2007年9月24日月曜日

字書きの才能

「先生、字が動きました」
「どれどれ、うん。確かに最後の跳ねが歪んでいるね」
「いえ、そうじゃなくて、字が勝手に動いたんです」
「ちゃんと文鎮と左手で紙をしっかり押さえるんだよ。ああ君は左利きだったか。じゃあ、逆の手で」
「違うんです。紙じゃなくて字が動いたんです。こうやって」
慎一は指先でその動きを示してみせた。するとおなかのふくれた夏井先生は、優しさにあふれた笑顔を慎一に向けた。
「君はなかなか想像力があるね」
慎一は釈然としなかった。字は確かに動いたのだ。彼が書き終わった後で。
夏井先生の書道教室は、夏井先生の自宅の客間を使って開かれている。慎一の暮らす町ではとても評判が良く、習い事と言えばまずここを思いつく、と言う感じだ。
慎一は母が勝手に申し込んだこの教室に初めのうちは面倒くさがりながら通っていたのだが、日を追う毎にぐんぐんと上達していき、知らず知らずのうちにここに通うのだ楽しくなっていた。夏井先生の指導もすばらしいのだろうけど、その先生が
「慎一君には素晴らしい才能がありますね」
とお母さんに話しているのを陰で耳にして、慎一はますます書道にのめり込むようになっていった。

慎一が変化に気付いたのは一週間くらい前だろうか。書いたばかりの字がぶるぶると震えた気がした。
続けて2、3枚、違う字を書いてみると、その内の一つが同じように動いた。その時はまだ、「字が動いた」という事実をただ無邪気に面白がって、その後も書き続け、紙が無くなるまで書いた。
「お母さん、筆で書いた字って動くんだね。僕、びっくりしちゃったよ」
夕食の時に慎一はそう言って、動く字の事を説明した。
「慎ちゃんは字が上手だから、そんな字が書けるのかも知れないわね」
「そうかな」
「そうよ。普通はそんな事出来ないんだから」
「夏井先生ならかけるかな」
「そうねぇ。先生なら書けるかも知れないわねえ」
だから慎一は夏井先生に言ってみたのだ。

また動いた。
どうやら、慎一なりに(うまい字が書けた)と思ったものが動いてしまうようだ。それも、出来がいい程良く動く。まるで生き物みたいだな、慎一は思う。
その日、慎一は教室が終わると夏井先生の所へとことこと駆けていって、
「夏井先生、やっぱり字が動きます。お母さんは夏井先生ならそういうの書けるかもって言ってました」
すると先生はいつもの笑顔で
「ちょっとこっちに来なさい」
と言って慎一を教室の部屋から連れ出して、広い家の廊下を奥へ奥へと歩いていった。途中でいくつもの部屋の前を通り過ぎて、慎一は夏井先生の家はこんなに広かったのかと驚いていた。
「ここは秘密の倉庫なんだ。滅多に他人には見せない」
夏井先生は廊下の突き当たりの部屋の前に来ると、そう言って慎一のほうにいつもとは違う笑顔を向けた。慎一は黙って先生の顔を部屋のドアとを見比べていた。ドアにはいかにも頑丈そうな南京錠がぶら下がっている。
「中を見たいかい?」
「はい」
うん、というふうに夏井先生は無言で頷いてポケットから鍵を取り出し、扉を開いた。
部屋の中は先生の作品で埋め尽くされていた。何枚も積み上げられて状態のものや、紙を入れる箱が片側の壁の設置された棚にぎっしりと隙間無く、整然と納められていた。そして、それ以外の壁には上から下まで重なりあうようにして先生の作品が貼り出されていた。その作品は、慎一の目にもとても素晴らしいものだと言う事が分かった。
「どうだい?」
「凄いです…あれは、字ですか?」
慎一は壁に貼られている作品の一つが気になって聞いた。線が複雑に絡み合っていて、あんな形の漢字は見た事がないと思って不思議な気持ちに捕われてしまったのだ。
「あれはね、元々は『龍』という字だったんだ。それから少しずつ形が変わって、ああなった」
「じゃあ、動いたんですね」
夏井先生はたっぷりと肉のついた首にしわを寄せ、深く頷いた。
「まさか君のような子が出てくるとは思わなかった」
「他の皆は書けないんですか?」
「そのようだね。ひょっとしたら言わないだけかも知れないけれど、そうだとしても気持ちは分かるよ。僕が子供の時は理解者が居なかったからね。信じられるかい?頭がおかしいと思われたんだ。字が動くなんて言う奴はどうかしてるって事でさ」
「でも、動きますよ」
「そうなんだよなぁ。やっぱり動くよね」
「はい」
「よし、こうしよう。この事は二人だけの秘密だ。先生もいろいろこっそり練習して来てるから、動く字の事を教えてあげる。そのかわり、この事は誰にも言っちゃいけないよ?運が悪けりゃいじめの対象になる。こんな時代だからね」
そのとき、また別の字が動いた気がした。慎一はその紙を見て、
「あれは何の字だったんですか?」
と聞いた。
夏井先生はいつもの笑顔に戻って言った。
「あれは、『友』だよ」

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