「もう何も信じらレッナいよ」
とダルマは言った。
『近江としひろ』の名前がでかでかと記されたポスターがダルマの頭には引っかかっていて、半分隠れている。
そのポスターの中で笑顔を振りまいているいかつい顔が、今はダルマの前でうなだれている。
「見事に、やらレッタね」
ダルマは言葉を続けた。
近江はパイプ椅子の上で肩を落としていたが、やにわに立ち上がると誰もいなくなってしまった選挙事務所の中をうろうろと歩き回った。
事務所の中はところどころ紙切れや倒れた椅子が床に散らばっていたりして、荒んだ雰囲気を醸し出していた。
近江は、選挙に負けたのだ。
信頼していた秘書の裏切りで次々とスキャンダルを流され、しかもそれが真実だったため、もうどうにもならなかった。
「でもまあなるべくしてなったという結果なノッカな」
近江はダルマに近づいて、その頭にかぶさっていた自分のポスターを払いのけた。
片目のダルマが姿を現した。
「少し黙ってろ」
近江は低い声で言った。
「そういう脅し口調も、もう聞いてくれる人もいナックなってしまうね、あの秘書みたいに」
「…ふん」
近江は踵を返して隅の方へ追いやられた感じのデスクの上から墨と筆を持って来た。
「こうしてやる」
近江はダルマの黒目が入った方の目を白目も含めて全て真っ黒に塗りつぶした。
「おいおい、これじゃ何も見えないじゃなイッカ」
「口も塞いでやろうか」
「俺が黙っちゃったら、さびしいだろう?やめトッケよ」
「…頼むから、しばらく静かにしてくれないか」
「家族の事を考えているのかい?」
近江は、墨の付いた筆を振り回しながらまたぐるぐると事務所の中を歩き始めた。筆の先からピンピンと墨が点になってあちこちに飛んだ。
「今回の件で随分迷惑をかけてしまったからな」
「愛人の件をばラッサれたのは痛かったね」
「ふう」
近江は壁に貼られていた自分の選挙ポスターの一つに落書きを始めた。鼻の穴を広げてまつげを長くし、鼻毛も伸ばして眉毛をつなげてみた。そして名前のすぐ横に『ハゲ!』と書いた。
「あんないい女、もう一生抱けないだろうな」
「奥さんとうマックやればいいじゃないか」
「あれとはまた違うんだよ。お前には分からんだろうが」
「そうでもなイッサ」
近江はダルマの顔を見た。
「変な奴だ。人間でもないくせに」
「人間じゃなくても分かる」
近江はダルマの額に『肉』と書いた。
その時、事務所のドアをノックする音がした。そして女の声がした。
「あなた、まだいるの?誰と話してるの?みんな心配してるわよ」
「すぐ行く」
近江はその声に応えて、自分の身なりを整えた。
「じゃあ、行くぞ」
「お別レッダね」
「引き取ってもいいぞ」
「やめときなよ。情が移ると困ルッカら」
「こいつめ」
近江は残っていたダルマの白目に小さな点を書き入れた。
「ちょっとは見えるか?」
「…」
ダルマはもうしゃべらなかった。軽く小突いてみても、ひげを描き足してみても、もう何も言わなかった。
「ふん。ダルマめ」
そう言って近江は筆を元に戻し、事務所のドアを開いて外に出て行った。
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