2007年9月30日日曜日

バスとタクシー

私はバスを待っている間、小説の単行本を手にして時間をつぶす。それはもう決まり事のようにいつも繰り返している事だ。
ここは1時間に一本しかバスの通らない田舎で、一本逃すと大変な遅れが出てしまうので、いつも早めにバス停に到着して、残りの時間をそうやって過ごす事にしているのだ。
今日は珍しくバス停に先客が居た。とても若く、きれいな女性で、裾の長いスカートに、袖の短い白いシャツを着ていた。
彼女は僕がいつもするのと同じようにバス停のベンチの端に腰掛けて、ぱらりと単行本のページをめくった。
私はなぜか遠慮がちな気分になって、彼女とは反対側のベンチの端に座ってバスを待った。
もうそろそろかな、と言う頃に、遠くで何かが破裂したような音が響いた。そしてそれは一度では終わらず、何度も連続して聞こえて来た。私は音のする方を見たが、道が丘の向こうへ伸びるのが見えるだけで、他には何の変化もない。

丘を越えて姿を現したバスが、その音の主である事が分かるのに、それほど時間はかからなかった。
バスは、ボカン、パーンと奇妙な破裂音を鳴らしながら緩慢なスピードで進み、気の遠くなるような加速度でバス停の前に止まった。スピードが遅くなっても破裂音は最後まで鳴り続けていた。
プシューッと気圧の抜ける音がして、入り口のドアが開いた。
私が本を閉じて乗り込もうとすると、まだ足を踏み入れる前に運転手が声をかけて来た。
「待って下さい。乗るのは一人だけです」
私は顔を上げた。運転手は乗客の隙間からこちらを覗き込むようにしていた。
「なんだって?」
私は聞き返した。
「乗れるのは一人だけです。見て下さい。もう満員なんですよ」
確かに、バスの中を見ると立っている乗客達がぎゅうぎゅう詰めになってバスの中で押し合いへし合いしているのが分かった。運転手はその隙間からこちらを見ていたのだ。
「でも次のバスは1時間後になってしまう。なんとか乗れないの」
「無理ですよ。タクシーでも呼んでくれませんか」
「何だって今日に限ってこんなに混んでるんだ」
「さあ、ちょっと分かりませんけど、今日はどこも人でいっぱいなんですよ。こっちが聞きたいくらいです。何か、事故とか事件とか、ニュースで言ってませんか?」
「聞いてないな。とにかく私は乗りますよ」
そう言って私は強引にバスの中に入ろうとしたが、人の体が入り口の所までこぼれそうになっていて、その柔らかい塊はどんなに押しても柔軟なゴムのように僕を外へ押し返した。私が一旦仕切り直して外に出ると、
「ほら、言わんこっちゃない」
と運転手が困った顔をした。
すると先に乗った女性が降りて来て、
「タクシーを呼びますから折半にしませんか」
と言った。
突然の申し出で、私は一瞬何を答えればいいのか分からなくなってしまったが、その隙をつくようにバスはドアを閉め、大きな破裂音を響かせながら走り去ってしまった。
元のバス停に取り残された私たちは、しばらくバスの背中を見送るしか無かった。
「どこまで?」と彼女が私に聞いた。
「私は終点まで行きます」
「偶然。私も終点まで乗るつもりだったから、かえってこれで良かったんだわ。それにあの中、なんだか気持ち悪かったし」
すると丘の向こうから甲高いエンジン音が聞こえた。時を置かずに一台のタクシーがバス停の前で急停車した。
「バス、乗れなかっただろ」
タクシーの運転手は助手席の窓を開けて話しかけて来た。
「そうなんです。いつもより人が多くて。何かあったんですか?」
「いや、俺も分かんねえけどとにかく後ろついていったら乗れない奴が出てくると思って後を付いて行ってるんだ。もちろん乗るだろ?」
もちろん我々に異論がある訳は無く、二人でタクシーに乗り込んだ。タクシーの中で、私はゆったりとした時間をいつもよりも更にゆったりと楽しむ事が出来た。

2007年9月28日金曜日

時計の誤差

私は時計師。
私の作る時計は完全な私のオリジナルだ。
時計の針が回転する仕組みを一から考え直し、一つ一つの歯車から文字盤のデザインに至るまで、全てが私の手作りなのだ。
物心ついた頃から時計が好きで、分解しては組み立て、また分解しては組み立て、あらゆる時計の構造を独自に学んで来た。
そしていつしか世界に一つだけの時計を作る人間になる事を心に決めたのだ。
私は長年の間研究を重ね、ついにオリジナルの時計を完成させた。初めそれは14型のブラウン管TVとほとんど同じ大きさだったが、そこからさらに改良を加え、今ではなんとか腕に巻いて使える程の大きさにまで小型化を進める事が出来たのだ。
しかし、ここまでやって、問題が発生してしまった。

私の作った時計は一日につき6秒の狂いを生じるのだ。
これは現代の時計の基準としては到底見過ごす事の出来ない誤差である。
私の時計には、どこかに私の気付かない欠点があるということだ。
構造にミスが無いか、何度も計算を繰り返したが、理論上の間違いは無いはずだった。
ならば部品が悪いのかと思い、分解して一つ一つ精度を確かめていったが、どれも設計から寸分の狂いも無かった。
私は6秒の狂いを生じる原因を見出す事が出来ず、毎日毎晩人知れず、出口の見えない迷路を彷徨い続けた。
そしてある日、私は一人のねじ師に出会った。

ねじ師はどこからか私の時計の話を聞きつけて来たらしく、私の顔を見るなりうんうんと頷いて、「分かっているよ」と言う顔をした。
「あなたの時計の噂はもう業界中の話題ですよ」
「そんな大げさな」
「いや、謙遜には及びません。私の技術が少しでも助けになればと思ってやって来たのです」
ねじ師はそう言って、さっそく時計の組み立てに着手した。
私は彼に設計の解説をしながら、一緒に組み立てを手伝った。
そして驚いた事に彼が組み立てを手伝ってくれたおかげで一日の誤差が2秒にまで減ったのだ。
私は彼の技術に感謝した。
「素晴らしい事です。どうやらこの時計は私一人では不完全と言う事ですね。あなたのねじ回しの技術で、これからも一緒にやりませんか」
「もちろんです。私が力になれるのであればいくらでも。しかし」
「ええ。あと2秒」
「また考えなければなりませんね。設計には問題ないとして、自分で言うのもなんですが、恐らく私以上のねじ師は少なくともこの国には存在しないでしょう。そうするといったい何が足りないのか」

二人が悩み続けていると、ある日一人の娼婦が訪ねて来た。
「愛が足りないのよ」
彼女は開口一番そう言い放ち、「私の愛は強烈よ」と続けた。
それに答えてねじ師は言った。
「わ、私には妻が居ます」
「そう、じゃあ、あなたにあげる」
彼女はそう言って私の胸にすらりと爪ののびた人差し指を突き付けた。
「何かの間違いではないですか」
「あら、あなたの時計を最初に手にする女は誰だ?って、結構噂になっているのよ。私、才能のある男が好きなの」
「しかし、まだ完全ではないんです」
「私はいいのよ。2秒ぐらい遅れてたって」
不思議な事に、彼女が強引に私の家に住みついてからしばらくすると、時計の誤差は1日につき1秒をきった。
私は、目に見えない力がこの世界に於いていかに重要な要素であるかと言う事を学んだ気がした。
おまけに彼女は料理洗濯片付け掃除と、あらゆる家事を完璧にこなし続けた。

それでも誤差は直らなかった。
私は更に、更に試行錯誤を繰り返し、同時に小型化も進め、一ヶ月に丁度1秒、と言う所まで誤差を縮める事が出来た。
その辺りで私は家に住みついた女と結婚し、誤差を残した時計を彼女にプレゼントした。
彼女は大変喜び、親兄弟や女友達や親戚達に彼女の腕時計を自慢して回った。
そしていつしか噂は更に広がり、私の時計は誤差があると言う事で人気が出て、売れに売れまくっているのだ。

2007年9月27日木曜日

キーホルダー

キン、と音を立てて、ユウシの指先から飛び去ったのは、リングの部分にいくつもの鍵を付けたままのキーホルダーだった。
キーホルダーは道路脇の草むらの中へ、がさりと音を立てて落ちていった。
ユウシは考え事をしながら指先にキーホルダーのリングを引っ掛けて振り回す癖があって、その時もいつものように、知らず知らずのうちに無意識な習慣でそうしていた。
「何?今のひょっとして鍵?」
ユウシの隣りを歩いていた杏が、一瞬自分の目の前を飛び去って行った物体の事をユウシに聞いた。
ユウシはまだ考え事の世界から抜け出せていないのか、草むらの方を心ここにあらずの顔で眺めている。
「あー、飛んでっちゃったね」
「ちょっと、だからその癖やめてって言ってたのに!あたし今日合鍵持って来てないのよ!」
「え?マジ?ごめん」
「ごめんじゃないわよ。どうするのよ」
「探すしかないね、ちょっと待ってて」
ユウシは歩道を外れて草むらの中へ足を突っ込んでいった。杏は歩道の上からうんざりした顔でその様子を見ている。
「あーちょっと暗いなー。ほとんど何も見えないよ。飛んでったの、この変だよね」
杏は腕組みしたまま仁王立ちの状態になっている。
「もうちょっと二三歩ぐらい左じゃない?」
「そうだっけ」
「もっと奥じゃない?」
「えー?」
「あーもうじれったい」
杏はスカートの裾をまくり上げてその端を下着の中に押し込み、ヒールを脱いだ。歩道の上は外灯に照らされているので、スポットライトの中に居るみたいだ。
「おー、なんか、昭和初期のブルマーみたいだね」
「好き好んでこんな格好しやしないわよ!誰のせいだと思ってんの」
杏はストッキングだけのほとんど素足の状態で、ずかずかと草むらの中に入って一緒に手探りで地面を探し始めた。
「確かこの辺よ」
「あ、そっち?」
「勘だけど」
「勘かよ!」
「突っ込み入れてる暇があったら手を動かしなさい」
「動かしてますがな」
「下手な関西弁使わない」
「へいへい」
「返事は一回」
「へい!」
「本当に何にも見えないわね」
「でしょ?」
「ああもう、スカートやっぱり汚れちゃう。お気に入りの奴なのに!」
杏がそう言って一度腰を伸ばそうと立ち上がった時、足元でちゃりん、と音が鳴った。
「ストップ!動くな!」
ユウシが身軽な動きでひとっ飛び、杏の傍に来て屈み込んだ。
「右足上げて。ないな。今度は左足」
ユウシは杏の左足の下からキーホルダーを取り上げた。
「あったー」
「やったー。よかったあ」
「よし、戻ろう」
ユウシはキーホルダーをポケットに戻すと、杏を抱き上げた。
「ちょっと、何してるの」
「お姫様だっこ。スカート汚れちゃうでしょ」
「もうとっくに汚れてるんだけど」
「まあまあ」
「はあ、あんたと居ると飽きないわ。色んな意味で」
ユウシは歩道の上に杏をそっとおろして言った。
「俺たち、結婚しないか?」
「え?何?」
「何かさあ、こういう事よくあるじゃん。俺たち。結構良いなあと前から思ってたんだよ」
「冗談で言ってるの?」
「本気だけど」
杏はほとんど呆気にとられてしばらく何も言えなかった。
「いろいろ言いたい事はあるけれど、まあそれは良いとして」
「うん」
「即答して上げても良いけど何かむかつくから返事はしばらく後にするわね」
「ええ?マジ?」
「いやなら断る」
「うーん、しょうがないか。わかったよ」
杏はともかくもスカートの裾をもとに戻して、草むらの上に突っ立っているユウシに手を伸ばした。
「ほら、いつまでそんなとこ居るのよ」
ユウシはぶつぶつ良いながらも杏の手を取った。
杏はその手を握ったまま、今度はユウシを支えにして脱いだヒールを履いた。

2007年9月26日水曜日

散歩のわけ

男は雨の中を傘も差さずに歩いていた。
手に持った傘を開かずに、子供のように体の横でぶんぶんと振り回しているのだ。
男はとても背が低かったから、そうしていると遠目には本当の小学生のように見えた。
実際の年齢は全然違って、小学校を卒業した時のことなど、あまりにも古い記憶でうまく思い出せないぐらいだった。
男は羽織っていたコートのフードを深々とかぶっていたから、やはりレインコートを着て気まぐれに雨を楽しんでいる小学生にしか見えない。
小学生ではないにしろ、男が雨を楽しんでいるのは本当だった。
男は傘以外の荷物を持っていないので、とても身軽だ。
男は自分の背が低いことをよく理解している。若いころは自分の背の低さにコンプレックスを持った時期もあったが、今となってはそんな気おくれした心持ちなどみじんもない。
(こういう視界の悪い日にこんな恰好で外を歩いていたら、小学生にしか見えないだろうな)
とひそかに思っている。
最近では家に居ると、妻や息子夫婦がやたらと自分を邪魔者扱いして、まるで面白くない。
息子は見事に自分の血をひいて、背が低い。まだ背の低さにコンプレックスを持っていて、そんなものはなんのその、といった超然とした態度はとれないらしい。
(あれだけ気立てのいい嫁を貰っといて、今更何が不満だというのか。背が低いのは親父のせいだなどと、どうでもいいことでまだ文句を言っている。まったくあいつめ、全然成長してくれない)
男はぶつぶつと文句を口にする。いつしか彼は人気のない公園の中を歩いている。ここなら考え事を口に出してしまったところで誰も聞いている人間などいないし、たまたま人が近くを通りかかっても、雨が大概の事は流し去ってしまう。
彼がこんな散歩をするのは今に始まったことではない。もう、それこそ彼が小学生の時から何かの拍子にやってしまう習慣めいたことなのである。大学への進学や会社の転勤などで住む土地が変わったりしても、彼はいつも大きな公園を探してその近くに住むようにしていた。
そんな訳で、雨の公園は、彼にとって密かな癒しの場になっていった。男にとって傘は差すものではなく振り回して楽しむものだし、雨は気分を塞ぐものじゃなくて雑念と雑音を一緒くたに流し去ってくれるものだ。公園は地面が土だから、そうやって流れていったものが大地に吸収されて、生態系を巡り巡っていくうちに水蒸気となって、空中で紫外線に焼かれて昇華していくのだ。だから歩くのは出来るだけアスファルトの上じゃない方が良い。

小学生の振りをした、初老の域に入ったばかりの男は、そのような事を考えながら、雨の中で散歩を続けるのだった。

2007年9月25日火曜日

ルートマップ

「やっぱり電気つけようよ」
「ばか。それじゃ雰囲気でないだろ」
「そうだよ。これがいいんだよ」
「でも地図見えないよ。僕、視力悪いのに」
「お前は普段から勉強し過ぎなの」
「そうそう」
「そこまでやってる訳じゃないけど…」
「いや、お前はやってるよ」
「だな。高橋には負けるけどな」
「高橋君は本当に頭がいいんだよ。僕より勉強時間短いはずなのに」
「べつにいいじゃん。サクぐらい頭よければ十分だろ」
「そうそう。高橋の奴が異常なの」
サクと呼ばれた少年は、話しながらも必死に机の上の地図に目を凝らしていた。
一緒に居るのはサザンと丸井の二人だ。三人は夏休みの自由研究にかこつけて自転車でちょっとした旅をしようという話し合いをしているのだ。
「やっぱさあ、川沿いは走らないとな」
サザンが地図の上にキューッとマジックで線を引く。その動きが起こした小さな風を受けて、ろうそくの炎が揺れる。
「景色としては必要だね。写真のネタ的にも良いと思う」
「でも、そんなに距離取ると他のルートがきつくならない?」
「そうか?」
「確かに最終的にはこの山の頂上がゴールだから、遠回りになるけど、この企画は素材が命だと思うんだよ」
「川沿いにそんなに写真を撮る所あるかな」
「この最後の所の橋、なかなかいいぜ」
「うん、あれはいい」
「なにがいいの?」
「そんなの、形?だよなあ?」
「まあ、雰囲気とかね。風情がある感じ?」
「そうかあ、遠いけどね」
「ここから山行くのは確かに気合いの入れどころだな」
「このルートなら車もあまり通らないし、信号も少ないはず」
そう言って、丸井が地図にキューッと新しい線を引く。
「あ、ここ、通った事あるよ。ビンの牛乳売ってるんだ。コーヒー牛乳もあったよ」
「マジで?サク、なんでそんなの知ってんだよ」
「このへん行った事あるの?」
「え、うん、まあ」
「あ、よく考えたらここ、あつみの家の近くじゃん」
「やっぱり付き合ってる噂は本当だったか」
「そんなんじゃないよ。親同士が知り合いだから、昔から知ってるだけで」
「まあまあ、照れるなって」
「あつみちゃんかわいいもんなあ。ぶっちゃけ反則だよ」
「もう、それはいいじゃん。とにかく、この店、寄っていこうよ。ちょっと小休止で」
「確かに、いいタイミングかもね」
「俺、休憩の事考えてなかった」
「じゃあ、決まりで」
サクがキューッと線を引く。
「後は、山だな」
「ここはもう気合い入れるしか無いね」
「きつそうだなあ」
「山頂ゴールかあ、燃えてきた」
「好きだねえ」
「何の話?」
「ツール・ド・フランスだよ。お前、見てねえの!?」
「知らない」
「今度DVD貸すよ」
「まあ、俺的にはメインはここの登りだから」
サザンが山頂までの道にキュキューッと線を延ばした。
「これでルートは完成だね」
三人はしげしげとろうそくの前に置かれた地図を見下ろした。ひらひらと揺れる炎に照らされただけの、薄暗い部屋の中で。
「なんか、宝の地図みたいだね」
「お、ロマンチックな事言うねえ」
「さすがに恋してる男は違うね」
「だから、そんなんじゃないってば」
「じゃあ、俺、あつみちゃんにアタックしていい?」
「え?え?」
「ほらな。焦るぐらいなら素直になれって」
「冗談だよ」
「もう、電気つけようよ」
「そうだな」
「じゃ、ろうそく消して」
丸井が電気のスイッチのところへ行く前に、サザンがふっと一息にろうそくの火を吹き飛ばし、ほんの一瞬、部屋は真っ暗になった。

2007年9月24日月曜日

スーパーサブ

俺はスーパーサブ。
途中交代から試合に参加し、結果を出すのが俺の仕事。

今日は優勝争いの大事な試合。朝目が覚めた時からアドレナリンが出まくりで、テンションは上がりっぱなしの絶好調。何かが出来る予感がしてる。

先発メンバーをピッチに送り出し、俺はベンチに腰を下ろす。今日の対戦相手はリーグの最大のライバル。奴らをホームグラウンドで迎え打つ、負けらんない戦いだ。サポーター達の盛り上がりも最高潮の中、キックオフの笛が鳴る。

大声援を受け、我々は試合を優位に進めているが、流石に相手も譲らない。緊張感に溢れる攻防。難しい試合展開だ。



FWの高砂がファウルで倒された。痛がっている。緊急事態だ。作戦変更で早めに俺の投入があるかも知れない。俺は思わず立ち上がり、ウォーミングアップの態勢を取る。
監督、いつでも良いぜ。俺は行けるぜ!
高砂は立ち上がった。顔には苦笑いを浮かべている。案外平気そうだ。
あいつめ、また演技かよ。その内シミュレーションでイエロー食らっても知らねえぞ。無駄にヤキモキさせやがって。期待したじゃねえか。いや待て、俺。今日は大事な試合。今はチームメイトの無事を喜ぶべきだろう。
高砂はフリーキックを見事にゴールネットに突き刺した。先制だ。やりやがったぜ。あの野郎!ムカつくヤツだが頼れるチームメイトには違いないのだ。
一点リードの展開で我々は前半を折り返す事に成功した。

後半になっても均衡した展開は変わらない。こういう試合はバランスを崩した方が負けるパターンが多い。監督にとっても判断能力が試される難しい試合だ。
後半に入った直後から、サブのメンバー全員にウォーミングアップが命じられた。誰一人、気を抜ける人間なんかいやしない。

いよいよ試合は佳境を迎える。先に動いたのは敵の方だ。どうやらディフェンスを減らして攻撃の選手を入れるらしい。当然だろう。奴らも負けに来た訳じゃない。

とうとうバランスが乱れた。試合は新たな局面を迎えている。我々のチームはいまや敵の圧倒的な攻勢に晒されている。サブメンバーはアップを続けながら、俺を含め全員、試合から目が離せなくなっている。
相手の攻撃がようやく一息つきそうな時、監督が俺達に声を掛けた。呼ばれた数人の顔触れで、監督がまだ迷っているのが判る。
今こそカウンター狙いの得点チャンスと考えるか、一点のリードを守りきる事に集中するのか。どちらが正解とは言えない。でも出来れば攻めたい俺。
監督はグラウンドを睨み続けた後、思い切ったようにこちらに振り向いた。
俺か?駄目押しの得点を狙って俺を投入か?決めてやるぜ。俺が試合を決めてやるぜ!さあ、監督!
「金山、鈴木」
呼ばれたのは中盤の選手だ。FWを減らして高砂のポストプレート中盤の飛び出しから試合展開を組み立て直す狙いだろう。決して悪い選択じゃない。
でも高砂はどう見ても疲れ切ってる。俺も一緒に替えてくれよ。それが自分の我侭なのは分かってるけど。まだ点を取られた訳じゃないから、守りのバランスは崩せない。それは俺にも分かるけど。監督はちらりと俺を見た。俺は今どんな顔をしているのだろう?

選手交代の後も敵の攻めは続いた。高砂は全然動けていないが、それでも必死に前線での守備に走り回っている。
がんばれ高砂!動けなくなるまで走れ!そして動けなくなれ!
内心の葛藤を隠して俺は高砂に声援を送り続けた。
後一人の交代枠、監督どうにかしませんか!?
ちらりと監督を盗み見ると、もう観客同然に試合展開にのめり込んでいるようにしか見えない。
あなたの冷静さもここまでか!そう思っていたら、
「川上、準備しろ!」
といきなり俺に声がかかった。もう試合はロスタイムに入っている。まさかこの時間帯でくるとは。どう考えても時間稼ぎの選手交代だが、構わん、それでも決めてやるぜ。ヒーローは俺だ!
意気込んでジャージを脱ぎ終えた俺の耳に審判の笛の音が聞こえた。
試合が終わってしまった。
どうやら今日の審判は極端なホームアドバンテージを取って、ロスタイムを殆ど取っていなかったようだ。
おれはサイドラインのぎりぎり外側でおそらく微妙な苦笑いを浮かべていたらしく、コーチにポンと肩を叩かれた。

こんな日もあるさ。
でも試合に出れば結果を残す自信はある。そのためにトレーニングと自己管理を欠かさないのだ。いつ訪れるか分からないチャンスに備えて万全の体勢作りを怠らない、プロフェッショナル。チームの勝利を願い、高砂の不調を願い続ける…いやいや、先発への夢を追い続ける存在。そう、俺はスーパーサブ。

字書きの才能

「先生、字が動きました」
「どれどれ、うん。確かに最後の跳ねが歪んでいるね」
「いえ、そうじゃなくて、字が勝手に動いたんです」
「ちゃんと文鎮と左手で紙をしっかり押さえるんだよ。ああ君は左利きだったか。じゃあ、逆の手で」
「違うんです。紙じゃなくて字が動いたんです。こうやって」
慎一は指先でその動きを示してみせた。するとおなかのふくれた夏井先生は、優しさにあふれた笑顔を慎一に向けた。
「君はなかなか想像力があるね」
慎一は釈然としなかった。字は確かに動いたのだ。彼が書き終わった後で。
夏井先生の書道教室は、夏井先生の自宅の客間を使って開かれている。慎一の暮らす町ではとても評判が良く、習い事と言えばまずここを思いつく、と言う感じだ。
慎一は母が勝手に申し込んだこの教室に初めのうちは面倒くさがりながら通っていたのだが、日を追う毎にぐんぐんと上達していき、知らず知らずのうちにここに通うのだ楽しくなっていた。夏井先生の指導もすばらしいのだろうけど、その先生が
「慎一君には素晴らしい才能がありますね」
とお母さんに話しているのを陰で耳にして、慎一はますます書道にのめり込むようになっていった。

慎一が変化に気付いたのは一週間くらい前だろうか。書いたばかりの字がぶるぶると震えた気がした。
続けて2、3枚、違う字を書いてみると、その内の一つが同じように動いた。その時はまだ、「字が動いた」という事実をただ無邪気に面白がって、その後も書き続け、紙が無くなるまで書いた。
「お母さん、筆で書いた字って動くんだね。僕、びっくりしちゃったよ」
夕食の時に慎一はそう言って、動く字の事を説明した。
「慎ちゃんは字が上手だから、そんな字が書けるのかも知れないわね」
「そうかな」
「そうよ。普通はそんな事出来ないんだから」
「夏井先生ならかけるかな」
「そうねぇ。先生なら書けるかも知れないわねえ」
だから慎一は夏井先生に言ってみたのだ。

また動いた。
どうやら、慎一なりに(うまい字が書けた)と思ったものが動いてしまうようだ。それも、出来がいい程良く動く。まるで生き物みたいだな、慎一は思う。
その日、慎一は教室が終わると夏井先生の所へとことこと駆けていって、
「夏井先生、やっぱり字が動きます。お母さんは夏井先生ならそういうの書けるかもって言ってました」
すると先生はいつもの笑顔で
「ちょっとこっちに来なさい」
と言って慎一を教室の部屋から連れ出して、広い家の廊下を奥へ奥へと歩いていった。途中でいくつもの部屋の前を通り過ぎて、慎一は夏井先生の家はこんなに広かったのかと驚いていた。
「ここは秘密の倉庫なんだ。滅多に他人には見せない」
夏井先生は廊下の突き当たりの部屋の前に来ると、そう言って慎一のほうにいつもとは違う笑顔を向けた。慎一は黙って先生の顔を部屋のドアとを見比べていた。ドアにはいかにも頑丈そうな南京錠がぶら下がっている。
「中を見たいかい?」
「はい」
うん、というふうに夏井先生は無言で頷いてポケットから鍵を取り出し、扉を開いた。
部屋の中は先生の作品で埋め尽くされていた。何枚も積み上げられて状態のものや、紙を入れる箱が片側の壁の設置された棚にぎっしりと隙間無く、整然と納められていた。そして、それ以外の壁には上から下まで重なりあうようにして先生の作品が貼り出されていた。その作品は、慎一の目にもとても素晴らしいものだと言う事が分かった。
「どうだい?」
「凄いです…あれは、字ですか?」
慎一は壁に貼られている作品の一つが気になって聞いた。線が複雑に絡み合っていて、あんな形の漢字は見た事がないと思って不思議な気持ちに捕われてしまったのだ。
「あれはね、元々は『龍』という字だったんだ。それから少しずつ形が変わって、ああなった」
「じゃあ、動いたんですね」
夏井先生はたっぷりと肉のついた首にしわを寄せ、深く頷いた。
「まさか君のような子が出てくるとは思わなかった」
「他の皆は書けないんですか?」
「そのようだね。ひょっとしたら言わないだけかも知れないけれど、そうだとしても気持ちは分かるよ。僕が子供の時は理解者が居なかったからね。信じられるかい?頭がおかしいと思われたんだ。字が動くなんて言う奴はどうかしてるって事でさ」
「でも、動きますよ」
「そうなんだよなぁ。やっぱり動くよね」
「はい」
「よし、こうしよう。この事は二人だけの秘密だ。先生もいろいろこっそり練習して来てるから、動く字の事を教えてあげる。そのかわり、この事は誰にも言っちゃいけないよ?運が悪けりゃいじめの対象になる。こんな時代だからね」
そのとき、また別の字が動いた気がした。慎一はその紙を見て、
「あれは何の字だったんですか?」
と聞いた。
夏井先生はいつもの笑顔に戻って言った。
「あれは、『友』だよ」

2007年9月23日日曜日

キリンの憂鬱

 ある日僕は目が覚めるとキリンになっていた。いきなり首が長くなったものだから、勝手悪い事この上ない。初めは起き上がる事すら困難だった。
 それに、自分がキリンになるまでは思いもしなかった事だけど、キリンの手足には意外なパワーがある。起き上がる時に慣れない体でバタバタしたせいで、スタンドミラーが激しく破壊され、木製の椅子は真っ二つに叩き折られた。まさに野生のパワーだ。

 何とか体に慣れてきて多少は動きやすくなったと思った時、僕は猛烈に焦り始めた。彼女との約束の時間が迫っているのだ。

 僕はこの日、彼女にプロポーズするつもりで、かなり綿密なデートプランを立てて準備していたのだ。それがこの有り様である。
 迂闊に外に出たら、きっと騒動が起きるに違いない。都心の住宅街に突然キリンが出現したら、それはもう異常事態だ。きっとマスコミに追いかけられ、動物保護団体なんかが出て来て、麻酔銃で打たれて捕獲され、残りの人生を動物園で過ごす羽目になるのだ。そんなの冗談じゃない。
 しかし、彼女をほったらかす事は出来ない。僕は彼女に
「大事な話があるから」
 と言って呼び出したのだし、彼女だって、それとなく察してくれていると思う。僕は、僕が「大事な話がある」と言った時の彼女の反応を思い出した。あの、ある種の期待感に満ちた表情は、僕の隠れた決意に対する声無き理解、暗黙の了解だったに違いないのだ。
 何とか彼女に連絡を取ろうと、僕は携帯を探した。リダイヤルを呼び出して通話のボタンを押すだけだ。でもまた力加減を間違って破壊して仕舞わないように、細心の注意を払わなければならない。僕は一つボタンを押すことを、こんなに恐いと思った事は無かった。押す前に何度かためらってやり直し、数回ボタンを間違えた。人間の指が欲しい。
 何度めかの失敗の後、ようやく電話が繋がった。
「もしもし、萩原ですけど」
 彼女の声に、僕は思わず泣き出しそうになるのをこらえた。訳の分からない状況に、不安や焦りや恐怖が積もっていたのだろう。親友の風間や、田舎の母や、諍いの絶えない父の声ですら、同じだったかもしれない。
「もしもし?祐樹?」
 サキ、僕だよ。大変な事になったんだ。信じてもらえないかもしれないけれど、僕はキリンに、いや違う。ちょっと急な予定で…
 僕はそこまで話そうとして、自分の言葉がまるで人間のものではない事に気付いた。
「何?どうしたの?」
 サキが呼んでいる。
 ああ…どうすればいいのだろう。
 サキ、サキ…
 何度名前を呼んでも、僕の言葉は彼女には伝わらない。ぐもももも、と言う牛の鳴き声のようにしかならない。この電話の向こうに彼女がいるのだ、と手を伸ばした拍子に、勢い余って踏み潰し、携帯は粉々に砕けてしまった。

2007年9月22日土曜日

休日の朝

せっかくの休日に、世界の多様性の事を考える。
色んな人間が生きていて、それぞれ違う生活がある。
しかしその想像はあまりうまく続ける事は出来なかった。
一人暮らしの身としては、片付けなければならない家事が、山のように溜まっている。
カゴの上にうずたかく積み上げられた洗濯物や、シンクの中に重ねられた食器類や、小さなゴミや埃がちらほらと見え始めた床が、僕の手で奇麗に処理なり整理なりされるのを待っているのだ。
まあ、これも多様性の一つの言えるのかも知れない。男の一人暮らしの典型的な休日の朝を迎え、どこの家も行っている事をただ淡々とこなす事だって、この世界には必要な事だ。
空はやたらと晴れ上がっていて、秋の気配すら感じられない。ひょっとしたらこのまま永遠に夏が続いてしまうかも知れない。暖冬冷夏なんて事を言っていたのがほんの数年前なのに、今はもう温暖化一色だ。ありえない話じゃない。
世の中なんだってあり得てしまうのだ。
同じ事が繰り返される日常に嫌気がさしているとしたら、それは小さな変化で簡単に崩れさせる事が出来る。出来ないと思っているのなら、それは心のどこかで現状を崩したくないと言うだけなのだ。
洗濯物を干しながら、だらだらとそんな事を考える。
僕は現状に満足しているだろうか?
ある意味ではそうだし、別の意味では全然足りていないと思う。
僕と言う個人の中にも、そんな風に多様性はあった。
結局難しい事を考えようとすると、概念的な所からはあまりうまく物事が考えられない。
それは僕個人の思考能力の特性のような事が関係しているのかも知れないけれど、何かを思いつくのは何も考えていない時の方が多いような気がする。
部屋の全ての窓を開けると、気持ちのいい風が西から東へ流れ出す。その流れに沿って部屋の中に箒をかける。ひとしきり表面の埃を掃き出すと、今度は掃除機をかけて箒の毛先だけでは掬い取れない小さな塵を吸い取る。最後に雑巾がけをして、床の掃除を終わらせる。窓から風が吹き込んでいるので、また新しいゴミや埃が部屋の中に入って来ているはずだが、それは考えても仕方が無い。
部屋の隅々まで空気が入れ替わったのを感じてから、玄関側の窓を閉め、今度はシンクの中の食器を片付ける。殆ど一週間分の僕の食生活の名残だ。
スポンジを使ってしつこくコップの底をこそぎ取るようにするのが僕のやり方だ。きれいにならないと気が済まないから、ただ食器を洗うと言っても、それなりに時間をかける事になる。
それが終わると、ようやく人心地ついた気分になる。体のどこかに残っていた平日の疲れがゴミと一緒に部屋の外に飛んで行ったり、下水道に流れ去っていってしまったのかも知れない。
そして一杯のコーヒーを煎れる。洗い物が新しく増えた訳だが、これもまあ仕方が無い。
去って行ったものがまた訪れ、飛び散ったものがまた積みあげられる。
そうして世界が流れている事を知る。僕もその中に居る事を、僕は感じる。

そんな豊かな休日の朝の事を想像しながら、中々ベッドから起き上がる事が出来ないのです。

2007年9月21日金曜日

こんな気分の時もある

走れ 走れ 夕日まで
飛び上がったり 転げたり
泥草まみれの 追想劇
終わらない 走馬灯
それが私の生きる道

嘘なんか つかないで
隠し事 もう止めて
分かっていても 難しい
あきらめたり 投げ出したり
逃げ出したり してみても
背を向けた 自分の影が
後から後から 追ってくる

鬼さんこちら 手の鳴る方へ
声を求めて 闇の中
手探り 二の足 五里霧中
肩を叩かれ 振り向けば
僕のエンジェル 絶頂スマイル

やめられない 止まらない
驚き 落胆 幸福 地獄
走りながら 泣きながら
逃げて 求めて
転んで 起きて

死ぬまで続け 最後には
笑ってやるさ ささやかに

神も仏も 天使も悪魔も 死神も
そん時ゃ一緒に来てくれよ
そして皆で人生の 意味ついて話し合おう

2007年9月20日木曜日

夜明けと沈黙

 深い霧が立ちこめる湖のほとりで、対岸のさらに彼方の地平から、日の出らしきぼんやりとした明かりが浮かび上がるのを、私はたまたま道すがら行き会った少女と眺めていた。

 私は原稿の執筆のために、学生時代の友人が所有する山中の別荘に暫く間借りしている所だった。別荘地という訳でもないので、周囲に他に家は無く、雑音を排除し、静寂を求めるには格好の環境がここでは手に入るのだ。
 私は毎朝五時には起床し、湖の周りを自転車で走り回り、体力の維持に努めるのが日課だった。
 そうやって過ごしていたある朝に、私は自転車に乗っていて危うく道を歩いていた少女に激突しそうになったのだ。まだ陽の見えない暗い霧の中、黒ずくめの服を着て歩いていた少女を、直前になるまで認識できず、寸での所でぶつかる事は無かったのだが、私は体勢を崩して自転車から放り出されてしまったのだ。
 幸いけがは大した事は無く、私は一人でも歩けたのだが、少女は気を使って私の別荘まで一緒に来てくれた。私がここで生活している理由をを放すと、驚いた事に少女はしばらく泊めてくれないかと言った。
 彼女はどう見ても中学生、上に見積もってもせいぜい高校生という容姿である。私は家出に違いないと思ったのだが、一人暮らしの男に軽率な事を言うものではないと言って、私が家に帰るように諭しても彼女は押し黙って何も答えようとはしなかった。
 よく見ると彼女は随分とやつれていて、食事もろくに採っていないのではないかと見え、とにかくも別荘についた所で軽い食事を与えたところ、見る見るうちに血色が回復して来た。そうして見ると肌の艶が鮮明になり、それと対比して彼女の着ている服がいかにもみすぼらしく見えた。実際、その黒づくめの服はそこかしこに汚れも目立ち、何日も着替えていないのではないかと思われた。ここに辿り着くまで、いったい同やって過ごして来たのか聞いても、やはりそれには口をつぐんだままだった。
 私は彼女の着れそうな膝丈のパンツと半袖の白地のシャツを選び、シャワーを浴びるように言って、その服を渡した。彼女は一瞬迷ったようにも見えたが、大人しく服を受け取り、シャワールームへ向かった。

 いつもなら、走った後はシャワーで汗を流し、一杯のコーヒーを湖岸のテラスで朝日と共に楽しむのだが、私は汗をかいたシャツのまま二人分のコーヒーを煎れ、とりあえず自分の分を持ってテラスに出た。体が油断したのか、左手に負った擦り傷が痛み始めた。利き手でなくて良かった。わたしにとって右手の健康は生命線である。どうにもコンピューターには慣れない。この山荘にはインターネットの装備も無く、それがまた良い、と私は思っているくらいだ。
 そうして少しずつ白み始めた東の空を眺めていると、服を着替え、汚れを落としてすっきりとした彼女が自分の分のコーヒ−を手にして私の向かい側の椅子に腰掛けた。
「コーヒー、いただいちゃいました」
その言葉に、ようやく彼女は落ち着いたのだと私は悟った。
「そうか、まあ、ちょっとゆっくりしよう」
「怪我、大丈夫ですか」
「このくらいなら大した事はない」
「手当てしなきゃ」
「うん。でももう少し後で。この時間は逃せないんだ」
そういって私は顔を湖の向こうへ向けた。彼女もそちらの方を見た。
 朝日が顔を出す時間だ。
 私は毎日こうして、静かな一日の始まりに自分の生活の時間を合わせ、自分が世界の一員である事を確かめているのだ。山奥で一人で過ごすには、私のような人間にとっては大事な事である。何を語るでも無く、考えるのでもない、ただ、世界の目覚めを感じる時間。
 私は黙然として浮かび始めた太陽の熱を肌に感じている。ふと少女の方を見ると、彼女はまっすぐに太陽を見つめ、一筋の涙を流した。その姿があまりにも美しく、私は思わず見とれてしまった。
「私、償わないといけません」
「償う?…何か、悪い事でもしたのかい?」
「父を殺しました」
私が気付いた服の汚れは、彼女の父親が流した血だったのだ。
 聞けば、彼女の父親は母を裏切って不実を犯し、尚かつ全く開き直った態度で母を傷つけた事に激しい怒りを覚えたのだと言う。そして自分の怒りが日に日に高まっていくのをどうしても押さえる事が出来なかった、と。
 私は話を聞いて、何を言うべきか、答え倦ねていた。しかし、どうしても適切と思われる言葉を思いつかなかった。
 あの朝日を見て、彼女は何かを感じたのだろうか?父親を殺して逃げてしまって、ぼろぼろになりながら歩き続けた果てに、一杯のコーヒーで気が抜けてしまったのだろうか。
 霧が晴れ、朝が鮮明になった時、彼女は自分で警察に電話をかけた。ほどなく別荘の周りは数台のパトカーが訪れて、平素無い賑わいが山中にこだました。警察の話によれば、父親殺害のニュースはTVでも報道されて、世間を騒がせていたそうだ。幸い私の身元は友人が保証してくれたこともあって、事件とは関係ないと判断された。

 私はその後何度もその時の事を思い出し、伝えるべき言葉が無かったかと考え続け、未だに答えを出せていない。

2007年9月19日水曜日

自然消滅

突然に、本当に何の脈絡も無く突然に、僕はあの日の事を思い出した。
あの日僕らはここから車で一時間ちょっと離れた所にある小さな半島の入り口で、将来の事を語り合っていた。
この付き合いが後何年か続いて、そのとき二人の気持ちが何も変わっていなかったら、その時は一緒になろう。
確か僕はそのような事を、当時付き合っていた彼女に、車を運転しながら言ったと思う。
僕はそれなりに真剣だった。
まだまだ若くて、人生の事など何も分かってはいなかったくせに、必死に自分を大人に見せようとして、他愛のない事に努力を傾けていた年頃だった。
おそらくそれは、彼女にとっても同じ事だっただろう。今の自分には、その事がよくわかる。それは別に特別な事ではなくて、歳月を経て10年と言う規模の年月を振り返った時、誰にでも訪れる感慨ではないかと思う。
だから、彼女はあの時の彼女なりに真剣に僕の言葉に耳を傾けていた事だろう。
「後何年かって、どのくらい?」
「そうだな、2、3年とか、4、5年とか?」
「6、7年とか?」
「それはさすがに長過ぎるよ」
「そう?5年も大したものだと思うけど」
「そうかな?」
「3年でも十分すぎるくらいじゃない?」
「でも、俺たちまだまだ若いしさ、3年たってもまだ23とか4とかだよ?」
「そうねえ、そう考えると早いかも。でもその頃には二人とも仕事始めてるだろうし、共働きなら収入もあるから悪くないかもね」
「そこなんだよ。仕事。その頃俺たちはもう社会人になってる」
「五月病になったりしながら」
「上司の愚痴をこぼしたりして」
「新しい出会いがあったりして?」
「沢山の出会いがあって」
「別々の会社で、中々会えなくなったりするかも知れないね」
「ちょっとしたすれ違いで、喧嘩したりするかも知れない」
「そうなると自然にお互いの心は離れて行き」
「この恋は自然消滅してしまう」
「…そんなのやだな」
「俺もいやだ」
「でも、確かによくありそうな話だよね」
「そうなんだよ。どこにでもある話なんだ」
「私たちは、どうなるかな」
「ダメになると思う?」
「考えた事なかったわ」

それから二年と三ヶ月後に、彼女はドイツに留学して、しばらくは電話や手紙で連絡を取っていたものの、その内に連絡を取る回数は少しずつ減って行き、最後のメールはいつ出したのだったか、僕はすぐには思い出せなくなって行った。
僕は就職活動や卒業論文をこなす事で時間に余裕がなく、社会人になってからはなれない仕事や新しい仲間との付き合いに時間を割くようになった。
そして、自然に彼女の事を忘れて行った。

僕は誰もいないオフィスの中で、節電のために自分の周辺にだけ明かりを灯し、いつ終わるとも知れない作業に追われていた。
もう少しで家に帰れるぞ、という所でふと気を抜いた時、僕はようやくあの時の彼女との会話を思い出したのだ。

2007年9月17日月曜日

秘密の計画

三回目のデートの時に、僕はなんでこんな事になったんだろうと考え始めてしまった。
このままいけば僕と朝美とは恋人同士として周囲から認められて行くのだろう。
朝美に取っては、それは歓迎すべき展開だろうし、僕らの友人だってそうなれば心から祝ってくれるであろう事は目に見えて分かっている。
しかし、なんだか釈然としないのだ。

なんだか言いにくい事なのだけれども、どうやら僕は朝美に対して特別な感情を全くと言っていいほど持てないみたいなのだ。
その傾向は僕自身は初めから薄々感じていた事ではあった。けれども、朝美はとてもいい娘だし、付き合って行けばいい関係になれるのかも知れないと思ってデートの誘いを受けたのが始まりだった。ところが、薄情と言われるかも知れないが、どう話してみても僕は彼女に対して気持ちが近づいて行くような感覚を見出して行くことが出来ない。それは僕に取っても意外な事だった。
朝美は同じサークルの男子の中では結構人気があった。顔立ちはまあ平均より上、スタイルも悪くない。なにより愛嬌があって誰に対しても笑顔を絶やさず会話が出来る。それは一般的な男子に取ってはほぼ完璧と言ってもいいくらいの条件と言える。
だから最初に朝美に誘われた時は密かな優越感も手伝って、僕はすぐにOKと言った。
実際に食事を共にして、適当にぶらぶら歩いてみたりして、やはり評判通り悪くない娘だな、と僕は思っていたのだ。

大学では違う学部ではあるけれど、サークルの仲間としてよく顔は合わせるので、お互いの時間の都合を付けたりする苦労はさほど無い。
最初のデートから一週間程してまた二人で遊びに出かけたのだが、その帰りに僕の疑問は沸き起こって来てしまった。
どうも落ち着かない。テンションが上がる感じがしない。待ち合わせの場所で顔を合わせたとき、僕は
(ああ、きた)
としか感じなかった。その事に、自分でも驚いたのだ。その平坦な感情はその後もまるで変わらなかった。僕はただ、仲の良い女友達との楽しげな会話を周囲に対して演じているだけのような気分だった。
友人の西崎に相談すると、
「お前、何が不満なの?」と言われ、
「いや、特に不満はないんだけど」
と答えるしかなかった。自分でもよくわからないのだ。不満なんかないし、朝美は良い娘だし、嫌いではない。
このまま放っておいても、事態はなんだかいい感じのまま付き合いの形だけが出来上がって行くような、漠然とした不安のようなものが僕の中で大きなってくだけだ。

だから、三回目のデートの帰り道、太陽が殆ど落ちてしまった薄暗がりの外灯の列に沿って歩きながら、なにか解決策を探ろうという気持ちから、拙い言葉を僕は弄する事になった。
「今日は楽しかった?」
「うん。とっても」
「なんか、いつも朝美に誘われちゃってるよね」
「そうだね。たまには誘ってよ」
「ああ、考えとくよ」
「無理しなくても良いよ」
「?」
「苦手でしょ、女に気を使ったりするの」
「まあ、得意とは言えないけど。努力はしてる」
「大丈夫。あんまりそんなに求めてないから」
やっぱり何か引っかかる。
「なんで僕を誘ったの?」
「無害そうだからかな」
「特に好きじゃなかった?」
「そんなことないよ」
彼女が思っていた程には僕の事を好きじゃないのかも知れないと思って、僕はなぜか胸を撫で下ろした。
「正直に言うけど、僕はあまりまだ気持ちが固まってないんだ」
「だろうと思った」
朝美はけろりとして言った。
「でもね。断言するけど、一年経ったら私たち、うまく行くよ。間違いないから」
「一年経ったら?」
「そう。一年経ったら」
「一年経たないと分からないの?」
「あなたと私はそういう運命なのよ。信じなさい」
予想外の展開に、僕は何を言ったら良いのかも分からなくなってしまった。そんな僕の顔を見て、朝美は言葉を続けた。
「でも、意外と良いペースよ。この展開は私の予想より二ヶ月は早いもの」
「そうなの?」
「軌道修正しなきゃね。だから、打ち明けるけど、私本当は高校で二年ダブってるから二つ上なの。黙っててごめんね」
僕はだんだん何がなんだか分からなくなって来た。
「それって…」
「みんなには内緒よ。二人だけの秘密だからね」
と言って朝美は満足そうな顔をした。

疑問はまだたくさん残っているものの、僕と朝美の付き合いは続いている。
そしてもうすぐ一年が経つ。
その後朝美がどんな計画を立てているのか、僕はいつの間にか楽しみに待っているのだ。

2007年9月16日日曜日

スペースシャトルシゲル

スペースシャトルシゲルは天空の城にたどり着いた。
始めは月に行くつもりだったのだが、座標が狂って道に迷った挙句、思い切って進んだ方向にその城はあったのだ。
何故そのスペースシャトルがシゲルと名乗るようになったのか、そして心と意志を持つようになったのか、それは誰にも分からない。でもその中にいる乗組員達とシゲルとの関係は非常にうまくいっていた。何かしらの問題が起こって困った時にはよく話し合って解決の道を探ったし、そうでないときには無駄なおしゃべりなんかも交わしたりした。そんな風にて、長い宇宙の航海の間に、彼らの信頼関係は強固なものに築き上げられていた。
だから、彼らが天空の城に辿りついた時も、彼らは恐れることはなかった。信頼できる仲間がいるから、どんな未知の物にも突き進んでいくことが出来たのだ。

城の広場の片隅にはシゲルにあわせて作られたような発着場が二つあって、その一方にシゲルは難なく降り立った。
乗組員達が注意しながらスペースシャトルの外に出ると、広場の中央で遊んでいた三匹の子豚が我先にと近づいてきた。乗組員のみんなは驚いた。子豚たちはとても自然に二つの足で歩いていたのだ。三匹ともそっくりで、うっかり油断すると誰がどれだかわからなくなった。
「我々は三つ子なんですよ」
子豚の一人が言った。
「ここには双子か三つ子の者しか住んでいません。初めていらっしゃった方たちはみんな驚きますけどね」
隊員のゲンは驚いて言葉を返した。
「豚が喋った!!」
しかしそのやり取りを聞いていたシゲルが横から割って入った。
「ゲン、失礼じゃないか。僕だってスペースシャトルなのに喋るんだぜ」
「ああ、確かにそうだったな。ごめんよ、子豚ちゃん」
「いえいえ、大したことじゃないです。それより、たいそう立派なスペースシャトルですね」
「ええ、シゲルというんです」
「シゲルです。よろしくどうぞ」
「そうですか、そうですか。では、シゲルさんはしばらくここに居て頂いて、乗組員の皆さんはどうぞ中でおくつろぎください。長旅でお疲れでしょう。ここは宇宙でも辺境の土地ですから、こうして迷い込んでこられた方には手厚くおもてなしをするのが天空の城の流儀なのです」
三匹の子豚は綺麗に言葉を揃えて、美しいコーラスを奏でるように一緒に喋った。
ゲンたちは顔を見合わせ、どうしようかと考えた。そこへシゲルが口を挟んだ。
「みんな、行って来なよ。どうやら悪い人では無いようだよ。ゆっくり休んでくるといい」
「シゲルがそう言うなら…」
ゲンたち乗組員は、仔豚達に連れられて天空の城へ入っていった。

しばらくすると、もう一つの発着場にシゲルそっくりのスペースシャトルが着陸した。
着陸するなり、彼はシゲルに話しかけてきた。
「僕はワタル」
「キミは僕にそっくりだね」
「当たり前さ。僕らは双子なんだから」
「え?そうなの?」
「なんだ、聞いてないのかい?あの子豚達もしょうがないな」
「でも僕は人に作られたスペースシャトルだよ」
「それはそうさ。でもここは天空の城だし、キミの住んでいた所とは違うんだ。ルールとか、文化とかがね。君は確かに人間の手で作られたかもしれないけれど、僕と双子の兄弟ということに変わりはない。そうでなきゃ、スペースシャトルが喋るなんて、誰が思う?」
シゲルは考えた。ワタルは横から口を挟んだ。
「あんまり考えないで。何か僕との繋がりを感じてくれればそれで良いんだ。僕らは世界でたった二つのスペースシャトルなんだから」
「スペースシャトルは他にもあるよ」
「命を得たのは僕らだけさ」
「本当にキミと僕は双子の兄弟なんだね?」
「そうだよ。僕らはこの城で生まれたんだ」
「ここはいったい何なんだい?」
「説明するのは難しいな。この世とも、あの世とも、言えないね」

二人の話は延々と続いたが、しばらくすると
「そろそろ行かなきゃ。こう見えて結構忙しいんだ」
とワタルは言った。
「またいつでもきなよ。ここキミの故郷なんだから。天空の城はいつでも君を待っているよ」
ワタルが去ってしばらくすると、三匹の子豚がゲンたち乗組員を連れて外に出てきた。
「シゲル、ここは素晴らしい場所だ。ぜひまた来よう。帰る道も教えてもらった」
「それは良かった。じゃあ、道すがら、城の話を聞かせてくださいね」
そしてスペースシャトルシゲルはまた宇宙へと旅立った。
どうやら自分の生まれ故郷らしい天空の城を後にして。

2007年9月15日土曜日

闇が来る

ふと音がして空を見上げると、夕闇の空に紙切れが舞っていた。
しかしそれはよく見ると鳥の群れだった。
軽く百は超えようかと言う数の黒い影が、青とグレーとオレンジのグラデーションに染まった背景の中を疾駆してゆく。
すぐ傍に立っていた街灯に灯がともり、その白い光が他の色彩の中でぼんやりと主張を始める。
群れはある程度進むと大きく弧を描きながら旋回し、やがて空に不完全な輪を作った。
その中から数羽が若干群れを離れて輪の外に飛び出し、違う方向へ旋回して行った。
その通りにいた何人かの通行人達は、何事かと皆一様に空を見上げていた。
群れの数は次第に増えて行っているように見える。もう、百どころではない。
既に通りの外灯には全て灯りがついて、町も、人も夜の支度を始めている。
しかしまだ、時は黄昏から離れてはいない。
空の住人達ははまだ数を増やしている。
脅えた女の声がそこかしこに聞こえ始め、低い声で唸る男のざわめきもその中に混じっていた。
それとない不安が人の心に訪れた。
彼らは我々から時を奪おうとしている。
黄昏の夕闇を空の世界のものだけにしようとしている。
この世界で最も美しい時間の空を。
群れはまだ広がっている。
やがて輪は完全になり、その面積を広げ、我々の目を光から遠ざけ、地上を暗闇で覆うのだろう。
そして黄昏の支配に飽き足らず、昼の青も、夜の藍も彼らの影で埋め尽くすつもりなのだろう。

ダルマの目

「もう何も信じらレッナいよ」
とダルマは言った。
『近江としひろ』の名前がでかでかと記されたポスターがダルマの頭には引っかかっていて、半分隠れている。
そのポスターの中で笑顔を振りまいているいかつい顔が、今はダルマの前でうなだれている。
「見事に、やらレッタね」
ダルマは言葉を続けた。
近江はパイプ椅子の上で肩を落としていたが、やにわに立ち上がると誰もいなくなってしまった選挙事務所の中をうろうろと歩き回った。
事務所の中はところどころ紙切れや倒れた椅子が床に散らばっていたりして、荒んだ雰囲気を醸し出していた。
近江は、選挙に負けたのだ。
信頼していた秘書の裏切りで次々とスキャンダルを流され、しかもそれが真実だったため、もうどうにもならなかった。
「でもまあなるべくしてなったという結果なノッカな」
近江はダルマに近づいて、その頭にかぶさっていた自分のポスターを払いのけた。
片目のダルマが姿を現した。
「少し黙ってろ」
近江は低い声で言った。
「そういう脅し口調も、もう聞いてくれる人もいナックなってしまうね、あの秘書みたいに」
「…ふん」
近江は踵を返して隅の方へ追いやられた感じのデスクの上から墨と筆を持って来た。
「こうしてやる」
近江はダルマの黒目が入った方の目を白目も含めて全て真っ黒に塗りつぶした。
「おいおい、これじゃ何も見えないじゃなイッカ」
「口も塞いでやろうか」
「俺が黙っちゃったら、さびしいだろう?やめトッケよ」
「…頼むから、しばらく静かにしてくれないか」
「家族の事を考えているのかい?」
近江は、墨の付いた筆を振り回しながらまたぐるぐると事務所の中を歩き始めた。筆の先からピンピンと墨が点になってあちこちに飛んだ。
「今回の件で随分迷惑をかけてしまったからな」
「愛人の件をばラッサれたのは痛かったね」
「ふう」
近江は壁に貼られていた自分の選挙ポスターの一つに落書きを始めた。鼻の穴を広げてまつげを長くし、鼻毛も伸ばして眉毛をつなげてみた。そして名前のすぐ横に『ハゲ!』と書いた。
「あんないい女、もう一生抱けないだろうな」
「奥さんとうマックやればいいじゃないか」
「あれとはまた違うんだよ。お前には分からんだろうが」
「そうでもなイッサ」
近江はダルマの顔を見た。
「変な奴だ。人間でもないくせに」
「人間じゃなくても分かる」
近江はダルマの額に『肉』と書いた。
その時、事務所のドアをノックする音がした。そして女の声がした。
「あなた、まだいるの?誰と話してるの?みんな心配してるわよ」
「すぐ行く」
近江はその声に応えて、自分の身なりを整えた。
「じゃあ、行くぞ」
「お別レッダね」
「引き取ってもいいぞ」
「やめときなよ。情が移ると困ルッカら」
「こいつめ」
近江は残っていたダルマの白目に小さな点を書き入れた。
「ちょっとは見えるか?」
「…」
ダルマはもうしゃべらなかった。軽く小突いてみても、ひげを描き足してみても、もう何も言わなかった。
「ふん。ダルマめ」
そう言って近江は筆を元に戻し、事務所のドアを開いて外に出て行った。

2007年9月14日金曜日

ボスのキック

ボスのキックは半端な威力じゃない。しかもいろんな種類のキックがある。そのどれも食らえば非常な痛みを伴う。それは社員全員がよく知っている話だ。ある時はボスのキックを食らったベテランの営業マンが三日間の休息を余儀なくされたのだという話だ。
僕は初めのころ、その話を信じなかった。なぜなら今時そのような事はすぐに暴力だ体罰だと言われて社会的に散々な非難を受ける格好の的に違いないからだ。
ところが、実際にそのキックを食らったという社員が何人かいて、僕は実際にその人たちと話をして、直接に
「あの人のキックはすごいぞ」
などと聞かされたりしていたので、それはやはりあるのだな、という風に次第に意識が変わっていった。僕はその人たちに素直に疑問をぶつけてみた。
「それって、問題になったことはないんですか?」
「問題?何が問題なんだ?」
「いや、キックの事ですよ。キックそのものについて」
実際にやられたという経験者たちは(彼らは社内で[経験者]と呼ばれていた。何かの称号のように)お互いに隣り合う経験者同士目を合わせたりして、やれやれ、という仕草を見せた。
「分かってないな」
「若いからね」
「仕方ないんじゃないですか?あれだけは経験してみないと」
彼らの返答はまるで自慢話を認め合うような会話になっていた。そうしてその集まりは、いつの間にかいかにボスのキックがすごいかという事を論じ合う場に変わっていった。そうなると不思議なもので、僕は次第に一度くらいなら蹴られてみたい、などと思うようになってきた。
しかし僕にはまだ疑問が残っていた。僕は中途採用でものすごく半端な時期に入社して来た所為もあって、未だにボスに会っていない。会社の中でボスの姿を見た事がないのだ。
「ボスは忙しいからな」
「俺らだってたまにしか見ないぜ」
「どんな人なんですか?」
「ちょっとはげてる」
「ずっと笑ってる」
「顔は優しいよね」
「落差がすごいよな」
「見た目と、キックの間がね」
「そうそう」
話がそこになると、[経験者]たちは一斉にうんうんと頷くのだ。僕の期待はいやが上にも高まって来てしまう。

そんなある日、僕はボスに呼び出された。仕事でちょっとしたミスを犯してしまったのだ。
僕がボスの部屋に入ると、みんなが話していた通り、柔和な笑顔のボスが僕を迎えてくれた。
「イワイ君、飯まだだろう。一緒に行こう」
ボスはそう言って僕に有無を言わせずすたすたと外へ向かって歩き始めた。
「美味しい店があるんだ」
ボスは自分で車を運転して、助手席の僕にしきりと話しかけて来た。仕事は慣れたか、みんなとはうまくやってるか、など、会話の内容はごく普通で当たり前の事ばかりだった。でもボスはとても話すのがうまく、普通の話をとても面白く他人に伝えるのがうまかった。僕は次第にボスの話術に引き込まれ、心からその会話を楽しんだ。そうするうちに、車は普段の僕なら近寄る事すら憚られるような高級なステーキハウスの前に止まった。僕とボスはそこでものすごく分厚くて柔らかくてそれでいて心地よい歯ごたえの残るステーキを平らげた。
「すいませんでした」僕は食後のコーヒーをすすりながらボスに言った。
「どうした」
「先日、ミスをしてしまって」
「ああ、あれか。僕も昔同じ事やったよ。いつまでも気にしてても仕方ないから、次ぎ、がんばってよ」
「あ、はい」
「今日はね、まだ話をしてなかったと思ってね。それで飯に誘ったんだ」
ボスはそう言っただけで、その後二度と仕事の話をしなかった。そして昼休みの終わる時間が来るときっちり僕を会社まで車で送り、
「僕はまたこれから外で人と会う用事があるから」
と言ってそのまま車から降りることなく、派手なエンジン音を吹かせてどこかへ去って行ってしまった。

オフィスに戻ると[経験者]の一人がそっと気遣うようにして僕の隣に近寄って来た。そして無言のまま僕の肩に手をかけ、僕を会議室へ連れて行った。そこには[経験者]達が揃っていて、僕を囲んで何か神妙な面持ちで並んでいた。
「まあ、今日はゆっくりでいいから」
「うんうん。無理はいかん」
どうやら僕がボスのキックを食らったのだと思い、労ってくれているようだ。
「いや、大丈夫ですよ」
と僕が言うと、
「そんな事言うな」
「そうだ。みんな気持ちは同じなんだ」
なんだか僕はあえて何もなかったと否定するのも気が引けて来て、
「すいません、ありがとうございます」
と言った。すると[経験者]の一人が
「で、どんなだった?」
と聞いて来た。その言葉に呼応するかのようにその場にいた全員の目が僕の方に向き、そのどれもが好奇の光に満ち満ちていた。
僕は元々彼らからさんざんボスのキックについての話を聞いていたので、ああだこうだとなんとか話を作ってみんなを喜ばせる事にした。ボスの話術の巧さに影響されていたのかも知れないが、その時の僕の話はとてもアドリブで考えたとは思えない程リアリティを持たせる事が出来た。
そして僕は見事に[経験者]の仲間入りを果たした。

それからもう何年も経ってしまったけれど、ボスのキックの伝説は今もまったく色褪せてはいない。

2007年9月13日木曜日

サムライソウル

一人のサムライが僕の中に住んでいる。
二重人格とか、多重人格とか、そう言う類の話ではない。
彼は僕の心の一部を陣取っては居るものの、決して僕を押しのけて表に出てこようとはしないし、それこそ武士道さながらに謙虚で鍛錬を欠かさず、いつの厳しく自分を律している。
ただ、僕が悩んだり、迷ったりしていると、ふと口を出してくる。話し相手には丁度いい。

僕が目を閉じている時に、カキン、と刀の鯉口が音を立てたら、それは彼が立ち上がったという「しるし」だ。
僕と話すとき、彼は常に刀を左手にぶら下げ、いつでも抜けるような状態にして現れる。
その立ち姿には力んだ所がまるで無く、一見ふらふらとしていて押せば倒れそうに見えるのに、いざ対峙するとまるで勝てる気がしない。
それなりに、剣の達人なのかも知れない。
「それなりなどと言うな」
僕の考える事は全て彼に筒抜けだ。何しろ僕の精神の内側にいるのだから仕方が無い。
「何を話しているのだ」
いや、ちょっとね。
実のところ、彼は全くの気まぐれで話しかけている節がある。暇なのかな?と思う時がある。
どうして僕の中に住みついてしまったのだろう?僕は聞いてみた事があるのだ。
「ここは中々広くて心地が良いのだ。余計なものがあまり無いしな」
「それは僕があまり物事を深く考えてないという事ですか?」
「有り体に言えばそうだ。だが悪い事ではない。最近はどいつもこいつも考え事が多くて困る」
「今まで色々と宿を変えて来た訳ですか?」
「うむ」
「結構風来坊なんですね」
「別に主君に仕えている訳ではないからな」
「今回は何です?」
「それは私の台詞だ。今、悩んでいるだろう?五月蝿くてかなわんのだ」
「そうですね、ちょっと人間関係で。最近チームに入って来た奴が困った奴で。空気を読まずに自分の主張ばかりするんですよ」
「斬ってしまえ」
「いやいや、この平成の世にそんな事は出来ませんよ。斬ったら逮捕されますよ」
「面倒な事だ」
「そうなんですよねえ。実際斬っちゃったら簡単だとは思うんですけどねえ」
「その気になったら俺を呼んでいいぞ。いつでも刀を貸してやる」
「いいんですか?刀は武士の命じゃないんですか?」
「まあ、堅い事言うな。私と君は一心同体みたいなものじゃないか。なあ、兄弟」
「でも、僕に刀が扱えますかね」
「実際斬れる訳じゃないから大丈夫だろ」
「それじゃあ、そもそも刀必要ないじゃないですか」
「拙者は心の有り様の事を言っているんだ。精神の修行だ。心に刀を持てという事だ」
「なるほど」
「やればできる」
「切れ味鋭い言葉なんかが出て来ちゃったりしますかね」
「そう言う事もあるかも知れないな」
「そうかあ、楽しみだなあ」
「鍛錬を怠るな」
「できるだけそうしますよ」

結局このばかばかしい会話が僕の気分転換になっているのだ。
「ばかばかしいとはなんだ」
ああ、はいはい。

2007年9月12日水曜日

片方のベル

目覚まし時計が鳴っている。
顔を枕に押し付けた格好のまま、目覚ましを止めようと手を伸ばしたが、いつもの場所に時計が無い。
私は仕方なく顔を上げた。こういう時は体に染み付いた習慣というものが心底恨めしくなる。
今日は休日なのだ。
首をのばして辺りを見回してみたが、目に見える範囲にこの恨めしい音の主が見当たらない。
目覚ましのベルは鳴り続けている。
私は平日の疲れが蓄積した、活発さのかけらも無い体を引きずり、文字通りベッドの上を這いずって辺りの床やサイドテーブルの棚の中、ベッドの下を見てみたが、やはり時計は無い。
私があまりの五月蝿さに頭を抱えた時、ふと音は鳴り止んだ。
思わずため息が出た。

私はベッドから抜け出し、リビングを通ってバスルームへ向かった。
リビングの壁にかけてあるアンティーク調の時計の針は朝の6時10分を示している。
いつもなら私が出勤の準備に忙しい時間帯だ。
こうして起きてすぐシャワーを浴びようとするのも、身に付いた習慣の一部なのかも知れない。
いくら体は重くても、自然と足は決まった道筋を歩く。
バスルームの前で服を脱ぎ、扉を開き、バスルームの中へ入る。
シャワーの蛇口をひねり、熱めのお湯を頭からかぶる。
私が目を閉じて水温の熱さに身を委ねていると、どうやら寝室の方でまた目覚ましのベルが鳴り始めた。
いったい何処で鳴っているのだ?
目覚まし時計のベルは、こうやって壁を隔てていても神経に障るように作られているらしい。
まあ、さっきよりはましだ。
私はいつものように十分に体が温まるのを待ってから、シャワーを止めた。
まだ鳴っている。
バスルームの扉を開き、タオルで体を拭き始めると、はたと音が止んだ。
私は新しい服を身に着け、今度はリビングを通らずにまっすぐにベッドルームへと向かった。
いつもとは違うルートだ。
私がベッドルームのドアに手をかけると、リン、と短い音が鳴った。
それは間違いなく目覚まし時計のベルの音だったが、その時のような短い間隔でベルが鳴ったのは、初めてだった。
私のドアを開けようとした手は一度空中で彷徨い、それから改めて扉を開いた。
何故だかその動作は少し乱暴なものになった。
ベッドルームの中へ入ると同時にリビングへ続くもう一つのドアの方向へ向かって、床を転がる金属音の用なものが聞こえた。
私が急いでそちらへ向かうと、ベランダへつながる窓の外へ向かって、破片のようなものがころころ床を転がっている。
私は空き巣に入られたのだと思い、慌ててベランダに出てあちこち見回してみたが、何も見つからない。
私の部屋に残されたのは何かの部品らしい金属の破片やねじだった。
その中には目覚まし時計のベル部分の片方もあった。
私は首を傾げ乍らも盗まれたものは無いか、部屋の中を隅々まで確認したが、目覚まし時計が見つからないというだけだった。
私はその後警察を呼んで家中を見てもらったが、誰かが侵入した痕跡は見つからないと言う。

この一連の出来事について、私は今ではこう思っている。
きっとあの目覚まし時計は休日の朝に仕事をさせられた事に腹を立てて、脱出を計り、まんまと成功したのだ。
ただ、私がいつもとは違うルートを使って家の中を歩いた為に、慌てて壁にぶつかるか何かして、大事なベル部分を現場に残してしまったのだ。
今頃彼は傷だらけで路頭に迷っているかも知れない。
もし、街路に佇む片ベルの目覚まし時計を見かけたら、それは私の使っていた目覚まし時計かもしれない。

2007年9月11日火曜日

右手の仕業

欲望のコントロ−ルは難しい。
何かが欲しい。
飢えを満たしたい。
足りないもの、満たされない事への渇望。
一旦考え始めると、
全ての理性は失われ、思考の活動が奪われる。

僕の右手は、何かを欲している。
僕の意図にない動きを見せる事がある。
書こうとした文字は別の文字として描かれ、
支離滅裂な文章しか残らない。

僕は魚の背中を愛し、山中の小屋にこもった。
中に入るとそこは嵐で、そこかしこに母が立っていた。
よく見るとそれは別れた恋人だったかもしれないが、おそらく何かの天災だろう。
こんな事は今まで何度もなかった。だから私は理解したようだ。
諦めても挑んでも世界は僕のものだ。
新しい彼女が突然僕に平手打ちを食らわせ、僕の意識は地中に潜った。
土の中から空を見上げると、ガラスで出来た舞台を下から眺めているみたいだ。
彼女の海は美しい。
僕が彼女の服を脱がすと、親友がやって来て俺もやる、と言い出した。
僕らはみんなで服を脱がしあった。
魚のけたたましい笑い声が響き、窓を突き破って飛び込んで来た鳥が激しく体を明滅させた。
七色の光の中で僕らは踊った。
飛び交う汗が繋がりあって、我々は次第に固まり一つになった。
高級なベッドのマットレスに包まれているような、ふかふかとした胎内で僕は時間の事を思った。
そろそろ会社に遅刻してしまう。いや、それは自由だ。
遅刻は普通だ。時間がいけないのだ。そうやって人間は成長するのだ。
僕はめんどくさがる彼女を抱き寄せてこっそり髪の毛の密度を確かめた。
それから耳たぶの裏を丁寧になめあげて、人生の成功を誓った。
愛してるよ、みんな。


こんな文章は、全て右手の所為なのだ。

2007年9月10日月曜日

 アパートの軒先の外灯に、虫がたかっている。今時珍しい裸電球だ。
 二階の廊下に続く鉄製の階段はびっしりと錆び付いていて、そういった細部に少し目を配るだけで、ここの大家が設備の管理にあまり注意を向けていない事が分かる。この辺りの夜はよそ者である僕にとって殊の外暗く感じられる。
 私は10年来姿を見ていなかった友人のKがここに住んでいると聞いてやって来たのだが、それはさんざん躊躇した上での事だった。
 昔、Kとは親友だった。
 しかし我々は一人の女性を巡って諍い、結果的に私が彼女を親友から奪い取る形になり、その女性はその後私の妻となった。
 Kはそれから私とは口を聞かなくなり、しばらくすると私や妻とだけでなく他の誰とも言葉を交わさなくなり、次にKの噂を聞いたのは、彼が失踪してしまい居場所が分からなくなった後だった。私は彼の実家に連絡を取って親友の安否を確かめようとしたが、ご両親にも行方が分からないらしく、逆にその理由に心当たりがないものかと問われ、私は「わからない」と嘘をついたのだった。

 彼の消息を知らせてくれたのは我々と親交があった別の友人Sだった。Sは保険の調査員をやっており、仕事中にKを見つけて後をつけ、ここに至ったのだと言う事だった。

 私が玄関の前に立ちブザーのボタンを押すと、部屋の奥でクイズ番組の不正解の時のような音がした。
 反応はなかったが、私は声をかけた。
「K、俺だ。開けてくれないか」
しばらく待つと、ドアが開き、Kが現れた。
私は驚いた。彼は変わっていない。10年前の面影が殆ど変わらず残っている。
「申し訳ありませんが、どちら様ですか?」
Kは笑顔で私にそう聞いた。余りに屈託のない、純粋な笑顔に見えた。
「俺の事を覚えていないのか?」
「すみません。私には何も分かりません」
「そんな事言うな。ご両親も心配しているし、俺たちだって」
Kはすっと右手をあげて手のひらをこちらに向け、私の言葉を遮った。
「先日もそのような方がいらっしゃいましたが、はっきり言って迷惑です。お引き取り下さい」
おそらくSの事だろう。
「本当に私の事が分からないのか?」
「そうですねえ…不思議と懐かしい気がしなくもないですが、私の記憶にはないですね、残念乍ら」
私はだんだん、何か悪い夢でも見ているのではないかと言う気分になって来た。
「君はKじゃないのか?」
「私の名前はWです」
私は言葉を失った。それは私の名前だ。
私は思わずKの肩をつかんで激しく揺らした。
「おい、悪い冗談はやめてくれ。いや、あの頃の事についてはいくらでも誤る。私はひどい事をした。許してくれ。ずっと、ずっと、私は。私は…」
「やめろ、放してくれ。誰か!誰か助けて!」
Kは大声で叫んだ。アパートの住人らしき数人が顔を出し、そのうちの一人がゆっくりと近づいて来た。彼は若い黒人で、完璧な標準語を話した。
「なんだか知らないけど、そいつを放してやってくれ。毎日月に向かって懺悔をしているような奴なんだ。悪い奴じゃないし、事情なんかどうでもいいから許してやってくれないかな」
私の腕からは力が抜け落ち、Kをつかんでいた手はだらりとぶら下がった。
 私はそのままその場を離れ、背後から聞こえるアパートのあれやこれや言う音や声を聞き乍ら、家で私を待っている妻の事を思った。

2007年9月8日土曜日

アップルパイ

「何してるの?」
珍しくキッチンに立って何か考えている啓太を見て、奈々は聞いた。
「いや、たまには何か作ろうと思って」
「へえ、珍しい」
奈々は啓太が料理に関心を持った事などこれまで見た事もなかったので、意外だった。
「何作ってくれるの?」
「アップルパイ」
「アップルパイ!?」
「うん」
「なんでアップルパイなの?」
「アップルパイ嫌い?」
「好き」
「そか。よかった」
「作った事あるの?」
「いや、全然」
何がきっかけで啓太が突然アップルパイを作ろうと思ったのか奈々は不思議だったが、
啓太がそんな事を言い出したのはこれまでなかった事なので、
それはそれで嬉しい気がしたのだ。
「どうやって作るの?」
「さっきネットで見たから、材料を今確認してたんだ」
「材料は足りるの?」
「リンゴとパイ生地が足りないね」
「アップルパイにとっては欠かせないものね?」
「そうだね。その二つがそろわない限り、どんなに工夫して料理してもアップルパイと呼べるものは出来ないだろうね」
「確かに」
「だから今から買いに行く」
「今から?」
「うん」
奈々は窓から外を見た。
今朝早く上陸した台風が、今まさに付近を暴風域に覆っている所なのだ。
激しい雨と風が窓をさかんに叩き付けたり震わせたりしているのを見て、奈々は言った。
「天気悪いから、明日にしようよ」
「明日は仕事だし、多分早く帰れないと思う。今日作りたいんだ」
「ねえ、台風来てるんだから、危ないよ。アップルパイ作る気になってくれたのは嬉しいけど、その気持ちで十分だから、今は外に出るの止めよう?」
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないよ」
「さっきニュースで確かめたんだ。あと少しでこの辺りは台風の目の中に入る。その間に必要なものを揃えてくる」
「危ないってば」
「大丈夫。慣れてるから。俺の田舎じゃよくやってたんだ」
結局、啓太は奈々の制止を聞かずにその30分後にはスクーターで近くのスーパーへ行って40分後には帰って来た。
「な、平気だったろ?」
得意げな啓太の顔を見て奈々は何も言えなくなった。(あなたはどうか知らないけど、私は台風になんか慣れていないんだから。
どんだけ心配したと思ってんのよ)
それから一時間後、啓太は驚く程の手際の良さでアップルパイを完成させた。
「おいしい」
奈々が素直にそう言うと、
「な、行って来て良かっただろう?多分もう二度と作る気にならないよ」
と啓太は言った。
「そんな事言わないで作ってよ。すごくおいしいから」
「じゃ、また台風が来たらね」
「普通の時でいいでしょ」
「こういうのはさ、タイミングとか、気持ちが大事なんだよ。普通の時に俺がアップルパイ作ったって美味しくなる訳がない。それ、わかるだろう?」
「全然分からない」
「全然?」
「分かった。こうしようよ。今度台風が来たら、雨とか風とかが激しくなる前に買い物を済ませましょう」
奈々はそう提案した。奈々は至極当然の事を言ったつもりだったが、啓太はしばらくうーん、と唸って、あまり納得してはいないようだった。
「そうじゃなきゃ私食べないからね」
「…それは困る」
「じゃ、決まりね」
「譲歩しよう。でも他のものを作りたくなるかも知れないよ?」
奈々はだんだん答えるのが面倒になって来た。
「冷えないうちに食べちゃおうよ」
「うん。それもそうだね」
二人は暴風が窓を揺らしたり、豪雨が建物全体を叩き付けるような音に囲まれ乍ら、啓太の作ったアップルパイを黙々と平らげた。

少年のスピード

何処まで転がっていっても終わりがなさそうな坂道だった。
その道はほんの少しも歪む事なくまっすぐに地平線の彼方まで続いていた。
しばらくずっと下りが続き、ずいぶん先の方でまた上り坂になっているようだ。
ここまでくるのにもうずっと坂を上って来ていた。
それまで自転車に乗って走って来た道は地形に沿う形でくねくねと曲がり、
急なカーブや大きく緩やかに回るカーブが幾度となく続いて来たのだ。
平地でも小さな丘でも山道でも、こんなにまっすぐな道を見たのは初めてだった。
どんな舗装された道路でも、完璧に直線的な道なんてありえない。
かなりの距離を走って来たはずだが、
今、目の前にある道は、恐ろしく完璧な直線に見えた。
ひょっとしたら道を間違えてしまったのかも知れないと思ったが、
他の道への分岐など途中になかったはずだ。
ようやく坂を上り切ったと思ったら、
予想外の風景に出会ってしまい、
少年はしばらくその道を眺めて立ち止まった。

突然訪れた衝動に従って無計画に走って来た。
ほんの散歩のつもりでふらふらと自転車のペダルをこいでいただけだった。
初めに小さな丘を越えそのまま丘を下った時、
少年は自分が途中でやめる事の出来ない流れの中に居る事を悟った。
何故そんな事が起こったのか何が少年をそうさせたのか、
考えればきりがないのだが少年はただその流れに従おうと思ったのだ。
考えるのは後でいい。
おそらく今は走るべき時なのであって、
結果は後からついてくるだろうしとにかく走れば何かが分かる。
少年は自分なりにそう解釈して走ってきた。

走り始めたのは早朝のまだ朝日が昇り切らない頃だったから、
もうかなりの距離を休みなく走っているはずだ。
太陽は頭上の最高点をいくらか前に通り過ぎ、
午前中に十分暖められたアスファルトから立ち上がる熱気と、
遮るものもなく降り注がれる光の圧力に、
少年の体力はかなり奪われていた。
それに応じて思考力も衰え物事の是非を判断する事さえ難しい。
目の前に延々と伸びゆく不思議な直線道に少年は魅入られ、
するするとペダルをこぎ始める。

ここまできたんだ。
余計な事は考えるな。

少年はおぼろげな思考力の中でそう自分に言い聞かせ、
前に進んだ。
一度下り始めると、
少年を乗せた乗り物は重力の推進を得て加速度を増した。
スピードが上がる程に風の抵抗が強くなり、
姿勢を保つのに体中の筋肉を使った。
道はまっすぐに延び、
自分もまっすぐに下っているだけのはずなのに、
そうする為には力強くバランスを保つ力が必要だった。
少年はさらに速度が増すように出来るだけ体を小さくまとめた。
坂は中々終わらなかった。
少年のスピードは上がり続けた。
もし今バランスを失って倒れたら、
頭や体をしたたかに地面に打ち付け僕は死ぬかも知れない。
少年はそう思うと同時にそれでもいいとも思った。
彼はただ単純に正面を見据えてスピードに全てを委ねた。

彼はそうして一つの直線と同化し、
この世界を構成する一つのピースとなり得たのだ。

2007年9月7日金曜日

女優生活

僕の彼女は女優をやっている。
女優と言っても知名度は皆無に等しく、
アングラの小さい小屋で細々と活動を続ける
小さな劇団に所属しているのだ。

僕と付き合い出してから、
いつしか彼女は四六時中演技をしながら生活するようになった。
「練習だから。変な顔しないで付き合ってよ」
彼女はそういっていつも誰かになり切っている。

初めのうちは僕も面白がっていたけれど、
しばらくすると飽きて来て、
もうしばらくすると嫌になった。
なにしろいつでも他人を演じている訳だから、
彼女が何を考えているのか、
だんだん分からなくなってきたのだ。

例え喧嘩になったとしても、
一昨日見たアクション映画のヒロインが突然現れて、
見よう見まねの回し蹴りを食らったり、
その上捨て台詞を浴びせられ、
最後にはキスで終わると言う、
ちょっとしたワンダーワールドになってしまう。
そしてベッドの中に入ると何処で見て来たのか、
ポルノ映画の女優のような少し大げさな喘ぎ声をあげ、
絶頂に達するときなどは、
アパート全体に響き渡るような叫びになる。
流石にそれは大げさすぎる、
と陰ながら僕は思うのだけれど、
どんなに言っても彼女はやめない。
それが自分の使命だと信じているようだ。

そこまでやれば女優としてもう少し売れてもいいのじゃないかと思うのだが、
ちっとも変わらずに小さな劇団で活動しているのを見ると、
そういう生活と女優業とはあまり関係ないのかも知れない。
浮気性な女の役に嵌まったりしなければ、
まあいいか、
と最近だんだん思えるようになって来た。

2007年9月5日水曜日

あるライオンの絶望について

あるサバンナの真ん中で、
一匹の雄のライオンが希望をなくして佇んでいた。
番いの雌が死んでしまったのだ。

彼はもうライオンとしては随分生きて来た方で、
そのサバンナの中ではどんな暴れ者も一目置く程の長老の域に入る。
その彼が、悲しみに捕われて身動きもしなくなってしまった。

長い間連れ添った伴侶を失った寂しさの現れなのか、
彼は数日の間手当り次第に近くの木に齧りついていた。
元々あまり豊富とは言えないサバンナの木々は、
かなり広い範囲でライオンに咬み疲れてボロボロになった。
サバンナに住む獣たちはその荒々しい姿を見て、
年老いたライオンがまるで昔の姿を取り戻したようだと噂した。

それが何日も続いて、
気が付いた時にはライオンの牙はすっかりすり減ってしまって、
彼はもう何かに噛み付く事さえ出来なくなってしまった。
そして今度はあらゆるものを爪で引っ掻き回し、
数日後には爪が剥がれ、
指先は皮が剥けて血まみれになり、
そうして彼はようやく大人しくなったのだ。

絶望がひたひたと年老いたライオンの心を締め付け、
彼は歩く事にすらひどく疲れを覚えるようになった。
ライオンはサバンナの真ん中に佇み、
彼の生まれ育った大地を眺めた。
太陽が地平線の向こうに沈んでいくのを、
目を細めてじっと見ていた。
そうやって他に何もする事もなくなって初めて、
彼は世界の美しさに気付いたのだった。

彼の影

まっすぐな直線の道を走っていると、
ほんの2、3メートル前に半透明の自分の背中が見える時がある。
僕はその位置で走る事を目指していて、
なのにどうしても追いつく事が出来ない。

そんな感覚が突然白昼夢のように襲ってくる事がある。
僕は何かに必死になっていて、
しかもそれがうまく行かない時、
僕の望む理想の自分が前を走っているのだと思う。

少し前を走る自分は、
影のようでもあり、
幻のようでもある。

何かのきっかけで僕が考えるのを中断すると、
彼は消える。
それこそ何もなかったように。
彼の存在は自分の不調の証であり、
時にはそれが見える事自体焦りの元にもなるのだが、
彼の姿が見える事はとても重要な事のような気がして、
中々嫌いにはなれないのだ。

僕は今日も考え続け、
自分が納得できる作品を作ろうと頭を悩ませている。

2007年9月4日火曜日

霞ヶ関のスナイパー

 行きつけのバーで飲んでいると、一目で目について離れないようなエキセントリックな色使いのジャケットに身を包んだ初老の紳士が僕に話しかけて来た。
 僕は仕事であった嫌な事を忘れようと思ってストレートのバーボンを氷も入れずに引っ掛けていた所で、そのくせ大して酔えもしないと言う状況だったから、ついついその紳士の話に耳を傾けてしまった。

「面白い話があるんだ。聞くかい?」
紳士は口の端をクイッとつり上げた印象的な笑顔をして、低い声でそう言った。声楽家のようなよく通る声だった。
「この間、大臣が自殺しただろう?知ってるか?ちゃんとニュース見てるか?」
「ありましたね。一ヶ月くらい前だっけ」
「あれは私がやったんだ」
「…」
「ふん。惚けたジジイがおかしな事を言っていると思ってるな」
「そんな事有りませんよ」
「まあいい。とにかくあれをやったのは私だ」
「そうするとあれは殺人事件と言う事になりますね」
「そう言う事だ」
紳士はそう言って手の中にあったグラスの中身を飲み干した。僕が何か言おうとすると、彼は左手の人差し指をすっと僕の鼻先に突きつけて、僕の言葉を口から出る前に制した。その動きには確かに鋭いものがあった。
「まあ待て、まだ先があるんだ。君の退屈を埋めてあげようと言うんだから、しばらく聞くんだ。いいな?」
僕はこくりと頷いて、バーボンを一口飲んだ。
「あれだけじゃない。三年前にも七年前にもあっただろう。全部私がやったんだ。私の仕事なんだよ。ある意味で私は政府の人間なんだ。国家のシステムに組み込まれた部署の一つで働いてるのさ。もちろん同僚なんか居ない。仲間はちょっとした事で敵に変わっちまう。だからこういう事は一人でやるのがいいんだ。困ったものだよな、国ってものは。あらゆる事に対処できないと機能しない厄介な代物なんだよ」
初老の紳士は話し乍らマスターにおかわりを頼み、話の継ぎ目になるとグラスを傾けた。どうやら僕と同じ酒を飲んでいるらしい。
「霞ヶ関のスナイパーって、聞いた事あるか?」
「ちょっと、記憶にないですね」
「そうか…」
紳士は少し残念そうな顔をした。きっと彼の事なのだろう。
「聞いてもいいですか?」
「何だ?言ってみろ」
「何故僕にこの話を?」
僕がそう聞くと、彼は自分のグラスに向けて遠い目を向けた。
「…懐かしい気がしたんだよ」
そう言って紳士はグラスの中身を一気に空けた。彼はまたおかわりを頼んで、今度は少し厳しい顔つきに変わった。
「引退するんだ」
「引退、ですか」
僕はピンと来なかった。スナイパーも引退するものなのか。
「ミスをしたんだよ。考えられないミスをね。それをもみ消すのに沢山の人間と金が動いた。全く酷い税金の無駄遣いさ」
「それが原因で引退なんですか?」
「ああ、そういう契約だからな。でもまあ、年を取ったと言う事さ」
「失礼ですが、お年と言うにはまだお若く見受けられますが」
「この世界は消耗が激しいんだよ。私と君の年齢は、大して離れてないかも知れないよ?」
僕は何も言えなくなった。それが本当なら彼の味わって来た苦労は想像を絶している。
「どうだ。面白かったか?」
「ええ。とても」
「他言は無用だぞ」
初老に見える紳士は笑顔だったが、まっすぐ目を見られて、僕は思わず背筋を伸ばした。
「また話を聞かせて下さい。ひょっとしたら僕らはいい友達になれるかも知れない」
「…ふん」
紳士はやはり笑っていて、僕の言葉をどう受け止めたのか、推し量る事は出来なかった。そして彼は金を払い、店を出て行った。彼が全く足音を立てない事に、僕は気付いた。

 それからバーへ行く度に、僕はその紳士の姿を探したが、彼は二度と現れなかった。そして僕は何かの折に霞ヶ関の近くを通る時、建物の陰やビルの屋上など、スナイパーがいるんじゃないかと思われる場所についつい目を配るようになってしまった。

2007年9月3日月曜日

切れ味のいいナイフ

ストン
みかんがまっぷたつ
タタタン
リンゴが四分割

タタタタタンタン
リズムを鳴らし
切って切って切りまくる

トントンタンタントンタタン
スタタントンタントトンタン
キャベツ人参
白菜レタス
焼き肉豚肉人肉苦肉
捌いて刻んでみじん切り

快感爽快安心感
厳密緻密大胆不敵
油断大敵扱い注意

切れ味鋭い僕のナイフ
切れないものは何もない

2007年9月2日日曜日

海辺の絵画

明け方の海の静けさは何物にも代え難い。
太陽はまだ水平線の下にあり、海辺にはまだ夜が残っている。

一人の老人が愛犬を連れて水打ち際を歩く。
その歩みは緩く、見ている者に時を忘れさせる何かがある。
彼はもう、30年もこうして朝の海岸を歩いている。
毎日同じ場所、同じ道を歩いてみても、
見える景色は一日ごとに違っていくのだということが、
彼にはよく解っている。
そのことは、彼が歩き始めて三日目で気づいたことだった。
そしてそれ以来ずっとこの道を歩き続けているのだ。
何かを求めて始めた事ではなく、ただ気分転換のつもりで海に
来たのが初めだった。
別に救いがあるわけでも、新たな発想が生まれる訳でもない。
ただこの歩みを続けていくうちに、少しずつ海が彼の心と体に
深く結びついていったのだ。
それは樹齢の長い木が徐々に地中に根を伸ばし、
大地の上に確固として馴染んでいくのと同じようなことだ。

一歩海から離れれば、日常の波が否応無く押し寄せてきて、
波の音は遠ざかり、瞳の中に刻み込まれたはずの蒼い色彩が
失われ、塗り替えられていく。
その絶望と戦いながら、彼は人生を生きてきたのだ。

私はふらりと訪れた人工の砂浜で見た老人の姿に、
そのような妄想を重ね、
その生き方に強い憧れを抱いた。

2007年9月1日土曜日

個人的指名手配

 私はあの目に囚われてしまったのです。

 あの日、たまたま一人でバーで飲んでいた私を、あの男
は言葉巧みに誘い、酔っていた私を半ば強引にホテル
へと連れ込んだようなのです。

 男は私の体を操りながら、片時もその視線を私の目から
離すことはありませんでした。
 彼は私の目を見るだけで、私がどのような仕事をしてい
るか、これまでどのように努力して今日に至る地位を築き
上げて来たか、という事を理解したようでした。それどころ
か、毎日毎日スケベったらしい上司の視線にさらされて
嫌な思いをしているというような事も言い当てました。
 そうやって彼は私の体を開き、同時に内面をも暴き出し
ていったのです。そして、そうしながらもずっと私の目は
捉えられたままなのでした。
 正直に言ってそれは快感でもありました。私が内面的に
抱えていた悩みや苦しみを、打ち明ける事も無く理解して
もらえる事に密やかな喜びと安堵を感じたのです。

 しかし、それ以上に私は許せなかった。
 これまで私が苦労して、試行錯誤を繰り返しながらも洗練
を重ねて磨き上げてきた私という存在、そのプライドを、
その男は、その目だけで粉々に砕き、私を一人の女に
戻してしまった。私はそれを認めることなど出来はしない。

 あの男は今もこの街のどこかにいて、無力な女をまた一人
生み出しているに違いない。そう思うと居ても立っても居られ
ないのです。
 私は、あの男を捜しています。
 特徴は、目です。
 お心当たりのある方は、どうかご連絡を…