明け方の海の静けさは何物にも代え難い。
太陽はまだ水平線の下にあり、海辺にはまだ夜が残っている。
一人の老人が愛犬を連れて水打ち際を歩く。
その歩みは緩く、見ている者に時を忘れさせる何かがある。
彼はもう、30年もこうして朝の海岸を歩いている。
毎日同じ場所、同じ道を歩いてみても、
見える景色は一日ごとに違っていくのだということが、
彼にはよく解っている。
そのことは、彼が歩き始めて三日目で気づいたことだった。
そしてそれ以来ずっとこの道を歩き続けているのだ。
何かを求めて始めた事ではなく、ただ気分転換のつもりで海に
来たのが初めだった。
別に救いがあるわけでも、新たな発想が生まれる訳でもない。
ただこの歩みを続けていくうちに、少しずつ海が彼の心と体に
深く結びついていったのだ。
それは樹齢の長い木が徐々に地中に根を伸ばし、
大地の上に確固として馴染んでいくのと同じようなことだ。
一歩海から離れれば、日常の波が否応無く押し寄せてきて、
波の音は遠ざかり、瞳の中に刻み込まれたはずの蒼い色彩が
失われ、塗り替えられていく。
その絶望と戦いながら、彼は人生を生きてきたのだ。
私はふらりと訪れた人工の砂浜で見た老人の姿に、
そのような妄想を重ね、
その生き方に強い憧れを抱いた。
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