そして。

 ハイエナは興奮していたのだろう。
 いつもの彼ならまず手下を使って様子を見て、それから必要な手段を考え、慎重に実行に移す。そして動き出したら一切の躊躇はしない。
 しかし、彼はすでに歩き出していた。そして、やたら体格のいい羊の背後に素早く音も立てずに忍び寄り、声を掛けた。
「そこのあんたよう、あんた、ただの羊じゃねえよなあ」
 羊は、余裕のあるゆったりとした歩みを止めずに、ちらりとハイエナの方を見ただけで、
「俺はただの羊」
 と言った。
「そんなわけねえんじゃねえの? 羊はそんなガタイしてねえんじゃねえの?」
「ガタイのいい羊もいるさ」
「そうかなあ。俺にはそうは思えねえなあ」
 ハイエナは、自分より背の高い羊の横に並んで歩き出した。体の真ん中で心臓がバタバタと暴れ出したみたいに、激しい動悸が脈打っていた。
 トリップの入り口みたいだ。素面なのに、キまってきやがった。やべえな。最高だ。
 ハイエナの唇の端が邪悪な形につり上がり、目尻は鋭角なまでに尖り始めた。
「まあいいや、羊さん。聞いてくれよ。昔、俺の街に一匹の狂犬が居たんだ。俺はそいつに憧れてた。憧れすぎてヤラレちゃってもいいと思ったぐらいよ。へへ、ヒッ。強くてなあ、とことん強かったよ。残忍で、容赦がなかった。誰に対しても。俺は今そいつを追いかけてるんだ。羊さん、あんた、何かしらねえかい?」
「羊はあまりものを考えるのが得意ではない。記憶力も悪い」
「そうなのかい? 知らなかったなあ。ほんとうか?」
 羊は、自分の体を覆う羊の皮をぎゅっと内側に引き締めた。
「でもよう、羊ってのは、群れの中にいるもんじゃあねえの? あんた、見たところひとりぼっちだけど?」
「孤独な羊もいるさ」
「へへ、そうか。面白えな。うん。あんた、面白れえ羊だ。なあ?」
「俺は至って普通だ」
「そうか、まあ聞いてくれよ。俺は今、ウサギを飼ってるんだ。かわいいウサギでなあ? 昔、狂犬のやつに惚れてたウサギさんだったんだが、クスリ漬けにして、俺のものにしたんだ。何でも言うことをキクんだぜ? 俺の言うことは何でもキク。へへへ。どう思う? 羊さん? 羨ましくねえか?」
 羊は、ウサギさんの流した涙を思い出していた。
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名も無き動物たち.3

「逃げて」
 とウサギは言った。
「ハイエナを覚えてる?」
「ハイエナ?」
「いっつもアンタのご機嫌を窺ってたやつさ。アタシ、今あいつの女なんだ」
「ほう、それで?」
「さっき、アンタがこの街に来ていることを知らせちゃったんだ。そしたらあいつに、どんなことをしてでもアンタを引き留めておけって言われて」
「それでこうなった、と言うワケか」
「ごめん。でも、アタシあいつに逆らえないんだ。弱みを握られちゃってて」
「それで、どうして俺が逃げなきゃならない?」
「アンタがいなくなった後、ハイエナは、少しずつ自分の力をつけてきた。今ではあの街のナンバーワン。その力をこの街にまで伸ばしてきてる。でも、その一方で、今でもアンタにものすごく強いコンプレックスを抱いているんだ。ほんとにね、まるで病気みたい」
「あいつは、周りを気にしすぎるところがあったからな」
 羊は、うっかり狂犬時代の記憶を口にしていたが、ウサギはもう気にしなかった。
「今なら俺が勝つ、ってまわりに言いふらしてる。自分でもそう思っているみたい。でも、周りは、私もだけど、ハイエナが狂犬に勝てるなんて誰も思っていないんだ。あいつはそれが気に入らなくて、苛々してるんだ。いつもね。だから、直接アンタと戦って、アンタに勝つ事で力を示そうとしている」
「なぜわざわざそんな事をする必要がある?」
「自分が真のナンバーワンだって、周りに認めさせたいのさ」
「俺には関係ない」
「アンタがそう思っても、それこそあいつには関係ないよ」
 羊は、ハイエナの事を思い出していた。気が小さく、ずる賢いところはあったが、かわいい手下だったハイエナ。
「可哀想なやつだ。だが、逃げるまでもない。戦って負けてやればいいだろう?」
 羊は、本当にそう思っていた。俺はただの羊だ。もう狂犬ではないのだ。勝ち負けは、もう自分には関係のない世界だ。
「甘いよ。ハイエナは、勝つためならどんな汚い事でもやる。きっと、ひどい罠をしかけて、アンタをぼろぼろにしてしまうよ。お願い。逃げて」

「……ふう」
 羊は、長い間考えて、そう漏らした。
「いいだろう。ウサギさん、アンタの言う事を聞く。黙ってここから離れることにする」
 羊はそう言って、ウサギのベッドから離れた。
 ウサギは、心の底から安心して肩の力を抜くことが出来たが、彼がウサギの寝床に背を向けたときに翻った羊の皮の下に、それまでとは違う彼の顔が見えた気がした。
「アンタ…… それが本当の顔なの?」
「何がだ?」
「もう一度見せて。その羊の皮を剥いで見せてよ」
「何度も言うが俺はただの羊。狂犬なんて俺は知らない」
「違うんだ。アタシが見たのは、たぶん、狂犬になる前のアンタの顔…… そうだ。そうに違いないよ! ねえ、アンタ、狂犬になる前はどんなだったのさ」
 ウサギの言葉は、羊の心を捉えたようだった。羊は、狂犬になる前の自分などとっくに忘れてしまっていて、そんな顔があったことすら思い出せなかった。
 しかし、かすかな記憶が精神の中枢から何かを伝えてきた。
 確かに俺は、狂犬として生まれてきたのではなかった……
「あんた、本当は何者なんだい?」
「……………………わからない」
 ウサギは羊の顔にそっと手を添えようとしたが、その手から逃れるようにして、羊はウサギに背を向け、部屋から出て行った。
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2008年10月28日火曜日

名も無き動物たち.2


「羊ももう飽きたな。鳥にでもなりたいところだが……」
 残念ながら、空を飛べそうな羽は羊の背中には無かった。おまけに新しく翼が生えてくる可能性はほとんど皆無と言えた。羊は空を飛ばないものだ。

 羊はまたも一文無しになって、あてどもなく歩いていた。何かをせねば、と思いつつも、何をしたらいいのかまるで思いつけなかった。

 彼はひたすら歩いた。考えても考えても、うまいことが頭に浮かばず、まるで水中めがねをつけて狭いプールの中を延々と歩き続けているみたいな気分になった。
(このまま歩き続けて、またどこかで行き倒れるとするか。そしてまた夢を見て、どこかの群れに身を寄せてしまえばいい。要は、どんな群れに組み込まれるのかと言うことが問題なだけだ)

 羊はそんなことを考えていたが、とある街角で声を掛けられた。
 羊に話しかけてきたのはウサギのような女だった。
「そこの羊さん、あんた大丈夫? なんだかふらふらしてるよ」
「いやあ、もう、腹が減ってね」
「アタシのウチに寄っていきなよ。ご飯を食べさせてあげるからさ」
「俺は無一文だぜ」
「いいのよ、そんなこと」
 うますぎる話だと思ったが、羊は空腹には勝てなかった。もう腹ぺこで羊の皮が体にべっとりと張り付いてうまく剥がすことが二度と出来なくなりそうなほどだった。

 結局羊は誘われるままにウサギの後についていった。

 ウサギの出してくれたごちそうは大変においしく、そんなものを食べたのはあまりに久しぶりなことだったので羊の全身の毛が逆立ったほどだった。
 満腹感で夢見心地になっているうちに、羊はいつしかウサギと同じベッドの中にいた。
「アンタ、何でそんな羊の皮なんかかぶってるの」
 枕元で、ウサギは羊にそう聞いた。

「さあな。なんでなのか、もう忘れちまいそうなくらいくだらない理由だったように思う」
「思い出してよ」
「んん? うーん…… あれ、やっぱり忘れちまったかな」
「何よ、それ」
「まあいいじゃねえか」
 ウサギは羊の横顔をじいっと見つめていた。それは何かを見透かそうとしている目だった。羊はなんだか急に落ち着かなくなって、ウサギに背中を向けた。
 するとウサギは、
「アンタ、本当は狂犬でしょう? アタシ、知ってるんだから」
 と言った。
「なんだと?」
「アタシ、あの街に住んでた。それだけじゃない。アンタの取り巻きの一人だった」
「…」
「アンタ、アブナイやつだったけど、女には優しかったもんね。好きだったんだよ」

「悪いが、人違いだ。俺はただの羊」
「悲しいこと言わないで。アンタは狂犬。私は覚えてる」
「俺が何者にしろ、俺は覚えちゃいねえんだ。悪いがな」
「そう……」
 ウサギは黙ってしまった。羊は、寝返りを打ってウサギの方に向き直り、
「悪いな」
 と言ってウサギの耳を優しく撫でた。ウサギの目から、ホロリと涙がこぼれた。

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2008年10月26日日曜日

名も無き動物たち.1


 狂犬と恐れられた男がいた。
 男は、来る日も来る日も襲いかかってくる様々な敵と戦い、勝利し、勝ち続けた。
 初めのうちはただ襲われるままに倒していくだけだった。
 しかし、彼は何人もの男たちを倒していくうちに、勝利と征服の味を知り、次第に自分から戦いを挑むようになった。
 一度そうなると、彼は見境無く、休むことなく敵に挑み、完膚無きまでに叩きつぶした。
 一方で、彼に挑戦し、彼を倒すことで名を上げようとする者も後を絶たなかった。当然、彼はその全てを返り討ちにして、二度と自分に逆らうことが出来ないぐらいまで痛めつけた。

 ある日、狂犬は
「疲れたな」と言い、次の日に
「俺は羊になる」と言って姿を消した。


 羊は、何も持たずに旅に出た。
 服を着ている以外は完全に手ぶらだった。財布すら持たなかった。
 今、彼は社会的に自分自身を証明することが出来るものを一切身につけていない。
 なるべく遠くまで、と思い、足が動く限り歩き続け、とうとう精根尽き果てて行き倒れる頃には故郷の色合いなどまるで見られないほどの所まで来ていた。


 意識を失った羊は、夢を見ていた。
 羊の体は、ゴムボートの上で波に浮かぶようにゆらゆらと、空を漂っていた。
 遠く地上では、わんわんわんと吠えている何匹もの犬の鳴き声が、遠ざかるさざ波のようだった。
 羊は何もせず、体を風に任せて流れ続けた。
 どこまでもどこまでも、空は続いた。
 彼は解放されていた。

 目が覚めると、羊は群れの中にいた。
 番犬が彼を吠え立て、ワケも分からないうちにひたすら追い回された。

 陽が出ている間、延々と歩かされ、疲れ切った夕方頃に柵の中へ追いやられた。
「これが俺たちの仕事なのだ」
 リーダー格の羊はそう言った。
「歩いて、歩いて、歩き回って、最後には毛をむしり取られて食われちまう。それが運命ってやつなのだ。誰が決めたか知らねえが、それに従うのが羊の役目ってやつなのだ」
「なんだか理不尽だ」
「若いな。おめえさん」

 何日かそこで過ごしていると、一匹、また一匹と、知った顔が消えていっていることに気付いた。これが俺たちの仕事だと言っていたリーダーの姿が見えなくなった時、かつて犬だった羊は、脱走を決意した。
 柵を跳び越え、草原を駆け抜けていくと、番犬が彼の後を追ってきた。番犬はふっふっはっはっと、息荒く羊を追いかけてきた。
 番犬の足は速く、羊はあっという間に追いつかれた。


「見逃してくれ。俺は食われたくない。どうしてもというなら俺は戦う。でも、戦うのも嫌なんだ」
 羊は言った。
「おいおい? おやおや? 戦うだって? 正気か? この羊さんはよう」

 番犬はそう言うと、有無を言わさず襲いかかった。番犬は番犬で飼い主にこき使われて腹を空かしていたのだ。
 しかし、羊は羊の皮を脱ぎ、番犬を簡単に伸してしまった。
 番犬は、自分を見下ろす、羊の皮をかぶった狂犬を見上げて、悔しげに罵りの声を上げた。
「お前、羊かと思えば狂犬じゃねえかよう」

「勘違いするな。俺はただの羊」
「ふん。そんな羊の皮をかぶったって、狂犬は狂犬以外の何者でもねえんだよう」
「俺は羊だ」
 そう言って、羊はその場を去った。
「待ってくれよう。俺も連れて行ってくれよう。俺もこんな所は嫌なんだよう」
 後ろで番犬がそう叫んでいたが、羊はもう振り返らなかった。
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2008年10月15日水曜日

ここは天国

「ここは天国さ」

 男は、ぽつりと、そう言った。
 特に誰かに言って聞かせようとした言葉ではなかったようだ。その証拠に、男の周りには連れが見あたらない。一人でコニャックのグラスを傾けている。そして終始うつむき加減の姿勢を崩さない。
「なあ、そうだろ?」
 第三者から見れば、彼はグラスに向かって語りかけているように見える。
 バーテンは、いつもなら声を掛けていたところだったが、どうしようか迷っていた。 
 何となく、今は声を掛けない方が良いような気がしたのだ。これは、長年、経験を積んできたバーテンとしての勘によるものだ。
 幸いなことに、男の言葉はつぶやきのレベルで周りに聞こえている様子もなく、他の客に迷惑にならなければ自由にさせておいても構わないだろう。悩みを抱えて一人で酒を飲みたい客だっている。

 すると、隣の空席がいつまで経っても埋まらず、その空疎感に業を煮やしたらしい一人の女性客がやって来た。彼女は不安定な手つきでカクテルグラスをふらふらと宙に漂わせながら、カウンターの周辺をなめるように通過しながら男の隣にたどり着いた。目が完全に据わっていて、一目で泥酔しているのが分かる。
「ちょっとあんた、何一人でぶつくさやってんのよ」
 女はそう言うなりグラスを持たない方の手を腕ごと男の肩にまとわりつけてきた。物腰の一つ一つに有り余るほどの扇情的な動作が散りばめられていて、好戦的なまでだ。戦うという手段のためには目標や標的を選ばない、と言う空気が感じられる。
 男はちらりと女に目をやって、
「君はどう思う?」
 と聞いて、再び視線をグラスに向けた。男はあくまで冷静だった。
「何の話? あ、待って。小難しい話は無し。そんな気分じゃないの」
 女は男の肩に巻き付けていた腕をほどき、その指先を横からむりやり男の唇に当てた。巨大な胸を張り、艶めかしい微笑みを浮かべる。もう片方の手は、グラスを空中でふらふらとさせたままだ。
「色っぽい話にして」
 女はそう言うと男の顔をゆっくりと自分に向けさせ、その手を自分の口元に運び、さっき男の唇を塞いだ指先をちろりと舌先でなめ回した。
 男は自嘲的な色合いの強い小さなため息を、鼻でならした。
「ここは天国だろう?」
「残念ながら違うわ。でも道は知ってるから。あたしが天国まで案内してあげる」
「すまない。今日はあんまり気分が乗らないんだ。いつもなら… いや、別にいい」
「なあにぃ? 嫌なことでもあったのぉ?」
「いや、俺はいいんだ。俺のことはすこぶる順調だと言っていい。ただ、周りに色々と悩みを抱えてるやつが多くてね。そう言うことを色々と考えてたんだ」
「なにそれ。他人の悩みが悩みの種で、悩んでるうちにあんたが悩み始めて余計に悩み深くなったってこと? ん? 合ってる? 今の」
「だいたい合ってる」
 女はさっき舐めた指先を男の頬に軽く突き刺してぐりぐりとこね回していた。
「もう、そんなの忘れちゃいましょうよぉ」
「そうしたいんだがね。なかなかそうはいかなくて」
「わかった。あんた、カウンセラーか何かでしょう。人の悩みを聞き過ぎて食傷気味になっちゃったんだわ。きっと」
 男は『おや』と言う顔をした。
「よくわかったな。その通りだ」
「ほんとに!? わあ、当たっちゃった! ねえねえ、私の悩み、ただで聞いてくれない? あんたたち、聞き上手なんでしょ?」

 バーテンは、一度カウンターの奥の厨房に姿を消して、しばらくしてから戻ってきた。
「Mさん、お電話が来てるんですが、お繋ぎしますか?」
 男は何かが顔に当たったのだけれど、何が当たったのか全く分からない、と言う顔をして、
「俺に電話?」
「ええ。すみませんが、コードレスフォンではないので、奥でとっていただけますか」
 M氏は何となく合点がいかないような顔をしつつも、バーテンの言葉に従った。
 バーテンは店の奥にM氏を連れて行き、
「すみません。電話は嘘です。少々、ご気分が優れないように見受けられましたので。あの女性は退屈が我慢できない方ですから、もうしばらく待っていれば、河岸を変えてくれますよ。それとも、余計な気配りとなってしまったでしょうか?」
「いやいや。そんなことだったとは。ありがとう。正直、助かったよ」
 バーテンは、人の良い笑顔を浮かべて、
「では、こんな所では何ですので、こちらへ」
 と言って、厨房の奥の扉を開いた。
 そこには小さなベランダがあって、控えめな大きさの丸テーブルとデッキチェアが二つ、テーブルの両脇に置かれていた。そこはバーテンが気晴らしに寛ぐための場所だという。
「地味ですが、この世の天国と言えなくもないですよ」
 ベランダからは都市の夜景が一望できた。さすがにビルの裏側なので百万ドルの夜景、とはいかないものの、それは十分に美しい光景だった。
「すごいね。悩みを忘れそうだ」
 男は思わずそう言った。
「常連さん専用です。ただ、予約は出来ませんので、そこはご勘弁を。頃合いを見計らってまた声を掛けます。それまでごゆっくりどうぞ。まあ、今日はMさんの貸し切りでもいいですけれど」
「なんだか逆に、すまないね」
「いえいえ、とんでもない。ぜひまたお越しいただければ幸いです」
「来るよ、もちろん。むしろ回数が増えそうだ」

 バーテンがカウンターに戻ると、さっきの女がグラスを空にして待っていた。
「どう? うまくいった?」
「完璧。これであの人も店に足を運ぶ回数が増えるだろう」
「でも、来る度にまたベランダ使わせろって言うんじゃない?」
「その時は先に使っている人がいるって言うさ。あの夜景は、本来僕だけのものだからね」
「ふうん」
「また頼むよ。ありがとさん」
「いいのよ。あたしはタダ酒が飲めれば。お芝居してるのもおもしろいしね」
「そりゃよかった」
「でもたまには、あたしにもあのベランダ使わせてよ。色っぽいサービスしてあげてもいいわよ」
 バーテンは、ちらりと女の顔色を見た。
「そうだな。こんど店が暇なときにでも」

2008年10月13日月曜日

 毒って、何だろうねえ…

 ある人に言われたのさ
「君の作品には毒が足りないね」

 そして考えるわけさ



 毒………

 ただ単に不快な物事を描けばいいのかな?

 試しに『毒舌』を辞書で引いてみる。

『毒舌』
 →辛らつな皮肉や悪口を言うこと

『皮肉』
 →事実と逆の事を言って遠回しに相手の弱点を突く事

 だそうだ。



 うーーーーんんんん
 もうちょっと、批判的になれ、と言う事かな!?

 ひひん。すみませんねえ。
 頭痛の種をばらまいてみました。。。。。

2008年10月12日日曜日

とっておきの話

「とっておきの話を教えてやる」
 先輩は部室でただ暇を持て余しているだけの僕のそう切り出した。
 この人はまじめな顔をしてどこまでが冗談なのかわからないような話をするのが好きな人だ。
「何ですか? 聞かせて下さい」
「みんな今の世の中は電力でほとんどのものが動いていると思っているようだが、実はそうではない。あれは全て小人の仕業なんだ」
「はい?」
「小人だ。知らないのか」
「小人ってアレですよね、七人の小人とか、ディズニー的な」
「違う! 全く種類、いや人種と言うべきか… 人種が違う!」
「小人に人種なんてあったんですか?」
「当たり前だ。おまえ、小人がみんな日本語をしゃべるとでも思っていたのか?」

 はっきり言って小人が日本語をしゃべるのかどうかすら想像もつかないが、あえてそれは言わないでおいた。先輩の目は大まじめなものに見えたからだ。正直言って怖い。
 しかし聞かない訳にはいかない。後で部の他のメンバーと酒の肴にするのだ。何なら多少と言わず尾ひれをつけて話を拡大させてしまいたい。意味もなく気楽に楽しい時間を過ごせる期間はそう長くはない。笑える話をとことん笑い尽くすのが、学生たる立場を得た者の使命というものだ。

「まあいい」
 と先輩は言ってふてくされたようにパイプいすの背もたれにドカッと体重をかけた。
 こんな所で話を終わらせていただく訳にはいかない。僕はそれとなく先輩に話を先に進めるよう、失礼のない言葉遣いで促した。
「あのな、小人はみんな小さいんだ。『小人』と字で書いた時のイメージ以上に小さいと言える。いや、一文字で表現できる小ささではそもそも無いんだよ」
「どのくらい小さいんですか」
「顕微鏡で覗いてもぎりぎり輪郭が解る程度の小ささらしい」
 と言う話しぶりからすると、誰かから伝え聞いた話であるらしい。
 いったい誰に担がれたものやら。と言うかその前に信じないでもらいたいものだが。あなたは頭がメルヘンに包まれた設定のデビュー直後のアイドルか何かですか? とツッコミを入れたくなる。

 以前、「そんなんでよく受験受かりましたね」と失礼な事を酒の席で勢い余って聞いたやつがいたが、先輩は怒るどころか機嫌を損ねたそぶりすら見せず、
「俺は素直なんだ。人の言う事はすぐ信じる。もちろん教科書や参考書の内容もな。だから人よりも勉強ははかどるのだ」
 と言って不敵な笑みを浮かべて見せていた。

「じゃあ、電器はどうして光るんですか?」
 と僕は質問を続けた。
「小人は体が光るんだ。蛍が強烈になったような光を、だいたい十人ぐらい集まると出せるようになるという話だ」
「じゃあ、車とか電車が走っているのは?」
「あんなもん、人力に決まっているだろうが。大きなパワーが必要とされるところにはそれだけ無数の小人たちが集まって汗を流しているということだ。我々は小人たちに感謝しなければいかんのだ、本当は」
 なんだか妙に理屈が通っているような感じだ。
「この話って、電子を小人に例えた事だったりは……」
「解ってないな、お前。科学なんて空想で妄想の世界なんだよ。理屈をごねまわして解ったような事言ってるだけで、中身なんかなんもありゃしない。そもそも俺は文系だからな。理系の奴らが何言おうと知ったこっちゃ無いね」
 先輩は独自の偏見的価値観を表明し、ふん、荒い鼻息をたてた。
 ひょっとしたら理系の女の子に手ひどく振られたりでもしたのかな、などと僕が思っていると、始業のベルが構内に鳴り響いた。あいにく僕の時間割のこの時間帯における部分は空白なので、あわてる事もない。
 先輩は
「ま、いっか」
 と言ってカタカタと手持ちの荷物をまとめて部室を出て行った。

 再び暇になった僕は、科学的、文明的なエネルギーを小人が代替している社会について思いを巡らし、それはなかなか楽しそうな世界だと思えたので、酒の肴の尾ひれはひれを考え続けながら、夜が来るのを待った。

2008年10月11日土曜日

よく乾いたTシャツ

 好天に晒されてぱりっと小気味よく乾いたTシャツを頭から一気にかぶると、上半身が心地良い感触に包まれる。
 どことなく沈みがちになっていた週末の気分など、まるできれいさっぱり無かったことのように忘れることが出来る。
 よく乾いたTシャツには、そんな力がある。

 コウイチは日曜日の朝早くから溜まっていた洗濯物を片付け、昼の時間が始まる前にはそのほとんどがすっかり乾いてしまった。
 目が覚めたのは、まだ始発電車も動き出していないくらいの時間だった。

 土曜日は久々に仕事が早めに片付いて、コウイチはそそくさと家に帰り、早くも睡魔に襲われてふらふらになる頭と体を振り絞って風呂に入り垢を落とし、夜の始まる頃にはもうベッドの中で熟睡していたのだ。
 おかげで早い時間に目が覚めて、頭もすっきりとしていた。
 しばらく頭痛に悩まされる日々が続いていたのに、頭の奥に腫瘍のように住み着いてしまった重い感覚が、嘘みたいに無くなっていた。Tシャツ一枚でこんな気分になれるのなら、普段から早起きしてみるのも悪くない、とコウイチは思った。

 あまりの気分の良さに、コウイチは携帯電話を手にとって、短縮ダイヤルの一番最初に登録してある相手に電話をかけた。
 ………
 ……
 …

 八回目のコールでようやく反応があった。
「………何?」
 明らかに機嫌が悪い。
「起きてた?」
「寝てたわよ」
「おれ、今日ものすごく早く起きて、洗濯なんかももう終わっちゃって、それで、天気が良いからさ、Tシャツがカラッカラに乾いて気持ちいいんだ」
「……」
「何か知らないけど最近悩まされてた頭痛もなくなっちゃってさ。早起きって良いもんだね」
「……あ、そう。そりゃ良かった」
「君もやってみたら。この清々しさは、きっと病みつきになるよ」
「ねえ」
「うん?」
「いきなり電話してきて、言いたいことはそれなの?」
「そう」
 受話器の向こうからは深いため息が聞こえた。その一息で空を曇らせる大きな雲が生まれるのではないかと思えるほど雄弁なため息だった。
「あたしの日曜の楽しみはね、布団の中で昼過ぎまでだらーっとごろごろしながら二度寝三度寝を味わってもうダメって言うぐらいまで怠けきって怠け尽くすことなのよ。今何時だと思ってるの? まだ十時よ、十時! しかも午前! 私にとっては明け方よ。早朝で曙で暁で東雲なの! いくら太陽が昇っても、私の一日はまだ始まらないの。解った?」
「ああ、うう」
「じゃ、おやすみ」
「うおうん」
「あとね、こういう電話は自分の彼女に向けてしなさい。迷惑」
 電話は切れた。
 彼女の最後の台詞はコウイチの耳に残って離れなかった。
 あれは腹立ち紛れのジョークだろうか? 彼女はドSだし。それとも、僕は今まで何かとんでもない勘違いをしていたのだろうか?
 コウイチは、だんだん頭が痛くなってくる気がした。

2008年10月2日木曜日

近況

 なんだかんだ過ごしているうちに、季節は秋を迎えようとしている。
様々な種類のカレンダーに示された日付に目を向けてその目を丸くしているのは、おそらく僕だけではあるまい。
毎月同じことを感じてしまうのだから、自分の怠慢さにはわれながら辟易してしまう。


 わが自宅には三台のパソコンがあり、そのうちの二台はマッキントッシュ、一台はウィンドウズ機という構成だ。
 マッキントッシュの二台のうち一台はノートパソコンであり、初めに買ったデスクトップ機の次にセカンドマシンのつもりで買ったのが iBook だったのだが、自宅の外に出てぺちぺちとキーボードを撃つ快適さにちょっとずつはまっていくうちに、この二台の役割は次第に変化していった。
 そのうちにデスクトップのほうが悪いものでも食ったのか、次第に元気をなくしてろくにDVDの再生もおぼつかなくなるにつけ、三代目のウィンドウズマシンの購入に踏み切ったというのが、一人暮らしの部屋に三台ものマシンが居を構えた経緯なのだが・・・

 いつの間にかファーストマシンと化していた我が愛しの iBook が、八月の熱のこもった室内の空気に根を上げて、カキン、カチンという異音とともにお陀仏となってから早くも一ヶ月以上の時が過ぎた。
 数年使い続け、なにやら最近挙動がおかしいかもしれない、と思っていながらもさしたる対策も打たず、漫然と使い続けたことへの当然の帰結というべきか、あるいはいつの間にか自我を宿したわが愛機が使い主のあまりのいい加減さにうんざりして回復不能なレベルでへそを曲げてしまったものか。
 などとなんともしまりのない戯言をくどくどと頭の中で繰り返したのは、ここ半年ほどの間に書き溜めた原稿の一部が外部にバックアップを取っていなかったためであり、当然ながら多くの原稿データが自分の手元から失われてしまったショックから、なかなか抜け出せなかった所為であるのだろう。それ以外に陰鬱な空気に包まれた我が八月後半を説明する事象は思いつかない。

 とにかくも過去のデータをあきらめて、なおかつ手書きへの移行を開始し、遊び専門の仕様でしか考えていなかったウィンドウズマシンをこうして文章作りに使い始めるまでに結構な時間を費やしてしまったのは、 MacOS から離れていくことにマックユーザー独特の強い抵抗を感じていたからに他ならない。
 まあ、無駄な時間をすごしたことには変わらないのだが…


 悲しいことに新しいハードを購入する資金に乏しいためしばらくはこの体勢を続けるしかない。
 まあ、こうなってみればなったでお気に入りの原稿用紙を選んだり、手になじむペンを探したりするのも案外楽しめる。いや、楽しむほかはないのである。
 そうさ! 俺は十分楽しんでいるのだ、この状況を!


 時々こうして自分を鼓舞しているのが最近の自分によく見られる傾向であるのです…



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