ボスのキックは半端な威力じゃない。しかもいろんな種類のキックがある。そのどれも食らえば非常な痛みを伴う。それは社員全員がよく知っている話だ。ある時はボスのキックを食らったベテランの営業マンが三日間の休息を余儀なくされたのだという話だ。
僕は初めのころ、その話を信じなかった。なぜなら今時そのような事はすぐに暴力だ体罰だと言われて社会的に散々な非難を受ける格好の的に違いないからだ。
ところが、実際にそのキックを食らったという社員が何人かいて、僕は実際にその人たちと話をして、直接に
「あの人のキックはすごいぞ」
などと聞かされたりしていたので、それはやはりあるのだな、という風に次第に意識が変わっていった。僕はその人たちに素直に疑問をぶつけてみた。
「それって、問題になったことはないんですか?」
「問題?何が問題なんだ?」
「いや、キックの事ですよ。キックそのものについて」
実際にやられたという経験者たちは(彼らは社内で[経験者]と呼ばれていた。何かの称号のように)お互いに隣り合う経験者同士目を合わせたりして、やれやれ、という仕草を見せた。
「分かってないな」
「若いからね」
「仕方ないんじゃないですか?あれだけは経験してみないと」
彼らの返答はまるで自慢話を認め合うような会話になっていた。そうしてその集まりは、いつの間にかいかにボスのキックがすごいかという事を論じ合う場に変わっていった。そうなると不思議なもので、僕は次第に一度くらいなら蹴られてみたい、などと思うようになってきた。
しかし僕にはまだ疑問が残っていた。僕は中途採用でものすごく半端な時期に入社して来た所為もあって、未だにボスに会っていない。会社の中でボスの姿を見た事がないのだ。
「ボスは忙しいからな」
「俺らだってたまにしか見ないぜ」
「どんな人なんですか?」
「ちょっとはげてる」
「ずっと笑ってる」
「顔は優しいよね」
「落差がすごいよな」
「見た目と、キックの間がね」
「そうそう」
話がそこになると、[経験者]たちは一斉にうんうんと頷くのだ。僕の期待はいやが上にも高まって来てしまう。
そんなある日、僕はボスに呼び出された。仕事でちょっとしたミスを犯してしまったのだ。
僕がボスの部屋に入ると、みんなが話していた通り、柔和な笑顔のボスが僕を迎えてくれた。
「イワイ君、飯まだだろう。一緒に行こう」
ボスはそう言って僕に有無を言わせずすたすたと外へ向かって歩き始めた。
「美味しい店があるんだ」
ボスは自分で車を運転して、助手席の僕にしきりと話しかけて来た。仕事は慣れたか、みんなとはうまくやってるか、など、会話の内容はごく普通で当たり前の事ばかりだった。でもボスはとても話すのがうまく、普通の話をとても面白く他人に伝えるのがうまかった。僕は次第にボスの話術に引き込まれ、心からその会話を楽しんだ。そうするうちに、車は普段の僕なら近寄る事すら憚られるような高級なステーキハウスの前に止まった。僕とボスはそこでものすごく分厚くて柔らかくてそれでいて心地よい歯ごたえの残るステーキを平らげた。
「すいませんでした」僕は食後のコーヒーをすすりながらボスに言った。
「どうした」
「先日、ミスをしてしまって」
「ああ、あれか。僕も昔同じ事やったよ。いつまでも気にしてても仕方ないから、次ぎ、がんばってよ」
「あ、はい」
「今日はね、まだ話をしてなかったと思ってね。それで飯に誘ったんだ」
ボスはそう言っただけで、その後二度と仕事の話をしなかった。そして昼休みの終わる時間が来るときっちり僕を会社まで車で送り、
「僕はまたこれから外で人と会う用事があるから」
と言ってそのまま車から降りることなく、派手なエンジン音を吹かせてどこかへ去って行ってしまった。
オフィスに戻ると[経験者]の一人がそっと気遣うようにして僕の隣に近寄って来た。そして無言のまま僕の肩に手をかけ、僕を会議室へ連れて行った。そこには[経験者]達が揃っていて、僕を囲んで何か神妙な面持ちで並んでいた。
「まあ、今日はゆっくりでいいから」
「うんうん。無理はいかん」
どうやら僕がボスのキックを食らったのだと思い、労ってくれているようだ。
「いや、大丈夫ですよ」
と僕が言うと、
「そんな事言うな」
「そうだ。みんな気持ちは同じなんだ」
なんだか僕はあえて何もなかったと否定するのも気が引けて来て、
「すいません、ありがとうございます」
と言った。すると[経験者]の一人が
「で、どんなだった?」
と聞いて来た。その言葉に呼応するかのようにその場にいた全員の目が僕の方に向き、そのどれもが好奇の光に満ち満ちていた。
僕は元々彼らからさんざんボスのキックについての話を聞いていたので、ああだこうだとなんとか話を作ってみんなを喜ばせる事にした。ボスの話術の巧さに影響されていたのかも知れないが、その時の僕の話はとてもアドリブで考えたとは思えない程リアリティを持たせる事が出来た。
そして僕は見事に[経験者]の仲間入りを果たした。
それからもう何年も経ってしまったけれど、ボスのキックの伝説は今もまったく色褪せてはいない。
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