短編を書くつもりで始めたものが、書いているうちに
(なんだかおわらねえなあ)
と思っていたら、ずるずるといつの間にか原稿用紙換算で100枚を軽々と突破しているのだが、こんなペースですかすかと筆が進むのもそれはそれでいいとして、いい加減、
(果たしてこれはなんの話なのだろう?)
と言う疑問を自分自身に投げかけている今日この頃だ。
短編は勢いで書ききるものだと思っているのだけれど、その勢いが爆発を迎えないままに中火のまま継続していて、そろそろ短編と呼ぶには厳しい長さになってきた場合、これはもう長編なのだという、あきらめにも似た頭の切り替えが必要になってくる。
野放図に、思いつくまま気の向くままの筆任せ(余談ですが、こうしていると「筆」と言う単語はすでに比喩になってしまっていますねぇ。。。)というのも旅としては楽しいのだが、自分以外の他者に向けて作られるものとしては、ちぐはぐさを免れない。
やはりどこかで物語を閉じなければならないのだ。
『閉じる』、というのはこの場合『終わらせる』と言う意味ではなく、『範囲を区切る』、ということだ。
この作業が、物語の世界観を規定していくことに繋がるのだと、自分では思う。『閉じる』作業を始めたと時点で、物語の設計が始まるし、その世界におけるルールが決められていく。
先の見えない旅に終わりを設定することは、実はつまらない。
自分としては、どこまでもどこまでも行き先未定、宿不定、計画なしの気ままな旅を続けたいという願望があって、それを自ら放棄するようなことは出来ればしたくない。それが偽らざる心情でもあるが、文章には読者という話し相手が存在するので、僕は相手に何かが伝わるような言葉を考えなければならない。
物語を作りたいという願望と、そこに同時に発生してしまうジレンマに、なんとなく思いを馳せた今日なのです。
2008年11月30日日曜日
2008年11月29日土曜日
名も無き動物たち.12
どうせ自分を変えるなら、『女豹』が良い、と太めのウサギが言い出したとき、番犬は「そりゃいいや」と笑っていたが、その発言がどうやら本気らしいと分かってくると、番犬はしだいに不平を言い出した。イメージと違いすぎる、と言うのである。
「アタシに言わせれば、カモシカの方がよっぽど遠いわよ。アンタ、カモシカって見たことある? 実物はかなりもっさりした雰囲気醸し出してる生き物なのよ」
と、自称女豹が言うと、
「いやー、でもなあ、女豹ってのはなあ……ちょっとイメージが違うんだよなあ……いわゆるひとつのセックスシンボルって言うか、その、ちょっと……イメージがなあ」
「なによ。やっぱりアタシのことただのデブだって思ってるんでしょう。ねえ、羊さん。羊さんでいいのよね? アタシが女豹と名乗ったって別におかしくは無いわよねえ?」
「……あまり肉食獣には見えんがな」
「あらそう? これでも毎日牙を磨いているんだけど……そんなにおとなしく見えるかしら?」
「いやー、何でもいいけど他の動物考えようよ」
番犬は特別なこだわりがあるのか、この件に関しては執拗なまでに抵抗した。今のところ自称の女豹と番犬の不毛な言い合いに決着が付くような兆しは何もなかった。
話を少しさかのぼる。
羊が捕えられていた館から脱出したあと、ウサギの腕を後ろ手にひねり上げている番犬に向かって、羊は
「手を放してやれ」
と言った。
番犬は、
「いいのかい?」
と言ったが、特に抗議するわけでもなく、女の手を自由にした。
女はそれでも体全身で戒めをふりほどくようにして、番犬と距離を取ると、自分の左右にいる二人の男を交互に見て、外に出るなりさっそく羊の皮を被った男に向かって言った。
「どういうつもり?」
「飯の礼だ。それに、頼みがある」
「嫌だと言ったら?」
「困るが仕方ない。でもとりあえず聞いてくれ。俺が世話になったもう一匹のウサギのことについて知りたいんだ。あいつは今どこにいる?」
「知らないわ。知ってても教えないし」
「ハイエナはあいつに罰を与えると言っていた。あいつはどんな目に遭っている?」
「だから、知らないって」
「俺たちに脅されたということにすればいい。場所だけでもいい」
「ちょっと、人の話、聞いてる?」
「聞いているが、聞けない。それに、教えてくれなければ、解放してやることも出来ない」
「へえ。場所を教えたら、アタシをすぐに放してくれるの?」
「正直に言うと時間は稼ぎたい。今すぐにとは言えないが、約束する」
ウサギは羊となった男の顔を、しばらくじっと見ていた。
「こだわるわね。そのウサギさんに惚れちゃったの?」
「……あいつは俺の目の前で泣いた。だから、あいつが苦しんでいるのなら、俺はあいつを助けてやりたい。それだけだ」
「ご立派ね」
ウサギはなおも男の顔を見ていた。しかし、その視線はずるずると男の目の中に吸い込まれていく。
羊の皮の奥で光る、野生の目。
「似合わないわねえ、その格好」
ウサギはそういって、男の提案を承諾したのだった。
「アタシもよくは知らないのよ。ただ、いろいろ聞いてた話を総合すると、場所は間違いなくあそこだと思うのよね」
ふくよかなウサギはつやのいい頬に人差し指をあてながら、頭の中の情報を整理しているようだ。
「場所が分かればいいさ。……しかし、女豹というのはなんだか呼びにくいな」
「もう、いいわよ、それ。アタシじゃなくて、あなたの愛しのウサギさんに呼び方を変えてもらったらどう? 丘の空気におぼれかけてる人魚姫ってあたりでいいんじゃない」
「それはちょっと設定に無理があるんじゃねえかい?」
「アンタは黙ってなさいよ」
呼び名の問題に関してはなかなか決着が付きそうになかった。
「アタシに言わせれば、カモシカの方がよっぽど遠いわよ。アンタ、カモシカって見たことある? 実物はかなりもっさりした雰囲気醸し出してる生き物なのよ」
と、自称女豹が言うと、
「いやー、でもなあ、女豹ってのはなあ……ちょっとイメージが違うんだよなあ……いわゆるひとつのセックスシンボルって言うか、その、ちょっと……イメージがなあ」
「なによ。やっぱりアタシのことただのデブだって思ってるんでしょう。ねえ、羊さん。羊さんでいいのよね? アタシが女豹と名乗ったって別におかしくは無いわよねえ?」
「……あまり肉食獣には見えんがな」
「あらそう? これでも毎日牙を磨いているんだけど……そんなにおとなしく見えるかしら?」
「いやー、何でもいいけど他の動物考えようよ」
番犬は特別なこだわりがあるのか、この件に関しては執拗なまでに抵抗した。今のところ自称の女豹と番犬の不毛な言い合いに決着が付くような兆しは何もなかった。
話を少しさかのぼる。
羊が捕えられていた館から脱出したあと、ウサギの腕を後ろ手にひねり上げている番犬に向かって、羊は
「手を放してやれ」
と言った。
番犬は、
「いいのかい?」
と言ったが、特に抗議するわけでもなく、女の手を自由にした。
女はそれでも体全身で戒めをふりほどくようにして、番犬と距離を取ると、自分の左右にいる二人の男を交互に見て、外に出るなりさっそく羊の皮を被った男に向かって言った。
「どういうつもり?」
「飯の礼だ。それに、頼みがある」
「嫌だと言ったら?」
「困るが仕方ない。でもとりあえず聞いてくれ。俺が世話になったもう一匹のウサギのことについて知りたいんだ。あいつは今どこにいる?」
「知らないわ。知ってても教えないし」
「ハイエナはあいつに罰を与えると言っていた。あいつはどんな目に遭っている?」
「だから、知らないって」
「俺たちに脅されたということにすればいい。場所だけでもいい」
「ちょっと、人の話、聞いてる?」
「聞いているが、聞けない。それに、教えてくれなければ、解放してやることも出来ない」
「へえ。場所を教えたら、アタシをすぐに放してくれるの?」
「正直に言うと時間は稼ぎたい。今すぐにとは言えないが、約束する」
ウサギは羊となった男の顔を、しばらくじっと見ていた。
「こだわるわね。そのウサギさんに惚れちゃったの?」
「……あいつは俺の目の前で泣いた。だから、あいつが苦しんでいるのなら、俺はあいつを助けてやりたい。それだけだ」
「ご立派ね」
ウサギはなおも男の顔を見ていた。しかし、その視線はずるずると男の目の中に吸い込まれていく。
羊の皮の奥で光る、野生の目。
「似合わないわねえ、その格好」
ウサギはそういって、男の提案を承諾したのだった。
「アタシもよくは知らないのよ。ただ、いろいろ聞いてた話を総合すると、場所は間違いなくあそこだと思うのよね」
ふくよかなウサギはつやのいい頬に人差し指をあてながら、頭の中の情報を整理しているようだ。
「場所が分かればいいさ。……しかし、女豹というのはなんだか呼びにくいな」
「もう、いいわよ、それ。アタシじゃなくて、あなたの愛しのウサギさんに呼び方を変えてもらったらどう? 丘の空気におぼれかけてる人魚姫ってあたりでいいんじゃない」
「それはちょっと設定に無理があるんじゃねえかい?」
「アンタは黙ってなさいよ」
呼び名の問題に関してはなかなか決着が付きそうになかった。
2008年11月22日土曜日
ある旋回にまつわる僕の同調
船は出航するところだった。
汽笛が咆哮をあげ、舫が解かれ、緩やかに離岸する。
時間ぎりぎりで、僕は乗船することが出来ていた。
行く先を決めない旅の途中でも、こういったひとつひとつの出発は、胸の奥に沸々と新鮮な期待を沸き上がらせてくれる。
手持ちの荷物は少ない。
僕はすぐに船室には向かわず、船側のデッキを散策することにする。港に接していた側を通って先端へゆっくりと移動する。外周をぐるりと一回りするわけだ。
海へ出るために、船はゆっくりと旋回していくので、その流れと少しずれながら流れる景色を不思議な感覚で楽しむことが出来る。
乗船するまで少し走っていたので、心臓の鼓動がまだ波長の短いビートを打っている。
高揚感は錯覚だろうか?
肉体的な代謝活動に精神がリンクしてしまっただけなのかも知れない。
それでもやはり、僕は期待する。
まだ見ぬ土地。見知らぬ人との出会い。
自分が初めて現実的にリンクする事の出来る全てのものが、我知らず僕を待ち受けている。
選手が港へ背を向けた。
僕もそれに同期する。
海はどこまでも広がっている。
汽笛が咆哮をあげ、舫が解かれ、緩やかに離岸する。
時間ぎりぎりで、僕は乗船することが出来ていた。
行く先を決めない旅の途中でも、こういったひとつひとつの出発は、胸の奥に沸々と新鮮な期待を沸き上がらせてくれる。
手持ちの荷物は少ない。
僕はすぐに船室には向かわず、船側のデッキを散策することにする。港に接していた側を通って先端へゆっくりと移動する。外周をぐるりと一回りするわけだ。
海へ出るために、船はゆっくりと旋回していくので、その流れと少しずれながら流れる景色を不思議な感覚で楽しむことが出来る。
乗船するまで少し走っていたので、心臓の鼓動がまだ波長の短いビートを打っている。
高揚感は錯覚だろうか?
肉体的な代謝活動に精神がリンクしてしまっただけなのかも知れない。
それでもやはり、僕は期待する。
まだ見ぬ土地。見知らぬ人との出会い。
自分が初めて現実的にリンクする事の出来る全てのものが、我知らず僕を待ち受けている。
選手が港へ背を向けた。
僕もそれに同期する。
海はどこまでも広がっている。
2008年11月21日金曜日
名も無き動物たち.11
街は、何時になくざわついていた。
そこで生きている誰もが、いつもの生活を同じように繰り返しながらも、その日を楽しんだり何とかしのいだりしていたが、どこか気持ちの片隅で落ち着かないものを感じていた。何となくそういう雰囲気である、と言うことでしかないのだが、みんなそれをどう表現して良いのか判らずに困惑しているようだった。
(何かが起こる)
そんな予兆のようなものが街に漂い、空気を異質なものに染めていた。
時間だけが何も変わらずに経過していく。
力をつけてきたとは言え、ハイエナは街の中ではまだまだ新参者だった。
狂犬を叩きのめして、さらに名声を上げることに成功はしたものの、何時までもその感傷に浸っていられる訳ではなかった。
既存の勢力との戦い。
自分の組織内部の統制の維持。
そのための資金調達。
公権力への根回し。
やることはいくらでもあったし、そのどれもが重要で、何一つおろそかには出来ない類のものだった。
ハイエナはほとんど毎日ろくに寝る暇もなかったし、疲れ切っていた。自分の作り上げた組織をさらなる高みに育て上げていくことに全力を傾けてきたが、狂犬との一件で、緊張感の糸が切れていたのかも知れなかった。
そんな彼の耳に届いた知らせは、彼を困惑させ、落胆させ、憤らせ、目を覚まさせるのに十分なものだった。
一報を胸中に抱いたハイエナの舎弟は、怖ず怖ずと彼の耳元に口を寄せ、
『狂犬が、ウサギをさらって逃亡した』
と告げたのだった。
かつて狂犬であり、それから羊になり、そして一度その羊の皮を剥ぎ取られた男を暗く狭い牢獄のような部屋から救い出したのは、牧場で羊の群れを追いかけ回していた番犬だった。
番犬は、その後けっきょく牧場から逃げ出して、羊の後を追ってこの街までやっとの事でたどり着いたのだと言った。番犬は耳が良かったので、街を表から裏まで聞き耳を立てながら歩き回り、大小様々な情報を集め、吟味し、それぞれの情報の関連部分を整理してあの小さな部屋まで到達したのだ。
捕えられていた男がみた鏡の中の目は番犬のものだったのだ。
今、彼らはハイエナのいた街を離れ、なるべく人目に付く道を避けて移動している。
番犬は、自分がいかに完璧な逃亡劇を立ち回ったかということを、しきりに自慢していた。念のため、小太りのウサギを人質にしてさらっていく事にしていたが、後になってそれがその後の展開に非常に有効に働く結果となったことが、さらに彼の機嫌を良くしていた。
「ねえちゃんさあ、ウサギなんかやってないで、カモシカになりなよう」
番犬はしきりにウサギに話しかけていた。
ウサギは特に戒めを掛けられることもなく、比較的自由な状態で歩いている。彼女が人質の身分だとは、端から見てすぐに判断は出来ないだろう。
「あんた、馬鹿にしてんの? アタシみたいなころころした体つきのシカなんかいないっての」
ウサギは馬鹿にしたような目を番犬に向けた。
「いや、変わると思うんだよなあ。きれいな足してるしよう。その体格の割には足首、ほっそいしよう。その気になればすぐやせるって」
「ちょっと、変な目で見ないでよね」
再び羊の皮をかぶった男は、番犬と小太りウサギの会話を聞きながら、黙々と歩いていた。
「だいたいさあ、これからもう一匹のウサギを助けに行くんだろう? ウサギさんが二匹いたら色々と話がややこしくなるじゃねえか。あんたがその可能性のある脚線美を自覚してそんなウサギの格好なんかやめてくれれば、分かりやすくなるんだけどなあ。それってあんたの趣味なの?」
「ハイエナがこういうの好きなのよ。あいつ、女は全部ウサギにしちゃうの。実を言うとこの体格も、ハイエナの好みに合わせた結果なのよ」
「うへえ。なんだそりゃ。そうなのかい?」
「アタシけっこう気に入られてるんだからね。あんた、こんなことして、後からどうなっても知らないわよ」
「へん。俺は逃げ足だけは速いんだ。それに」
番犬は少し前を歩く羊の皮をかぶった男の背中に目を向けた。
「このあんちゃんがいれば、大丈夫さ」
「どうだかね……」
「それよりさあ、カモシカの話、考えてくれよう? カモシカが嫌ならバンビでも良いからさあ」
「……言ってること無茶苦茶ね。意味分かってるのかしら。ああそうだ、知ってる? 『カモシカのような足』って言うときの『カモシカ』って、本当はカモシカじゃなくてレイヨウのことを言うのよ」
「へ? レーヨー?」
「レイヨウ。知らないの?」
「なんだそれ?」
「レイヨウはレイヨウよ」
二人の会話は、少し前を歩く男の耳に不思議と心地良く響いていた。
男は、羊の皮がだんだんと体に馴染んできて、再び羊的な気分の自分に戻ってきていた所だった。
(俺は羊だ。今はそれで良い)
羊は拘束具を当てられていた手首の部分をさすった。枷を嵌められてついた跡が、まだ残っていた。
そこで生きている誰もが、いつもの生活を同じように繰り返しながらも、その日を楽しんだり何とかしのいだりしていたが、どこか気持ちの片隅で落ち着かないものを感じていた。何となくそういう雰囲気である、と言うことでしかないのだが、みんなそれをどう表現して良いのか判らずに困惑しているようだった。
(何かが起こる)
そんな予兆のようなものが街に漂い、空気を異質なものに染めていた。
時間だけが何も変わらずに経過していく。
力をつけてきたとは言え、ハイエナは街の中ではまだまだ新参者だった。
狂犬を叩きのめして、さらに名声を上げることに成功はしたものの、何時までもその感傷に浸っていられる訳ではなかった。
既存の勢力との戦い。
自分の組織内部の統制の維持。
そのための資金調達。
公権力への根回し。
やることはいくらでもあったし、そのどれもが重要で、何一つおろそかには出来ない類のものだった。
ハイエナはほとんど毎日ろくに寝る暇もなかったし、疲れ切っていた。自分の作り上げた組織をさらなる高みに育て上げていくことに全力を傾けてきたが、狂犬との一件で、緊張感の糸が切れていたのかも知れなかった。
そんな彼の耳に届いた知らせは、彼を困惑させ、落胆させ、憤らせ、目を覚まさせるのに十分なものだった。
一報を胸中に抱いたハイエナの舎弟は、怖ず怖ずと彼の耳元に口を寄せ、
『狂犬が、ウサギをさらって逃亡した』
と告げたのだった。
かつて狂犬であり、それから羊になり、そして一度その羊の皮を剥ぎ取られた男を暗く狭い牢獄のような部屋から救い出したのは、牧場で羊の群れを追いかけ回していた番犬だった。
番犬は、その後けっきょく牧場から逃げ出して、羊の後を追ってこの街までやっとの事でたどり着いたのだと言った。番犬は耳が良かったので、街を表から裏まで聞き耳を立てながら歩き回り、大小様々な情報を集め、吟味し、それぞれの情報の関連部分を整理してあの小さな部屋まで到達したのだ。
捕えられていた男がみた鏡の中の目は番犬のものだったのだ。
今、彼らはハイエナのいた街を離れ、なるべく人目に付く道を避けて移動している。
番犬は、自分がいかに完璧な逃亡劇を立ち回ったかということを、しきりに自慢していた。念のため、小太りのウサギを人質にしてさらっていく事にしていたが、後になってそれがその後の展開に非常に有効に働く結果となったことが、さらに彼の機嫌を良くしていた。
「ねえちゃんさあ、ウサギなんかやってないで、カモシカになりなよう」
番犬はしきりにウサギに話しかけていた。
ウサギは特に戒めを掛けられることもなく、比較的自由な状態で歩いている。彼女が人質の身分だとは、端から見てすぐに判断は出来ないだろう。
「あんた、馬鹿にしてんの? アタシみたいなころころした体つきのシカなんかいないっての」
ウサギは馬鹿にしたような目を番犬に向けた。
「いや、変わると思うんだよなあ。きれいな足してるしよう。その体格の割には足首、ほっそいしよう。その気になればすぐやせるって」
「ちょっと、変な目で見ないでよね」
再び羊の皮をかぶった男は、番犬と小太りウサギの会話を聞きながら、黙々と歩いていた。
「だいたいさあ、これからもう一匹のウサギを助けに行くんだろう? ウサギさんが二匹いたら色々と話がややこしくなるじゃねえか。あんたがその可能性のある脚線美を自覚してそんなウサギの格好なんかやめてくれれば、分かりやすくなるんだけどなあ。それってあんたの趣味なの?」
「ハイエナがこういうの好きなのよ。あいつ、女は全部ウサギにしちゃうの。実を言うとこの体格も、ハイエナの好みに合わせた結果なのよ」
「うへえ。なんだそりゃ。そうなのかい?」
「アタシけっこう気に入られてるんだからね。あんた、こんなことして、後からどうなっても知らないわよ」
「へん。俺は逃げ足だけは速いんだ。それに」
番犬は少し前を歩く羊の皮をかぶった男の背中に目を向けた。
「このあんちゃんがいれば、大丈夫さ」
「どうだかね……」
「それよりさあ、カモシカの話、考えてくれよう? カモシカが嫌ならバンビでも良いからさあ」
「……言ってること無茶苦茶ね。意味分かってるのかしら。ああそうだ、知ってる? 『カモシカのような足』って言うときの『カモシカ』って、本当はカモシカじゃなくてレイヨウのことを言うのよ」
「へ? レーヨー?」
「レイヨウ。知らないの?」
「なんだそれ?」
「レイヨウはレイヨウよ」
二人の会話は、少し前を歩く男の耳に不思議と心地良く響いていた。
男は、羊の皮がだんだんと体に馴染んできて、再び羊的な気分の自分に戻ってきていた所だった。
(俺は羊だ。今はそれで良い)
羊は拘束具を当てられていた手首の部分をさすった。枷を嵌められてついた跡が、まだ残っていた。
2008年11月17日月曜日
名も無き動物たち.10
鳥だろうか?
格子のはまった窓の枠をひらひらと動いたものが何なのか、はじめは男には分からなかった。
自分が犬だろうが、羊だろうが、そんなことは今や独房のような部屋の床の上ではどうでも良かった。豚でもシマウマでも、或いはキリンでもアライグマでもそれは同じ事なのだろう。
ただ、鳥にはなってみたいと思う。
空を飛べるものは、やはり特別だ。我々は重力の軛から逃れられず、いつまでも地に足をつけているしかない。だからこそ、整備された道や固定されたレールが必要になる。我々は自ら決められた道を歩むことを強いられた存在なのだ。
そんなことを、男は考えていた。
しかし格子窓の隙間から入ってきたものが、一瞬ちいさく鮮やかな白い光を放ったとき、男は自分の思考から抜け出し、視界に映るものを見定めた。
それは、鏡を持った手だった。
鏡は窓から少し侵入したところでくるりと下に向けられ、その際に光を放ったのだ。
男には、鏡の向こうにあるものの姿が見えた。
それは、誰かの目だ。誰のものかは判らない。しかし、その目は確かに男の視線を受け止め、何か語りかけてくるようにも見えた。
男は、横で自分の考えに浸り続けるウサギの姿を確かめた。
どうやら、室内に訪れた異変にはまだ気付いていない。うつろな目は、部屋の壁と床の間を彷徨ったままだ。
男がまた窓を見ると、鏡の中の目はいちど男と視線が合ったのを確認(そのように見えた)すると、するすると窓の外に戻っていった。
(誰だ?)
男には、思い当たる節がなかった。
小太りウサギが思考の宇宙に沈んだまま浮かんでこないような状態で部屋から出て行った後、鏡の向こうの目の主が誰なのか、男は考えていた。
あのような形で中の様子を確かめようとする者が、誰かいるだろうか?
ひょっとしたら、あれはハイエナの目だったかも知れない。そうも考えた。しかし、あれがハイエナだったら、奴は目があった瞬間に視線を反らしていただろう。
(ハイエナめ、ウサギにあれこれとさせていないで、自分で正面から直接聞きに来ればいいものを、面倒な奴だ)
ふとそのような思いが浮かんだが、思考の糸はすぐにまた元の流れに戻った。男は、街で会ったやせたウサギのことも考えたが、鏡の中現れた目は、彼女のか細い瞳のイメージとはほど遠かった。
あのやせウサギはどうなっただろう?
次に小太りウサギが現れたときには、その事を聞かなければならない、と男は思った。
あれこれと思いつくことが様々な方向に揺らぎ、男の思考はなかなか定まらなかった。
格子のはまった窓の枠をひらひらと動いたものが何なのか、はじめは男には分からなかった。
自分が犬だろうが、羊だろうが、そんなことは今や独房のような部屋の床の上ではどうでも良かった。豚でもシマウマでも、或いはキリンでもアライグマでもそれは同じ事なのだろう。
ただ、鳥にはなってみたいと思う。
空を飛べるものは、やはり特別だ。我々は重力の軛から逃れられず、いつまでも地に足をつけているしかない。だからこそ、整備された道や固定されたレールが必要になる。我々は自ら決められた道を歩むことを強いられた存在なのだ。
そんなことを、男は考えていた。
しかし格子窓の隙間から入ってきたものが、一瞬ちいさく鮮やかな白い光を放ったとき、男は自分の思考から抜け出し、視界に映るものを見定めた。
それは、鏡を持った手だった。
鏡は窓から少し侵入したところでくるりと下に向けられ、その際に光を放ったのだ。
男には、鏡の向こうにあるものの姿が見えた。
それは、誰かの目だ。誰のものかは判らない。しかし、その目は確かに男の視線を受け止め、何か語りかけてくるようにも見えた。
男は、横で自分の考えに浸り続けるウサギの姿を確かめた。
どうやら、室内に訪れた異変にはまだ気付いていない。うつろな目は、部屋の壁と床の間を彷徨ったままだ。
男がまた窓を見ると、鏡の中の目はいちど男と視線が合ったのを確認(そのように見えた)すると、するすると窓の外に戻っていった。
(誰だ?)
男には、思い当たる節がなかった。
小太りウサギが思考の宇宙に沈んだまま浮かんでこないような状態で部屋から出て行った後、鏡の向こうの目の主が誰なのか、男は考えていた。
あのような形で中の様子を確かめようとする者が、誰かいるだろうか?
ひょっとしたら、あれはハイエナの目だったかも知れない。そうも考えた。しかし、あれがハイエナだったら、奴は目があった瞬間に視線を反らしていただろう。
(ハイエナめ、ウサギにあれこれとさせていないで、自分で正面から直接聞きに来ればいいものを、面倒な奴だ)
ふとそのような思いが浮かんだが、思考の糸はすぐにまた元の流れに戻った。男は、街で会ったやせたウサギのことも考えたが、鏡の中現れた目は、彼女のか細い瞳のイメージとはほど遠かった。
あのやせウサギはどうなっただろう?
次に小太りウサギが現れたときには、その事を聞かなければならない、と男は思った。
あれこれと思いつくことが様々な方向に揺らぎ、男の思考はなかなか定まらなかった。
2008年11月13日木曜日
名も無き動物たち.9
小太りなウサギが聞いてきたことは、そのままハイエナが知りたいことなのだろうと思えた。
しかし改めて何故だ、と言われると、自分でも首をひねってしまう。
理由など考えたことがなかったのだ。
「俺は羊になる」
と言い残して街から離れたのは、ああしたい、こうしたい、こうなりたい、どこどこへ行きたい、と言うような具体的な願望や目標があっての事ではなかった。
感情の赴くまま、気持ちの流れるままに行動した結果だった。
それは、狂犬として暴れ回っていたときと何も変わらないはずだった。
それでも敢えて言うならば。
その、自分を動かした感情の発露として思い浮かぶ事と言えば。
一匹の羊が、自分を見ていた。
自分がまだ荒々しい狂犬であった頃。
敵を前にして拳を固める瞬間。自分の後ろを大勢の手下どもがぞろぞろと付いてくる様を振り返った時。あるいは隣町の誰彼が自分に挑戦してくるらしいとの報告を受け取った時などに、狂犬の脳裏には現実の視界とは別にもう一つの映像が立ち上がっていた。
群れから離れた一匹の羊が、自分を見ているのだ。
何かを語りかけてくるでもなく、行動に示すでもなく、ただ、こちらを見ている。
初めのうちはさほど気にもとめていなかったのだが、時を重ねるごとに羊が頻繁に現れてくるようになると、無視するわけにはいかなくなった。
狂犬は、時として、その羊と向き合った。
羊は相変わらず黙して語らず、狂犬の方から語りかけようにも、その術がまるで分からなかった。
狂犬は羊とにらめっこする時間が日に日に長くなっていったのだが、日常の出来事は相も変わらず続いていた。
闘いに明け暮れる日々。
しかし、際限のない渇望の象徴のようであった狂犬の怒りは徐々に力を落としていく。
羊の無表情な顔が目に焼き付いて離れなくなってゆく。
狂犬の精神の中で、何かが空回りしていく。
次第に、自分と、羊の区別が付かなくなる。
そのような混乱の中に、彼は人知れず陥っていたのだった。
男はその話をウサギに伝えると、自分で話しながらも、不思議と落ち着いた気分になった。ウサギはどう思うだろうか。荒唐無稽な雰囲気にあふれた話ではあるが、嘘ではない。
「それって、本当の話?」
しばらく男の話に聞き入っていたウサギが示した反応は、その台詞に凝縮されていた。真実か否か、測りかねているのだ。
「少なくとも、嘘ではない」
男がそう言うと、ウサギは部屋の壁と床の間の一角をうつろな目で眺め始めた。それがこの女がものを考えるときの癖なのだということに、男はもう気付いていた。
「じゃあ、あなたは羊になろうと思ったというよりは、訳の分からない力に押し流されるようにしてそうせざるを得なかった、と言うことになるのかしら?」
「どうだろうな。そんなに難しくあれこれ考えていた訳ではなかったから。衝動的なことだったのは、間違いないかも知れない」
「狂犬と呼ばれることが嫌になった、と言う理由では無かった、と言うことは言えるかしら?」
「無い。……それは、ハイエナの考えか?」
ウサギは、質問を無視した。肉付きの良い二の腕をふくらますように腕組みして、壁と床の間を見つめていた。
男は、気にしなかった。ごろりと床に仰向けになり、高い天井を見上げた。
窓のところに、何かが見えた。
ウサギは、質問を無視した。肉付きの良い二の腕をふくらますように腕組みして、壁と床の間を見つめていた。
男は、気にしなかった。ごろりと床に仰向けになり、高い天井を見上げた。
窓のところに、何かが見えた。
2008年11月9日日曜日
名も無き動物たち.8
囚われの身であるはずの男に運ばれてくる食事は、回を重ねるごとにどういう訳か次第に量が増え、内容もバラエティに富んだ豊かなものに変わっていった。
男はそれを訝しんだが、聞いてみたところで小太りウサギは何も説明しなかった。
彼女は男の質問に答えるような口ぶりでいつの間にか世間話を始めてしまうと言う特技に長けているようだった。
こちらから何か質問を飛ばしてみても、ウサギは先ずそれに答えるように
「こんな話があってね……」
と言う風に質問から連想される何かのたとえ話を始め、その話を解説するためにまた別のたとえ話を重ね、
「……というわけなのよ」
と彼女が言う頃には、まるで別の物語が結末を迎えているのだった。ここはどこなのだ? ハイエナは何を考えている? と男が何度問いかけても、結果はいつも同じだった。
ウサギの話には、彼女の周辺に生活していると思われる者が登場人物として現れ、生き生きとして語られた。世間話としては筋が良くまとまっていて、いつの間にか聞き入ってしまう展開のうまさがあった。
その話の内容によって、男は自分が今閉じこめられている場所の周辺でどんな生活が行われているのかという事を感じることが出来たが、あまりに話がよく出来ているものだから、実は全て嘘なのではないかと疑う事もあった。どちらにせよ、彼が現状で知る事の出来る情報はウサギが語る話の中にしかなかったので、真偽の程は確かめようがなかった。
食事が終わるとウサギは空になった盆を持って狭い監禁部屋を出て行き、また男は一人になる。
手足の自由を制限している鎖は架せられたままだったが、傷は次第に癒えてきた。
制限された状況下にありながらも、男は胸につかえていた重いものが少しずつ軽くなり、気分的な明るさも取りも取り戻せているようだった。
男のそのような内面の変化には、ぽっちゃりなウサギとの会話が大きく影響していることは明らかだった。会話の内容がどうこうと言うことではなく、会話するという行為自体が男の神経に潤いを与えたのだ。
不思議なことに、男にとってそれはこれまでの人生でほとんど経験することが出来なかった安らぎの時間でもあった。囚われの身でありながらどこか緊張感に欠けていて、何をしなくても出てくる食事を淡々と腹にいれ、女との会話の時間を持ち、それが終わればする事もなくただ寝ているだけ。
男は床に寝転がり、遙か壁の高所にある窓のあたりに漏れ込んでいる外からの光を見つめた。
ここに閉じこめられてからしばらくはどうやって抜け出すべきかということを考えていたのに、今やこの環境に順応しようとしている自分のことをぼんやりと考えていた。
窓の外から、鳥のさえずりらしき音が聞こえた。それはとても美しい音色だった。目を閉じると、自分は広大な草原の真ん中で昼寝をしているのだと思うことも出来た。
しかし。
(俺はこんなところで安心してしまっていいのか?)
自問する己の心の声はそう易々と消滅するものでもなかった。
何度目かの食事が運ばれてきたとき、男は断固とした気持ちを奮い立てて、これまでに何度も繰り返した質問をウサギにぶつけた。
ウサギはすぐには答えようとはしなかった。彼女は男の口調がいつもと違うことを敏感に感じ取ったのだろうか。いつもの調子で関係のない話を始めることも無いようだった。
そして、ウサギはしばらく間が空いた後、軽いため息をついた。
「ねえ、あなたは色々と知りたがるけれど、それを知ってどうする気なの? ここから逃げ出す算段でもたてようっていうつもりなのかしら? まさか、気付いてないとは思わないけど、始めから、ここの扉に鍵かかってないし」
「ええ?」
「嘘よ。馬鹿ね。ほんとにあなた単純で面白い。私の親戚にも似たような人がいたわ。その人もすぐだまされちゃうの。その辺あなたにそっくりよ。誰でも分かるような簡単な嘘なのに、いつも引っかかっちゃうの。おそらく、警戒心が欠けてるのよね」
男は危うくまた彼女のペースにはまりそうだと思ったので、手のひらを彼女の顔に突き出してその話を制した。
「まともに答えてくれないか?」
男がそう言うと、ウサギは不満の色を顔に浮かべた。
「これからがほんとに面白い話なのに。聞きたくないの?」
「それはまた今度にしよう。俺は知らなければならない。話を前に進めたいんだ。ハイエナは何を考えてる? 俺を捕えておきながら、どうしてまともな飯を食わせたりするんだ? あいつは今何をやってるんだ」
「知らないわ」
「嘘だ」
「本当よ」
「じゃあ、別の質問をしよう。お前は、何故ハイエナに従ってる?話しぶりから考えても、お前はものすごく頭が切れる。あいつの片棒を担ぐ以外に出来ることはいくらでもあるはずだ」
「それも却下ね」
そこで男は深いため息をついた。手足を結ぶ鎖がじゃらりと音を鳴らした。
「そんなに知りたいことがたくさんあるんなら、少しだけ教えてあげてもいいわ。ただし、その前に私の質問に答えてもらうけれど?」
男は、そのウサギの提案は事態に前進を示すものだと考えた。
「わかった。何を聞きたい?」
ウサギは、そこで涼やかな笑顔を浮かべ、
「なぜ、羊になろうと思ったの」
と聞いた。
2008年11月7日金曜日
2008年11月6日木曜日
名も無き動物たち.7
ドアを開けて入ってきたのは、男の期待に反して初めて見る相手だった。
背が低く、肉付きのいい女で、小太りといっても差し支えない体型だが、身のこなしには重苦しい所作は感じられなかった。
彼女は、男に食事を運んできたのだ。女は食パン一枚とグラス一杯の水をのせた盆を男の目の前に置いて、自分は入り口のドアの近くの壁に背中をつけて座った。
顔つきを見る限りでは性格のおとなしそうな、全体的に柔らかい雰囲気を感じさせる女だった。
女は、自分をウサギだと言った。
「お前もウサギか」
男は言った。
「そうよ。他のウサギさんに会った事があるの?」
小太りのウサギは答えた。
「ああ。会った」
「どんなひとだった?」
男は、自分に「逃げろ」といった、スタイルのいいウサギの事を思い出した。
「……泣いていた」
「ふうん。たぶん、優しいウサギさんだったんだね」
「なぜわかる?」
「あなたを見ていてそう思ったのよ。あなた、怖い犬だって聞いてたけど、聞いてた話とはずいぶん違うわね」
「そうか? お前は同じウサギでもずいぶん雰囲気が違うな」
「ウサギにも色々いるのよ。会った事はないんだけどね。どっちにしろ、ハイエナにとっては同じみたいだけど。でもあいつおかしいのよ。ウサギ同士が、絶対に顔を合わせる事がないようにものすごく気を遣ってるの。態度はでかいし、偉そうにしてるくせに、そういうとこものすごく神経質なのよ。変じゃない?」
「ふん、あいつらしいな」
「他には?」
「他?」
「他のウサギさん。会った?」
「そんなにたくさんウサギがいるのか?」
「そうみたい。ねえ、会った事ある?」
「いや、他は知らない」
「そうかあ、残念。……まあ、いいけどね。食べないの?」
「ああ…」
男は一瞬躊躇したが、小太りのウサギの顔を見ていると、一服盛られるのではないかという懸念が不思議と薄れてしまった。
「わからないな」
パンを飲み込み、水を飲み干した後で、男は言った。
「何が?」小太りのウサギは聞き返した。
「お前のようなウサギが、なぜハイエナのところにいるんだ? 俺には、不自然に思えるが」
「ウサギにも色々いるのよ」
と、小太りのウサギはさっきと同じ調子で言った。
「ふうむ。ちっともわからん」
男は考えてみようとしたが全く考えが進まなかったので、そう言った。
「あなた、ひとの心には疎そうね」
「そうか?」「じゃあ、聞くけど、あなたは何者? 怒りに狂った犬? 争いを好まない羊さん? 私にはどちらにも見えないけれど」
「なんでもいいさ。俺としては鳥になってみたいんだが」
「なにそれ。ぜんぜん似合わない」
小太りのウサギはそう言うと腰を上げて食べ物が空になった盆を手に取り、「もう行かなきゃ。また来るわ」と言って部屋を出て行った。
ウサギがいなくなると、男は、自分の手足が鎖でつながれていた事を、思い出した。
2008年11月5日水曜日
名も無き動物たち.6
気がつくと、男が纏っていた羊の皮は剥がされていた。
目が覚めたのは暗く、じめじめと空気の湿った場所だった。男はそこが井戸の底なのではないかと思った。壁はごつごつと不均等な表面をしていて、天井がやたらに高いところにある。
手足が鎖につながれている。手首と足首にそれぞれ分厚い金属の輪が嵌められていて、動かすと重苦しい響きのじゃらりと言う音が鳴った。たぶん鉄なのだろう。
鎖は左右それぞれの手足の輪同士で繋がっていて、右の鎖と左の鎖が手足の間で螺旋状に絡まって解けないようになっていた。
手足の自由を取り戻すには、両手足に架せられた鉄の輪から鎖を外すか、鉄の輪そのものを解除するしかないようだ。
意識がはっきりしてくると、体がしびれていて、思うように動かせないことに気付く。
自分は何故こんな事になっているのかと、記憶をたどってみるが、ハイエナに食らいつこうとしたところから何もかもがぶつ切りになっていて、思い出せない。手足だけでなく、思考の流れもままならないようだ。
澱みつつ流れていく意識の中で、男は罠にはまったことを悟った。
ウサギの言葉が正しかったのだ。
自分が今いる場所が井戸の底などではないということは、すぐに分かった。
天井に向かって聳え立つ壁のずっと高い位置に格子が嵌められた窓があり、そこから光が漏れ込んでいたし、よく目をこらして観察してみると、ひとつの壁と反対側の壁の間にはいくらかの距離があり、最初の印象よりはずっと広く感じられる空間だった。手足を伸ばすと、体の上下で指先が軽く壁に触れた。鎖自体にも、そうやって体を伸ばせるぐらいの長さがあった。
ぐるりと体を転がして反対側に体を向けると、目の前に扉があった。
現状から察するに、強い麻酔か何かを打たれたのだろう。
その上であちこちを痛めつけられたに違いない。体の痺れが薄れてくると、入れ替わりに体中から痛みが襲ってきた。四肢、腹部、顔に至るまで全身のあらゆる所が殴られるか蹴られるか、或いは何かの道具で打ち付けられたものと思われる。痛みは体の奥から不快な波動を送ってきて、痛みだすたびに頭に響いた。
(まいったな)
というのが男の感想だった。
あまりにも見事に相手の策略にはまったことに、自分がそこまで迂闊だったのかと思い知らされる思いだった。あきれてものが言えない、というところだが、自業自得を嘆くときは既に時すでに遅しというのが常套だ。
だが、男にとって過ぎた事を悔やむというのはまるで辞書にない言葉だった。
自分の手足に架せられたものが、どうやら独力で外すのは難しいと判断したときから、無駄に体力を使うべきではない、と決めた。
壁を上るのも現実的ではない。
ならば、待つべきだ。
羊でも、狂犬でもない男は、ハイエナがいずれ現れるものと予想して、床に横になったまま、目の前のドアをじっと睨みつけた。
2008年11月1日土曜日
名も無き動物たち.5
ハイエナは、しゃべりながら、少しずつ冷静さを取り戻していった。
ちらちらと抜け目ない視線を周囲に配り、自分の手下どもが徐々に周りに集まってきていることをそれとなく確認した。
羊の頭からは、まだウサギの姿が離れなかった。
ウサギの流した涙の意味は、自分が思っていたものよりもずっと深く、ひどくもつれてしまった釣り糸の固まりのように、どうにも手の施しようが分からないものだと言うことが、理解できたような気がした。
そして、己の無力感がまざまざと思い知らされた時、さざ波のように何かが自分の内側から沸き上がってくるのを感じた。
ほとんど忘れそうになっていた、捨てたはずの感情。
深い深い井戸の奥の水面が激しい熱に熱せられて泡立っているような、懐かしくすらあるもの……
「おやあ? すんげえ牙してるなぁ、羊さんよぉ」
ハイエナが、羊の顔をのぞき込むようにした。羊の顔の変化を、ハイエナは楽しんでいるようだった。しかしそれはあくまで表向きの表情で、内心的には感嘆に近い思いで見ていた。
羊の口元から、狂犬の牙がはみ出している。
獰猛な、怒りの権化であった頃の狂犬の口を、ハイエナはしっかりと覚えている。
羊の口の端がつり上がり、その隙間から見える何者をも引き裂く鋭利な犬歯の放つ光は、かつてハイエナが狂犬に対して抱いていた畏敬の念を思い起こさせる。
(俺はあんたを目指してきた。ずっとずっと、あんたに追いつきたいと思っていた!)
だからこそ、勝たなければならなかった。
どんなことをしてでも。自分のやり方で。
そろそろ、頃合いだ。
「なあ、羊さん。なんだかわからねえけど、おれはあんたの事が気にいっちまったよ。あんたさえよけりゃあウサギの一匹や二匹、すぐに都合してやるぜ。どうだい?」
「なぜだ?」
「気に入ったって言ったろう。それが理由さ」
「違う。ハイエナよ、お前は何故そうなった?」
「何の話だい?」
「ウサギを放してやれ」
「どのウサギだ?」
「お前が飼っているウサギだ」
「いっぱい居すぎてどれのことだかわかんねえよ。この街にも一匹いるが、そいつのことか? あいつはどうやら俺の言いつけを守らなかったみたいだから、後できつーいお仕置きをしなきゃなんねえ。放すわけにはいかねえな」
「貴様」
男は牙を剥いてハイエナに襲いかかった。
余談
なにやら頭が痛い。
悩み事や心配事の類の話ではなく、物理的、肉体的な痛みのことだ。
二日前には眉間に色んなものが圧縮して来るような締め付けるような痛みがあり、ダウンした。
微熱もあったものだから風邪でも引いたのかと思ってゆっくり休養をとり、これでもう回復、と思っていたのが、今日になったら側頭部が両サイドともズキズキと悲鳴を上げている。
原因は何かと考えていると、ふと思い当たったのは「知恵熱」と言う単語だ。
今現在、僕は早寝早起きの生活サイクルを実行している。
朝は四時から五時の間に起床し、始発かその次の電車に乗り、職場の近くのファミレスで長編小説を書き進め、それから仕事をして午後の四時に仕事を終え、家に帰る。
そして夕食をすませたらすぐにパソコンの前に座って短編小説を作り始める、と言う流れだ。
ここに最近、仕事で考えなければならない事が増えてきて、朝から晩まで、もしくはねている間にもうんうんうんうんと考え続けている状態になり、実際、余裕がなかった。
キャパシティを超えて脳みそがオーバーヒートを起こしたのだろう。
何となく食欲も薄れ、急激にやる気が減退してきているのだが、さっき缶ビールを一本煽ったら頭痛が治まったようである。血の巡りが悪かったと言うことか。
なんだかよく分からない。
玄関から何者かの来訪を告げるチャイムが鳴ったが、それは無視した。
どうせ新聞とか宗教の勧誘に違いない。
歓迎できないものの対応をして頭痛がひどくなったら、自己嫌悪に陥ること必至である。
帰れ帰れ。二度と来るな。
まあとりあえずそれはいいとして、この頭痛、いつまで続くのであろうか。
ああ、なんとなーくやる気もわかないのでオチもつけないままこのまま話を終えるとします。
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