2007年9月20日木曜日

夜明けと沈黙

 深い霧が立ちこめる湖のほとりで、対岸のさらに彼方の地平から、日の出らしきぼんやりとした明かりが浮かび上がるのを、私はたまたま道すがら行き会った少女と眺めていた。

 私は原稿の執筆のために、学生時代の友人が所有する山中の別荘に暫く間借りしている所だった。別荘地という訳でもないので、周囲に他に家は無く、雑音を排除し、静寂を求めるには格好の環境がここでは手に入るのだ。
 私は毎朝五時には起床し、湖の周りを自転車で走り回り、体力の維持に努めるのが日課だった。
 そうやって過ごしていたある朝に、私は自転車に乗っていて危うく道を歩いていた少女に激突しそうになったのだ。まだ陽の見えない暗い霧の中、黒ずくめの服を着て歩いていた少女を、直前になるまで認識できず、寸での所でぶつかる事は無かったのだが、私は体勢を崩して自転車から放り出されてしまったのだ。
 幸いけがは大した事は無く、私は一人でも歩けたのだが、少女は気を使って私の別荘まで一緒に来てくれた。私がここで生活している理由をを放すと、驚いた事に少女はしばらく泊めてくれないかと言った。
 彼女はどう見ても中学生、上に見積もってもせいぜい高校生という容姿である。私は家出に違いないと思ったのだが、一人暮らしの男に軽率な事を言うものではないと言って、私が家に帰るように諭しても彼女は押し黙って何も答えようとはしなかった。
 よく見ると彼女は随分とやつれていて、食事もろくに採っていないのではないかと見え、とにかくも別荘についた所で軽い食事を与えたところ、見る見るうちに血色が回復して来た。そうして見ると肌の艶が鮮明になり、それと対比して彼女の着ている服がいかにもみすぼらしく見えた。実際、その黒づくめの服はそこかしこに汚れも目立ち、何日も着替えていないのではないかと思われた。ここに辿り着くまで、いったい同やって過ごして来たのか聞いても、やはりそれには口をつぐんだままだった。
 私は彼女の着れそうな膝丈のパンツと半袖の白地のシャツを選び、シャワーを浴びるように言って、その服を渡した。彼女は一瞬迷ったようにも見えたが、大人しく服を受け取り、シャワールームへ向かった。

 いつもなら、走った後はシャワーで汗を流し、一杯のコーヒーを湖岸のテラスで朝日と共に楽しむのだが、私は汗をかいたシャツのまま二人分のコーヒーを煎れ、とりあえず自分の分を持ってテラスに出た。体が油断したのか、左手に負った擦り傷が痛み始めた。利き手でなくて良かった。わたしにとって右手の健康は生命線である。どうにもコンピューターには慣れない。この山荘にはインターネットの装備も無く、それがまた良い、と私は思っているくらいだ。
 そうして少しずつ白み始めた東の空を眺めていると、服を着替え、汚れを落としてすっきりとした彼女が自分の分のコーヒ−を手にして私の向かい側の椅子に腰掛けた。
「コーヒー、いただいちゃいました」
その言葉に、ようやく彼女は落ち着いたのだと私は悟った。
「そうか、まあ、ちょっとゆっくりしよう」
「怪我、大丈夫ですか」
「このくらいなら大した事はない」
「手当てしなきゃ」
「うん。でももう少し後で。この時間は逃せないんだ」
そういって私は顔を湖の向こうへ向けた。彼女もそちらの方を見た。
 朝日が顔を出す時間だ。
 私は毎日こうして、静かな一日の始まりに自分の生活の時間を合わせ、自分が世界の一員である事を確かめているのだ。山奥で一人で過ごすには、私のような人間にとっては大事な事である。何を語るでも無く、考えるのでもない、ただ、世界の目覚めを感じる時間。
 私は黙然として浮かび始めた太陽の熱を肌に感じている。ふと少女の方を見ると、彼女はまっすぐに太陽を見つめ、一筋の涙を流した。その姿があまりにも美しく、私は思わず見とれてしまった。
「私、償わないといけません」
「償う?…何か、悪い事でもしたのかい?」
「父を殺しました」
私が気付いた服の汚れは、彼女の父親が流した血だったのだ。
 聞けば、彼女の父親は母を裏切って不実を犯し、尚かつ全く開き直った態度で母を傷つけた事に激しい怒りを覚えたのだと言う。そして自分の怒りが日に日に高まっていくのをどうしても押さえる事が出来なかった、と。
 私は話を聞いて、何を言うべきか、答え倦ねていた。しかし、どうしても適切と思われる言葉を思いつかなかった。
 あの朝日を見て、彼女は何かを感じたのだろうか?父親を殺して逃げてしまって、ぼろぼろになりながら歩き続けた果てに、一杯のコーヒーで気が抜けてしまったのだろうか。
 霧が晴れ、朝が鮮明になった時、彼女は自分で警察に電話をかけた。ほどなく別荘の周りは数台のパトカーが訪れて、平素無い賑わいが山中にこだました。警察の話によれば、父親殺害のニュースはTVでも報道されて、世間を騒がせていたそうだ。幸い私の身元は友人が保証してくれたこともあって、事件とは関係ないと判断された。

 私はその後何度もその時の事を思い出し、伝えるべき言葉が無かったかと考え続け、未だに答えを出せていない。

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