2007年9月10日月曜日

 アパートの軒先の外灯に、虫がたかっている。今時珍しい裸電球だ。
 二階の廊下に続く鉄製の階段はびっしりと錆び付いていて、そういった細部に少し目を配るだけで、ここの大家が設備の管理にあまり注意を向けていない事が分かる。この辺りの夜はよそ者である僕にとって殊の外暗く感じられる。
 私は10年来姿を見ていなかった友人のKがここに住んでいると聞いてやって来たのだが、それはさんざん躊躇した上での事だった。
 昔、Kとは親友だった。
 しかし我々は一人の女性を巡って諍い、結果的に私が彼女を親友から奪い取る形になり、その女性はその後私の妻となった。
 Kはそれから私とは口を聞かなくなり、しばらくすると私や妻とだけでなく他の誰とも言葉を交わさなくなり、次にKの噂を聞いたのは、彼が失踪してしまい居場所が分からなくなった後だった。私は彼の実家に連絡を取って親友の安否を確かめようとしたが、ご両親にも行方が分からないらしく、逆にその理由に心当たりがないものかと問われ、私は「わからない」と嘘をついたのだった。

 彼の消息を知らせてくれたのは我々と親交があった別の友人Sだった。Sは保険の調査員をやっており、仕事中にKを見つけて後をつけ、ここに至ったのだと言う事だった。

 私が玄関の前に立ちブザーのボタンを押すと、部屋の奥でクイズ番組の不正解の時のような音がした。
 反応はなかったが、私は声をかけた。
「K、俺だ。開けてくれないか」
しばらく待つと、ドアが開き、Kが現れた。
私は驚いた。彼は変わっていない。10年前の面影が殆ど変わらず残っている。
「申し訳ありませんが、どちら様ですか?」
Kは笑顔で私にそう聞いた。余りに屈託のない、純粋な笑顔に見えた。
「俺の事を覚えていないのか?」
「すみません。私には何も分かりません」
「そんな事言うな。ご両親も心配しているし、俺たちだって」
Kはすっと右手をあげて手のひらをこちらに向け、私の言葉を遮った。
「先日もそのような方がいらっしゃいましたが、はっきり言って迷惑です。お引き取り下さい」
おそらくSの事だろう。
「本当に私の事が分からないのか?」
「そうですねえ…不思議と懐かしい気がしなくもないですが、私の記憶にはないですね、残念乍ら」
私はだんだん、何か悪い夢でも見ているのではないかと言う気分になって来た。
「君はKじゃないのか?」
「私の名前はWです」
私は言葉を失った。それは私の名前だ。
私は思わずKの肩をつかんで激しく揺らした。
「おい、悪い冗談はやめてくれ。いや、あの頃の事についてはいくらでも誤る。私はひどい事をした。許してくれ。ずっと、ずっと、私は。私は…」
「やめろ、放してくれ。誰か!誰か助けて!」
Kは大声で叫んだ。アパートの住人らしき数人が顔を出し、そのうちの一人がゆっくりと近づいて来た。彼は若い黒人で、完璧な標準語を話した。
「なんだか知らないけど、そいつを放してやってくれ。毎日月に向かって懺悔をしているような奴なんだ。悪い奴じゃないし、事情なんかどうでもいいから許してやってくれないかな」
私の腕からは力が抜け落ち、Kをつかんでいた手はだらりとぶら下がった。
 私はそのままその場を離れ、背後から聞こえるアパートのあれやこれや言う音や声を聞き乍ら、家で私を待っている妻の事を思った。

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